東京へ
年が開け、明治35年(1902年)。実家を後にした正子は肌寒い田舎を後にし東京へと向かった。
車中、正子は胸の内には希望もあるが、時が過ぎるごとに不安な心が占めて行く。昔姉さんに言われたように東京は怖い人ばかりなんだろうか。腰帯に入れた財布にあてた手に力が入る。東京でやっていけるんだろうか、お父は結局3年程で戻ってきた。姉さんの家のみんなとはうまくやっていけるだろうか。不安な気持は増々広がっていった。
姉さんは嫁いでいく時どんな気持ちで行ったのだろう。自分は姉を頼ってここまで来たが、峰子は誰もいないところに嫁いで行ったのだ、不安は私の比ではないだろう。だが峰子は泣き言の一つも手紙で書いて寄越した事はなかった。
車窓から見える景色は東京に近づくに連れ、桜が咲き誇る景色に変わって行った。
上野駅につくと、田舎では見たこともないような多くの人々が行き交いしている。身に纏う姿もみんな綺麗だ。みすぼらしい自分の姿に恥ずかしい思いがした。
姉さんが迎えにきてくれているはずだ、風呂敷に入れた身の周りの荷物を手に峰子を探した。駅舎も田舎と比べればとてつもなく大きい。改札もいくつもある。正子は峰子から送られてきた手紙を見ながら書かれている改札を探した。
改札の向こうに、先に正子を見つけてくれた峰子が手を振っている。ほっとした正子は改札を出て峰子に駆け寄った。峰子は綺麗な着物をきてすっかり東京の人になっていた。
「お姉ちゃん」
「正子、よく来たね。疲れたでしょ」
「うん、でも大丈夫」
「さあ、持ってあげるわ」峰子は正子の手から風呂敷をとった。
「ありがとう。お姉ちゃん綺麗だね」
「ええ?この着物?正子にも私が着なくなったものをあげるわ」
「うれしい」正子は本当に嬉しそうだった。
「店に出てるからね。古くなった服は店に着てでれないのよ。何着も余っているのよ」
「すっかり、東京の人だね」
「そんなことないよ。どう東京は?」
「田舎に比べれば暖かいわ。もう桜が咲いているのね」
「まあ寒い信州と比べればね」
「それに人が多くてびっくりしたわ」
「そりゃ、そうね。私も最初は驚いたわ。さあ行こう」
二人は電車を乗り継ぎ、姉の嫁いだ菓子屋風月堂に向かった。
「お姉ちゃん、家の人には良くしてもらってるの?」
「良くしてもらってるよ。でも店の仕事があるからね、いくらか諍いがあっても仕事が忙しくてそんなことすぐ忘れちゃうわ」
「良かったね、いいとこに嫁いで」
「そうかもね」
峰子は子供の頃から楽天的な所があった、そんな性格も良かったのだろう。正子はそんな明るい峰子が子供の頃から兄弟の中で一番好きだった。
峰子の嫁いだ麻布飯倉にある風月堂に着くと、姉の夫の安太郎、舅の栄太、姑のかよや店の従業員が優しく出迎えてくれた。
「小林正子です。ご迷惑おかけしますが宜しくお願いします」姉に促され、照れ臭かった正子は消え入るような小さな声で挨拶をした。
「正子ちゃん、遠いところ良くきたねえ、疲れたろう。はよう中に入ったらええ」かよが優しく正子を迎え入れる。
「ああ、さあ入れ、ここを自分の家と思ってゆっくりくつろいでくれ」安太郎が峰子から受け取った正子の風呂敷を持ちながら正子を促す。栄太もにこにこしながら頷いていた。
居間に腰を下ろした正子に峰子は冷たい麦茶を持ってきてくれた。周りをみても田舎の家と違いきれいな部屋だ。まだ緊張していて居心地がいいとは言えないが、温かく迎い入れられほっとした。
「正子には2階の部屋を使ってもらうから、荷物はそっちに置いておいたよ」
「ありがとう」
「これ食べてごらん」安太郎が小皿を正子の前に置いた。
「わあ可愛い」正子の前には白い練り菓子の上に桜の花が誂えらえた和菓子が置かれている。
「うちで作っている菓子だよ」
「食べるのが勿体ないくらいに可愛いわ」
「いくつもあるんだから、遠慮しないで食べてごらん」
正子はそっとその和菓子を手に取ると、口にしてみる。白い生地の中にはこし餡が入っていた。口の中に甘い香りと心地よい歯触りが広がる。
「こんな美味しいお菓子生まれて初めて食べたわ」正子は夢中でその菓子を平らげた。
「美味しかったかい」安太郎が聞いてくる。
「ええとっても。こんなに美味しいものをお
「それは親父が拵えたものだけどね」安太郎が言った。
「おじさん、すごいわ」
「まだまだ、いっぱいあるからいっぱい食べていいんだぞ」栄太が答えた。
「俺も正子ちゃんが気にいってくれてうれしいよ」安太郎がそう言うと、栄太もかよもそれを見ながらににこにこしている。
「そうでしょ。私も最初食べた時は何これって思ったものよ」峰子も笑いながら言ってきた。
「ごめんね、俺はまだ仕事があるからこれで失礼するけど」そう言うと安太郎は店に戻って行った。
「ゆっくり休んでなさいね」かよもそう言うと栄太と店に戻っていった
二人になると峰子が問いかけた。
「それでね、正子。すぐに働くといっても手に職もなくてすぐにいい仕事が見つかるとは思えないわ。安太郎さんやお義父さんお義母さんが、春から裁縫学校にでも通えばいいじゃいかと言ってくれているの。お金は七瀬の家でみるからって。どう行ってみない?」
「それは私は有難いけど、いいの?そんなお金を出してもらって」
「うん、みんながそう言ってくれてるんだもの」
「ありがとう。でもそれじゃあ悪いから私は空いている時間は店を手伝うわ」
「もちろん、そのつもりよ」峰子は笑いながらそう答えた。
「疲れたでしょ。部屋で少し休んだら?」そう峰子に言われ、2階の部屋で休むことにした。
部屋に布団を敷き体を横たえると、疲れとともに今日の今までの光景が蘇る。田舎と違い東京で見るもの、着ているもの、食べるもの全てが刺激だった。あれほど心を占めた不安は小さくなり希望の方が大きくなっていた。
正子は店を手伝い始めた。峰子に着物をもらい、店に立つと最初はどぎまぎして何をしゃべればいいのかもわからず、峰子の隣でじっとしているだけだった。お客から何かを問われても、顔を赤らめ、すぐに峰子に助けを請うていた。だが、そのうちに徐々に店の仕事にも慣れてきた。店の手伝いの分だといくらかの駄賃も貰えた。
正子は戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学することになった。入学前、誂えてもらった着物と袴姿は新鮮で学校への入学が待ち遠しかった。入学すると、嬉々としてその着物と袴を身に纏い学校に通った。多くの友達も出来、楽しい学生生活を送っていた。
手先が器用だった事もあろう、学校で習う裁縫は楽しく、上達を見せた。勝気な正確が顔を覗かせ、誰にも負けたくないと家に戻っても暇があれば裁縫の練習をした。店の従業員の服にほつれを見つけると、正子が縫ってあげていた。素早く丁寧に縫い上げる正子に皆が依頼しに来た。
そんなある日、正子は学校の友人である涼子に芝居見物に誘われた。涼子は浅草の呉服屋の娘で何不自由なく暮らしてきた。涼子は芝居小屋には子供の頃から何度も訪れてていた。芝居小屋で見たのは歌舞伎だった。初めて見る歌舞伎の舞台に上がる役者たちの艶やかさ、華美な姿に心を奪われた。だが男と女の愛を奏でる場面でも出て来るのは男同士である。華やかな歌舞伎役者と女形と呼ばれる艶やかな歌舞伎役者が演じるその姿に感動を覚えるが奇妙な違和感も心に残った。歌舞伎では女は舞台に上らない。いや上れない。
「どうだった、正子ちゃん?」芝居小屋の帰り道、涼子が正子に尋ねた。
「すごかったわ、華やかで艶やかで、私感激したわ」興奮気味に正子が話した。
「そうでしょ。いつ見てもいいものよね、あの歌舞伎役者の華やかな舞台は」
「でも歌舞伎って何で女の人が舞台に上がらないの?」正子は不思議に思ったことを無邪気に涼子に尋ねた。
「何でって、女が舞台に上がるなんてそんな事考えられないわ」
「そうなの?」
「そうよ。そういうものよ」
「ふーん」
川上貞奴という芸者上がりの女優がその3年前、明治32年から明治33年(1899-1990)に掛けて演劇の舞台に上がり、芸者時代から培われたその芸でセンセーショナルな話題をさらったがそれは欧米での舞台の事であった。まだ東京と言えど日本では女が芸を演じることは芸者の事であり賤しいものと考えられ、舞台で演じる女優というものなど考えられない、偏見がある時代でのことだった。貞奴がその後、女優育成のための帝国女優養成所を設立したのは明治41年(1908)年の事である。
正子はそれからも学校が終わると、店を手伝った。店に出るのは今は楽しく感じる。店での恥じらいがちな顔立ちと立ち居振る舞いが可愛いと言われ、風月堂では可愛い女中が対応してくれると口こみで噂が広がった。正子目当てに店を訪れる客とともにその姿を見たさの男の客も増えた。時折、客からも可愛いわねと言われる。正子は自分を可愛いと言って貰うことが恥ずかしくもあったが、嬉しくもあり更に店に立つ意欲を持たせた。
時折、正子は田舎の母
学校も休みで店を手伝っていた日、店の客もひと段落し居間で休んでいると峰子がお茶を出してくれた。
「この頃は正子目当てのお客さんが増えて、店も大助かりよ」峰子が正子に話しかけた。
「お店の助けになっているんだったら私も嬉しいわ」
「ええ、この頃は男の人も正子目当てに来てくれて、そのついでにお菓子を買って行ってくれるわ」
「そうなの?」
「ええ、この頃男の人のお客さんが増えていたの気づかなかった?」
「気づいてはいたけど、お菓子の評判が上がってのことだと思っていたわ」
「そればかりじゃないわ。正子目当てなのよ」
「なんだか恥ずかしいわ」
「あなたは好きな男の人とかいないの?」
「いないわよ。そんな人」
「あなたも早く素敵な恋人ができるといいわね」
正子は頬を赤らめ俯いた。
それからは、自分が見られているということに始めは恥ずかしかったが、増々店の手伝いにも自信が出て、自分から好んで店に立つようになった。
ある日一通の手紙が田舎から届いた。田舎の3番目の兄、益三が東京に出て来て、風月堂で菓子職人を目指したいとのことだった。
「益三兄さんがここで働きたいって手紙に書いてきたわ」正子は峰子に聞いてみた。
「私のとこにも手紙が来たわよ」
「どうなの、働かせてもらえるの?」
「正子のおかげもあって店のお客さんも増えているし、人手が足り無くなっていた所だって安太郎さんも喜んで迎えてくれるそうよ。お義父さんやお義母さんも喜んでいたわ」
「益三兄さん、大丈夫かしら」
「最初は苦労するでしょうけど、大丈夫よ。益三は真面目だから」益三は峰子にとっては弟になる。
それからひと月ほど後、益三が東京に出てきた。今度は正子が上野駅まで迎えに出た。
「お兄ちゃん、ここよ」正子は改札から手を振った。
「正子」益三は正子を認めると駆け寄ってきた。
「正子、綺麗になったな」正子が東京に出てきたのは、今年の始めである。まだ一年にも満たない。それでも垢ぬけた正子に益三は目を細めた。
「正子、七澤の家では良くしてもらっているようだな」風月堂に向かう電車の中で益三は聞いてきた。
「ええ、みんなとってもいい人達よ。裁縫学校にも通わせてもらっているのよ」
「ああ、お袋に聞いたよ。手紙も見せてもらった。上達したのか?」
「今では、店の人達の服も直してあげているのよ」
「ほう、それはすごいな」
「お母さん達は元気なの?」
「ああみんな変わりなく暮らしているよ。そういえば、上田の太一っちゃんが正子はどうしているか手紙を寄越してきたよ。太一っちゃんは正子のことが好きだったんだな」
「そんなことないわ。いつも虐められてばかりだったわ」
「子供の時の男心なんてそんなもんなのさ」
「そんなものなのかなあ」正子は太一の顔を思い浮かべた。
「でもどうして兄さんは菓子職人になろうと思ったの?」
「田舎での生活も苦しくてな、一人でも食い扶持が減ったほうがいい。それにお前が送ってくれた、菓子の美味さとその愛らしさに感激してな」
「そうでしょ。美味しいでしょ。すごいのよお義兄さんやおじさんがつくるお菓子は」
「ああ、早く俺もあんな美味い菓子を作れるようになれたらいいな」
「益三兄さんなら大丈夫よ」
それから、益三は風月堂で働き始めた。一つ一つが分からない事だらけである。店の掃除や使い終えた木型などの道具の洗い物など下働きから始めた益三であったが、その合間を縫って、見よう見まねで菓子を作り始めてみた。余りものの材料を使うことを安太郎が認めてくれた。時には安太郎や栄太は厳しくも丁寧に仕事を教えてくれた。店が終わるとわずかばかりの明かりを灯し一人で菓子作りに励んだ。時には正子や峰子にも食べてもらいその感想を求めた。
そんな真摯に励む姿を見て、安太郎は下働きから菓子作りの仕事を任すようになっていた。
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