退学
正子は文芸協会演劇研究所に合格となり、新宿にある研究所までの道程を溌剌として通い始めた。
風月堂に出向き、姉の峰子や兄益三にも文芸協会演劇研究所に合格し、通い始めたことを伝えた。姉や兄も伝えた時には訝し気な表情を見せたが、ひところの暗い表情から自分のやりたい事を見つけた正子の笑顔にその事を喜んでくれた。田舎の母にも手紙に書いた。
演劇研究所は新宿の余丁町にある坪内逍遥の住宅敷地内に設けられていた。逍遥が自費を投じてこの文芸協会に掛けていた。
元々文芸協会は坪内逍遥の門下生、島村抱月が早稲田大学講師時代の明治35~38年(1902~05年)にかけての英独へ留学中に150 本以上の芝居を観、帰国後の明治39年(1906年)に企画されたものである。大隈重信を会頭とし設立された。坪内逍遥46歳、島村抱月35歳の時である。
ただ、島村抱月が中心となって進められたが負債を出し、設立から一年ほどで一度は活動を停止している。当初は演劇だけでなく文学、美術、宗教、教育の広範囲に渡る改革を目指していた。演劇公演を催したのだが、集められた俳優や女優は素人の域を超えない演劇で客もそれほど入らなかった。
その後、明治42年(1909年)に演劇を中心にして、坪内逍遥の自邸内で活動を再開させた。正子はその文芸協会演劇研究所に一期生として入学した。
正子は入学当初は田舎者というコンプレックスからか人見知りの顔が覗き、誰にも話しかけられずにいた。ただ、初日に席を隣にした田中美和と仲良くなった。美和の方から話し掛けてきてくれた。美和は2歳下だった。徐々に他の研究生とも打ち解け始めた。
「美和ちゃんはどうして女優さんになろうと思ったの?」或る日、正子は美和に聞いてみた。
「私は高等女学校で演劇部だったの、女学校を卒業してから家のお手伝いをしていたんだけど、ここの募集があったので受けてみたのよ」美和の実家は茶を売っているとのことだった。
「そうなんだ、高等女学校を出ているなんて頭がいいのね」
「そんなことないわ、正子さんは?」
「私はおバカさん。私は尋常小学校を出て裁縫学校に行ったぐらいよ」
「なんで裁縫の道に進まなかったの?」
「ちょっといろいろあってね」千葉での事は思い出すのもいやだった。
「演劇の道はどうして?」
「私、結婚してるの」
「えっ。そうなの?」
「うん。その夫が俳優養成所で日本史の講師をしているんだけど、これからは女優の育成が急務だって教えてくれたの。これからは女が舞台に上れるって。素敵だと思ったわ、あの煌びやかな舞台で演じてみたいって思ったわ、それで受験したの」
「そうなんだ。素敵な旦那さんね」
「うん」
正子の周りには美和のような高等女学校や早稲田大学などを出たものばかりだった。その中で正子は生来の負けず嫌いが顔を覗かせ、がむしゃらに勉強した。
特に演劇については、何度も何度も復習をし台詞を覚えた。家に帰っても常にその傍らに置いた台本を見ていた。台所でもぶつぶつと台詞を言いながら料理をしていた。
周りが早稲田だろうが高等女学校だろうが構わずに台詞の相手には一緒にお浚いさせた。時にはそのしつこさに嫌がられることもあった。そんな正子に嫌気がさしてか男子学生が揶揄することがあった。
「前沢は田舎者だから、
「ああ、田舎娘だから着物の乱れや髪の乱れにも無頓着に演じ始める」
そんな事を言われると、正子は台本やそこいらにあったものを男子生徒に向かって投げつけることもあった。そんなことをすると更に揶揄される。
「田舎もんは野蛮だなあ」すると更にものを投げつけるという次第である。
美和はそんな正子を傍で見ていてはらはらし通しだった。
島村抱月も講師として授業の席に立っていた。抱月は欧州で見て来た演劇の素晴らしさをこと細かく教えてくれた。抱月はイギリスやドイツの舞台の上でシェークスピアなどの演劇を華やかに舞い、演じる女優達を見て今後の日本の演劇界には素晴らしい女優の演技なくして発展はあり得ないと思っていた。
だが、正子には一つだけどうにもならない授業がある。英語だけは尋常小学校でも裁縫学校でも目にしたことは無かった。最初は教官が言っていることが教科書のどこを読んでいるのかもわからない。教科書を読むよう正子が指名されても立上がったまま押し黙ってしまった。教官はぎょろっとその目で正子に一瞥をくれると、もういいと席に座らせた。英語の教官は背が高く紺のシャツを着たプライドの高そうな気障な男だった。ヒステリックに怒鳴り上げることも多かった。
「美和ちゃん、私英語の授業だけはどうしても好きになれないわ」英語の授業が終わると隣の美和に話しかけた。
「私も、それほど得意じゃないけど」
「先生の言っていることがわからないんだもの。みんな良く聞いていられるわね」
「私は高等女学校の時に少し習ったから」
美和も含め他の皆は全て既に基礎を学んできていた。
「そうなのね。私は初めてだから、眠くなっちゃうわ」
「そんな、寝ちゃいけないわ、また先生に怒られるわ」
「そうなの、だから、眠くならないようにこの頃は先生が話していることを聞いてカタカナで書きとっているの。たまに先生の似顔絵なんかも書いちゃっているけど。頭に角を立てた青鬼先生の」
正子は、教科書に講師の言う事をそのまま英文の上にカタカナで書き写し始めていた。正子は美和に教科書の片隅に書いてある英語講師の似顔絵の落書きを見せた。
「いやだわあ、正子さんたら。でも似てる、ふふっ」
「そうでしょ」
他の科目も難しくはあったのだが、美和の力を借り、負けん気な性格で何とかしがみついていた。
正子は家に戻ると、夕餉の用意をし前沢が帰宅すると、早々と食事を済まさせ英語の教科書を持ち出し、質問責めにした。
「あなた、教えて下さい。ここが分からないんです」正子が教科書を手に問いかけるが前沢はいやな素振りだ。
「俺も仕事を終えて帰ってきて疲れてるんだよ。頼むよ、もう勘弁してくれ」前沢は体を横たえた。
「どうして!」
「頼むよ」
「もう!どうしてよ」
正子は教科書を前沢の横たえた体に投げつけた。
正子の入学からひと月ほど経過した或る日授業が終わると、正子は英語の教官に教官室に呼ばれた。
「君の力ではこれ以上英語の授業を受けるのは困難だ。君は英語の授業についてはいけないだろう」教官は有無を言わせぬような厳しい顔で正子に告げた。
「そんなことは無いです。絶対ついて行けます」
「いや、無理だろう」
「大丈夫です」
「無理だ。君は退学だ」
「...そんな」
正子は傷心で教官室を出た。教官室を出る正子を見つけ、その後を美和が追いかけてきた。
「正子さん、大丈夫ですか?」追いついた美和は問いかけた。
「美和ちゃん、私退学になっちゃった」正子の顔に暗い翳りが宿っていた。
「そんな」美和が驚きの表情をする。
「英語が駄目なんだって」
「だって、あんなに頑張っていたのに」
「...でも駄目なんだって」
正子は帰途についた。何で英語なんて必要なの?日本人が日本語で演劇をするのに。そうは思っても、学校から言われた事には従う他ない。文芸協会研究所では西洋の演劇のその心情を理解できるようにその科目をあえて設けていた。
駅を出ると、家までの道のりがいつもより長く感じる。夕暮れの駅前の商店街を抜け、人通りが少なくなると、自然に涙が溢れてきた。ぽろぽろと流れる涙を拭いもせず、とぼとぼと歩いた。
正子は帰宅した前沢に打ち明けた。
「あなた、私退学になってしまったわ」赤い目をした正子に前沢は驚き問うた。
「何があったんだい?」
「英語の授業についていけないだろうって」
「そういうことか」
「そんなことってある?せっかく合格したのに。勉強するための学校じゃないの?」
「そうは言ってもなあ。どうにもならないこともあるよ、君は一生懸命頑張ったじゃないか」
「でも......」
「それなら、英語の授業の無い養成学校に入り直してみたらどうだい」
「そんな、せっかく今まで必死にやってきたのに」正子は抱月の授業が楽しかった。自分の知らない異国の話は心を揺さぶった。
「そこまで言うのなら、今年一年英語を勉強して来年受け直してみるとか」
「.....そうよ。そうよね。英語さえできるようになればいいのよね」
このままで終わるわけには行かない。隆鼻術まで施してやっと入学した研究所である。
翌日、正子は本屋に出向くと持っている英語の教科書と同じ物を買い込んだ。授業で使う教科書にカタカナで書き入れた講師の言葉を丸暗記し、新しい教科書を見て読み返す。その反復練習を繰り返した。それを何度も何度も繰り返し、つかえることなく読めるようにする。授業でまだ受けていない所は夫に書き込んでもらった。
三週間ほどで教科書を全て読めるようになっていた。夫にも聞いてもらった。
「ああ、問題なく読めるようなったね。すごいね君は」前沢もさすがにここまで読めるようになるとは思ってはいなく、舌を巻いた。
「私、もう一度養成所に行って先生に聞いてもらうわ。退学を取り消してくれるかもしれないわ」
「それはどうなんだろう、一度退学になっているのに。そんなことができるんだろうか。来年受け直したらどうだい」
「いいえ、明日行ってみるわ」
正子の顔つきは自信に満ちている。その顔を見ると前沢はもう何も言えなかった。
翌日、新宿の演劇研究所を訪ねた。教官室に出向き、英語の教官を見つけると正子は捲し立てた。
「先生、私英語を一生懸命に勉強しました。もう教科書も全て読めます。聞いてください。それで復学させて下さい」
「いや、君そう言われても」
「お願いします」
「それは無理だよ」
「お願いします。誰よりも読めるようになりましたから」
「そう言われても無理なものは無理だ」
「聞いてみたらいいじゃないか」その時、教官室の脇から声がした。
二人がその声の方を見ると、ちょうど教官室に居合わせた坪内逍遥だった。
「でも、坪内先生。それでは」
「いいじゃないか、聞いてみて判断したら」
「ありがとうございます、坪内先生」正子は逍遥に頭を下げた。
英語の教官と正子は会議室に出向くと、後から逍遥も入ってきた。
「私も聞かせてもらうよ」そう言うと逍遥は端の椅子に腰を掛けた。
正子は英語の教官の座る机の前に立つと、英語の教科書を読み始めた。流暢に教科書を読む正子を見て、教官は驚いた。
教科書を最後まで読み通した正子は誇らしげに教官を見た。
「先生どうでしょう?」
「ああ、流暢に読めるようになった。素晴らしいと思うよ」
「それじゃあ、復学してもいいのですか?」
「それは、認めるわけにはいかないよ。君は一度退学になっているわけだし」
「そんな、英語が出来るようになったんだからいいじゃないですか」
「...そう言うが、君は今日読んだ文章の意味はわかっているのかい?」
「そ、それは」
「読めるようなっただけじゃ駄目なんだ。それを理解してこその学問だ」
「...それは、これから勉強します」正子は食い入るように教官の目を見た。
「だから認めるわけにはいかないんだ」
「お願いします」正子は精一杯体を折り曲げ、頼み込んだ。
「いいじゃないか、復学を認めてあげようじゃないか」二人のやり取り聞いていた逍遥はそう言うと、立ち上がり二人の傍に近づいてきた。
「坪内先生、それではしめしがつきません」
「だが、ここまで読めるようになった努力を認めてあげよう。おいそれとできる事ではないよ」
「し、しかし」
「あ、ありがとうございます。坪内先生」正子は逍遥に頭を下げた。
英語の教官もこの研究所の頭である逍遥にそこまで言われると、もう言い返すことは出来なかった。
「いいかい、明日からの復学を君に許そう。但し、今までの遅れがある。だから別科性として受け入れよう。授業はこれまで通り皆と一緒に受けなさい。遅れの分は自分で何とかして取り戻しなさい。だがそれで満足するんでは無くこれからもしっかりと勉強するんだよ。女優になるにはただ演じているだけじゃ駄目なんだ。その内面から滲み出る教養も必要なんだよ」逍遥は正子に諭すように伝えた。
「はい、わかりました。しっかり勉強します。本当にありがとうございます」
正子は何度も逍遥に頭を下げ会議室を出た。
研究所を出た正子は、拳を握り大きく天に突きだした。通りを行き交う通行人がそれを訝しげに見ていた。
やった、これで復学できる。この三週間の努力が報われた。早く夫の前沢にも伝えたい。正子は家路を急いだ。
「島村君、ここにはおもしろい
逍遥は構内で島村抱月を見つけると、話かけた。
「ほう、どんな?」
「前沢君という
「ほう、それはすごい。それでどうしたんです」抱月は面接での正子を思い出した。
「私が別科生として復学を許してあげたよ。女優というものを蔑んだ目で見るものが多い中、あのぐらいの根性が無ければ女優としてはやっていけないよ」
「そうですか、私の授業でも注目してみますよ」
「ああ、面白い娘だ。この研究所の未来は明るいぞ。はははは」逍遥は笑い声を残し去って行った。
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