憧れ

 文芸協会演劇研究所に復学した正子は、再び美和と席を隣にした。正子を見た同級生同士がひそひそと囁きあっている姿を目にしたが、そんな事にかまっている暇はなかった。


「正子さん、よかったわね。復学できて。聞きましたよ、あの青鬼先生の前で英語の教科書全て読んだって。噂になっているわ」

 正子がつけた英語教師のあだ名はもう皆に広まっていた。

「ええ、ぎゃふんと言わせてあげたわ。あの青鬼め」正子はぺろっと舌を出した。

「でも、すごいわ。教科書全部覚えちゃうなんて。それなら台本もすぐ覚えられちゃうわね」

「それはまた別よ」

「正子さんなら出来ちゃうわ。女優に向いているのね」

「そうなのかしら。私にはわからないわ」

 正子はそう言われ、誇らしげでもあった。

 正子にとって、英語の授業は怖くは無くなった。だが好きにはなれなかった。やはり青鬼が好きになれないのだ。目をつけられたのか、時折正子は青鬼にあてられ教科書を読まされた。だがもう頭の中に入っている。青鬼が正子を見ていない時には教科書を逆にして読んだ。それを見たクラスの仲間はくすくすと小さな声で笑っていた。


 日を追う毎に、演劇の授業は厳しくなって行った。抱月の演出は熱を帯び、時には罵声と共にチョークや黒板消しが飛んで来る。涙を流す女子生徒も後を絶たなくなった。

 抱月としても、もう失敗は許されないと思っているのだろう、授業が終わっても放課後残され稽古をさせられる。台詞を覚えてこない生徒には抱月の罵声と共に頬に掌が飛んできた。

 正子にもまた、その罵声は浴びせられた。

「そのぴいぴい声をどうにかしろ」

「腕の直線が不自然だ」

「その笑う時のおちょぼ口をどうにかしろ」


 だが、正子は乾いた体が潤されていくように、全てを吸収していった。許された時間全てを演劇に充てたい、そう思うようにもなった。

 そして、抱月の教えを誰よりも受けたいと思うようになっていた。抱月は今まで会った誰よりも教養を身につけている。その佇まいにも知性や気品が感じられた。

 授業や演出をしている時以外の抱月はもの静かに書物を読んでいるか、なにか書き物をしているのかが常だった。教官室に分からない事を聞きに行っても優しく教えてくれた。正子は自分から進んで居残りをし、抱月の稽古を受けるようになった。


 夫の食事や弁当のおかずが一品減り、二品減りと手抜きが多くなってくる。時には帰りが夫より遅くなり、慌てて夕餉の支度をすることもあった。そして、正子の帰りを我慢できなかったのか、夫は漬物などで既に夕餉を済ましている時も出てきた。そんな時夫は勝手に風呂に入り、そのまま布団に入っていた。

「正子、約束が違うじゃないか」或る日、家に戻ると座卓で新聞を読みながら夫が問いかけてくる。

「何のこと?」

「君は、家事もきちんとするからと言って学校に入ったはずだろ」

「だって仕方がないじゃない。時間が足りないんだから」

「何を言っているんだ。家事の時間のほうが大切な時間だ」

「ならどうしたらいのよ」

「研究所での時間を減らしなさい」

「いやよ。なんで私の邪魔するのよ」

 正子は傍にあった米櫃を投げつけた。部屋も前沢も飯粒だらけになった。

「き、君という女は。私は風呂に入る。ここをきれいにしておきなさい」

 正子は涙を流しながら、飯粒を拾って行った。なんで、なんで分かってくれないのよ。

 夫との諍いは多くなって行った。時には料理をしている正子に小言が続き、持っていた包丁を夫に向けてしまったたり、傍においてあったランプを投げつけるなど、夫との間のひびは広がっていった。


 放課後、抱月の稽古を美和と共に受ける時も美和が正子の家庭を心配して聞いてきた。

「正子さん、大丈夫なの?」

「何が?」

「いつも遅くまでここにいて。旦那さんは何も言わないの?」

「大丈夫よ。あの人は自分でできるから」

「そうなの?」

「ええ。...それより美和ちゃんは好きな人とかいないの?」

「わ、私はまだいないわ。それにこの研究所は生徒同士の恋愛は禁止でしょ」美和は頬を赤らめながら答えた。


 この研究所が設立された時から坪内逍遥は研究生同士の恋愛を禁じた。スキャンダルと無縁の清廉な俳優、女優を育てたいという逍遥と抱月の夢があった。

 坪内逍遥は学生時代から娼妓に恋い焦がれ何年も通い詰め、大恋愛の末結ばれている。だが、たかだか2ケ年過程の間ぐらい我慢できなくて俳優など務まるかと思っていた。


「...まあそうだけど。でも、私はいるわ」

「えっ?旦那さんの事でしょ?」美和が驚きの表情で正子を見た。

「えっ、ええ」正子は言葉を濁した。

「そういえば、三田さんも結婚しているのよね」美和がそう言った。

「あら、そうなの?」

「ほら、三田さんているでしょ。男子学生の。あの人が旦那さんよ」

「へえ」


 三田千枝、後に山川浦路やまかわ うらじという女優になる。歳は正子より一つ上だった。千枝は華族女学校(後の女子学習院)を卒業し夫のただし(後の上山草人かみやま そうじん)と結婚した。貞は早稲田大学を卒業し、坪内逍遥の後を追い文芸協会に入会した。夫を助けるために千枝も入学してきた。

 そのため華族女学校長、乃木希典から「卒業生が河原乞食の真似をするとは何事か」などと批判された。


 未だ民衆には俳優や女優は蔑んだ目で見られていた。

 だがこの年、明治42年(1909年)演劇界改革のひとつとして自由劇場が歌舞伎俳優の市川左團次(2代目)と作家小山内薫により旗揚げされた。欧州の自由劇場をモデルとし、劇場や専属の俳優は持たない会員制組織で、翻訳劇を中心に以後大正8年(1919年)まで合計9回の公演がされた。

 この時代、欧州からの流れでの演劇を旧来の歌舞伎と比較して新劇と呼ばれ始めた。


 或る日、千枝が正子に聞いてきた。

「正子さん、あなたの旦那さん東京俳優養成所で講師をしているんですってね」

「ええ、そうなんです」

「いいわね。色々教えてもらえて」

「そんなとんでもない、あの人は何も教えてくれません」

「そうなの?でもあなたが英語の教科書を全て暗記したことも聞いたわ。あの時だって教えてもらったんでしょ?」

「まあいくらかは教えてもらいましたけど。でも、疲れた疲れたばかり言って教えてもらえないことの方が多いですわ。私が一生懸命英語を勉強しようとしていた時も。だからその頭に教科書を投げちゃいました」

「まあ、旦那さんにそんな事して」千枝は呆れた表情を見せた。


 年が明け、明治43年(1910年)正子達は抱月からシェークスピアの悲劇、ハムレットの台本を渡された。春に行われる予定の文芸協会第一回試演会のための台本だった。逍遥が翻訳したものだった。


 デンマークの王子ハムレットが、叔父に父王を殺され、母を奪われ、王位も奪われる。ハムレットはその後復讐を果たすが最後は悲劇的な結末を迎える。そして悲劇的な最期を遂げるヒロインオフィーリア。その二人を中心として物語が進む演劇である。


 正子はヒロイン、オフィーリア役をどうしても射止めたかった。オフィーリア役に限らず、全ての登場人物の台詞、そしてその演技を覚えることに没頭した。

 研究所で暇をしている生徒を見ると誰でも台詞の相手にした。正子はどの役でも台本を見ずに台詞を言い、そして演じることができるようになっていた。相手が疲れたと言うとすぐに他の生徒を探し相手をさせる。そして一人ででも、踊ったりしている。

 抱月の補講や稽古が無く、研究所を閉じられる日にはすぐには家に帰らず、近くの河原の土手で大声をあげて台詞の稽古をしていた。演技の悲鳴をあげる時もあった。その声に驚いた通行人が警官を呼んできてしまうという事もあった。


 家事の手抜きは増えていった。前沢の食事は最低限の白飯に味噌汁と漬物に一品程度のおかずを添える程度になっていた。見かねた前沢が昼飯は外食を取ると言い出し、少し前から弁当は自分の物しか作らなくなった。それも漬物に白飯やおかず一品に白飯など質素で簡単なものばかりだ。

 見かねた美和がおかずを分けてくれることもしばしばだった。洗濯ものも溜まるばかりだ。小言を言われるので仕方なく前沢の着物は洗濯するが、自分は無頓着に何日も同じ着物を着て学校に行くことが増えた。


 ひと月ほど経った或る日、皆が集められ抱月から配役が発表された。

 皆注目のオフィーリア役に正子の名前が告げられた。...やった、私が、早稲田大学出や高等女学校出の才女で無く、それも別科生の私がヒロイン役に....。大抜擢だった。生徒皆の視線が正子に集まった。羨望、そして嫉妬の眼差し。美和は無邪気に正子さんすごいわと喜んでくれた。

 ハムレット役には逍遥と共に脚本朗読会から活躍している俳優、土肥春曙に決まった。

 嬉々として帰宅し夫にそれを告げたが、あっそう、と素気ないものだった。期待はしていなかったが、それでももっと言い方があるのではないかと幻滅した。

 日曜には風月堂を訪れ、ヒロインに選ばれたことを報告すると、峰子や益三そして店の皆が喜んでくれた。姉の姑、かよは店を休みにして、みんなで行きたいわなどと言ってくれた。それで満足だった。


 三月になり文芸協会第一回試演会が研究所内で催された。

 舞台が開く直前まで正子は楽屋前の廊下で壁を叩き、続いて台詞を大きな声を出し稽古していた。

 楽屋にいる坪内逍遥を訪れた客がその音と声を聞き驚き逍遥に聞いた。

「何ですか、あれは?」

「いや、今日のヒロイン役が台詞をお浚いしているんだよ」

 逍遥は苦笑し、答えた。


 舞台が開き、舞台の上から峰子とかよの顔が見えた。全てを演じきった。出し切ることができた、そう思った。

 それを見た客の評判は上々だった。幕が閉じても拍手が鳴りやまない。峰子もかよも興奮気味に素晴らしかったわと言ってくれた。正子も自分では上出来だと思っていた。試演会と言えど初めて舞台に立ち多くの観客の前で演じた正子は興奮した。

 だが、抱月からは特に褒められることも無かった。抱月はもっと上を目指していたのだろう。もう翌日からは厳しい授業が再開された。


 また、試演会ではハムレットと共に、ヴェニスの商人の公演も行われた。こちらの公演では東儀鉄笛らが好演した。


 正子は二か年過程の一年を終えた。演劇の練習にも増々力が入って行った。

研究所には二期生も入学してきた。更にライバルは増えることになる。

試演会のヒロインへの抜擢で正子への抱月の演出も時間が割かれ、それに伴い、抱月と共有する時間が増えた。それに伴い、抱月への思いも強くなった。


 島村抱月は、貧乏な家に生まれ努力して裁判所書記になった。そこで裁判所検事の島村文耕に見込まれ、援助してもらい東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業することが出来た。上京をする際に文耕の養子となっている。文耕は抱月にとって義父ちちであるとともに大恩人でもある。常に頭が上がらなかった。

 その文耕の姪と結婚している。抱月にとって文耕から姪と結婚しないかと言われ、断る理由も無く、また断ることも出来なかった。抱月にとって義父ちちの血縁である妻も頭が上がらない存在だった。抱月もまた家にいる時間よりも研究所にいる時間が増えていった。


 抱月の授業や演出は増々厳しくなっていった。その厳しさに研究所を辞めて行く者も現れ始めた。一人、そしてまた一人と教室の人数が減っていく。特に女優を目指す女生徒が減っていく。抱月は男子生徒も女生徒も区別なく厳しい授業が行われた。逍遥が言うように、こんなことでへこたれて辞めていくようでは女優になった所で続かない。抱月はそう思っていた。


 正子は美和からの相談を受けた。美和も抱月からの罵声に何度も涙を流していた。

「正子さん、私もう耐えられないかもしれない」

「どうして?」

「だって、これから女優を続ける限りずっと島村先生から罵られるのよ」

「そんな事ないわよ。美和ちゃんが演技が上手になれば怒られることも無くなるわ」

「そうかしら、そんな日が来るなんて信じられないわ」

 正子も何度も罵られ、頭を台本で叩かれもした。隠れて涙を流すこともあった。

 風月堂に出向き、姉の峰子や、兄益三に愚痴を吐くこともあった。そんな時、益三がどんな世界でも一流になることは大変なんだと諭して聞かせた。既に夫との会話は無くなりかけていた。

「来るわよ。絶対に。私の兄さんも菓子職人をしているんだけど、努力すれば皆一流になれるんだって言ってたわ。だから頑張ろうよ」

「そうかしら」

「絶対そうよ」


 だが、一月ひとつき後美和は研究所を辞めて行った。正子に謝り、実家を手伝うと言って去っていった。生徒数は当初の半分ほどに減っていた。


 正子には今更戻れる道は残されていなかった。

 

 或る夜、研究所での稽古を終え自宅に戻ると、夫が怒りの表情で座卓の前に胡坐をかいている。

「正子、ちょっと来てここに座りなさい」

正子は怪訝な表情をし、夫の前に正座した。

「これは何だ一体」

座卓の上には藁に包まれた納豆が置かれていた。

「な、納豆です」

「今日戻ったら、これしか置いてなかったが、これで夕餉を食べろということなのか?」

「そ、そうです。朝、時間が無かったから」

「ふざけるな」夫が怒声を発した。

「そんな大きな声を出さないで下さい、近所に聞かれます」

「聞かれたってかまわない。馬鹿にするのもいい加減にしろ」

「馬鹿になんてしていません。仕様が無かったんです。ご飯は炊いてあったでしょ」

「だから何なんだ」

「だから夕餉は食べられるかと...」

「それが、家の主人に対してすることなのか?」

「だって、今までだって自分で済ましていたことがあったじゃない」

「それは、君が急に劇の稽古や補講をすることになったからと思って我慢してたんだ。これではもう最初から用意する気がないじゃないか」

「だ、だから。時間が無くて」

「......もういい。別れよう」

「.......」


 正子は2度目の離婚をした。明治43年(1910年)秋の事だった。


 正子は前沢の家を出、研究所近くで一人暮らしを始めた。


 正子は離婚に後ろ髪を引きずられる事無く、更に演劇に没頭していった。千葉の時と違って正子には目指すものがあった。


 抱月から新たに皆に渡された台本は異国ノルウェーの劇作家ヘンリック・イブセンによって書かれた"人形の家"という物語を抱月が翻訳、脚色したものだった。


 弁護士の妻ノラは何不自由無く暮らしている。夫ヘルメルはノラを可愛がり、ノラも夫を愛している.....つもりだった。

 ある日夫の部下クロッグスタットが夫のいない時を見計らってノラを訪ねてくる。クロッグスタットは夫の怒りを買い、夫から解雇されそうだと言う。どうにかとりなしてほしいと頼まれる。ノラは断ろうと思うが無下に断り切れない理由があった。それはかつて夫が重病に罹り収入が無くなった時ノラの父のサインを偽造しクロッグスタットから借金した事があったことだった。

 その借用書はクロッグスタットが握っていた。その時ノラの父もまた病に侵されていたためだった。

 脅迫され、ノラは仕方なく夫にクロッグスタットの解雇を止めるよう進言するが、聞き入れられずクロッグスタットは解雇される。

 怒ったクロッグスタットがヘルメルにノラの行いを暴露した手紙を送る。ヘルメルはそれを公開されたら自分の仕事にも影響することに激怒しノラを罵る。

 ノラは自分の人生が終わりを告げたと思うが、改心したクロッグスタットが証拠となる借用書を送り返してきた。

 すると夫は掌を返してノラに甘い言葉を囁く。

 ノラは自分のことしか考えず、自分を飾り物として、人形としてしか扱わない夫に絶望し、そして一人の人間として生きて行きたいと覚醒し子も残し家を出る。


 一人の女性の心情の変化を表現していくストーリーである。難しい演技が求められた。

 

 正子はどうしても、ヒロインのノラを演じたかった。ノラの役が取れれば抱月の歓心を独り占めできるのではないかと思うこともあった。女優への憧れとともに抱月への憧れも強くなって行った。

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