大正

 時が過ぎる毎に抱月は家を空け、須磨子の家に居る日が増えて行った。

 当時、抱月の家には中山晋平という書生が居た。後に須磨子の劇中歌を作曲する他、シャボン玉など数多くの童謡・流行歌・新民謡などを残した作曲家の若き頃である。晋平は須磨子と同じ信州は下高井郡新野村出身で歳は須磨子より一つ年下になる。


 抱月の妻、市子は以前より頻繁に家を空けることが多くなった抱月を不信に思った。市子は裕福な家に育ち何不自由なく生きてきた女である。抱月が自分を裏切ることなど考えたくもない、市子のプライドが許さなかった。

 市子は晋平に相談した。

「中山さん、主人は家を空けることが多くなったけれど、そんなに忙しいのかしら?」

「奥さん、先生は公演の準備とかで色々と用意しなければならないものなど多く、大変なのではないですか」

「そうかしら、以前はこんなに家を空ける事などなかったのに。中山さん、主人が家を空けている時に何処にいるのか見てきて下さらない?宿泊費は私が出しますから」

「そ、それは先生の浮気を疑っているのですか?」

「念のためですよ」

「先生に限って、そんなことはありえません」

「お願いします。この通り」市子は手を合わせお願いした。

「は、はあ」晋平は渋々ながら了承した。


「さて、どうしたものかな」晋平はしばし考えた。

 あの家族思いの先生に限って万に一つも浮気などありえない。仕事が忙しいだけだと思うが、宿泊費まで渡されて調べないわけにはいかない。


 晋平は授業が終わる頃合いを見計って研究所に出向き、入口の辺りを窺った。授業が終ったらしく、続々と生徒達が出てきた。晋平は訪問客を装い、一人の生徒に聞いてみた。

「あの、島村先生は未だいらっしゃいますか?」

「島村先生ですか、まだ教官室にいらっしゃるはずですよ。呼びましょうか?」

「いえ、自分で伺いますので大丈夫です」

「そうですか、それでは」生徒は頭を傾げながら帰っていった。

 晋平はそれから、2時間ほど研究所入口を見張ると、抱月が現れた。夜7時を周った頃だった。既に辺りは暗く、街灯が灯るだけだった。


 気づかれないよう注意深く抱月を通りの角から見ていると、抱月は駅方向には向かわずに、校門を出ると左方向に向かった。こちらに来る...見つかる。晋平は慌てて顔を隠した。....だが晋平のいる通りには現れなかった。抱月は手前の細い路地を左に入って行ったようだ。

...どこへ行くんだろう。晋平はそう思いながらも後をつけた。すると長屋のうちの一軒の家に入って行った。

「誰の家だろう?」


30分程、長屋の手前でその家を見ていると一人の女が玄関から顔を出した。須磨子だった。商店に買い物にでも行くのだろうか、買い物かごを携え晋平のいる道を奥へと歩いて行った。


「....奥さんの心配は本当だったのか。あの先生が...」


 晋平はそれから30分ほど須磨子が帰るのを待ってみた。須磨子は買い物籠に野菜やら入れて戻ってきた。そのまま抱月のいる家に戻っていった。


 晋平が良く見ていると、須磨子の後10mほど離れてそっとつけている男がいた。

「誰だろう?」

 男は須磨子の家の前まで行くと、そっと中を窺い、呼び鈴を鳴らした。

 玄関を開け、須磨子が顔を出した。


「あら、東儀さん。どうしてここを?」

「いや学校から帰ろうとして商店街を歩いていたら君を見かけてね。近くに住んでいるとは聞いていたが、ここだったのかい。ちょっとお邪魔していいかな」

「そ、それは、困ります。お客さんがいますから」

「まさか、島村先生じゃないだろうね」

「ち、違います。兄です。もう帰って下さい」

「仕方ないな、また来るよ」男は家を離れると来た道を戻って行った。

 抱月の女、そしてそれを追う男。一体何が起きているのか晋平には分からない。晋平は今日は島村の家には戻らない方がいいだろうと考え、近くの民宿に泊まった。


「先生、東儀さんが見えましたわ」須磨子は部屋に戻ると抱月に言った。

須磨子の家を訪れたのは、文芸協会の俳優であり講師でもある東儀鉄笛とうぎ てってきであった。

「何だって、何故東儀君が?」

「さあ?町でみかけたからついてきたと言ってましたわ。でもあの人私を食事やお酒によく誘うのです。いつも断っていますが」

「そうなのかい。それで私の事など何も言わなかったろうね」

「言ってませんわ。でもお客がいるというと島村先生じゃないだろうねとか言ってましたわ。もちろん違うといいましたけど」

「.....そうなのか」



 翌日、帰宅すると晋平は市子に報告した。

「先生は、帰りが遅かったので民宿に泊まっていましたよ。私もついでにそこに泊まりました。先生にばれないように」本当のことは言えなかった。

「あら、そうだったの。本当なのね。ご苦労様」

市子は、そう晋平に答えたが、疑いが全て晴れたという様子では無かった。



 研究所では東儀が廊下で須磨子に話しかけて来た。

「小林君、今日、君の家に行ってもいいかい?」

「何か用でも?」抱月は今週は妻が家を空ける自分を不信がり煩いから自宅に帰ると言っていた。

「君と二人だけで話がしたいんだ」

「ここでは駄目なんですか?」

「二人だけがいいんだ。....島村先生とのこと、僕は知っている」

「......分かりました」一体どこまで知っているというの.....須磨子は話を聞いてみようと思った。

「それじゃあ、後で君の家に伺うよ」

 その日の稽古が終わり須磨子が家に戻ると、1時間ほどで東儀が来訪した。仕方なく須磨子は東儀を家に上げた。

 東儀は座布団に腰を据えると、須磨子に問いかけた。

「君は島村先生と男と女の関係なのか?」

「何のことですか?」須磨子は立ったままで答えた。

「僕はこの前、島村先生が夜この家に入っていくのを見たんだ」

「どういうことですか?」

「二人とも終電間近まで遅くなったことがあってね、最初に島村先生がここを出てね、僕もそれから5分ほどで出たんだが、先生の後ろ姿が駅には向かわず、路地を折れたんで気になってつけてみたんだ。そしたらこの家に入っていったというわけさ。でも、その時はこの家が誰の家かはわからなかった。でもこの前商店街で君を見かけてつけてみて、この家が君の家と知ったわけさ」

「....先生と私はそんな関係ではありません。芝居のことで言づけがあった時に寄っただけのことです」

「本当なのかい?」

「本当です」

 東儀は急に立ち上がると、須磨子を抱きしめた。

「な、何をするんです。やめて下さい」

「僕は君のことが好きなんだ」東儀はそう言うと須磨子の唇を奪った。

「ぐっ、や、やめて下さい。大声を出して、人を呼びますよ」須磨子は唇を外し、両腕で東儀を押しやるとそう言った。

「君は島村先生の事が好きなのかい?」

「そんなんじゃありません」

「だったら、いいじゃないか」

「坪内先生は研究所内での恋愛を禁止しています」

「そ、それはそうだが。僕は我慢できないんだ」

「私をそういういやらしい目で見ることはやめて下さい。坪内先生に言いますよ。帰って下さい」

「....こんなことして、悪かった。でも僕の気持を分かってもらいたかったんだ」

「お気持ちは分かりました。でも、その気持に答えることはできません。私は一流の女優になりたいんです。だから、坪内先生の教えを守りたいのです。もう帰って下されば、坪内先生にも誰にも今日のことは言いません。だから帰って下さい。東儀さんだって文芸協会を辞めたくはないのでしょ」

 東儀は陰湿な瞳を須磨子に向けた。

「.....分かった、今日は帰るよ。でも君は僕のものにする。あんな奴に君を渡しはしない」東儀は踵を返し、帰って行った。


 東儀鉄笛とうぎ てってきはプライドの高い男である。家は雅楽の家柄に生まれ、宮内庁雅楽寮に勤めながら東京専門学校に学んだ。坪内抱擁の後を追い、文芸協会に入会したが、自分より2つ年下の抱月を中心に物事が進んでいく。

 実力では劣っていると知りながら、家柄は自分とは比較にもならない下流育ちの抱月が我慢ならなかった。

 そして文芸協会公演は自分でもっていると思っていた。自分の演技が無ければ、客は来ないと。

 だが、今では研究生の頃には意識もしていなかった須磨子を見に客が文芸協会の公演を押しかける。

 そして脚光を浴びる須磨子を眩しく思い始めた。須磨子の演出を手掛け評判を上げる抱月に対する嫉妬心もあった。


 須磨子は突然の出来事に驚いたが、ふと我に返ると、箪笥の引き出しから便箋と万年筆を取り出しちゃぶ台で手紙を書き始めた。明日渡そうと抱月に宛てた手紙だった。今日の一部始終を書き連ねた。私を放っておくと他の男に抱かれてしまいますよという暗示でもあった。


 須磨子は翌日研究所で教官室に向かうと抱月の席の前に立ち、そっと机の上に手紙を置いた。

 抱月は書物を読んでいたが、須磨子に気づくと、顔を上げ須磨子を見るとその手紙を手に取り鞄の中にしまった。


 市子は芸術協会の坪内逍遥に、自宅に帰らない日が増えたが他所に女でも作ったのではないかと手紙を書いたが、逍遥は抱月がまさかと思い、取り合わなかった。


 その年明治45年(1912年)7月30日午前0時43分 明治天皇が崩御された。その日から時代は明治から大正へと移った。抱月と須磨子にとって激動の時代が幕を開けた。


 それから3日後の8月2日。日本は未だ明治天皇崩御の喪に服した中、異様なムードにあった。

 市子は抱月の部屋を掃除していると、抱月の机の引き出しが閉じきっていなかったので、閉じようと机に近づき、引き出しを見ると手紙のようなものが見える。

 市子は中から取り出し見てみると、そこには抱月の小林という女性に対する思いが書き連ねられていた。手紙では抱月は須磨子のことを小林君と書いていた。


小林くんへ


 僕には妻も子供もいて、年齢もかなり離れており、君を愛する資格が無い人間なのかもしれない。

 だが、君がいなければ僕はもう生きていけないかもしれない。それほど君を愛してしまっているんだ。

 どうか、それは信じてほしい。

 これほど一人の女性の事を思ったことは生まれて初めてなんだ。

 だが、君には話したことがあると思うが、僕は義父に大変世話になった。今の僕の立場は義父の力添えが無ければありえなかった。

 毎日でも君と一緒にいたいのが僕の本心なのだが、在らぬ波風を立てたくはないのだ、そこを分かってほしい。


 必ず僕が君を一流の女優に導く。だから東儀君の誘いになど乗らずに僕を信じてついてきてほしい。

いつかは君も誰かの元に嫁ぐ日が来るのかもしれない。

だが、今は僕の元にいてほしい。

お願いだ。誰かに君が抱かれるなど、考えたくもない。そんなことを思うと気が張り裂けそうになるんだ。

どうかわかってほしい


「.....誰なの、この小林という女は」


「中山さん、ちょっと来て」市子は2階にいる晋平を大きな声で呼んだ。

「何ですか、奥さん」晋平が2階から降りてきて顔を出した。

「これをちょっと見て。この小林という女はご存知?」

「...いえ、私にはわかりません」

「きっと、文芸協会の女だわ。私はこれを持って坪内先生に聞いてみます」

「...そ、それは。.....もしかしたらこれは島村先生の演劇の小道具の一部かもしれません。先生が戻ったら聞いてみたほうが宜しいのではないでしょうか」晋平は何とか市子をとりなすようにそう言うしかなかった。

「そんなわけないでしょ。もう私はあの人の言うことなんて信じられません」

「で、ですが」

「私は文芸協会に行ってきます。中山さんあなた留守番をお願いします。子供達のおやつは茶箪笥に入っていますから」

 市子はきっと晋平を睨み付けると、部屋を出て外出の支度にかかった。

 晋平は市子の様子を見て気が気ではなかったが、これ以上は成り行きを見守るしかどうしようもなかった。



 市子は血相を変えて文芸協会に乗り込んだ。受付の娘に逍遥の在所を聞くと、逍遥の部屋に案内させた。

「坪内先生、これを見て下さい。夫の手紙です」市子は逍遥に手紙を渡した。

「一体どうしたというんです。奥さん」逍遥は手紙を受け取り目を通すと、さっと顔色が変わった。

「この小林という女は誰なんです。文芸協会の女なんでしょ」逍遥は須磨子の事だと思ったが、この場でそれを言うわけにはいかない。

「小林という者はいますが....そうと決まったわけではありません」

「ここに、その女を連れてきてください」

「そ、それはできません。私の方で事情を調べますのでどうか今日のところはお帰り下さいませんか」

「本当に調べてくれるのですか」

「必ず調べて、奥様に事情を説明しますのでどうか、今日のところは」

「本当にお願いしますよ」市子は抱月にも会わず帰っていった。


抱月と須磨子の関係は坪内逍遥の知る所となった。

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