22:45『探偵とUFOキャッチャーではどちらのほうが握力が強いのか?』
「宇佐見刑事はまだ戻ってきませんね」
ドアの方を見ながら椎名探偵が心配そうにつぶやく。展示室には縦溝警部と椎名探偵が残されていた。
「私電話してみる!」
椎名がまた思いつきで行動しようとしたので、警部は腕を引っ張って慌てて止める。この探偵はもう少し落ち着きが欲しいものだ。
「待て、もし宇佐見が怪盗の背後に忍び寄っているときだったらとうする。電話が鳴ったら台無しだぞ。向こうからの連絡を待とう」
そういうと椎名はしぶしぶ携帯電話を仕舞った。
そのときガチャリとドアのハンドルが回り、展示室に足を滑らせながら入ってきたのは、あの『
「ボンジュール!ファントムシーフ!ストライダー!イズ!ヒア!」
日本人丸出しの拙い発音でフランス語と英語が入り混じった挨拶を叫びながら、怪盗はシルクハットを持ち上げてピタリと会釈を決める。この怪盗、しゃべる内容は無駄しかないが、立ち振る舞いは無駄なく実にスムーズである。よく見ると、さっき来た時にはなかった、何か長い筒状のものを背負っている。長さから見て、どうやら刀を納めるためのケースのようだ。
「うわっ……また来た……」
椎名はジト目で後退りする。
「あれ?さっきの刑事さんは?こちらにいらっしゃるのかと思ったのですが?ウェアイズヒー?」
怪盗が不思議そうに訊く。ステッキを腕に引っ掛けたまま、いちいち両手を挙げて見せる大げさなジェスチャーだ。
「さあな。それより、君もそれそろ怪盗のふりは止めないか。君が本物の怪盗でないことはもうわかっているのだ。なあに、ただの捜査の撹乱のためだけに雇われたのなら、大した罪にはならんだろう。今すぐ投降するのが身のためだ」
警部がカマをかける。
「えっ?そいつが偽物だって何でわかったんですか?」
椎名が驚いた顔で警部を見つめている。こいつはワシの策略を早速ばらしていくのか。警部は椎名探偵を連れてきたことを微妙に後悔し始めた。
「いいから椎名君は刀を見ていろ。ワシの意識がこの偽怪盗に向かっている時がむしろ危ない。こいつは偽物で、本物がどこからか刀を狙っているんだからな」
「警部、気をつけて」
椎名は刀のガラスケースのところまで下がる。
「いやはや!偽怪盗とは!わたくしこそ本物の怪盗紳士『韋駄天』に他なりませんぞ!何なら指紋でも取ってみたらどうですかな?まあ、わたくしを捕まえられたらの話ですが。はっはっは」
そう言って自称『韋駄天』は手袋をはめた右手をひらひらさせている。
「お前、予告状に自分の指紋が付いていることに気づいていたのか?」
「予告状を投函してから気づきましてな。うっかりポテチうすしお味を食べながら予告状にサインをしたためてしまったのですよ」
「うすしお美味しいよね」
「……ふむ、指紋もフェイクか。やれやれ、怪盗の言葉は何一つ信用ならんな」
予告状にポテチの形跡があったかは聞いていない。油分の成分を解析して本当にうすしおなら、こいつの言葉にも多少信ぴょう性が出てくるか。指紋の件ははっきりいってどこまで本当なのか警部にはわからない。少なくとも数年前の予告状と一致したことは確かだが、捜査の撹乱のために、別の誰かに指紋を付けさせて、それから自分自身は指紋を付けないようにカードを印刷、サインを書いた可能性もある。
「そういう大げさな芝居で我々を騙せると思ったのかね?嘘はもう少し自然につかないと意味が無いぞ。それよりいい加減、捕まってくれるとありがたいのだが」
警部は怪盗と話しながら何気なく歩いて近づいていく。怪盗も展示室のあちこちに並んだガラスケースを間に挟んで、ゆっくりと歩きながら距離を稼ぐ。
「ところで、さっきの若い刑事さんはなかなか良ーい走りをしていましたぞ。あのすばしっこさは怪盗の素質があると思いますな。わたくしめの弟子に頂きたいくらいです」
「ふざけろ、あれはワシの部下でな。貴様なんぞに渡せん」
「そうですか。わたくしの弟子になれば、例えばこんな素晴らしい動きもできるようになるのですよ」
そう言うと怪盗はガラスケースに片手をつき、強く床を蹴った。手がケースに乗ったまま、天井に足がつきそうなほどの高さでくるりと空中で一回転して、ガラスケースの反対側に音もなく着地する。椎名と刀の収められたガラスケースはもう怪盗の目の前である。
「おー、すっごい」
椎名はパチパチ手を叩いて感心している。
「感心しとる場合か。危ないから下がりなさい。手を出すなよ」
「ノンノン、わたくしは女性の心を奪い去ることはあっても、女性の体を傷つけたりは決して致しませんぞ。危なくなんてありません」
「紳士ゲット!」
今まで無邪気にへらへらしていた椎名が、突然ガバっと両手で『韋駄天』の腕を掴む。椎名はしてやったりという顔である。『韋駄天』は椎名は何もしないと思い込んでいたのか、腕を掴まれてちょっと驚いた顔をしている。
「でかした椎名君!そのまま捕まえていろ!」
警部が走りだす。
「失礼、レディ」
怪盗はそう言ってもう一方の手で椎名の手をひょいと引き剥がすと、それに軽く口付けして一歩下がった。残念ながら椎名探偵の握力はUFOキャッチャー並みである。この巨漢の怪盗に対しては事実上何の拘束力もない。警部が間合いに入ろうとした瞬間、再び大きく跳躍してガラスケースを超える。
「キス……されちゃった……」
警部と怪盗が刀を巡って目の前で争っているこの状況で、場違いにも椎名は少女漫画の女子中学生みたいに少し赤くなってもじもじしている。頭脳戦ならわずかに可能性があるとしても、さすがに格闘戦ではこの探偵はどうにも戦力外のようである。
警部がよく見ると、怪盗はわずかながら荒い息をしている。宇佐見刑事や守衛に博物館じゅう追い回され、さらにはここでガラスケースの上を飛び跳ねたりして、さすがの怪盗も消耗しているのかもしれない。対する警部の体力は万全。距離を取ろうとする怪盗にじりじりと詰め寄っていく。 怪盗と警部は再びガラスケースを挟んでじっくりと歩きながらにらみ合いを続ける。
警部が間合いに入るかどうかという瞬間、怪盗は警部に向かって低く飛び出した。そのままくるりと前転し、警部がとっさに振った腕の下を掻い潜る。そのままスムーズに立ち上がると、あとはガラスケースまで一直線。息が上がっていた様子がフェイクであったことに気づいた警部が振り向いたときには、怪盗は走り抜きざまソファーの上に置かれていた総アルミ削り出しの大型懐中電灯を拾い上げていた。怪盗はそれをケースに思い切り力任せに叩き込んだ。
耳をつんざく騒音とともに、強化ガラスが粉々になって砕け散る。椎名が耳を塞いでしゃがみ込む。防犯ベルが再び全館に鳴り響く。怪盗が刀に手を伸ばした瞬間、警部が追いついて体当たりをかまし、二人はもつれ合って吹っ飛んだ。
怪盗が先に素早く跳ね起きたが、警部が袖口を掴んだままである。警部が柔道の小内刈りの要領で足を引っ掛け再び怪盗を押し倒す。たまらず怪盗は倒れこむが、警部が関節を極める前に驚異的なバネで力任せに警部の体を弾き飛ばした。背中から床に倒れた警部もぐうと呻く。
「ふむ、二体一はさすがに少々不利ですな。少し暇をいただこう。それでは刑事さんと探偵さん、またあう時まで一旦アディオス!」
怪盗はドアに向かって駆け出す。ガラスケースを跳び箱のようにピョンピョン飛び越えて一直線だ。この怪盗にはいかなる障害物も妨げにならないかのようななめらかな動きである。
「私あの紳士欲しい!」
何を言い出すかと思ったら、怪盗を追いかけて椎名までドアに向かって駆け出す。
「おい!待て椎名君!欲しいとかじゃなくて!」
警部がそう言ったときには、すでに椎名はドアを飛び出していた。クソっ、あの怪盗、日本語と英語とフランス語とスペイン語が混ざってるじゃないか。統一して欲しいものだ。追いかけたいが、今離れたら今度こそ奴の思う壺だ。
警備室に電話を入れると、防犯ベルはすぐに止まった。怪盗はベルが鳴ったところで逃げるような賢明な連中ではないし、館内じゅうを逃げまわっているせいであんまり防犯ベルの意味がない。やかましいだけなので、もうベルは一旦切らせておいていいだろう。しかし、これ以上はワシらだけではきつい、署に応援を呼ぶか——そこまで考えて縦溝警部はゾクッとした。もし今、本物の怪盗が警官に扮して展示室に侵入してきたら、それこそ刀が奪取される危険がある。
相手は普通の犯罪者じゃない。怪盗だ。今は警察の応援すら危ういのだ。今ワシらはまさに自称怪盗に掻き回され、宇佐見君も椎名君も部屋を離れ、ワシも格闘戦で少し消耗している。ここで応援を呼ばせることが怪盗の企みである可能性は十分にある。警部は自分に言い聞かせた。冷静さを取り戻せ、縦溝。駄洒落を考えて落ち着くんだ。怪盗の回答は真摯な紳士——
宇佐見君は何をやっておるのだ。警部は携帯電話を取り出して宇佐見にかける。
「——はい、宇佐見です」
「どこにいる?」
「——4階の倉庫です。奴を見失いました。奴はあちこちに盗聴器やスピーカーを付けて我々を混乱させる作戦だったようです。他にも博物館じゅうにいろいろな仕掛けが。現在それを回収して回っています」
「声がかすれているな。相当消耗しているようだが大丈夫か?」
「——さんざん走り回ったので。しかもさっき階段から落ちました」
「何だと?とにかく一旦戻ってこい。さっきここも怪盗に襲撃されたばかりで、実は椎名君も誘い出されてしまってな。ワシひとりじゃ刀を守るのがきつい」
「——了解です。すぐ戻ります」
ひとまず宇佐見と椎名を呼び戻して、それからここに罠を張ろう。三体一の時はあの自称怪盗コスプレ男はさっさと逃げたが、二体一ならかなりしつこく刀を狙ってきた。もしここにいるのがひとりだけなら、今度こそ奴は喜んで刀を奪いにくるだろう。警部は額の汗を拭った。
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