20:04『地に落ちたコスプレ紳士は堕天使なのか?』

 椎名探偵の様子がおかしい。警部は慌てて椎名を抱きかかえてソファーに寝かせた。宇佐見刑事が展示室を離れたこの絶妙なタイミングで、次は椎名探偵に異常が起きるとは。警部にはとても偶然とは思えなかった。じわじわと迫ってくる怪盗の気配に、警部の頬を冷や汗が伝った。三人いればなんとでもなると思っていたが、今展示室を襲われたら、怪盗と一対一タイマンだ。警部にももちろん逮捕術の心得はあるが、自分一人では確実に取り押さえられるとまでは言えない。

「大丈夫か、椎名君」

「何だか……すごく……まぶたが重いんですけど……」

 呼吸や脈拍にも異常は見られない。意識はやや混濁しているとはいえ、声を掛けるとなんとか返事は返ってくる。だが、立った状態からいきなり崩れ落ちるというのは、どうみても普通ではない。

「やはり睡眠薬か?でもワシはなんともないな。椎名君がピザを一番多く食べていたからか、あるいはドリンクの方に……?」

「たぶん……普通にお腹いっぱいになったからだと思います」

「おい」

 標的の刀のほうにチラリと目をやったが、特にサンマに変わっている様子はない。これだけいろいろ続くと、本来の目的を忘れてしまいそうになる。

 念のため椎名探偵の様子をしばらく伺っていたが、すーすーと自然な寝息を立てているだけで、どう見ても眠っているだけにしか見えない。だが、この眠り方はあまりに唐突、あまりに不自然ではないだろうか——

「——もう食べられないよう……」

 こいつは食後の惰眠を貪っているだけだと警部は判断した。よく考えるとこいつの睡眠欲は普通の人間のそれをはるかに凌駕している。このような不自然な眠り方でも、不自然なのが自然だ。怪盗は睡眠薬を盛る必要もなかったな……。警部としては給湯室で顔でも洗って来いと言いたいところだが、それは宇佐見が戻ってからだろう。それは一瞬でも展示室が警部一人になってしまうし、怪盗の出方が見えないこの状況では、そんなリスクはおかせない。第一、もしこの探偵が給湯室で居眠りを始めたら、警部は展示室を離れられないからいよいよ打つ手がなくなる。

 警部が椎名探偵を起こそうと頬をペチペチ叩く。起きない。とにかくペチペチ叩く。起きない。さらにペチペチ叩く。

「おーい椎名君、起きないか」

「ふにゃ?」

「八時にお眠とは君は小学生か。せめて宇佐見君が戻ってくるまでは起きてなさい」

「あと五ひゅん……」

 警部の携帯電話が鳴る。宇佐見からの連絡だった。

「どうだ、そっちは」

「——負傷者本人の話によれば、ビルの屋上からハンググライダーで飛行しようとしたものの、ハンググライダー未経験であったために操作を誤って墜落したとのことです」

「なんだそりゃ」

「——さあ、僕に聞かれても。なんでも、運動神経にはとにかく自信があって、一発勝負で行けると思っちゃったらしいです」

 警部にはとても説明になっているとは思えなかった。しかし、嘘をつくなら、もう少しマシな嘘がいくらでもあるだろう。

「その男性、外見はどんな感じだ?」

「——負傷者は三十歳から四十歳くらいの男性、服装は黒い礼服にシルクハット。片眼鏡をかけています」

「シルクハット?片眼鏡?随分妙な格好だな。まるで怪と——」

 その時、眠っていたはずの椎名探偵がガバっと起き上がった。眼がまるで野獣のように獰猛に光り、あとよだれも光っている。この眼はこの探偵が獲物を狩るときの眼、このよだれは獲物を狩るときのよだれである。

「紳士!」

「えっ」

「警部、その男性、紳士に間違いないわ!」

「……お、おう?」

「ええ、今どきシルクハットを被った紳士なんてエスパーより貴重だわ!宇佐見刑事、直ちに捕獲して」

「——捕獲?」

「ええそうよ。人が礼節と道徳を失いつつあるこの荒んだ現代社会、本物の紳士は絶滅危惧種なのよ。捕獲、検査の上、基準に合格したら私の婿にするわ。でも注意して。中には紳士を装ったニセ紳士、変態紳士が混ざっているから。変態紳士が好きっていうちょっと変な子もいるけど、私はあくまで本物の紳士を求めてるから」

「ちょっと何を言っているかわからんのだが」

 警部も耳元で椎名がまくし立てるので弱っている。

「——負傷者は鼻血が出ているものの意識ははっきりしており、というか聞いてないことまでペラペラ猛烈な勢いで喋っててうるさいくらいで、鼻血が止まらないのはそのせいじゃないのかと思うんですが、とにかく命に別状はないようです」

「ほう、それはなんというか不幸中の幸いだな。いやでも鼻血か……状況が状況だし、容態が急変しても大変だしな……」

 ビルから落ちたという報告であったが、本当に軽傷らしいことが確認できて、警部はひとまず安堵した。ただし、この負傷者をどう扱ってよいやら、警部にも見当がつかない。椎名はなぜか自分の鼻をつまんでいる。

「——紳士かどうかはともかく、それで僕思うんですけど、さっき警部も言いかけたようですが、ひょっとしてこの人——例の怪盗じゃないでしょうか」

 縦溝と椎名は顔を見合わせる。

「まさかの……怪盗紳士……」

「信じたくない……信じたくはないが……」

 警部としては、狡猾で大胆不敵なはずの怪盗が、犯行の前に地面に転がって通行人に通報されるとはさすがに考えにくい。 しかも怪盗の一般的なイメージそのまんまの格好をしている。どうみても怪盗すぎて、逆に怪盗なのかどうか疑わしい。

「——どうしましょう。拘束しますか?」

「ビルから落下して頭を打ったなら、一応病院に搬送しないわけにもいくまい。ただ、これだけ露骨だとむしろ罠の匂いがする。こちらを手薄にするわけにはいかないから、応援を呼んでそちらで詳しく事情聴取してもらおう」

 次から次と。警部はわけがわからなくなってきた。軽傷なら救急車を呼ぶより我々の警察車両で搬送したほうがいいかもな。あまり軽傷で救急車を呼ぶのは良くないし、おそらく救急車を待つより早い。いや、ビルから落下だぞ、途中で容態が急変したらどうする?ちょっと待て、クルマを……?まさかこれは、警察車両ごと宇佐見君をここから引き離す罠なのでは?落ち着け縦溝。駄洒落を考えて落ち着くんだ。クルマが来るまで街で待ち——

「——あっ」

「どうかしたか、宇佐見君」

「——負傷者が急に……逃げだして?ます!だめです、追いつけません」

「紳士ーっ!」

電話の向こうで、ゴトゴトと走る足音、宇佐見がはあはあと息をするのが聞こえる。

「——どうします?」

「……その負傷者が万が一怪盗なら、もう戻っては来ないかもしれんな。それならそれで刀を守る目的は果たせたわけだし、放っておこう。怪盗でないとしても、ふん捕まえて救急車に押しこむわけにもいくまい。それよりこっちに戻ってきてほしい。椎名君と二人では不安だ」

「——了解、すぐ戻ります」

「紳士……」

「気にするな、椎名君。あれはおそらく紳士ではない。男は多くを語らず、その背中で魅せるものだ。見た目だけ着飾った紳士風おしゃべり男なんかにたぶらかされてはいけない」

 捕まえたトンボを逃してしまった少年のようにしょんぼりした椎名探偵に、警部は父親が諭すように優しく言った。


 警部は意味不明な出来事があまりに連続するので、考えが追いつかなくなってきていた。今回の関係者はどんな人物がいただろうか?ワシの駄洒落にため息を付く部下の刑事。刀をサンマだと推理した探偵。ショッピングモールのイベントに参加するイケメン詐欺師とそれに群がるマスコミ。こんな事件を取材したがる地元中学生新聞記者。鯉の話を始めると止まらなくなる館長。飢えた探偵おおかみに割引チケットを与える飼育員のような守衛。気をつけろと言ったのに出前をとって食べつくす探偵。その女子力ゼロ探偵に言い寄られるピザ屋店員。ビルから落ちてとにかくよく喋る謎の怪盗コスプレ男。隙さえあれば居眠りしようとする探偵。そうそう、忘れかけていたが、予告状を出したが未だに姿を見せない怪盗『韋駄天ストライダー』。こんなところだろうか。この状況は、誰がどう動いて作りだされたのか。

「どう思う?椎名君」

「ふにゃ?……あー、紳士はそんなに私の婿が嫌だったのかな、と」

「おそらくそうだろう。あと居眠り禁止だ」

「いやそこは否定してくださいよ」

 真面目なこの警部の意外な返しに、椎名は涙目である。涙で椎名の目がちょっと冴えた。

「偶然このタイミング、偶然この場所で、怪盗コスプレをした奴が夜中にハンググライダーの練習をしていたと言われても、さすがに信じるわけにはいかん。ワシが思うに、怪盗の差し向けた囮だろう。宇佐見君が戻ってくるまでこの展示室は手薄になる。本物の怪盗が何か仕掛けるとしたら、おそらくこのタイミングだ。何かが起こる。注意したまえ、だが何が起こっても慌てるな。それと居眠りは我慢しなさい」

 脅すような縦溝警部の口調に眠気が飛んだのか、椎名探偵も緊張した面持ちでごくりと喉を鳴らした。



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【物語のポイント】

・謎の負傷者の正体は何なのか

・謎の負傷者の目的は何なのか

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