22:05『刑事と怪盗は鬼と仏なのか?』
宇佐見刑事は自称怪盗のコスプレ男を追って部屋を出ていき、展示室には縦溝警部と椎名探偵が残されていた。
「宇佐見刑事は『
「彼は一見頼りない感じに見えて、実は相当鍛えぬかれた体を持っているからな。ワシとしてはそれなりに期待しておる」
「えっ見てみたいな」
「……何がだね?それより、あれは本物の『韋駄天』なんだろうか」
「自分でそう名乗ったじゃないですか?」
椎名は探偵なのに相手の言葉を疑うことを知らないのか。警部はこの純粋というか世間知らずの探偵の将来が心配になってきた。ううむ、ここはワシが面倒を見てやらねばなるまい。警部がこの探偵に世話を焼くのは、自分の娘のように心配をかけているというのが理由の一つだ。
「あの怪盗の衣装、いかにも怪盗のイメージそのまんますぎる。囮としか思えんのだ。実際に我々の中で一番体力のある宇佐見君が釣り出されている」
「敵に共犯がいるってことですか?」
「その可能性は十分ある。宇佐見君が外にいる間に何か仕掛けてくるかもしれん。気を付けろ」
「具体的には何をすればいいの?」
「それも含めて探偵の君に考えて欲しいのだが……」
椎名は笑顔ではて?と首をかしげている。さっき一眠りしたくせに、この探偵はまったく頭を働かせる気がないようである。
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宇佐見刑事は警察官としての日常訓練はもちろんのこと、自宅でも毎日の筋トレが日課になっている。格闘でもそうそう引けを取ることはないとの多少の自信はあったが、通路が入り組んだ屋内の中距離走の訓練などやったことがない。
よく見ると、怪盗の足元は革靴ではなく黒いスニーカーである。最初から走る気満々の装備というわけだ。怪盗の衣装は一見正装にみえるが、このぶんだとあの衣装もすべて軽くて伸縮性の高い素材で出来ているのかもしれない。対する宇佐見は革靴に普通のスーツ、ポケットには警察手帳、手錠、左手には重たい大型の懐中電灯と、装備としてはだいぶ不利である。だが、それを加味したとしても、この怪盗の足の早さは尋常ではない。
自称怪盗『韋駄天』は薄暗い博物館の廊下を駆け抜けながらも、ちらりちらりと宇佐見刑事のほうを振り返って確認している。どうも自分との距離を測っているらしい。早すぎず、遅すぎず。宇佐見のほんの目の前にはずっと怪盗のマントがひらひらはためいているのだが、手の届く間合いにはあと一歩届かないのだ。
「はっはっは、刑事さんもなかなか良い走りをなさるが、まだまだ鍛錬が足りませんなあ。そんなことでは市民の安全は守れませんぞ。まあ市民を脅かしてるのはわたくしなんですが。はっはっは」
怪盗は走りながらよく喋る。しかもまったく息は乱れず、声も震えたりしていない。そのとき、怪盗のシルクハットがポロリと落ちそうになり、怪盗は慌てて頭を押さえる。ほんの少しだけ怪盗のスピードが緩んだ。
宇佐見は怪盗のマントに手を伸ばし、ぐいとつかむ。パチッという手応えがあって、マントだけが外れてしまった。マントはスナップボタンで付けられていただけのようだ。掴まれることも想定していたのだろう、引っ張れば簡単に外れるようになっていたということか。この怪盗の装備はただのコスプレではなく、明確に走って逃げることを想定した改造が施されている。
「おっと私のマントが。へんなひとが私を脱がそうとしてきます!たすけておまわりさーん!いや、警察官はあなたでしたな。はっはっは!」
怪盗はふざけて高笑いしながら喋る。走りながらよく喋る。本当にどうでもいいことばかりよく喋る。息切れで宇佐見がツッコミを入れてくれないので、自分でツッコみまで入れながら走る。それなのにまるで息が切れていない。
「くそっ、待てっ!このっ!」
そう言われて待つ怪盗はいないと思うが、宇佐見としてもこう言うしかない。何か相手の足を止めるための上手い嘘でもつければいいが、こう走りながらでは頭も回らない。廊下の奥は博物館のロビー吹き抜けの2階部分である。
怪盗は一旦深く沈み込むと、強く床を蹴って飛び上がる。怪盗はなんと手もつかずに宙返りで手すりを飛び越え、見えなくなる。直後、バシッという怪盗が着地した音が聞こえた。
宇佐見が手すりにたどり着いて吹き抜けを見下ろすと、怪盗も下から宇佐見を見上げていた。信じられないが、何の怪我もなく吹き抜けを二階から飛び降りたらしい。
「刑事さん今の見ました?華麗でしょう?クールでしょう?本物の紳士の走りはまだまだこんなものではありませんぞ。走りとは美学。走りとは礼節。私の走りもまた、この博物館に展示されるに値する芸術なのですよ。まあ、私のような大怪盗を捕まえておくには、この博物館の防犯設備は少々頼りないですがね」
怪盗の声がロビーに響く。怪盗は手に持ったステッキをくるくると回してみせた。宇佐見は手すりで体を支えながら呼吸を整える。紳士と走るのにどういう関係があるんだ、と宇佐見は言いたかったが、息が上がってとても突っ込む余裕もない。
怪盗のところまで行くには、宇佐見は大きく回りこんで階段を降りなくてはならない。吹き抜けの二階通路部分をよろよろと走るが、その間に怪盗は一階の奥の通路に姿を消してしまった。
一応一階まで降りてみたが、怪盗の姿はもうどこにもなかった。耳を澄ましたが、足音も聞こえない。完全に振り切られてしまった。
警察官の武器は足だと警部は言っていたが、まさか文字通り足で勝負する破目になるとは。実のところ宇佐見も身軽さには多少の自信があったが、この怪盗のそれは宇佐見の身体能力を二回りは上回っている。
そのとき、奥の守衛室から守衛が出てきた。ロビーの騒ぎを聞きつけたのかもしれない。
「なにがあったんですか」
守衛がそう訊くが、まあ予想はついているだろう。
「怪盗です。やはり内部に入り込んでいました。追いかけたんですが見失いまして」
「そうでしたか。実はこっちも監視カメラががっつりやられましてな」
守衛が指を指した先の天井には、黒い半球が設置されているのが見える。どうも黒いスプレーをかけれられて潰されてしまったらしい。
「あっちゅうまでしたわ。館内の廊下の監視カメラはほぼ全滅です」
その時また警報ベルが鳴りだした。守衛が守衛室にばたばたと走って行って何事か確認すると、やがて警報は止まった。
「第五展示室内の動体センサですね。室内のセンサーも次々やられてます」
ロビーに戻ってきた守衛は、ほとほと困りはてたという顔で言う。怪盗のことだから標的の刀以外は盗まないとは思うが、そうはいってもこれだけ館内の設備を潰されると洒落にならない。そんな話をしている間にまた警報が鳴り出す。
「もうどうにもならんですな。一旦警報ベルだけでも停止させておきます」
そう言って守衛は守衛室に走っていった。
そのとき、また『
「はっはっは!刑事さん、一休みできましたかな。わたくしとしましても、そろそろお遊びはこれまでにして、妖刀『
チャンスかもしれない。刀のある展示室に追い込めれば三対一だ。ただしそれは一歩間違えれば刀を奪われるリスクも伴う。いずれにせよ怪盗が展示室に向かうなら宇佐見も追いかけるしかない。宇佐見は階段に向かって走りだす。
「ほう、その動き、刑事さんはきっと怪盗の素質がありますよ。よろしければ私が鍛えて差し上げたいくらいです。はっはっは」
階段を登ってくる宇佐見を見下ろしながらそう言うと、怪盗もさっと踵を返した。
怪盗は階段を一段飛ばしで飛ぶようにかけ登っていく。宇佐見も全力で階段を駆け上がるが、太ももの筋肉がちぎれてしまいそうだ。標的の刀の展示室のある三階までかと思いきや、更に四階まで駆け上っていく。最短のルートではなく、どうも四階まで登って別の階段から降り、別ルートで回りこんでいくつもりらしい。怪盗は四階にたどり着くと、するりとドアの隙間をすり抜けて、展示室に入り込んだ。どうやったのか、すでにあちこちの展示室の鍵が解錠されているらしい。
宇佐美も怪盗の後を追って展示室に駆け込む。怪盗は順路に沿って走ったりせず、手すりや展示ケースをスイスイと飛び越えて進んでいく。まるで怪盗の体重がなくなったかのような身軽さだ。そうだ、こういうのをフリーランニングといった気がする。ソファや手すりといった障害物は、怪盗の技を見せるためのギミックでしかない。展示室に入ってきた時は、絵に描いたようなステレオタイプの格好とふざけた物言いで格好悪く感じたが、こうして展示室を風のように走り抜ける姿は、思ったよりさまになっている。
間違いない。宇佐見は確信した。こいつは本物の『
カーチェイスなら追い回せばいつか燃料は切れて逃走車両は停止する。それに逃走車両が通れる道は警察車両も通れる。逃げ切れるはずなんてない。
しかしこの怪盗は違う。普通の人間が乗り越えられないような段差もするりと上り、階段は段を踏まずに飛び降りる。速度も行動範囲も普通の人間をはるかに凌駕している。追いかけようがないのだ。
シルクハットや片眼鏡、大きなマント、先がくるっと上を向いた大きな付け髭は目立つが、それさえ外してしまえばさほど目立つ服装ではない。自動車のようにナンバーがついてるわけじゃないし、人混みに紛れるのも容易だろう。この怪盗、思った以上に厄介だ。
この怪盗が『韋駄天』を名乗るのも頷ける。ただし元ネタの『
怪盗は展示室の奥までたどり着くと、またするりとドアをくぐり抜けて廊下に姿を消す。宇佐見も慌てて廊下に出ると、怪盗がまた階段を駆け下りていくのが見えた。この怪盗はどれだけ俺をおちょくるつもりなのか。宇佐見は少し苛立ってきたが、はっきり言ってひとりでは手のつけようがない。
捕まえる唯一の方法はおそらく、どこかの部屋に閉じ込めること。今可能性があるとしたら、椎名の言っていたとおり標的のある展示室しかない。できれば窓のない別の部屋におびき出したいが、今回はそうするだけの人手が足りない。
宇佐見も怪盗の後を追って急いで階段を駆け降りる。怪盗は階段を律儀に一段ずつ踏んで降りたりしない。ピョンピョンと手すりと壁を蹴って跳ねるようにして降りていくのだ。ひと飛びで軽々十段は飛び越えて、着地してくるりと前転すると、そのまま足を止めることなくまた走りだす。速度がまるで違う。奴が手を抜いていなければとうに振り切られている。左足が前に出ない。何かに足が引っかかっている。宇佐見があっと息を呑んだ瞬間、何かを考える間もなく視界がぐるんと回転し、宇佐見の頭に鈍い衝撃が走った。
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【物語のポイント】
・怪盗は『本物』なのか
・宇佐見刑事の運命やいかに
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