23:37『恋と鯉は盲目というのは本当なのか?』

——23時40分、兼望財団博物館で盗難事件発生、犯人は美術品の日本刀を強奪して逃走中、直ちに応援を要請する。犯人の正体は詐欺師『脚長ロングレッグズ』だと思われる。奴は変装の達人だ、姿に惑わされるな


 警部はそう伝えたあと車両の警察無線の送信機を戻した。ダッシュボードを漁って、見つけたポケットナイフを懐に入れる。刀を奪取されてしまえば、もうニセ警官がどうこうと言っている場合ではない。応援は呼んだが、運良く付近を警ら中の警察官がいれば5分、最悪でも警察署からの応援が15分後といったところか。奴の足止めが必要だ。

 まずは宇佐見君の縄を切って……。いや、あいつはたぶん一時間以上縄で拘束されて転がされていたし、手首も痛めている。どうせすぐには動けん。半裸で走り回られてはこっちが通報されてしまうし。連れて戻ったら何分かかるかわからない。それより、椎名の方を加勢に行ったほうが、逮捕の可能性は高まるだろう。確か『脚長』はあまり暴力を振るうタイプの犯罪者ではなかった気がするが、今回は宇佐見がやられた。悪党である以上、いざとなれば何をするかわからない。縦溝はキーを捻ってエンジンを始動させた。


————————


 くすん。給湯室の床に転がされたままの宇佐見刑事は、ひとり鼻をすすった。本当に酷い夜だ。まさかこんなことになるとは。そろそろ守衛が巡回しにきてもいいころだが、何をしているのだろうか。

 宇佐見に、誰かが近づいて来る足音がする。ぷつりという音がして、急に宇佐見の拘束が解かれた。ロープがはらりと落ちる。宇佐見は立ち上がろうとしたが、全身の筋肉が軋んで、あえなく崩れ落ちてしまった。縛られて戸棚に押し込まれてからずいぶんな時間が経っている。とてもじゃないがすぐには立ち上がれない。宇佐見の肩にジャケットがかけられた。首だけ捻って見上げると、そこにいたのは正装の紳士だった。

「『韋駄天ストライダー』……」

「はっはっは!それでも着て、しばらく休んでいたまえ。今回は巻き込んで申し訳ありませんでしたな!」

「なんか格好良いふうに言ってるけど、巻き込んでっていうか、僕警察だし」

「そうですか!はっはっは!」

「そうだよ……」

「怪盗紳士は予告した獲物しか狙いません。でも、どうも詐欺師に獲物を奪われてしまったみたいです。それならここにはもう用はありませーん。今回は偶然不運が重なり失敗しましたが、次回は必ず成功させてみせますよ。『韋駄天ストライダー』の名をよく覚えておくことです。なかなか楽しかったですよ。アディオス、ムッシュー!はっはっは!」

 そう言うと、怪盗は片眼鏡に指を添えて会釈してみせた。それを言うならアディオス・セニョールだろうに。アディオスはスペイン語、ムッシューはフランス語だ。どうか統一してくれないか。宇佐見は飛ぶように走り去るこの無国籍風怪盗の後ろ姿を、じっと見送るしかなかった。


————————


「詐欺師さん、だったかしら」

 博物館の正面入り口を背に、椎名は詐欺師『脚長ロングレッグズ』と対峙していた。重厚な正面の門はいつのまにか開け放たれていた。椎名が辿り着く前に詐欺師が開けておいたのだろう。詐欺師が跨ったオートバイのヘッドライトが、椎名の姿を闇から浮かび上がらせる。眩しくて、椎名からは詐欺師の姿は殆ど見えない。

「今晩は、素敵な探偵さん。さっき僕の変装の違和感に気づいたのには、正直驚いたよ。バレないと思っていたのに」

「えっ?」

「……えっ?」

「えっ?」

「……まあいい。そこをどいてくれないか。怪我をさせたくない」

 詐欺師はアクセルをひねってエンジンをブルンと吹かしてみせた。だが『詐欺師』はあまり女子供に暴力を振るったりするタイプではないはずだ。詐欺師は相手を騙してこそであり、暴力に訴えるのは詐欺師の信条に反する。アクセルはただの脅しだ。この門を塞いでいる限り、奴はここから出ることはできない。

「確かあなたは、ショッピングモールのセレモニーでなにかやるって話じゃなかったっけ?」

「それはもちろん僕の嘘。今回は警察やマスコミが大勢押しかけるとやりにくい計画だったからね、そっちに誘導したんだ。怪盗は予告で嘘をついてはいけないが、詐欺師はどんな嘘をついても構わないのさ」

 詐欺師の声は、さっき宇佐見に化けていた時の掠れた声とはまるで違っていた。

フルフェイスのヘルメットで顔は分からないが、まさに二枚目という感じの甘い声だ。

「その刀の価値は知ってるの?実はそれ大した美術品でもないよ」

「これは友人へのプレゼント用だよ。美術的価値は低くても、欲しがっている子はいるのさ。なんでも、特別展で見たらどうしても欲しくなっちゃったとかでね」

そう言われてしまってはにべもない。

「その刀は偽物よ。すり替えておいたの」

 もはや出任せの出鱈目である。今は応援が来るまで、一分一秒でも時間を稼ぐことが重要だ。

「館長が展示品の移動を許可しなかったのは知ってる。ロビーで大声で話していたのを忘れたのかい?まあ、たとえ偽物だとしても、僕がみすみす捕まる理由はひとつもないな。さあ、道をあけてくれ」

「そのバイクの車種もナンバーもわかったし、検問をかければもう逃げ場はないわ。観念なさい」

「そう言われて観念する悪党がどこにいると思う?」

「それもそうだね!」

「さてここで問題です。このバイクのメーカーはどこでしょう」

「……ええ?」

 よく考えると、椎名はあまりバイクには詳しくなかった。自動車さえペーパードライバーである。わかるはずもない。

「……うっ。……カワサキ……カワサキでしょ?」

 以前インターネットのネタで知ったうろ覚えのメーカーの名前を、とりあえずでまかせで挙げてみた。カマをかけるならもっと自信ありげに言えばよかったが、思わず疑問形になってしまった。

「残念、ハズレ。本当はバイクなんて詳しくないんでしょ。騙しあいで探偵は詐欺師には勝てないよ」

「……ふぐっ。そのバイクには発信機を仕掛けられているわ。さっき敷地内のすべての車両に手当たり次第に仕掛けたの。どこに逃げても居場所はバレバレ。観念しなさいって」

「君は嘘もつくが、詐欺師には向いていない。ぜんぶ顔に出ちゃうからね。しかたない、裏口からにするか。じゃあね、楽しかったよ」

詐欺師はそう言うとくるりとバイクを反転させた。裏口ってどうなっていたっけ。椎名は博物館の配置を頭に入れていない。美少女探偵に必要なのは閃きであって、そういう泥臭い知識は警官達にでも覚えさせておけば良い話だ。

「待って!裏口はさっき私が閉めた!閉めて厳重に鍵をかけちゃったから!そこからは出られないから!」

 椎名は慌てて追いかける。

「裏口閉まってるから!あっ!裏口は警察がばっちり固めてる!危ないわよ!」

 オートバイの轟音で椎名の声が詐欺師に聞こえているのかわからないが、もうやぶれかぶれである。

 博物館の建物の角を曲がって見えなくなるかどうかという瞬間、オートバイはもう一度その重量からは想像もつかないくらい器用にくるりと半回転して向きを変え、椎名の脇を大きく回りこんですれ違った。正面口はがら空きである。門の向こうでヘッドライトのビームが向きを変えて、博物館の塀の裏に消えた。

「やられた……!」

 見事に誘い出されて正門を開けてしまったのに気づいた椎名は、その場にへたり込んだ。


 そのとき、駐車場から縦溝警部が運転する警察車両が近づいてきて、椎名のそばに急ブレーキの音を鳴らしながら止まった。

「乗れ、椎名!」

「はい!あっちです!」

 椎名は車両に駆け寄りながら、オートバイが消え去ったほうを指さす。椎名が乗り込むと同時に警部は車両を急発進させた。

「奴の足は何だ?自動車か?バイクか?」

「バイクです。車種とかそういうのはわかりませんが、結構大きくて、色はたぶん暗い青か黒」

「まずいな。狭い路地に入られたらこのクルマでは追跡できん。ナンバーは?」

「暗くて」

「構わん、どうせ偽造だ」

 警部は苦々しい顔だ。『韋駄天』を撃退したかと思ったら、詐欺師の企みに嵌ってしまうとは。奴がどこから絡んでいたのかもよくわからない。


「警部、あれです!あのバイクです!間違いないです」

 博物館から続く人気のない夜の道路。遠くにオートバイのヘッドライトが見える。オートバイは制限速度ぴったりで走行していた。それならこちらが飛ばせば、追い付くだけなら難しくはない。

 ヘッドライトをハイビームにすると、前方のオートバイが闇に浮かび上がった。ライダーが何か長いものを背負っているのも見える。縦溝が赤灯のスイッチを入れると、けたたましいサイレンが鳴り響いく。その瞬間、オートバイが加速した。間違いなく、逃げている。

 警部は無線機を手にとった。

「——犯人は県道〇〇線をオートバイで南下中、服装は黒のライディングギアにフルフェイスのヘルメット、車種は黒のカワサキ・ニンジャ」

「やっぱりカワサキじゃねーかっ!何が『残念、ハズレ』だよっ!」

 椎名は悔しそうに叫んだ。警部は車両の拡声器でも呼びかける。

「そこのオートバイ、直ちに停止しなさい!」

 もちろん停止するわけがない。

「どうするんです?縦溝警部!」

「応援は呼んだが、包囲網が間に合うかどうかは微妙なところだ。我々はこのまま出来る限り追跡するしかない。この先に、狭い路地が複雑に入り組んだ廃れた歓楽街がある。奴はおそらくそこで我々をまくつもりだろう。おそらく交換用のバイクも用意されている」

 オートバイはつかず離れずの距離を保っている。

「奴め、最初からこの状況を想定して逃走ルートも決めていたか。たぶん応援が駆けつけるまでの時間もすべて計算済みで、派手にカーチェイスをした後でも振りきれる算段が付いているんだろう。『韋駄天ストライダー』の知名度を考えれば大した人員は来ないのは予想できるし、博物館に来た警察車両がこれ一両だということもバレている。運良く交機の白バイの応援でも来ない限り、手詰まりだ」

「そんな……!」

 椎名は警部の手から送信機をひったくって叫んだ。

「この変態女装趣味オトコ!さっさと投降して刀を返さないと、その性癖をマスコミにバラしてやるわよ!」

 詐欺師のヘルメットが回り、椎名たちが乗った車両のほうへ振り向く。詐欺師の背中に背負われたケースが、びくりとまるで生き物であるかのごとく動いたように見えた。その瞬間、詐欺師のオートバイの前輪が何かを踏んで跳ねる。車体が左右に大きく2度揺れると、そのままぐしゃりと転倒した。

 詐欺師がバイクから投げ出され、そのままバイクと一緒に、氷の上みたいに軽々と道路を滑っていく。遠心力に振り回されるままの詐欺師の脚がガードレールの支柱に届き、鈍い音を立てて跳ね返された。警部が思い切りブレーキを踏み、甲高い音が誰もいない夜の道路を貫いて響いた。


 クルマを止めて縦溝と椎名が飛び降りる。ヘッドライトに照らされた詐欺師は手をついて体を起こそうとしていたが、途端にべしゃりと崩れ落ちた。警部が駆け寄り、体を仰向けに返す。警部が手で詐欺師の頭部を固定し、椎名がヘルメットを引っ張って脱がした。それから警部は手を当てたり耳を近づけたりして呼吸と心拍があることを確認する。詐欺師に声を掛けて肩を叩くと、詐欺師は低い声で何か呟いた。意識があることを確認して、ひとまず警部は深く息をつく。警部は椎名に119番するよう指示した。

 左足のすねが不自然な方向に曲がっている以外には、目につく外傷はない。警部は手袋をはめると、ポケットナイフで詐欺師のスーツの左足をバリバリ裂いてゆく。白っぽいものが皮膚を破って突き出しているのが見えたが、大きな出血はないようだった。電話を終えた椎名は、車内から誰かの着替えのワイシャツを見つけると、警部に手渡した。

 ひと通りの処置を終えたあと、警部は車両の警察無線で何か連絡している。椎名が詐欺師の顔をのぞき込むと、詐欺師は椎名の目を睨み返し、椎名に向かって何かぼそぼそと呻いた。それを聞いた椎名は、そうかもね、とだけ答えた。警部が戻ってきて、腕時計を見てから詐欺師に逮捕容疑を告げたが、詐欺師はもうこれ以上何も言わず、身動きもしようとはしなかった。

 遠くで鳥が鳴いた。夜が、更けていく。

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