23:32『これまでのすべてはあの男の罠だったのか?』

 展示室の縦溝警部は、椎名探偵が戻ってくるのを待ちかねていた。一応電話はしたのだが、電話の向こうでわんわん泣くばかりでさっぱり要領を得ない。まあ怪我などをしている様子もなかったので戻るよう言うと、しばらくして椎名はよろよろとした足取りで展示室に戻ってきた。出迎えた警部の胸に飛び込むと、椎名はぼろぼろと涙を流して崩れ落ちる。

「どうした椎名君!怪盗に何かされたのか!?」

「……怖かった……暗くて」

 椎名の顔は真っ青だ。深夜の暗い博物館の廊下を一人で歩いて戻ってきたのだから、椎名探偵の正気度はほとんどゼロである。なんとか漏らさずに帰ってきただけ幸いと言っていいかもしれない。警部は椎名探偵の恐怖と絶望を察したが、そもそも止めるのも聞かずにひとりで飛び出していった椎名の自業自得である。

「それで、怪盗はどこへ行った?」

「ダメでした。捕まりませんでした」

「そうか、椎名君も一旦休め」

 椎名はこくりと頷いた。腰が抜けて立てないようなので、警部が支えてソファに座らせてやる。

「サンマは無事ですか、じゃなかった刀は無事ですか」

「サンマは……もとい刀は無事だ。椎名君が出て行ってから怪盗の襲撃もなかった。それより宇佐見君がな……」

 警部が指さした先では、宇佐見刑事が奥のソファに寝転んだまま濡れたタオルを額に乗せて手で抑えている。

「なんでも階段から落っこちて頭を打ったそうだ。しばらく休ませてやってくれ」

「宇佐見刑事、頭大丈夫?」

 椎名が聞くと、宇佐見は手を上げて合図した。

「その聞き方はいろいろ誤解を招くと思うぞ……」

 警部は呆れたように言った。


 椎名はよほど疲れたのか、放置されていたピザの箱をどかして、ソファの上にバタリと倒れこんだ。

「休むのはいいが、眠ってくれるなよ。今は宇佐見君も戦える状態じゃないんだ。一体一と二体一では大違いなんだからな」

 今にも眠りそうな椎名の様子に警部もハラハラするが、椎名の消耗具合を見ると無理に起こすわけにもいかない。

「『韋駄天ストライダー』は格闘もあなどれんな。技術は素人だが、とにかく強靭な体を持っとる」

「なかなかやるよね。足も速くてちょっと格好いいかも」

「君は女子小学生かね……」

確かに足の早い少年は小学校でモテるが、成人した女が男に求める条件として挙げるのは極めて珍しい。

「それで、標的から我々を引き剥がすことが『韋駄天』の狙いだったようだが、結局三人ともを引き剥がすには至らず、失敗というところか」

「なんか体力勝負の凄まじい計画だよね。もう少しどうにかならなかったのかな」

「それだけ体力に自信があったんだろうな。それで、宇佐見君が持ってきてくれたのだが、『韋駄天』のやつ、館内にこんなに盗聴器やら何やらを仕掛けていたらしい」

 そういって警部はビニール袋に入った盗聴器や発煙筒のようなものを掲げて椎名に見せた。二十個以上は入っている。

「これで館内の様子を探って逃げ回っていたんだ。でも肝心のこの展示室には盗聴器は仕掛けられなかったみたい……いや、ちょっと待って。盗聴器をここに持ち込む方法が、ひとつある」

 椎名探偵は顎に手を当ててしばらく考えたあと、ソファから起き上がり、おもむろに床の上に放置されたピザの箱を拾い上げる。立体的に組み立てられたピザのデリバリーの箱はけっこう丈夫に出来ていて、縁の部分にかなりの厚みがある。そこに手をかけてバリっと解体すると、中からサラミのかけらと一緒に小さな黒いプラスチックの塊が転がり落ちた。

「クソっ、ピザの件はこれが狙いだったのか」

 警部が悔しそうに言う。展示室は徹底的に調べたので仕掛けの類はないと考えていたのだが、その後で持ち込まれるとは。

「見事ピザの仕掛けを見抜くとは。さすが私」

「いやいや!ピザ頼んだのそもそも椎名君じゃないか!盗聴器仕掛けられたのは君のせいだぞ!」

「いいえ、縦溝警部も宇佐見刑事も食べたよね。共犯だよ、共犯」

 警部は一切れしか食べていないのに共犯扱いされて納得がいかない様子だが、食べてしまった以上は何も言えない。

「なんにせよ、我々の動向は『韋駄天』に筒抜けだったわけだ」

「でも、確か『韋駄天』は展示室に入って来るたびに驚いていましたよ。最初は三人しかいないのかって言ってましたし、二回目も宇佐見刑事はどこにいったのかって」

「どういうことだ?せっかく盗聴器を仕掛けたのに使ってなかったのか?」

「たくさん仕掛けすぎて忘れてたとか?」

「ふむ。驚いている演技だろう。あまり知りすぎていると思われると、盗聴器があることがバレるからな」

「あの怪盗、そんな器用な演技ができるタイプにも見えなかったけどね。なんか『ザ☆紳士』みたいな大げさな芝居ばかりで」

 椎名はまた考え込んだ。謎が積み重なっていゆく。


 警部は椎名が休んでいる間に作戦を伝えることにした。

「さっき宇佐見君にも話したのだが、作戦がある。奴は部屋に閉じ込めてしまえば捕まえられる可能性はあると思う。刀のそばには椎名君を一人残して、ワシはドア近くの展示品の裏、宇佐見君にはカーテンの裏に隠れてもらう。待ち伏せだ」

「私は囮ですか」

「囮は可愛いほうが敵が食いつきやすい」

「なるほど合点がってん!」

 警部も椎名の性格はよく把握しているのでのせるのは結構うまい。これは探偵の騙されやすさゆえでもあるが。

「ひとつの扉をのぞいて施錠し、扉の前には椅子をおいてバリケードにする。怪盗が入ってきたらワシは椅子を動かしてその扉を塞ぎ、鍵をかける。これでそう簡単に部屋から出ることはできん。怪盗は合鍵を入手している可能性もあるが、鍵を開けてバリケードをどかすには十秒はかかるはず。それだけあれば宇佐見君と二人で取り押さえるには十分だ。これが実行できるかは宇佐見君の体調が戻るかどうかによるが、やってみる価値はあるだろう。」

「なるほど。やりましょう!」

 椎名も乗り気である。ただし椎名はただの餌役であるが。

「それで、宇佐見君は動けそうか?」

「ええ、もう少し休めば」

宇佐見は寝転んだ姿勢のままで言った。

「ううむ、しかし……そんなかすれた声の奴にこれ以上走らせるわけにもな」

「すみません警部、給湯室の下の戸棚にタオルがあるので、濡らして持ってきてもらえません?」

「わかった。椎名君は宇佐見君と一緒に刀の方を頼む」

 椎名は了解!と警察官みたいに敬礼してみせた。明るい展示室に戻ってきて、警部と話をすることでだいぶ回復してきた様子である。


————————


 警部は展示室を出ると、廊下の奥にある給湯室に向かった。宇佐見君は確か下の戸棚と言っていたな。警部は、どこからか、むーん、むーんという唸り声のようなものが聞こえるのに気づいた。何の音だ?

 奇妙な音は、まさにその戸棚のなかから聞こえてくるようだ。警部は戸棚の下のほうの扉をぱかっと開き、覗く。

 信じられない光景に、警部は絶句した。


————————


 椎名がガラスケースの中を覗いて見ると、刀は相変わらず鈍い輝きを放っている。

「ねえ、宇佐見刑事。なんか雰囲気変わったよね?」

 椎名がふと気がついたように言った。

「……何がです?」

「なんか……新たな趣味に目覚めたって感じ。まあ誰にも迷惑をかけなければ、あなたの趣味にとやかくいうつもりはないけど、友人あるいはひとりの女性として忠告するなら、それはさすがにどうかと思うわ」

「とやかく言ってるじゃないですか……」

 その時、廊下から警部の声が聞こえた。

「おーい 椎名君 ちょっと来てくれ」

「警部が呼んでますね。刀は僕が見てますから、椎名さんは警部を手伝ってあげてください」

 宇佐見は体を起こしながら言った。

「わかったよ」

 そう言って椎名が展示室を出て行くと、宇佐見はふうとため息をつき——笑った。


————————


 椎名探偵が給湯室に入って行くと、縦溝警部がひざまづいて戸棚から何か大きなものを担ぎ出しているのが見えた。

「宇佐見君!大丈夫かっ!」

「警部、どうかしましたか」

「宇佐見君が!」

 給湯室の下の戸棚から引きずり出されたのは、紛れもない、宇佐見刑事その人であった。ただし服を脱がされ、縛られてガムテープで猿轡を咬まされている。

「半裸!宇佐見刑事が半裸!」

「ちょっ、なぜ椎名君まで来ているんだ」

「へ?警部が私の事呼んだから来たんだけど?」

「いや、呼んでないぞ?」

「それで、展示室で寝ていた宇佐見刑事が、何でここに瞬間移動してるの?しかもなんで一瞬で脱いでるの?」

 椎名と警部は顔を見合わせる。それからふたりは廊下に飛び出した。


 展示室のドアの前の廊下に、宇佐見刑事が立っていた。いや……何か、顔に違和感がある。どこかがおかしい。警部や椎名が知る宇佐見刑事に比べて、どこか華奢な顔つきや体型をしている。

「『探偵』『警察』『怪盗』、みんな負けだよ。勝つのは『詐欺師』さ」

 ドアの前に立っている方の宇佐見は、さっきとはうってかわった甘ったるい声で言った。そして素早くドアの奥に姿を消すと、バタンと扉が勢い良く締まり、カチャリと錠が掛かる音がした。

「……『詐欺師』?」

 事態が飲み込めないというように椎名が呟く。

「展示室にいた宇佐見は偽物だ!」

 警部が叫ぶ。椎名が展示室のドアノブに飛びついて乱暴にガチャガチャと動かす。

「開かない!」

「開いたら施錠の意味ないだろ!」

「それもそうだね!」

 椎名は扉を思い切り蹴飛ばしたが、展示品を守るための重い扉が破れる気配はない。警部は床に転がっている方の宇佐見の口元のガムテープを剥がす。

「どうした、何があった!?」

「奴は……『脚長ロングレッグズ』は……」

「詐欺師『脚長』?あの変装の達人という?」

「そうです……あいつが黒幕です」

「なんであいつがここに……?」

 警部にも何がなんだかさっぱりわからない。我々が追っていたのは『韋駄天』じゃなかったのか?

「でもこれであいつは袋のネズミよ。馬鹿な詐欺師ね!」

 そのとき、展示室の内部からパリンというガラスが割れる音がした。

「ダメだ!ロープでも使えば展示室の窓からは二階の屋根に降りられる!椎名君、正面入り口を抑えろ!奴を逃がすな!」

「わかった!」

椎名が廊下を駆け出す。


 宇佐見刑事の手首は腫れている。捻挫をしているようだ。警部はどうにか宇佐見の手足のロープを解こうとしたが、あまりに縄が固い。

「僕はいいですから……早く詐欺師を追ってください!刀が奪われたら、これまでのすべてが無駄に!」

 宇佐見が搾り出すように言う。

「くっ……すぐに助けをよこすから待っておれ!」

 警部はやむなく立ち上がって駈け出した。警部は警察無線で応援を呼ぼうと思ったが、すぐに無線が展示室内にあることを思い出す。警部は携帯電話を取り出しつつ、駐車場の警察車両に向かって走りだした。

「……くすん」

 給湯室の床に半裸で転がされたままの宇佐見は、手首の痛みに耐えながら、ひとり鼻をすすった。

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