22:50『ポンコツで狡猾な探偵は淑女になれるのか?』

 椎名探偵は怪盗『韋駄天ストライダー』を追いかけて思わず展示室を飛び出してしまったが、はっきりいってひとりで捕まえる算段はなにもない。あえていえば……私が何もできないと思っている怪盗の心理にこそつけいる隙がある、と思いたい椎名だったが、いかんせん圧倒的に基礎体力が不足している。廊下を端から端まで駆けただけでもうへとへと、怪盗を目の前に、椎名は膝に手をついて荒い息をしていた。これでは駆け引きの材料にもならない。

「……待って……よう」

「はっはっは、そう言われて待つ怪盗はいませんぞ。お約束ですなあ」

「それもそうだね!」

 あまりのへたれ具合にちょっと心配になったのか、怪盗は足を止めて様子を伺っている。逃げようと思えばすぐに逃げられるとなめきっているようだ。

「やれやれ、たったこれだけ走っただけでへたばるとは。まるで勝負になりませんな。でもひとりでもひるまずに追いかけてくる度胸はなかなかのものですよ、淑女レディ

 椎名は内心ほくそ笑んだ。アホな怪盗め、私を舐めていられるのも今のうちだ。椎名の狙いはひとりで捕まえることではなく、怪盗の動きをコントロールして、宇佐見や守衛が捕まえる機会を作り出すこと。一見無駄な会話でも、それを聞きつけた宇佐見刑事がこっそり怪盗の背後に回りこんでくれるかもしれない。

「おお、明らかにほくそ笑んでます。にやにやしてます。絶対何か企んでまーす」

 怪盗は何か嫌な予感がしたのか、一歩後ずさった。この作戦の最大の欠点は、すぐに顔に出てしまうので椎名の企みは即座にバレやすいということである。

「いや、何も企んでないよ!普通だよ!」

「そのにやにや顔で企んでいないと言える神経の太さが凄いでーす。ふむ、わたくしがこれまで出逢った警察の方々でも、体力のなさにかけてはあなたは随一ですなあ。あなたのようなか弱い淑女には、警察官は似合いませんぞ」

 怪盗は付け髭を撫でながら失望したような様子で言った。

「やかましい!私は警察官じゃない!私は美少女探偵椎名なのか!」

「『なのか?』ってわたくしに訊かれても?ご自分の名前がおわかりでない?フィクションのキャラ設定で流行りの記憶喪失?中二病キャラ設定?」

「そうじゃない、『なのか』が名前なの!」

 椎名は自分の名前を結構気に入っているのだが、時々この勘違いをされるのが、この脳天気な探偵の数少ない悩み事である。

「おお、淑女の名前を間違えるとは、これは失礼した。まさか探偵さんとは、淑女・椎名なのか。ここで会ったのも何かの縁、いずれ食事でもお誘いしたいものですなあ」

「いいよ。じゃあ電話番号教えて頂戴」

「090の××……じゃなかった、それはちょっと困りまーす。この探偵さん、とぼけているようで結構したたかでーす」

「ちっ」

「淑女は舌打ちよくありません。それで、椎名姫はわたくしを偽物だと疑わないので?」

「えっ?偽物なの?」

「本物でーす」

 これだけ本物だと強調されると、椎名は逆に偽物だと疑いたくなってきた。怪盗の美学に嘘をつかないなどというものはない。怪盗が偽らないのは、予告の内容だけ。そして、標的を入手するためならそれ以外のあらゆる嘘をつくのが怪盗である。この男が怪盗であれば、言うことはすべて疑ってかかるべき。つまりこの男は怪盗でないと考えて行動するべきで、つまりこの男の言うことを疑う理由はなくなる……あれ?椎名はわけがわからなくなってきた。

「それで、なんでハンググライダーなんて使おうとしたの?」

「怪盗は飛ぶものでーす。でもヘリコプターはちょっと高くて買えなかったので、仕方なくハンググライダーにしたのです」

「なるほど!」

 怪盗は飛ぶ。それは古来からの習わしであり、不文律であった。椎名の中の怪盗のイメージにぴったりである。それを聞いて椎名はこのコスプレ男が本物の怪盗であることに納得がいった。

「さて、そろそろ刀を頂きに参りますか。今なら多分あの警部さんが一人だけでーすから」

 怪盗はさっと振り返って駆け出した。こうなるともう椎名も追わざるをえない。警部でもこの怪盗が相手ではかなり分が悪いだろうし、せめて二対一なら怪盗もうかつに手を出そうとしないはずだ。

 

 やがて二人はテーブルやソファー、自動販売機が並ぶ休憩所に駆け込んだ。こちらは確か警部のいる展示室とは逆の方向である。怪盗は展示室に行くようなことを言っていたのに、どうもぜんぜん別の方向に誘導されている気がする。怪盗はソファーを回りこむことなくすいすい飛び越えていくが、椎名はイスに足を取られてべちゃっとすっ転んだ。

「おお、本当に不器用な方でーす」

 怪盗は足を止めて心配そうに振り返っている。

「うう、体力のない私を見てあざ笑ってる。怪盗って紳士だと思ったのに」

「だからわたくしはまさしく紳士ではありませんか。こうやって手加減してあげなければ、今頃あなたはとうに撒かれていますよ」

 椎名はむうと膨れた。体力勝負ではまるで勝負にならない。なんとか一杯食わせることはできないのだろうか。椎名なのかには特技があった。それも相手によっては致命的なダメージを与えることのできる恐ろしい特技が。

「このっ……あれ?……あなた普通だね。普通。ノーマル。レギュラー。アベレージ」

 椎名はきょとんとして言った。これだけ何もない人間というのは珍しい部類に入る。

「……?よくわからないですが、なんか怪盗的にはそういうこと言われるのはショック!」

「この……平凡退屈凡庸超面白くない男!」

「ぐふう!」

 怪盗は胸を抑えて大げさにダメージを受け、よろける仕草をした。とりあえずノリはとてもいいようだ。これが宇佐見なら『はあ、普通で結構ですが』とかなんとかの一言で流されるだろう。病的なほど目立ちたがりの怪盗は、割りと本当にダメージを受けているのかもしれない。

 ちなみに椎名が言っているノーマルというのは、性癖がノーマルということだ。性癖というのは人間な様々な傾向を広く指す言葉だが、ここで言う性癖とは要するに、つまりはそういう性癖のことである。椎名なのかは、人の様子を少し観察するだけで、その人の性癖を九割近い確率で当てるというオカルトめいた特技を持っている。ただ内容が内容だけに、それが本当に合っているかどうか確かめるのは難しい。否定されてしまえばまあそれまでなのだが、当てられた相手は内心密かに椎名を恐れるようになるという、極めて地味な技である。


 椎名は素早く懐中電灯を怪盗の顔に向け、点灯する。怪盗はさっとシルクハットのつばを引き下げて目元を隠した。怪盗の反応は椎名の懐中電灯が動くのとほぼ同時、元から見越していたかのようなすさまじい反射神経である。

「おっと危ない。目つぶしとは卑怯でーす」

「探偵は卑怯なんだよ!」

 それでも一瞬の隙を作り出した椎名は、しばらく休んで蓄えた力を一気に開放して怪盗に飛びかかる。椎名が怪盗が腕から下げたステッキの先を掴んで引っ張ると、ステッキはポッキリ折れてしまった。見ると、中は空洞、プラスチックのおもちゃのステッキである。怪盗は折れたステッキをポイと放り投げた。

「なにこれ!」

 椎名は折れたステッキを見て驚く。

「おやおや、ステッキを壊してしまうとは。まあこれはおもちゃのステッキに本物っぽく見える塗装をしただけのもの。安い品なので心配無用です。賠償は請求しませんよ。紳士は気前がいいのです」

「まだまだ!」

 さらに椎名が怪盗の腕に思い切り手を伸ばす。怪盗紳士は待っていたかのようにひょいと体を捻って椎名の手を軽くかわす。椎名はバランスを崩して倒れそうになったが、怪盗がさっと手を伸ばして椎名の肩を抱きとめる。

「おっと淑女レディ、大丈夫ですかな?」

「紳士かお前!触んないでよ!」

椎名はばっと肩の手を払いのける。よく考えれば払わずに掴めばよかったが、思わず振り払ってしまった。まあ掴んだところでこの体力差ではどうにもならないだろうが。

「オー、理不尽でーす……」

せっかく紳士らしく女性を支えてあげたのにと、怪盗は怒られてしょぼくれてみせる。椎名がぶんぶんと手を振り回しても、怪盗はひょいひょいと体を捻ったり屈んだりしてかわし、まったく手が届かない。相手が椎名探偵だということを別にしても、ボクサー並みの恐ろしい反射神経である。シルクハットを叩き落とそうと手を伸ばしたが、怪盗は帽子をひょいと軽く上げてかわされてしまった。怪盗はまた振り向いて走りだす。


 常夜灯だけが灯った暗い廊下を怪盗と探偵が駆け抜ける。ステッキが折れてからというもの、怪盗のスピードは格段に増している。両手が自由になったからだろう、ますます両手両足を最大限使ってサーカスのようにするすると障害物を飛び越えていく。これではとても椎名の手に負える様子ではない。これで宇佐見と合わせて一時間近く追いかけっこをしているというのに、まるで息の切れる気配がない。椎名はついにその場にへたり込んだ。

「ふむ、思ったより楽しめましたよ、椎名殿。また会えることを楽しみにしておりますぞ、アディオス・セニョリータ。はっはっは!」

 椎名のギブアップを確認すると、怪盗は高笑いして猛烈なスピードで走り去っていった。

「しまった。このままじゃ警部と怪盗の一騎打ちだ……。宇佐見刑事は一体どこに行ったのかな……」

 廊下に座り込んだ椎名は、ぽつりとつぶやいた。それから、この暗い博物館の廊下に一人取り残されたことに気がついて、この重度の怖がりの探偵は青ざめてぷるぷる震え始めた。

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