18:15『夕闇は鯉の魔物を招き寄せるのか?』


 薄暗い博物館のロビーの奥の廊下から、靴音が響いてくる。椎名が戻ってきて顔を見せた。

「どこ行ってたんですか」

「ちょっと大事な電話をね。あとのお楽しみ♪」

 宇佐見刑事が訊くと、椎名探偵はなぜか嬉しそうに答えた。ロビーは広く、よく声が響く。

「警部はもうすぐ来るみたいですよ。ここからが本番です。気を引き締めてください」

「任せて!」

 椎名はやけに上機嫌である。もうすぐお待ちかねの怪盗に会えるのだから当然かもしれないが、それにしても、はあはあと荒い息をしているというか、興奮で涎を垂らしそうな様子である。謎である。

 閉館のあとの清掃作業も終わり、薄暗いロビーに人の気配はない。宇佐見たちの頭の上にある小さなランプ以外は、明かりは緑色に怪しく光る常夜灯がまばらにあるだけだ。

「夜の博物館って怖っ。か弱い美少女探偵的には超怖っ。誰か私を守ってくれる素敵な紳士様はいないかな」

 椎名探偵は大げさに身震いしてみせた。

「もう暗いので、美少女様はそろそろ帰ったほうがいいんじゃないですかね」

「私は夜を股にかける熟れた女探偵、椎名なのかよ。月も星もみんな私の虜だわ」

 今度は大げさに胸を寄せる仕草と投げキッスである。

「急に大人にならないでください」

「というか、そこは僕が守ってやるとか言う場面じゃない?」

「だから帰ったほうが安全だって言ったじゃないですか」

「違う、そうじゃなくて……。怖いのは割りと本当。『メトロポリタン美術館ミュージアム』って知ってる?」

「名前は。行ったことはありませんけど」

「そっちじゃなくて、そういうタイトルの歌」

「ああ、なんか怖い映像付きでテレビでやってたやつ」

「そうそう。あれ子供の時からのトラウマで。夜の博物館とか恐怖の再現でしかないわけで。石像とかあったら私盛大に漏らす自信あるよ」

「そういう自信は要らないです。トイレ行っといてください」

 知識が豊富というわけでもなければ、目立ちたがりで大飯喰らい、しかも暗いところが苦手ときたか。肝心の洞察力もいまひとつ。そして人の話をよく聞かない。なんだかいいところが見当たらないのだが。宇佐見はこの探偵が何かやらかさないか心配になってきた。 

「もういい、警察なんて宛てにしない。怪盗紳士様に守ってもらうことにする。紳士様~」

「別に怪盗に会うのを楽しみにしてもいいですけど、ちゃんと捕まえてくださいよ」

 そのとき、縦溝警部が職員通用口のある廊下を抜けてロビーに入ってきた。隣には小柄な初老の男性もいる。男性は館長の錦織と名乗った。

「ああ、錦鯉大好きの館長さん」

椎名がそう言うと、館長の目が薄闇の中で鋭く光った。

「女刑事さんは鯉はお好きかな」

「ええ、鯉も恋も大好きですわ。さっき庭園の錦鯉を拝見しましたが、それはもう優雅で美しくて、わたくし感動してしまいましたわ」

 館長は感心した様子でほうと顎を撫でた。椎名は『女刑事』と呼ばれたのは構わないのだろうか。宇佐見なら思わず訂正してしまうところだが、椎名はさらりと流している。というか『しまいましたわ』って。女刑事だけに『女』を強調したかったらしいが、何故かお嬢様が入ってきてしまっている。

「だが、錦鯉は好きとか嫌いなどという個人の嗜好のような次元の低い尺度で評価できるものではありませんぞ、あれこそ生きた芸術、美という抽象概念の具現化です、ところで錦鯉の養殖がいつ頃から始まったのかご存知かな、日本では古来より養殖されていたと思い込んでいる者も多いのですが、実は養殖が始まったのは十九世紀に入ってからと案外新しいのですよ、そのことを以って、やれ歴史が浅いだの、重みが足りないだのという輩もいますが、まったくの論外です、芸術は古さでその価値が決まるものではない、古いだけの壺や絵画をありがたがるのは、ただの苔むした骨董趣味であって、芸術への理解とはとても言えますまい、錦鯉の美しさの本質は、外見だけにあるのではなく、自然の偶然が生んだ美と生産者の技術の調和、変化と進化、自然そのままの——」

 ちょっとこれいつまで続くの?というように椎名が縦溝警部と宇佐見刑事に目配せする。お前が話を振ったんだろう、自分でどうにかしろ、と警部は無言で頭を振る。宇佐見にいたっては、何か連絡するふりをしてスマートフォンをいじっている。

「——紅白が一番持て囃されるのですが、私が最も美しいと考えるのは三色でしてな、庭園の池をご覧になったなら、白色、紅色、墨色の三色の鯉がいたのがお分かりになったでしょう、三色の魅力というのはやはり墨斑が乗ることによる艶やかな色の対比、ああ、言うのを忘れていましたが三色には大正三色と昭和三色があって——」

 ちょっと助けてよ?市民が困っているのに助けないとかあなたたちそれでも刑事なの?というように椎名が目配せする。警部は椎名と目を合わせようともしない。宇佐見は相変わらずスマートフォンをいじっている。ずっとスクロールを続ける指の動きからして、多分ミニブログでも覗いているのだろう。

「——で、錦鯉には五百万もの値段がつくものもありますが、値段そのものに感心するようではずぶの素人、その値段を生み出している美しさを理解しているかが重要なのです。そういえば、今回怪盗の予告があったそうですが、当館の錦鯉を狙わないとは。怪盗というのはまったくもって芸術を見る目がないものですな」

 たっぷりと錦鯉の素晴らしさを語って満足したのか、館長はようやく怪盗の話に移る。あくまで鯉に絡めながらであるが。

「当館の鯉を狙う不届き者ならば私が手ずから叩き潰してやるところですが、今回は標的は日本刀『生蔵丸なまくらまる』ということですから、警部にお任せしようと思います」

 館長の目がますます錦鯉の鱗のように光る。この人なら本当に怪盗をすり身にして鯉の餌にするくらいのことをしそうである。

「私はこれで失礼しますが、あとのことはここの守衛と相談してください。ただし展示品は決して動かさないように。あれはすべて計算して配置されているのですから。それにガラスケースを動かしたり開けようとすると警報がなりますゆえ、十分にお気をつけて」

それから、と館長はこれまでで最大級に深刻な顔をして続ける。

「一番大事なことですが、絶対に池の周りでは騒がないこと。特に扶桑、赤城は気が小さいので、怪盗が降ろうが探偵が吹こうが決して驚かさぬよう強くお願い申し上げたい。神通は最近病気がちで、食事には注意が必要。餌も決して勝手に与えないでください」

 警部は最初なんのことやらわからなかったが、すぐに鯉の名前だと気づいた。品種名ではなく、館長は鯉一匹一匹に大戦中の軍艦の名前をつけて可愛がっているらしい。宇佐美が横目で見ると、椎名は小声でアンジェリーナ、ナタリー、キャメロン……と小声で呟いている。名付け親を譲るつもりはないらしい。

「お帰りの際は守衛に声をかけていってください。それでは失礼」

 そう言うと館長は元来たほうへ去っていった。三人は揃ってふうとため息をついた。


「このあとはどうします?」

 椎名が少し疲れた顔で警部に訊く。この探偵は、やる気のない顔とか眠そうな顔というのはよくやるが、疲れた顔をするのは少し珍しい。

「この人数ではとても館内をくまなく警備するのは無理だ。守衛さんにはいつもどおり定時に館内を巡回してもらって、我々は標的のある第二展示室の警備に集中する。行こう」

 三人は標的の刀のある展示室に向かう。

「怪盗はどうやって館内に侵入するんだろうな」

階段を登りながら、警部がもっともな疑問を口にする。

「館内に進入する一番手っ取り早い手口は、開館中に客として入り込み、閉館までトイレかどこかに身を潜めることかな」

「どうだろう。それも一歩間違えば袋のネズミ、自滅行為だ。もしワシが大量の警官を連れてきて館内中を捜索していたら、逃げる余裕もなくその時点でアウトだからな」

「あとは、すでに合鍵を入手していて戸口から堂々と入ってくる、あるいは関係者に扮して忍び込んでくるとか」

「合鍵があっても、一旦警備システムが起動すればセンサーに引っかかって警報は鳴る。侵入した事自体はわかるな」

「関係者と言っても、深夜に現れて不自然じゃない人間なんて相当に限られるよね。館長に変装したら館内を自由にできるけど、あのキャラは濃すぎて再現するのは難しいよ」

「そもそも『韋駄天』は大柄らしいし、小柄な館長に化けるのは物理的に無理でしょうね。あとは……空き巣みたいに窓を破って入ってくるとか」

 宇佐見がいうと椎名は不満げに鼻を鳴らす。

「それぜんぜんスマートじゃないよね。怪盗っぽくない」

 椎名は怪盗のイメージにこだわりがあるようだった。

「それで、私達三人だけ?たしか怪盗の要望では二十人は欲しいと」

「警察は警備員じゃない。まだ予告だけだし、夜遅くにそんな人数割けるか。要望を通したかったら、まずはもう少し名前を売ってからにして欲しいものだ」

 警官二十人といえば、中堅以上の人気怪盗でなければ集められない人数だ。この怪盗もいきなり身の丈に合わない要求をするのはやめて、まずは堅実にキャリアアップを目指すのが筋であろう。三流怪盗には三人でも多すぎるくらいである。

「でも今回ばかりは椎名探偵が来てくれて助かりましたよ」

「そうでしょう。やはり怪盗といえば探偵、ツーといえばカーだよね」

「いや、警備を手伝ってくれれば誰でもいいんですけど、タダでやってくれる人なんて他にいませんし。館内は広すぎるので、猫の手も借りたいとはこのことです」

「私は猫か」

 むすっとした椎名探偵は、確かに拗ねた猫のようだと宇佐見は思った。靴の音を響かせながら、三人は薄暗い階段を登っていく。

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