銀星夜と、夜の化け物 (1)



 王門を抜けていき慣れた野道を駆け、戦が原の砦へ。あちこちに焚かれた炎で勇ましく飾りつけられた出雲の砦には、大歓声が沸いていた。


 今夜にも、敵襲があるかもしれない――。それに備えて……と、そこには須勢理がこれまでに見たどの時よりも大勢が集い、夜を明かそうとしていた。


 兵たちはみんな、戦が原の向こう側を覗いて雄叫びをあげていた。高見台になっている場所にも見晴らしがいい塀の上にも人は乗れるだけ乗って、しきりに彼方を見つめている。


 そちらの方角は東で、須勢理がやってきた日の入りの方角よりも先に夜が来ている。ひと足先に彼方の山は闇色に染まり、空もすでに黒い。でもそこには、危うげな赤い光が揺らいでいる。地上から立ち上る白い煙も。……焼けているのだ。


「安曇様! 安曇様!」


「燃えろ、燃えちまえ! 伊邪那の森ごと燃えちまえ!」


 兵たちの歓声にはそういう言葉が混じっていた。須勢理は唇を噛んだ。……安曇がいまどこにいるのかを悟ったのだ。


 安曇は、敵陣に火を放ちにいったのだ。彼方で燃えている場所が、おそらく敵の本拠地。穴持が仮陣にしている桂木王の王宮のように、敵側の離宮じみた場所があるところなのだ。


 須勢理は思わず、馬の首を後ろから抱きしめた。


「お願い。一緒に来て」


 たてがみに頬を押しつけながら、一、二、三……。頼み込むようにしばらく祈りを込めると、ぱっと背を起こす。それから手綱を握って、再びダン、と足を弾ませて馬へ出発を知らせた。


 砦の門をすり抜け、戦が原めがけて駆けていく須勢理を、兵たちはめざとく見つけた。


「あれは……姫君だ、須勢理様だ!」


 崇めたてまつるように安曇の名を呼んでいた兵の声が、いつの間にか須勢理の名を呼び始めた。声はまるで、軍神としての穴持の名を呼ぶようだった。


「あの勇ましいお姿を見ろ! 女神だ、出雲の姫神だ!」


 すでに背後へ遠ざかった砦から、そういう歓声が須勢理の背を押そうと押し寄せるが、須勢理は跳ね除けるようにも、決して背後を振り返らなかった。唐突に胸にこみ上げる言葉もあった。


 ……冗談じゃない。神様なんかいない。


 ここは戦地という混沌の地。なにが正しくて、なにが正しくないのかも曖昧な場所だ。


 そこで人は傷つき血を流し、軍神と讃えられる英雄は毒に臥せって。


 須勢理も、決して平常心でいるわけではなかった。ここまで全力で馬を駆ってきて、蹄が土を蹴る時の強い振動と、疾走が裂く風の重さ。それに耐えながら、馬上で姿勢を崩すまいと馬の胴へしがみつくものは、間違いなく両の腿だけだ。


 脚の感覚はとうに消えていた。息が切れて、喉には血の臭いがこみ上げる。でも頼るべきものは天や地から立ちのぼる不思議な力ではなくて、この身体と血潮、ここにあるものしかないのだ。未知の力で救ってくれる神様など、いるわけがない。


 助けてくれるものなどない。……神も、軍神もだ。


 自分でやるしかないのだ。戦え――。


 須勢理はいま、広大な野原を横切って、彼方であかあかと燃えている暗い森へ向かおうとしている。その不安を跳ね除けるために、「やるしかない、戦え」と身体を興奮で膨れ上がらせるのが、須勢理がいまできた精一杯のことだった。





 やがて、須勢理を乗せた馬は戦が原の端へいき着き、先日の戦で出雲軍が炭にした敵の砦をすり抜け、その背後に茂る森の奥へと向かう。


 そこには立派な道ができていた。敵がここまで来るのに使った道で、この先にある敵陣へ乗り込もうと、おそらく穴持たちも使った道だ。そしてこの先で、きっと穴持は毒矢に襲われたのだ。


 今夜も、空には雲ひとつない。月も満ちている。星明かりと月明かりのおかげで、森の中だろうが松明がなくても道を進めるほどだった。


 須勢理に従って夜道を駆ける勇猛な馬の背に揺られながら、須勢理は前方を見定める目をはっと険しくした。誰かが向こうからやってくる。人影……いや、馬の影があった。


(誰?)


 手綱を操って馬脚を緩めた須勢理は、そこで止まるとゆっくりと大弓を構えた。いつでも引き絞れるように矢をつがえて。やってくる相手が敵だったら、問答無用で矢を放つつもりだった。


 やってくる馬の乗り手も、はっと身構えた。でもまだ遠い場所から須勢理を凝視して、それからひどく驚いた。須勢理の背格好に見覚えがあったようだ。


「須勢理様……!?」


 箕淡みたみの声だった。


「箕淡?」


 きっと彼も、安曇と一緒に奇襲とやらに出かけていたのだ。


 すぐさま箕淡は須勢理のもとまで駆けてきたので、須勢理が大弓を下ろす頃には、彼は信じられない、という驚嘆顔で須勢理を見下ろしていた。


「須勢理様、どうしてここに……!」


 尋ねられても、須勢理は答える気になれなかった。自分がいま、なぜここにいるかなど、そんなことはいまさら問題ではないと思ったからだ。箕淡の驚嘆顔にも、興味は湧かなかった。


 それよりも気になるのは、彼や、彼の仲間の安否だ。ちらりと周囲を見渡すが、彼のそばにほかの馬の姿はなく、箕淡は一騎で駆けてきたようだ。でも、乗っているのは彼一人だけではなかった。箕淡の鞍の後ろには男が一人乗せられていて、馬の背に覆いかぶさるようにしてだらりと身体を曲げていた。背中には矢が刺さっている。傷を負ったのだ。


「怪我を……」


「あ、はい。でも、すぐに薬師に見せれば、どうにかなります」


「そう……じゃあ急がなくちゃ。ほかの人たちは? 安曇は?」


「追手から逃げるのにみんな散り散りになりましたが、こっちの道を駆けてきたのはおれが最後だと思います。安曇は……」


 そこまでいうと、箕淡は口惜しそうに唇を歪める。ぴくり、須勢理はこめかみを震わせて、口ごもった箕淡を責めた。


「いって、安曇は?」


 問い詰められた箕淡は、声を絞り出すようにどうにか吐いた。


「あいつは別の道を……囮になって」


「囮……? 別の道って、どっちに!」


 その言葉を聞くなり血相を変えて手綱を握り直した須勢理に、箕淡は須勢理の意思を察した。素朴な顔立ちに緊張を浮かべて、彼は須勢理を諭そうとした。


「須勢理様、まさか……? やめてください、おれたちがどういう思いであいつを……!」


 でも、須勢理にそんなものを聞いてやる気は起きない。いっそう鋭く睨みつけると、稲妻じみた怒気をまとわりつかせて怒鳴った。


「いいなさい! あたしはもうここにいるの。わかる? いいなさい!」


 気圧されたようで、箕淡は渋々と話し始めた。


「あいつは、戦が原の向こう側に出る道を……」


「戦が原の向こう側?」


「道がもう一本あるんです。北側の端に出る道が……」


「逆方向じゃない……戻らなくちゃ!」


 一瞬すら迷うことのない須勢理の勢いに、箕淡はおされていた。でも彼は、泣き喚くように先へ進もうとする須勢理を引きとめようとした。


「須勢理様、お願いですから……!」


「箕淡、あなたは戻りなさい」


「でも……!」


 食い下がる箕淡を、彼がぞっと青ざめるほどの厳しい眼光を宿した目で睨みつけ……そして――。


「あなたは怪我人を運んでいるんでしょう? あたしの馬鹿に付き合って、その人の怪我を見ないふりをしてついてきたりしたら、あたし、一生あなたを許さないから……!」


 そこで身を凍りつかせた箕淡に最後の目配せを送って……須勢理はすでに来た道を戻りはじめていた。






 駆けろと馬に命じる脚も、手綱を握る手も、操っている気はまるでしなかった。考えずとも自然と身体は動いていて、まるで半神半獣の俊敏な狩人のように、いまの須勢理は馬と一体になっていた。


 すでに闇に沈んだ草原を、草の底に沈んでいるはずのさまざまなものを見事に避けながら、須勢理を乗せた馬は駆け続ける。森の端に沿って進み、箕淡がいった北側の道というのを探した。


 そして、ある時、須勢理は草原の果てのほうに人の群れがいるのを見つけた。どれも疾風のような速さで動いていて、暴風が吹き抜けていくように草の先を揺らしている。

 火の光が風の速さで揺れていて、その明かりと一緒に駆けている集団がいる。松明を手にしているのだ。そこにいたのは、武人の群れだ。


(安曇の追手だ。あいつらの先に安曇がいる)


 すぐさま、もっと速く駆けろと手綱を振るい、それでも足りずに言葉で懇願した。


「お願い! あなたの力がいるの。駆けて! あそこにいる子を助けて!」


 祈りが通じたのかどうかはわからない。でも須勢理は、すべてをやり尽くしたと思った。残っている賭け駒は、もはや自分だけだ、とも。


 すう……。安曇を追って疾風のように駆けていく馬上で、ゆっくりと息を吐くと、手綱から手を放した。大弓を前に構えて、姿勢を正す。吹きつける風と振動の中で身体を支えるものは両の腿だけだ。苦しいはずなのに、頭はとても静かだった。


 安曇を追っているらしい敵の一団は、十人程度。威勢のいい掛け声をかけながら馬を駆る彼らの視線の先には、一騎の馬がいる。


(間違いない、安曇だ)


 腿でわずかに馬へ合図を送り、追手の左後ろあたりに回りこむように進路を変える。向こうはまだ、狙いを定めている須勢理に気づいていない。……今のうちだ。


 じわじわと間合いを詰め、引きつけて、そして矢羽から指先を離し……放った。須勢理の存在を知らしめる、一発目の矢を。


 ひゅんっ。夜風を裂いた矢は追手の最後尾にいた武人の首の下あたりに刺さった。彼らは須勢理やそこで逃げている安曇同様に、簡単な武具しか身に着けていなかった。


「……誰かいるぞ!」


 追手が騒ぎ始めた。


 早く。混乱しているいまのうちに、もっと。


 須勢理は次の矢をつがえていた。中指には三本目の矢も挟んでいて、引き絞られるのを待っている。ひゅん、ひゅん……! 立て続けに二本目、三本目を放ち、さらに矢筒から二本まとめて引き抜いて構える。


 少し離れた場所から一団を狙っていた須勢理に、彼らは気づいた。


「あそこだ! あいつを……!」


 でも、須勢理に逃げる気は起きない。背を見せたら矢を撃てない。矢を撃てなかったら、剣をろくに使えない須勢理には安曇を助けることができないのだ。


 馬を操り、少し進路を変える。並走しながら彼らを追い越し、振り返りざまにさらに二本を次々に放った。


「……うわぁ」


 呻き声。肩を、あるいは腹を矢に貫かれて、落馬していく敵兵たち。


(あと四人)


 視界の隅で馬の上に残っている武人の頭数を算して、次の矢を背中の矢筒から引き抜いた、その時。敵の武人の声が叫んだ。


「あの女だ、戦の君様を撃った……! 捕えろ、あの女を! 名のある王の妻か娘に違いない!」


 その武人の声には、女相手ならどうにかなるといいたげな余裕が見える。ふん、須勢理は鼻で笑った。次に狙うのはそいつにしてやる、そう決めた。


 でも、やじりの向く先を咎める声がする。それは、今にも切り裂けてしまいそうな安曇の叫び声だった。


「そいつじゃない! 前から三番目! 金手甲の奴を狙え……!」


 彼の声は、須勢理の合図になった。いわれるままに、やじりの鋭い切っ先は少し向きを変える。それは闇を裂きながら、かがり火に照らされた金色の手甲を身に着ける武人のこめかみへ……。矢を食らった武人はぐらりと揺れて茂みへ落馬し、からっぽになった鞍を載せた馬だけが訝しげに闇の草原を走りいく。


 その男は、追手の指揮官だったらしい。


 さきほど須勢理へ罵声を浴びせた男は、手綱を引いて進む向きを変えた。


「ひ、退け。いったん……!」


 指揮官を失った小勢はゆっくりと弧を描いて進む方角を変えると、まだ燃え盛る陣営の方向へ駆け戻っていこうとしていた。


 彼らが安曇を狙うのをやめたのを見て、馬上で須勢理はほう……と息を吐いた。済んだのか。安曇を守ることができたのか、と。


 でも、まだ終わっていなかった。


「貸して」


 いつの間にか、そばに安曇がいた。須勢理の手から大弓を奪った安曇は、須勢理の背に残っていた矢をごそりと掴み取って歯にくわえると、そこから一本ずつ弓につがえて次から次へと放っていく。


 一本、二本、三本……。続けざまに闇を切って宙を飛ぶ矢じりは、背を向けて逃げゆく伊邪那の武人たち目がけて見事に突き進んでいく。でも、すでに彼らが遠ざかっていたせいか、落馬するほどの大怪我を負わせた矢はなかった。背や腕に矢を浴びて悲鳴をあげるものの、なおさら逃げるように彼らは馬を急がせる。


 そして、しだいに闇の彼方に消えゆく松明の灯りを睨みつけて、安曇は舌打ちをした。


「ち……ばれた」


 彼は、時間を稼ごうとしたのだ。逃げゆく男たちが、安曇を取り逃がしたと知らせに戻るのを防ごうと。


 安曇の息は乱れていた。はあ……はあ……と、彼は喉を詰まらせるようにしながら懸命に息を整えている。


 安曇は、須勢理を見下ろしていた。さっきまで敵にしていたような凶悪な光を目に宿したままで、彼は今にでも須勢理へ平手を食らわせてきそうな顔をしていた。


「なぜここに……。あなたには怖いものがないんですか……?」


 普段穏やかな彼からそんなふうに睨まれると、須勢理は一気に震え上がった。いや、安曇を守るという目的がひと段落ついて、それまで須勢理を奮い立たせていた興奮が冷めていったせいもあった。不安を紛らわそうと、無理に立ち込めさせていた霧のようなものが晴れていくので、急にいろいろなものが怖くなった。


 たちまち目を潤ませて、須勢理は小刻みに顎を振った。


「怖いもの? ないわけがないわ。あるよ。たくさん」


「でも、じゃあ……!」


「王宮を飛び出した時は、安曇を見捨てるのが一番怖かったの。だからあたしは怖くて、逃げ出してきちゃったのよ」


 ……そんなに怒らないでよ。あたしにもどうしようもなかったんだから。


 許しを請うようにいってしまうと、それで、須勢理は吹っ切れてしまった。


 どうあれ目的を果たせたと満足すると、薄れゆく緊張と、興奮の底でたしかに胸に生まれていた安堵に浸ることにした。そして、迷子が親を見つけた時のような、ほっとした笑みを浮かべながら、正直に伝えた。


「あたし、跳ねっ返りだから逃げるのは大嫌いなの。最近は逃げっぱなしだったけど……。でも、逃げてきてよかった。ちゃんとまた安曇に会えて、よかった……」


 安曇は眉をひそめて、幼さの残る童顔を奇妙に歪めた。


「あなたは……」


 彼が須勢理を見つめる目はまっすぐで、いつも彼が身を守っていると須勢理が感じていた壁のようなものがいまは消えていた。


 ……よかった、怒っていない。本心からは。


 それどころか、とても用心深い安曇にとうとう信頼してもらえた。懐に入れてもらえたのだ――。そんなふうに勘づくなり須勢理は嬉しくなって、ますますほうっと笑みをこぼす。


 でも、須勢理の満足そうな笑顔と目が合うなり安曇の真顔は暗く沈み、目を逸らす。そして、さっきは消えたと思った壁で、再び彼は身を守った。


 須勢理が安曇の懐に忍びこめたのは、ほんのわずかな時間だった。






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