夜明けの道
真夜中の底に沈んだ、草原の端。そこには、出雲軍が建てた堅固な砦が、松明の炎に飾られていた。星明かりの中で荘厳に浮かび上がる真っ赤な砦は、まるで、その先の
でもいま、それは、安曇と須勢理を呼び寄せる雄大な火明かりだ。
須勢理を導いて並走する安曇は、くすりと笑って隣を向いた。
「石玖王の仕業だね、きっと」
「……石玖王の?」
「砦を火で飾って、おれとあなたへ、戻ってくる場所はこっちだと知らせているんです。……いや、あの人が呼んでいるのはあなただけかな。石玖王は、あなたをとても気に入っているようだから」
安曇はからかうような笑顔をした。きっと彼は知っているのだ。前に石玖王が、須勢理と話しながら、でれでれと鼻の下を伸ばしていたことを。
須勢理は、かの王の尊厳を守るようにも石玖王の肩をもった。
「あたしだって石玖王を気に入っているわ。無骨で不器用だけど、とってもいい人よ。あの王が許してくれるなら、あたしは自分からあの王のもとへいってお喋りを……」
「違うよ、おれがいいたいのは、そういうことじゃなくて……。石玖王も含めて、砦にいる出雲の兵は、みんなあなたが好きなんです。戦場はけっして楽な場所じゃないのに、可憐な娘の姿でそこへやってきて、男顔負けに敵に立ち向かって――。みんなあなたに憧れて、恋しているんですよ」
安曇は吹っ切れたように軽快にいうが、安曇のいいかたはまるで、おれもその一人ですといいたげだ。
安曇がいうのは、須勢理への褒め文句だ。褒められ過ぎて背中がかゆくなる以外は、聞いていて嫌な気分になるものではない。でも……つい須勢理はじっと安曇の爽快な笑顔を見つめた。
須勢理の不満を見越したのか。安曇は一度、照れ臭そうにくすっと笑った。でも、彼が、さっきの夜の草原の真ん中で須勢理と二人きりでした秘密の話を蒸し返すことはなかった。
安曇は、穴持のことを話し始めた。
「だから……穴持様も、少しくらい苦しめばいいんですよ。少し待ってみてください。きっと今に、あの人はあなたを手放せなくなりますよ」
正直なところ、須勢理は穴持のことなどもうよかった。だから、安曇から恋の心配をされるのは、安曇がもう須勢理への恋心に別れを告げたといいたげなのと同じで、須勢理にとっても、いまさら掘り起こされても困る、そういうたぐいの話だ。
……もういいわよ、気にしないで。
そういいたかったが、唇が固まった。その時の安曇が、須勢理に見せたことのなかった奇妙な顔をしていたからだ。
安曇は、闇の中で微笑んでいた。その笑みはしたたかで、獰猛な神獣の手綱をあの手この手で引いて巧みに御する、乗り手じみていた。
「見ていてください。きっとうまくいきます。……あの人は、負けるのが大嫌いだから」
砦へ近づいていくと、須勢理と安曇は大歓声に迎えられた。夜明け前だというのに、奇襲に出かけた最後の二人が戻ってきたという知らせが行きわたったのか、砦自体が、ふいに眠りから覚めたようだ。
暗闇に赤く浮かび上がる砦には、昨晩須勢理がここを出た時と同じく、あちこちに人が登っていた。いや、塀や高見台の上から覗く顔も、やってくる二頭の馬影を懸命に追う視線も、見る見るうちにどんどん増えていく。
「安曇様、須勢理様!」
兵の大軍から名を連呼されるが、それはなかなか気恥ずかしいものだ。須勢理はつい顎を下げて、称賛を込めてじっと見つめてくる幾千の眼差しから目を逸らした。
(あたしみたいのが、どうもすみません)
緊張して、居心地も悪くて、隣の安曇を見やると、彼は精悍な笑顔を保ったまま。須勢理ほど萎縮してはいないようだ。
でも、そういえば大歓声に恥じる必要は、彼にないのだ。彼は奇襲部隊の長として、立派に務めを終えたのだから。須勢理は勝手にそこへ出かけて、勝手に戻ってきただけ。やはりいくら考えても、まるで英雄を称えるような盛大な出迎えを須勢理までが受けるのは、筋違いに思えた。
巻向の王宮へ続く門として建ちそびえる砦。その中央にある大門は開け放たれていた。安曇について、そそくさとそこをくぐろうとすると、騒ぎを聞きつけたのか、壁の向こうから早足でやってくる巨体の影がある。石玖王だった。
「お嬢ちゃん! ……と、安曇……!」
彼は真っ先に須勢理を見て、それから……と、安曇の名をついでのように呼ぶので、須勢理の真横で馬を駆る安曇は、ぷっと吹き出した。安曇の表情を覗くと、彼は肩をすくめて笑っている。目は「ほらね?」といいたげだ。石玖王が気にしていたのはあなただったでしょう? と。
でも、そんなものは冗談だと須勢理はわかった。
石玖王のほうもだ。最初に石玖王の口をついて出たのは須勢理の呼び名だったが、石玖王はその後で、安曇を丁寧にねぎらった。
「よくもまあ無事に……本当に、おまえは大した奴だよ。ん、矢傷を負ったのか?」
安曇の背に巻かれている布に血が滲んでいるのを目ざとく見つけると、すぐさま石玖王は太い眉をしかめる。それから、二人を砦から追い払おうとした。
「王宮へ戻っていったん休め。桂木が集めた軍がもうそこまで来ているし、おまえの奇襲が効いて、奴らも出るのを渋ってる。また睨み合いに逆戻りだが……まあ、なんとかなる。あとは任せろよ。それから、穴持を連れてこい。敵が攻めてきてもここでしのいで、一番いい見せ場はあいつに譲ってやるからよ」
豪快に笑いながら、石玖王は冗談もいった。
「おれが勝っても、いまいち華がなくてよ。あの馬鹿がやるほどには、どうも打ち負かしたって感じがしねえんだよなあ」
たしかに穴持には、彼を絶えず取り巻く妙な華がある。穴持がなにをしようが、彼のものにふさわしい壮麗なものに見せてしまう力がある。その力で石玖王や安曇や、ほかにも大勢いるだろう腕のたつ武将たちを圧倒して、穴持は頂点……武王の座にいるのだ。
(武王、か)
須勢理が恋をしたその男は、普通の人ではなかったのだ。大勢の男たちを知らずのうちにかしずかせる、奇妙な男だった。……神獣のような。
いや、いくら類い稀な才能に恵まれていたとしても、大勢の上に立ち、出雲を導く軍神として心酔され、一挙手一投足を見張られ続ける緊張は須勢理には考えも及ばない。
いまだって、ほんのわずかなあいだ幾千の眼差しの真ん中に立っただけで、須勢理は逃げ出したくなっていた。期待混じりの眼差しは、重荷だ。でも、それを軍神としてたった一人で浴び続ける穴持には、それに耐えるだけの強さがたしかに備わっているのだろう。
須勢理は、穴持と過ごした二度目の晩のことを思い出していた。
武王として過ごすことに苦しみはないの?
そう尋ねた須勢理に、穴持は即答した。皆無だ、と。
緊張に震えるどころか、彼を慕う男たちに力を与えて、生まれ持った華で出雲という国の名を侵しがたい力で飾っている。
須勢理が思うようにならない恋をした相手は、そういう奇妙な男だった。
砦を出て、暗い野道を走っているうちに夜が明けた。
王宮が近づくにつれて、大きな湖が見えてくる。須勢理と安曇が駆ける野道は、巻向がその水運を誇る湖のそばにつくられていた。
王宮へ戻ろうとここまで駆けて来るあいだ、須勢理の頭には夜闇のような黒い霧が立ち込めていた。
(王宮に戻って、それからどうしよう)
昨日、毒に苦しんでいた穴持は、まだ彼の臥戸で伏せっているだろう。そこへ見舞いにいくべきか? それとも、穴持のことはもういいといい張っている胸に今度こそ従って、顔を見ずに自分の部屋へ戻ってしまうべきか。
でも夜が明けて、行く手の湖面が朝のまばゆい光を浴びてきらきらと輝き始めると、頭の中にあった暗いものはすっかり飛び去ってしまった。
天を映す鏡となって、生まれたばかりの日差しに染まって金色に揺らめく水面。その美しさに見とれてしまうと、悩みのことなど覚えていられなかった。手綱を操ろうという気すら忘れかけているのに。
だから、須勢理はほっとした。須勢理の頭をしばらく覆った悩みごとは、きっと手綱を操るよりよっぽど些細なものだ。
いやだと思えば、彼のもとを去ればいい。苦しんでまで執着することではない。離れた後で、もしも初恋が忘れられなくても、甘苦い思い出として、一生抱えたっていいじゃないか。
自分の乗る馬の手綱を操るほうがよっぽど大事。自分のやり方を狂わせられるのは、まっぴらごめん。
自分を調子づけるようにも胸の中でいい切ると、とてもすっきりした。だから須勢理は、すり抜ける風を目いっぱいきつく吸い込んだ。夏の早朝の冷えた空気は清々しかった。これまで気づかなかったのが不思議なほど――。
須勢理がどう思おうが、安曇が主のもとへ向かわないわけがない。
王宮に着き、馬屋で馬番に手綱を預けると、安曇はまっすぐに穴持の伏せる館を目指すので、須勢理もその後を追った。胸がすっきりとしていて、いちいち逃げる気が起きなかったのだ。
安曇は土の上を横切って、主のもとへ向かう一番手っ取り早い道をいく。その背を無言で追って見慣れた館にたどり着き、高床の回廊へつながる階段を一段一段のぼっていき、その奥へ……。回廊と部屋をつなぐ薦の前でひたりと足を止めた安曇は、ひそかな声で呼びかけた。
「安曇です。入ります」
まだ主は眠っているだろうと踏んで、安曇の声は返事を待つようではなかった。でも、中からは低い声が返る。まるで、獣の唸り声のような重い声が。
「……入れ」
思わず、須勢理は安曇を見上げた。須勢理も、穴持が目を覚ましているとは思わなかったのだ。夜が明けたばかりで、地面の低い場所には白いもやが残っているような時間なのだから。
「失礼します」
淡々というと、安曇はそうっと薦の端に手をかけて、主のもとへ続く道をつくる。
安曇の手が戸口に隙間をつくると、須勢理も、安曇の背中越しに中の様子が見て取れた。
穴持は、まだ寝床にいた。夜中のうちに着替えたのか、身なりは昨日見たものと違う。でも、まとっているのは寝着ではなくて、いつ馬に乗って駆けてもいいような姿をしていた。このまま鎧兜を着ければ、そのまま戦装束となるような姿だ。毒に苦しみながらも、いち早く砦へ戻ろうと支度をしていたのかもしれない。
寝床の上であぐらをかく穴持の雰囲気は、重苦しかった。
やはり、そこはまるで猛獣の巣穴。……はあ、あぁ……と、薄暗い部屋に獰猛な獣の恐ろしい息吹が満ちているような錯覚までおこさせる。
穴持は不機嫌だった。穴持は、戸口に立つ安曇を、憎々しげにじっと見上げていた。そのうえ彼は、安曇を追い払った。
「去れよ。おまえは後だ」
須勢理は、耳を疑った。
安曇がここへやってきたのは、穴持が彼に命じたという奇襲を無事にやり遂げたと、その知らせをするためだ。ついでに須勢理を守って、無事にここまで連れ戻したと。
安曇がこんなふうに睨まれて、追い払われる筋合いはないはずだ。
わけがわからない。穴持になにか意図があるというのなら、いったいなんだ?
須勢理は、唇を一文字に結んだ。穴持の意図が理解できなくても、いまの彼は間違っている。そう思って仕方なかった。
でも、鼻息荒く腹を立てる須勢理とは違って、安曇に動じた様子はない。気色ばむそぶりもなく命令に従って、深く礼をする。そして、背を向けて去っていった。
……従順にもほどがあるでしょう? 少しくらい怒りなさいよ!
安曇の仕草は淡々としていて、須勢理が去りゆく背中を咎めてしまうほどだ。それもわけがわからない。
ただ安曇についてきたつもりが、安曇は追い払われ、いま穴持は、安曇に向けていたのと同じ目で須勢理を睨んでいる。穴持の黒い眼差しは不機嫌で、憎いものへ襲いかかろうと須勢理の隙を窺っている。でも、穴持がなぜここまで苛立っているのかはわからないし、なにより納得がいかない。
だから、須勢理はまったく引きさがる気になれなかった。いくら恐ろしく凄まれようが、むしろ憤って、穴持の瞳を睨み返してやった。彼の強い眼差しを跳ね返してやろうと。
でも、やはり、穴持は須勢理の態度に興味がないらしい。穴持はある時、猛獣の唸り声じみた低い声を出した。
「どこへいっていた」
「どこって……」
「なぜ、安曇を追った?」
穴持は、須勢理が勝手に安曇を追ったことが気に食わないらしい。
そういえば、穴持は命令を無視されることをひどく嫌っていた。記憶はずいぶん遠いが、思い返してみれば、出雲を出る前、一の姫の警護を命じられた須勢理が拒んだ時も、穴持は今のような目で須勢理を睨んだ。いや……あの時は上から抑えつけるだけだった。いま穴持は須勢理を咎めて、真っ向から責めていた。
でも、穴持の不機嫌の実の理由は、須勢理が王宮を飛び出したことではなかった。それどころか、その理由は、須勢理にとっては取るに足らないものだった。
「おれが気づいていないとでも思ったのか? あいつはおまえに懸想していたんだ。おまえが気になる、心配だと、なにかにつけておまえの名を気安く呼びやがって……」
穴持は忌々しげに舌打ちまでするが……。聞くなり、かえって須勢理の胸はどんどんと冷めていく。
どうやら穴持は、安曇に嫉妬しているらしい。穴持が怒っているのは、自分の妻である須勢理が、自分の世話より安曇を追いかけるほうを選んだから。須勢理を自分のものにしたいから。少なからず須勢理を気にして、そばに囲っておきたいからだ。
それは、彼なりの好意の表れなのかもしれない。でも須勢理は、腿のあたりにだらりと垂らしていた拳をわななかせてしまった。
(……冗談じゃない)
須勢理の憤りを穴持は気に留めずに、穴持はただ彼のいいたいことをいう。いまは、須勢理を嘲笑うようにからかった。
「あいつはどうだった? あいつのほうがよかったか?」
穴持がいったそれは、須勢理をおとしめる言葉だ。一晩も帰って来ず、どうせそのあいだに手を出されていたんだろう? と。
ぶちっ……。須勢理のこめかみのあたりで、なにかが静かにはちきれた。
「……ふざけないで」
身体中をくまなく流れる血が、すべて怒り狂った。震わせた拳も、指も、胸も頭も目も。
馬鹿馬鹿しい。寝床の上であぐらをかく武王の逞しい身体など、いまや傲慢で横柄などうしようもないものにしか見えなくなった。初めて会った晩に須勢理を魅了した黒い眼差しも、ただ無駄に力があるだけの妖しいもの。彼に妻問いをされた娘たちが惚れこむ凛々しい顔立ちも、どれもこれも……まるで意味のないでくのぼう。目に入るだけで今はむしゃくしゃとする。
……こんなくだらないものに、これまで惚れていたかと思うと。
これまで須勢理を動かしていたはずのものが、とうとうぶち切れた。そして……いつか須勢理は、穴持を威圧するように腕組みをして、足を肩幅に広げて仁王立ちになり、そして、嫌悪を、ありったけ言葉に込めた。
「……最悪ね、あんた。自分がそこら中の女に手を出している女たらしだからって、あたしまでそんなふうに見ないで。安曇だって……!」
唸って脅したはずの娘から逆に威圧されることになり、穴持はぽかんと小さく唇を開ける。でも、そんなものは今の須勢理の目に入らない。
初めに撃った矢が効いたらしい。なら、あとはくたばるまで撃つだけだ!
とどめの猛攻をかけるようにも、次から次へと言葉を連ねて罵倒した。
「安曇はあんたと違うのよ……! 彼は一瞬たりともあんたを裏切るような真似はしなかったわ。あんたのことを心底敬愛してた。そのうえ命を賭けて奇襲に向かったのよ? その安曇を、そんなふうにいうなんて……武王が聞いて呆れるわ。鬱陶しい!」
いくら人の話を聞かない男でも、ここまでいえばいくらか効いたらしい。
彼の胸を貫いたらしいとどめの言葉に不思議がるようにも、穴持は一度目を逸らした。須勢理をこれまで何度も射通した黒い瞳を。
「それは、おまえとする話じゃない。安曇に奇襲を命じたのはおれだ。それくらいちゃんと……」
でも、嘆願じみたいいわけは、須勢理に燃え盛った業火を消すにはいたらない。
「じゃあ、なぜさっき彼を誉めないのよ。どうしてよく帰ってきたとねぎらわないの? みっともない嫉妬なんかして追いやって、恥を知りなさいよ!」
「ちょっと待てよ、おい。……おまえ、いうなあ」
目を逸らして寝床の布を見つめていた穴持は、頭痛をこらえるようにも何度かまばたきをする。仕草は須勢理に気おされたようでもあり、呆れたようでもあり……。そして、いくらかは須勢理のいい分をのんだようだ。
「そんなに責めるなよ。……毒のせいだ。毒のせいで気弱になってたんだ」
間違いを認めたらしい。不機嫌に任せて、さっき安曇を追い払ったのはまずかったと。
でも、いまさら穴持が非を認めようが、須勢理に募った嫌悪を打ち消すものにはならない。
……穴持が武王として非を認めた。それは須勢理にとって最悪の事態だった。
これまで須勢理は、夫として穴持を認めたことは一度もなかった。尊敬したのは武王としての彼だけ。武人としてだけ。
その彼の武王の部分が、酷い間違いを犯した。それは、須勢理を彼のそばに引きとめていた最後の綱を断ち切ってしまった。
彼を武王としても認められなくなれば、おしまい。もうなにも引きずるものはない。
悔しそうに目を逸らして、いまさら穴持が間違いを認めようが、情けをかける気は起きない。
目の前で逞しい肩を居心地悪そうにすぼめる武王を、須勢理はぎろりと睨み下ろした。
「は? 毒? あんたの立場は、毒矢に当たったからっていういい逃れが通用するような楽なものなの? 女を二人も連れて戦場に向かうようなたいそうな身分は、その程度のものと引き換えなわけ? ……冗談じゃないわ。大勢の命を預かっているくせに……! 毒矢なんか避けなさいよ。もしくは、毒なんかにやられない不死身の身体をつくるのね!」
情け容赦なく罵倒を続けても、まだ須勢理の気はおさまらない。しまいにはそこで唖然としている穴持を見るのもいやになり、ガン! と勢い余って柱を蹴りつけると、さっさと背を向ける。そして、振り向きざまに最後の通達を突きつけた。
「出雲に帰ったら、雲宮に戻らずにとうさまの離宮にいって離縁を認めてもらうわ。あんたなんかに人生を捧げる気はないって!」
ずかずかと乱暴な足音を立てて、穴持の小部屋から遠ざかった。
……いった。いってやった。
遠慮することのない彼に、須勢理も。とうとうすべての怒りをぶちまけてやった。
胸はすっきりとしていた。これで彼も呆れて、二度と須勢理をそばに置こうと思わないだろう。いうことをきかない娘だと腹を立てて、また一の姫でも呼べばいいのだ。そこらの侍女でも、誰でも。勝手にすればいい。懲りずに須勢理を呼んだなら、その時は容赦なく噛みついてやる。
自分で蹴りをつけてきた初恋に後ろ髪を引かれることもなく、大股で遠ざかっていく須勢理を追いかけてくる足音があった。それは、須勢理に輪をかけて乱暴だった。
須勢理はすぐにその足音の主に気がつくが、つい「ちっ」と舌打ちをしてしまう。
(どうして追いかけてくるのよ。一の姫のところでもどこでも、勝手にいけばいいのに)
追いかけてくるのは穴持だ。追いかけられることにも腹が立って、ますます苛々としているところに、須勢理以上の大股でみるみるうちに追いついてくる穴持は、いきり立った大声で須勢理の足を止めようとした。
「止まれ。おれが追いかけているんだ、止まれ!」
でも、穴持の傲慢な物言いは、いまの須勢理には火に油を注ぐようなものだ。
「よくもまあ……」
さらに逃げようとしたが、追いついた彼から手首を掴まれる。それで仕方なく足を止めるが、その時、須勢理が穴持を見上げる目にあるのは嫌悪だけだ。
でも、それを見下ろす穴持の目も怒っている。そこで立ち止まった二人にあったのは、荒くれた獣と狩人が互いの命を賭け合って睨み合うような切迫した雰囲気。少なくとも、若い夫婦が見つめ合っているというふうではなかった。
はあ……。興奮を落ちつけるように一度肩で息をした穴持は渋々と……でも怒気をまとわりつかせて低い声を出した。
「正直にいう。女絡みで嫉妬したのは初めてだった。いままで、集めた女がなにをしようがなにも気にならなかったんだ。物と同じだ。どうでもよかったんだ」
穴持はどうやら、腹を割って話そうとしているようだ。でもそれは須勢理の苛立ちを煽るだけだった。
「あんた、さらっと酷いこといったわよ? 女が物と同じ? 冗談じゃないわよ。やっぱり最低じゃ……」
「おれがいいたいのはそういうことじゃない!」
「じゃあ、わかるように話しなさいよ!」
売り言葉に買い言葉。穴持がなにかいえば須勢理は怒鳴りたくなる。でもそれは穴持も同じようだ。穴持は、脅すように須勢理を睨み下ろした。
「……さっきの言葉を撤回しろ」
「は?」
「離縁だと? おれが認めてもいないうちから、なにを勝手に……」
「はあ?」
……勝手に? 誰より勝手な男が、よくもまあ……。どの口だ。どの口がそれをいう!
上から押しつけるような穴持の横柄ないい方は、須勢理を宥めるものにはならない。それがいくら愛の言葉だったとしても。
「おれから離れるな。愛してやるから。なにからも守ってやるから」
穴持は頼み込むようにいったが、それも須勢理の気を逆なでするだけだ。
(守ってやる? なにを偉そうに。だいいち、あんたの守るってどんなのよ!)
たとえば安曇がするような、娘が求める「守る」とは違うに決まってるくせに。もう、なにもかもが気に食わなかった。
「また、調子のいいことを。……離して」
須勢理は腕を振り払おうとするが、穴持も譲らない。穴持は、須勢理の腕を掴む手にますます熱心に力を込めた。
「どうして信じないんだ? おまえを一人そばに置けるならほかの女なんか誰ひとり要らないと、おれはさっき決めたんだ。一の姫はここから越へ帰す。雲宮の女宮も取り壊して……」
須勢理を一人そばに置くと決めたと情熱的なことをいわれようが、須勢理は「いつの間に、なにを勝手に決めてるのよ!」と怒りたくなるし、なによりその後の提案が気に食わない。
彼は、いったいなにを決めたといった?
一の姫をここから越へ帰す? 女宮を取り壊す?
「あんたって、本当に……! よくもまあ、いままで女の子にもててきたわね。みんなはあんたのなにを見てたの?」
「……女は武王が好きらしいぞ。それで……」
「なに、どうでもいいことを自慢してんの? あんたなんか、夜中の闇に紛れて刺されてしまえばいいのよ! そういうのはうんざりよ。やめて……!」
激昂して、須勢理はいいたいことをまくしたてた。
でもそれに、穴持は肩をすくめた。いま大喧嘩をしている二人のうち、先に我に返ったのは、穴持のほうだった。
「おまえこそわかるように話せよ。いまのおまえは、おれに文句をいいたいだけじゃないのか? ただいい返すだけで、論がない。まったく筋が通っていない」
そんなふうに冷静に返されるので。須勢理はむっとこめかみをひきつらせた。
たしかにいまの須勢理なら、穴持がなにをいおうが怒り狂っていい返すだろう。彼の話を聞いてやる余裕などないし、そんな必要はないとも思っている。
でもそれへ、論がないだのと冷やかに水をさされると、当たっているだけにとにかく悔しい。武王というだけあって、面倒なことに彼は愚鈍ではなく、鋭いは鋭いらしい。野性の勘じみたものであれ、そういうものはきちんと彼に備わっているらしかった。
でも、それすらも、いまは須勢理を苛立たせるだけだ。いっそのこと愚鈍だったら扱いやすくて、まだ可愛げもあったかもしれないのに……と。
怒りで頭が朦朧としていた須勢理は、どうにかして穴持を怒っていないと気が済まなかった。悔しいことに、穴持のいう通りだった。
その後も穴持は「ちゃんとおれの話を聞け!」と、須勢理が「人の話を聞かない男が……どの口がそれをいう!?」と怒鳴り散らしたくなるようなことをいう。
須勢理はとにかく突っぱねた。
「先に安曇のもとへいってきなさい。彼に、さっき追い払ったことを謝ってきなさい。話はそれからよ!」
そばから追い払いたかっただけなのだが、正論に違いなかったせいか、穴持は渋々と須勢理から手を放した。
「逃げるなよ? 逃げたら許さないからな」
……逃げるわけないわ。あんたなんか、返り討ちにしてやる!
そして――。どこで落ち合うとかいう約束もしないまま、穴持は肩をいからせて須勢理のもとを遠ざかっていった。
それで、一人になった須勢理は、この後どこへいくべきかと迷うことになる。そして、結局怒りの矛先は穴持を向いた。
(なんなのよ、あいつ……! 話をしたいのがそっちなら、どこで待てとか、そういうことくらいいい残していくべきでしょう? 気が利かないんだから!)
落ち合う先は須勢理の臥戸か、それとも穴持の部屋か。どちらであろうが、言葉足らずを補ってまで穴持のいうことを聞いて、大人しく待ってやるのも気に食わない。
朝の庭をずかずかと横切った須勢理の足は、自分の臥戸でもなく、穴持の小部屋にも向かわず、湯殿へ進んでいた。火照る頭をどうにかしようと思ったのだ。でも、湯殿に着いて、そこにいた侍女へ湯浴みをしたいと頼むと、申し訳なさそうに断られる。
「い、いまですか? すみません、すぐには焼き石がご用意できません。少し待っていただけます……?」
急に使いたいといわれても、熱いお湯がないというのだ。
でも、動いていないと身体がおかしくなるくらい須勢理の頭は朦朧としていた。
「待つ? 結構よ、水でいいから!」
憤怒の表情で湯殿におしかけ、さっさと服を脱いで、井戸から汲まれたばかりの冷たい水をばっしゃばっしゃと頭からかぶっていると、ふうと目が覚めた。豪快に水浴びをする須勢理をおずおずと眺めている侍女の強張った目も、ようやく目に入ってくる。
「ひ、姫様……水はまだ要ります? その……」
……やっと、目の前がすっきりしてきた。そういえば、須勢理は疲れていた。さきほど王宮へ戻ってきたばかりの須勢理は夜通し草原を駆けていて、一晩中眠ることもなかった。いろいろなことが立て続けにおきて眠気は忘れていたが、頭も身体も疲れていたに違いないのだ。それが少しおさまり、怒りの混乱も醒めてきた。
でも、嬉しいことに、胸の中の負けん気はまだそのままだった。
胸はやはり、穴持を必要としていない。これから話をして、穴持がいくら調子のいいことをいおうが、気に食わなければしっかり跳ね除けられそうなほどには。
ほっとすると、須勢理は侍女へ、着替えの衣装をねだった。
「もう出るわ。ありがとう。騒がせてごめん。それで、着替えを……」
仕事に感謝するだけの余裕も戻っている。
冷たい水で頭を冷やして、身体を拭いて、新しい衣服に身を包んで。湯殿を出た時、須勢理は毅然と前を睨んでいた。まるで、
これから、手負いの神獣にとどめをさしてやる――。そういう気概が、身体中に溢れていた。
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