銀星夜と、夜の化け物 (2)

 息を整え切る前に、安曇は須勢理へ背を向けた。


「少し離れましょう。休んでいるところを奴らに襲われたら困るから」


 安曇は目もくれずにそういったが、彼が奴らと呼んだのは、そばの草むらのどこかに身を沈ませた伊邪那の兵たちだろう。矢に攻められて落馬したが、その後どうなったかはわからない。いまのうちにそばを離れたほうがいいと安曇はいっていた。


 慣れた仕草で馬の腹をそっと蹴り、須勢理を導いて彼はゆっくりと先へ進み始める。でも、安曇の後姿が目に入るなり、須勢理は悲鳴をあげた。彼の背に、矢が刺さっていたのだ。


「安曇、矢が!」


「ん? あぁ、気にしないで。これくらいなら、よくあるから」


「よくあるって……」


 安曇の顔が覗きこめる場所まで慌てて馬を走らせた須勢理へ、安曇はくすりと笑って穏やかな笑顔を向けた。


「大勢から狙われるってことは、それなりに強くて目立ってるってことだよ。誉れだから」


 もう笑顔はいつもの彼だ。優しいけれど、決して向こう側を覗くことのできない堅固な笑顔。


 彼が怪我を負っていたことよりなにより、そっけない笑顔で須勢理を拒む彼に戻ってしまったことがつらくて、須勢理はそれ以上いえなくなった。


 でも、口ごもる須勢理を気遣うほど安曇は優しい。


「大丈夫。どうにかなるから。須勢理様、なにか布を持って……?」


「布? 矢筒を担ぐこの紐は?」


 背に矢筒をくくりつけていた丈夫な紐へ目配せを送ると、安曇もうなずいた。それから遥か背後に遠ざかったさっきまでの居場所を振り返ると、須勢理に先だって馬の足を止めて鞍を下りた。


「もういいかな。ここで少し休みましょう」


 草むらに下りた彼は、須勢理が手綱を操るより先にみずから馬の頬に手で触れて、その歩みを止めてしまった。まるで、姫君の馬番をする従順な従者のように。





 人と同じく、馬も疲れているのだ。


 ひん、ひ……と小さく鳴きながら疲れを癒す二頭の馬のそばで、安曇は草むらにあぐらをかくと、須勢理へ矢を抜くように頼んだ。須勢理が思い切り引っ張ってそれを抜き去ると、安曇のまとう衣には一気に血が滲み始める。それを安曇は待ちかまえていた。


 須勢理から手渡された紐を器用に手に取ると背中に斜めに渡して傷を覆い、ぎゅっと縛ってしまう。血を止めたのだ。


 あどけなさが残る丸い輪郭にふちどられた、よく陽に焼けた頬。その上で柔らかく細められた丸い目。鍛えこまれた身体つきをしているとはいえ、安曇の雰囲気は武人というふうではなく、どちらかといえば船乗りや若い農夫のような、戦とはあまり縁がない若者の雰囲気がある。でも彼の仕草は、たしかに手慣れている。あっという間に傷の手当てを済ませてしまうと、彼は隣で固唾をのんで見守る須勢理を気遣った。


「王宮に戻ったら、薬師に診てもらうよ」


「……うん、そうね」


 命を賭けて友人の無事を祈り助けにきたはずだったのに。安曇の態度はいやによそよそしかった。優しく笑ってはいるが、とても遠い。それが気味悪くて、須勢理に滾っていた力はみるみる抜け落ちていった。


「少し休んだらいくよ。戻らないと」


「いくって……朝までここで休めば……」


 安曇の笑顔は穏やかだが、彼がとても疲れているのは明らかだ。話を聞けば、昨日の昼間からずっと彼は敵陣のそばにいたらしい。そして、落日を合図に奇襲を仕掛けて、囮になって仲間たちを逃がした末にここまで逃げてきて。疲れていないほうがおかしい。


 陽が落ちてからすでに時は経ち、須勢理が砦を出た時には地平線すれすれに見えていた夏の星は、すでに天高い場所まで上っている。すでに夜半に近いだろう。


「少し眠ったら? 見張りなら、あたしが……」


 無理を通そうとする安曇に苛立ちすら感じながら須勢理は見つめるが、彼の笑顔は崩れなかった。


「いや。闇に紛れたほうが、あなたを守れるから」


 その言葉を聞いた瞬間、須勢理は気が遠のいた。


 ……安曇を助けにきたつもりだったが、どうやらそうでもなかったらしい……。


 彼はいま、須勢理の守り人に徹していた。守るべき相手として須勢理を見ていた。


 ふいに、戦場で安曇から睨まれた時のことも思い出す。あの時も、安曇はいまにも平手を食らわせてきそうな顔をしていて、目の奥で睨みつけながら須勢理を無言でなじった。


 ……浮かれるな。たった二度目の戦のくせに。


 須勢理に、現実が戻ってきた。絶対に助けると息巻いてやってきたものの、安曇は連戦練磨のつわもので、幾千の兵の先頭に立って戦をつくりあげたり、命知らずの奇襲を見事に成功させてみせたりする人なのだ。須勢理が助けられるような相手ではなかった――と。


 助けるどころか、きっと重荷だ。須勢理がここにいなければ、彼には須勢理を守るというおまけの役目がのしかかることもなかった。……一人で休めたかもしれないのに。


 恥ずかしくて悔しくて。安曇の優しい眼差しが痛くて、須勢理は目を逸らした。


「ごめん、助けにきたつもりだったけど、足手まといだったみたい……。余計な真似をして、ごめん……」


 たどたどしく謝ると、安曇は眉をひそめて苦笑した。


「なにをいってるんです? さっきのを忘れたんですか? おれはあなたに助けられましたよ。おれがいま生きているのは須勢理様のおかげです」


「……本当に?」


「本当に」


 安曇はにこりと笑っている。でも、須勢理は信じることができなかった。


「じゃあ、どうしてそんなによそよそしいの? いつもと違うわ。本当は怒ってるんでしょう? 馬鹿な真似をしたって、邪魔をするなって……」


「怒って? 違います」


「じゃあ、どうしてそんないい方をするのよ。堅苦しいからやめてって、前に……」


 そこまで須勢理がいうと安曇は一度黙って、諦めたようにじっと須勢理を見つめた。


 その時の彼の眼差しは、少し不思議だった。目が合うなり射通されて、まるで見えない腕に抱きすくめられるようで、とてもまっすぐだった。


 いつのまにか胸が高鳴って、須勢理はそれ以上の身動きができなくなる。そんなふうに、いとしいものをそばへ繋ぎとめようとする目つきだった。


 その目で須勢理を貫いたままで、彼はそっと唇をひらいた。


「おれがあなたのそばに近づきすぎないようにしているのは……あなたが、穴持様のお妃だからです」


 壮麗な星夜。優しいけれど堅固な笑顔を浮かべた安曇の背後には、銀色の帯となった天の川が横切っている。銀色の星明かりを浴びた草原の葉一枚一枚は、闇色混じりに輝いて、夜風に吹かれてさらさらと流れている。


 草原を揺らすほど、夜風はほどよく吹いている。


 でも須勢理はそこで、ぴくりとも動くことができなくなった。まるで、初めて出くわした正体不明のものを相手に、身構える気分だった。


 安曇を助けようと、十人近い武人の群れを相手にたった一人で立ち向かった勇壮さなど、いまの須勢理にはなかった。どこにでもいる年頃の娘のように身体を強張らせる須勢理へ、安曇は小さく笑った。


「誰も見ていないのをいいことに、さっきおれは、あなたに触れようとしました」


 彼が話しているのは冗談ではない。きっと本音だ。


 用心深くて、いつも本音を丁寧に隠している彼がとうとう口にした本当の想い。でもそれは、聞いたところで須勢理にはどうにもできない想いだった。


 それは、安曇にとっても同じだった。


 まっすぐな視線で須勢理を射通したものの、それを謝るようにも彼は小さく顎を振った。


「穴持様の妻でいたくないとあなたから泣きつかれた時に、おれがどれだけ苦しい想いをしたか……。あなたのお相手があの人でさえなかったら。おれはあの時に、とっくにあなたを掻っ攫っていましたよ。でも、おれには……とても。できなかったんです」


 いい切ってから、安曇はくすりと笑う。そして、話の終わりを告げた。


「へんなことをいってすみませんでした。いまのおれは化け物みたいなものです。夜に変化する化け物は、朝が来る前に死ぬものです。月も星も、ずいぶん傾いています。じきに朝が来ます。おれの中にいる化け物もいまに死にます。だから……」


 いまのは忘れてください。安曇は、にこりと笑った。


 そして、わずかに片鱗を見せていた安曇の本音は、みるみるうちに彼の堅固な笑顔の奥へ遠ざかりゆく。用心深く正体を隠す、強固な壁の向こう側に。


 須勢理はつい、遠ざかりゆく安曇の本心を追ってしまった。顎を引き、安曇の目の奥を睨みながら、それを咎める暗い声を出していた。


「……掻っ攫えばいいのに。あたしでいいなら」


 ……本当に彼が須勢理を想っているのなら、思うようにすればいいのに。


 さっきのような熱心な眼差しで、須勢理を射抜けるほどなら――。


 安曇が遠慮しているのは、須勢理が穴持の妻だからだ。須勢理の相手が彼の主だから。


 でも、安曇の無事を願った須勢理は、王宮を出る時にすべてを置いてきたのだ。失って惜しいものなどなにもないと。命も要らないと。


 ここにきてまた穴持がそばにそびえていると思うのは、たまらなくいやだった。 


 すでに遠ざかりかけた安曇の本音の想いに応える言葉を、須勢理はつぶやいていた。


「どうしてそんなに穴持に従うの。あたしはあいつのそばから遠ざかりたい。安曇が望んでさえくれれば、あたしは……」


 もし、本当に自分でいいのなら――。安曇が主を恐ろしいと思うのなら、出雲と名のつく場所に二度と戻らなくてもいいとすら須勢理は思った。


 初恋の相手として、穴持のことは引きずってしまうかもしれないが、必ず安曇を好きになる努力をするし、彼が相手ならいつかきっと心から想える日が来ると思う。


 決心を自分にいい聞かせるように黙り込む須勢理を、安曇は苦笑して見つめていた。笑顔は堅固で、夜風に吹かれて彼の黒髪や衣服がばさりと音を立ててなびいても、彼の優しい笑顔はぴくりとも崩れなかった。


 彼は、ぽつりぽつりと話し始めた。


 それは、須勢理の頭をいくらか朦朧とさせる話だった。


「おれは、出雲に襲われた村の出なんです。命令を下したのは、須佐乃男様でした」


「出雲に襲われた? とうさま……?」


「はい。幼い頃、おれの暮らしていた村で出雲の武人を世話したことがあったんです。ある晩、模擬戦に興じる武人たちに混じって、おれは盤の上で出雲の武将と戦いました。見よう見まねでしたが、その時、相手を負かしてしまったんです。……須佐乃男様の目の前で。おれを気に入った須佐乃男様は、出雲へ引き渡せと村にいったらしいのですが、村はそれを拒んで、結局……」


 安曇が話すのは、彼の過去。どうして出雲に来ることになったかというきっかけの話だ。


 笑顔を浮かべたままで淡々と語られる安曇の声に、須勢理は血の気が引いていた。彼が出雲にやってくるきっかけとなったのが……彼の村を襲ったのが須佐乃男、須勢理の父だというのだから。


「いまさら恨みはありませんよ。でも、そういうわけでおれは、出雲に忠誠を誓っているわけでもないんです」


 青ざめた須勢理をいたわるように、安曇はなおさら優しく微笑んだ。


「出雲へ連れ去られた後、おれの面倒を見たのは穴持様でした。……ひどいんです、あの人。少しでもなにかをしくじると、すぐに怒るんですよ。『悩むほどおまえはひまなのか』って……。おれが帰る場所を出雲に奪われたことを、知ってたくせに」


 彼が語るのは苦しい過去のはずなのに、安曇は目を細めてくすくすと笑っている。それも、須勢理は呆然として見つめるしかできなかった。


 安曇はふと、いとしい記憶を撫でるように微笑んだ。


「でも、あの人は、おれの目を過去から遠ざけようと……。須勢理様……あの人はね、絶対に後ろを見ないんですよ。前しか見ないんです。『振り返るな』、『先を見ろ』……あの人の口癖は、おれの憧れでした。穴持様がいたから、過ぎたことにこだわるのは馬鹿馬鹿しいって、思い始めたんです」


 安曇はおぼろげに、優しげに笑った。


「自分の身を悲しんでいたら、なんにもできない。おれはそう思う。そうなんだって自分にいい聞かせてきました。なにかが起きて、あの方が出雲の敵に回るといい出したら、おれは迷わずあの方の側に回ります。たとえ、あなたが出雲にいても。だから、結局おれは、あの方に寄り掛かってるだけなんです。昔も……今も」


 これ以上はないという敬慕を込めて、安曇が話したのは穴持のことだった。


 たとえ須勢理と引き換えだとしても、たとえ須勢理と敵対することになったとしても、穴持を裏切るわけにはいかないと――。それは拒絶に近かった。


 ここまで見事に拒まれてしまったら、冗談にすり替えでもしないと居心地が悪くてどうしようもない。須勢理は笑うしかなかった。


「そっか、ふられたわね」


 おどけたように須勢理がいうと、安曇のまっすぐな目はそれを引きとめた。


「あなただって、本気で掻っ攫えといったわけじゃなかったでしょう?」


「……え?」


「あなたがおれのことを心から好きだといってくれたら、おれも、もしかしたら迷ったかもしれません」


 安曇は気恥ずかしそうに笑っている。目は真摯だ。彼を堅固に守る壁を崩して、本音を語ってくれている。それに気づいて須勢理はほっとするが、彼の言葉を飲み込むと、やはり笑うしかなかった。


「あたしが心からあなたを好きになったとしても……って、それでも迷うだけなの?」


「すみません」


 安曇も苦笑した。それから、彼も照れ臭そうにとうとう本音を暴露した。


「あの人の奥方を奪ってしまうわけにはいかないと、たぶん焦って……めちゃくちゃに宥めていたと思います。前みたいに」


「前って?」


「あなたが穴持様に腹を立てて、泣いていた晩です。あの時も、どうしていいかわからなくなって……なにをいえばいいのか思いつかなかったんです」


 穴持様は男の憧れであるとか、他にもいろいろと……。これをいってはなおまずいと内心焦っていたんですが、あなたをあの人のもとへ繋ぎ止めなくてはいけないと……。あなたを混乱させて怒りを煽るような、逆の効果を狙ったわけではないんです。信じてください、と安曇は冗談にすり替えるようにして笑った。須勢理も笑った。


「わかってるわよ、いわなくても」


 安曇なら、穴持を裏切るような真似は絶対にしないのだろう。それは身に染みたのだ。


 人として、友人として尊敬できる安曇が相手だったら、穴持への恋心など忘れられるかもしれない。そんなふうに思って不器用に誘ってはみたが、完全にふられてしまった。


 でも少し須勢理の胸はすっきりとして、頭の奥でずっともやついていた苛立ちもいくらか晴れた気がする。


 穴持を夫としても幸せにはなれないと、いつかとうとう決意して離縁したとしても、好きになれる人は努力すれば見つけられる気がしたのだ。


 ……初恋なんて愚かなものだ。やはり、引きずるなんてやめたほうがいいんだ。


 そんなふうにも、つくづく想う。でも、そうやって穴持から心を離そうとするたびに胸は懲りずに疼きだす。


 たとえいくら探しても、彼より好きになれる男なんかが現れるわけがない。大嫌いでも相手にされなくても、それでもそばにいたいと夢中の恋ができる相手なんか……。彼のもとを去ったら終わりだ。たとえ誰かに次の恋をしたとしても、永遠に初恋を引きずって、彼のほうが魅力的だったと胸のどこかで悔やみ続けるのだ……と、疼きは呪詛まがいの迷いすら、須勢理へ与えてくる。


 そうしてやはり胸は、これまで通りにせめぎ合うのだ。離れたいけれど、離れられない。そういう二つの相反する想いの狭間で――。


 はあ……。ため息を吐くと、須勢理は愚痴を吐いた。


「どうしてあたし、あんな奴を好きになっちゃったんだろう。安曇にしておけば、きっと幸せだったのに……。あたし、大馬鹿だ」


 安曇の目に、さっきまであったはずの恋しい娘を見つめる切ない潤みはすでになかった。彼は須勢理の友人、穴持の部下に戻っていた。


「簡単なことです。おれの何十倍も、あの人がいい男だからです」


 人としてはどうかと思うが、武人としては最高。穴持はそういう男だ。安曇のような人を虜にするほど、どうやら男としても彼は魅力的な人物らしい。


 でもそれは、男の目から見た時の話。いくら男たちから羨望の眼差しで見られようが、女の須勢理から見れば、やはり穴持は女泣かせのわがまま男としか映らない。


「あいつが安曇の何十倍もいい男? あたしは安曇のほうがいい男だと思うわよ。あなたはちゃんと女の子を守って、その子を幸せにできるわよ」


 そういうと、安曇は笑った。でもそれは、絶対にそれを信じようとしない笑みだった。


「光栄です。嘘でも」


「……信じてないわね」


「はい、まったく」


 安曇は肩をすくめてみせる。それから……話を終わらせるように腰を上げると、草の上から彼方を見渡した。


「そろそろいきましょう」


「……うん。呆気ないわね。せっかく安曇と面白い話ができたのに」


 ここでした本気の話を笑い話にすると、隣ですっくと立つ安曇は、唇を横に引いて、いくらか寂しそうに笑った。


「はい……終わりです。だから、最後に……今宵、たった一人であなたを守れる幸運を、人知れず喜んでおきます」


 須勢理を見下ろした彼は、まっすぐに目を合わせるとにこりと笑った。その笑顔と目があった須勢理の胸がひそかにふわりと温かくなるような、頼もしい仕草だ。


 安曇がするのは恋しい人を守れる笑みだ。それから……。どうせ恋に落ちるなら、素直に「守って」といいたくなるような、こういう笑顔をできる人を好きになりたかったなあ。そんなふうにも須勢理は思った。


 思いながら、きっとないものねだりだと可笑しくなって、笑ってしまったけれど。




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