神獣と、狩人の娘


 物忌みが明けて、晴れて大捕り物に出かける巫女のように。湯殿を出て、行く手を睨みながら須勢理が大路までの小道を戻っていると、ちょうど穴持と出くわした。


 逆の方向からやって来る彼は、まだいらいらとしていた。いや、彼の顔にある苛立ちはさっき別れた時以上だ。


 まだ遠い場所で目が合うなり、穴持は須勢理を待つように足を止めるが、彼の足の先は当然のように須勢理の臥戸の方角を向いている。須勢理の居場所だろうが、そこへ訪れる許しを得る気はなさそうだ。それどころか、とっとと追いついて来いといいたげだった。


 仕方なく彼のそばへ寄って、連れだって歩きながら、須勢理は首尾を尋ねた。


「安曇は? ちゃんと謝った?」


 頭を朦朧とさせるほどの怒りが冷めたとはいえ、須勢理の声は厳しい。でも須勢理の鋭い口調がかすむほど、穴持の声も苛立ちで溢れている。


「……笑われた」


 虚空を睨みつける穴持は、悔しそうに拳を震わせている。


「そんなに血相を変えてどうしたんですか、さっそく尻に敷かれていますね、といわれた。あいつ……おれをいじめたがってる時の顔をしてやがった……!」


「いじめる? 安曇が……あんたを?」


 怪訝に訊き返した須勢理を、穴持は間髪いれずに咎めた。


「おまえが安曇のなにを知ってるんだ? あいつはたちが悪いんだ……陰険なんだよ。おれをどうにかしたい時は、急所を狙わずにじわじわつついてくるんだ。あの野郎」


 そうして、彼はわなわなと拳を震わせる。


 穴持がいうように、彼と安曇の関わり合いはとても深くて、彼は須勢理が知らない安曇の部分もたくさん知っているだろう。


 でも、須勢理はつい、安曇を擁護してしまう。急所を狙わずにじわじわつついてくる、陰険だ……と、穴持が咎めるそれは、急所を狙ったところで倒せないと踏んでのことだろう。安曇は正しい。そんな気がしてたまらなかった。





 我が物顔でまっすぐに須勢理の臥戸へ向かった穴持には、やはり遠慮というものがない。自分の居場所に案内するように須勢理をそこへ押し込めると、上座に悠然とあぐらをかく。やはりというかなんというか、情緒じみたものは彼には皆無だ。すぐさま彼は話を切り出した。


「わかった、須勢理。おれも考えた。おまえがなにを怒っているのか」


 でも、須勢理は首を傾げるしかない。……考えた? あんたが?


 予想は的中した。穴持は得意げに話し始めたが、それはどれも的外れだ。


「嫉妬だろ?」


「は?」


「おまえ一人だけにすればいいんだろ?」


「……はあ?」


「離縁をするとかいわずに、ひと月待てよ。そのあいだに女宮を取り壊して、毎晩おまえのもとに通って……」


 しばらく、呆れた。よくもまあ、そんなに単純に片づけようとできるものだ。


 彼は、自分に対して娘が腹を立てている理由など、どうせ嫉妬だと疑っていないようだ。へそを曲げた娘へ、他の女のもとへ二度といかないと約束すればきっと機嫌を直すと、本気で思っているらしい。


 須勢理は前のめりになって怒鳴った。


「全っ然違う! 馬鹿なの!?」


 勢いに圧されて口ごもったものの、穴持はむっと眉をひそめた。「馬鹿」という言葉が気に食わなかったらしい。……が、須勢理はそれを無視する。


 須勢理が穴持のもとを去る決心をしたのは、嫉妬からではない。それまで暮らしていた離宮を出て、彼に嫁いでから今まで、須勢理はたしかに嫉妬もした。悔しいことに、部屋の隅で咽び泣いたり、安曇の前で大泣きしたりしてしまうほどだった。


 でも、それは理由ではないのだ。嫉妬などはできれば二度としたくないが、でもそれは我慢できるものだった。別れを決意した理由は、そうではないのだ。


 女は須勢理一人だけにするだの、彼の妃が住まう女宮を取り壊すだの、毎晩須勢理のもとに通うだの……。そんなものは解決法にならない。むしろ逆だ。


 須勢理は穴持に武王でいてほしいのだ。夫としての良さはわからなくても、せめて、憧れの存在のままで――。


「女宮を壊すって……あそこには大勢の娘たちが暮らしているのよ? それなのに……。どうしてそういうふうにしか考えられないの? あんたはものを壊すことばかりよ!」


 胸に湧いた言葉を、そのまま怒鳴り声にしてしまったその時、なぜか須勢理の脳裏には穴持に罵声を浴びせる石玖王の顔が思い浮かんでいた。


 それから、いま自分の口から出ていった言葉に自分でうなずいた。


 ……そうなのだ。穴持は、壊すことにかけては天才じみた力をもっている。


 そういえば戦が原でも、彼は勢い任せに敵の砦を焼いてしまった。まだ使いようがあったのに……と、それを責める石玖王を彼はせせら笑った。


 思わず、目の前にある穴持の表情を探した。でも彼の姿が目に入るなり、須勢理からは力が吸い取られていく。


 傲慢な態度が似合う悠然とした姿勢で、彼はそこであぐらをかいていた。荒くれた兵たちを無言のうちに従える立派な武人の体躯に、夜闇の色のつややかな髪、濃いきりりとした眉。森で生きる獣のような息吹のある瞳と、鋭い眼差し――。初めて出会った時から変わらず、彼は若さという勢いに溢れていた。でも、見れば見るほど、いまの須勢理の目に彼は、図体だけ大きな子供に見えて仕方ない。


 彼はふてくされていた。激怒する須勢理が、なにをそんなに怒っているのかわからないといいたげに。


 須勢理はゆっくりと息を吐くと、なるべく丁寧にいった。むくれた子供じみた彼を、しっかりといい聞かせられるように。


「女宮は壊しちゃだめ。あなたが集めた娘たちでしょう? 最後まで面倒を見なくちゃ」


 須勢理の口調が穏やかなものに変わっても、やはり穴持はわけがわからないという顔をしている。


「でも、おれはもうおまえ以外のところに通う気が失せた。それでも?」


「気の迷いかもしれないから、早まるのは待ちなさい。どうせ、あなたはいうことがころころと変わるんだから……。早まったことをして女の子たちを失望させないで」


 須勢理は内心、気味が悪くて仕方なかった。


(あたし、いったいなにをしているんだろう)


 そういう奇妙な想いが押し寄せてたまらない。


 穴持も、納得がいかないというふうに眉をひそめている。彼は不機嫌にいった。


「じゃあ、おまえをおれの一の后にする。一の姫は……」


 彼の言葉の先を読むと、須勢理はそれも拒んだ。


「ばかなことを……一の姫は越の王の娘なんでしょう? そんなことをしたら越の王が機嫌を損ねるわよ。そのうえ、あの姫はあなたの子を身ごもってるの。誰よりも大事にしなくちゃだめ」


 水浴びをして頭を冷やしたつもりだったが、怒りが薄れてそこが静かになればなるほど、須勢理の目は別の新しいことを見つけてしまう。いま須勢理の胸にあったのは、この男をどうにかしないと……という想いだけだった。目を放そうものなら、手に触れる物という物を壊して回るようなこの男を、放ってはおけない、と。


「……とにかく。集めた女の子たちは最後までどうにかしなさい。本当に通う気がなくなったなら、次の夫を探してやるなり離宮を建てるなり、故郷へ帰る意思を問うなり、とにかく話をしなくちゃだめ」


 いいながら、自分のしていることに自分で苛立つ。


(あたしは、いったいなにを……)


 苛立ちは須勢理の身体の中でぱんぱんに膨れ上がり、しだいに我慢がならなくなる。息苦しくて……とうとう、うつむいてしまった。


「話を? ……おれの苦手だ。どうしてもやらなきゃいかんのか」


「それだけは、あなたが自分でやらなきゃだめ。できないなら、ちゃんとこれまで通りに女の子たちの寝屋を回りなさい。あの子たちが雲宮にいるのは、そのためなんでしょう?」


 須勢理の唇から、言葉はたゆむことなく流れていく。でも、それとは裏腹に真顔は強張っていく。それを見やって不思議がる穴持の真顔も、同じように歪んでいった。


「どうしてなんだ。おまえは妙なことをいっていると思うぞ? おれはおまえに惚れたといっているのに、ほかの女のもとへいけというのか?」


 ついに彼がそんなことをいうので……。とうとう須勢理に溜まっていた奇妙な苛立ちも、ばちんと弾けて噴き上がる。


「あたしだって、こんなこといいたくないわよ!」


 頭は冷めていたつもりだったのに、奇妙な苛立ちに誘われて胸がふたたび昂ぶると、もうそれは止まらなくなる。


 愚かな恋心とけなしていたものは、やはり強かった。須勢理を巻向まで歩かせて、武具を手に取らせて、無視され続けても大嫌いになっても、恋した彼のそばを離れられないほど。


「ほかの女を見たら許さないって……あたし一人を見てっていいたいわよ! でも、いまさら都合のいいことをいわれたって、あんたが女たらしだから困ってるんじゃないの!」


 いまさら須勢理を好きになったと熱心に訴えられたところで、信じられるわけがなかった。


 それは突然だったし、急にそういい出したようにいつか急に気が変わって、また見向きもされなくなる日が来るかもしれない。この男はひどく気まぐれで、いつ意思を変えるかわからないのだから。


 それに……万が一、永遠に彼の気が変わらなかったとしたって。誰かを蹴落としてまで幸せが欲しいとは、須勢理には思えなかった。


 彼に無視され続けたこれまでのあいだ、ずっと須勢理は悔しかった。必要とされるわけでもなく、そうかと思えば気まぐれに彼は寄り添ってきて……。ただできたことは、彼の気まぐれを待つだけ。それは思いのほか苦しかった。どうしてあたしはここにいるの? いる意味なんてないのに……と、その場に生きている意味を疑うくらいだった。


 その苦しみを身をもって知っているのに、同じ想いをする娘をこれから大勢つくるといわれて、どうしてそれを喜べるというのだ。


 一の姫だって……。いまの須勢理には、穴持がいうように、彼女を故郷へ追い払いたいとは思えない。あの優しい姫を泣かせないであげてほしい。あの姫は須勢理と違って、穴持がそばにいないと耐えられないようだから。……須勢理と違って。


 でも、須勢理だって、耐えられるからといって、わざわざ耐えたいわけでもない。


 頭ではわかっているから、ほかの女のもとへいけ、彼女たちをちゃんと見てあげてといえるけれど……そんなものは、須勢理だって本心からの望みではない。


 昂ぶったものに煽られて、涙までが溢れた。この男の前だけでは泣くまいと、しばらくこらえたが、無理だった。


 溢れた涙を、慌ててぬぐった。彼の前で泣くのはどうしてもいやだ。こんなふうに涙を見せるのはまるで、彼に屈したかのようで――。だから須勢理は、文句をいった。


「とうさまのいう通りだった。あんたのもとに嫁ぐなんて、やめておけばよかった。どうやったって、あたしに幸せは来ないわ」


 穴持に嫁ぐのはやめておけと、父は何度も須勢理を止めた。この神獣じみた男は須勢理の手に負えないから、と。


 無理やり涙をこらえる須勢理を、穴持はぼんやりと見つめていた。でも、ある時。彼は肩をすくめて笑ってみせた。


「そういうなよ。絶対にどうにかしてやるから」


 話の通じない男だと思っていたのに――。


 須勢理が「とうさまの……」と穴持が知らないはずの話をしても、歯を食いしばって無言のまま涙をこらえているだけでも、彼はどうしてか須勢理の胸に渦巻いたものを見通したようだった。いまの、ほんの短い沈黙のあいだに――。


「苦手だが、仕方ない。それでおまえが手に入るなら、おまえのいう通りにするよ。……そうせんと、どこかへいってしまうんだろう? 困ったことに、おまえは本当にそれができる女のようだしな」


 そういえば、彼は言葉ではなくて、目で真意を伝える人なのだ。ふいにそれを思い出してぽかんとした須勢理に、穴持はふうと息を吐きながら苦笑した。……仕草は、観念した、というふうだった。


 彼は、誘いかけるように、須勢理へ手を差し伸べた。


「おまえがいうのは、おれには考えが及ばない話ばかりだ。たぶんおまえが正しい。おまえを信じるよ。おまえがいとしいから。……だから、もういいだろう? 全部おまえのいう通りにしてやったし、これからも、おまえのいうことなら聞いてやるから。だから、いいかげん許せよ。早くこの手に抱かせろよ。手が寂しくて仕方ない」


 須勢理はぽかんと唇をひらいてしまった。とうとう穴持が折れた。それにも驚いたが、すかさず触れようとしてくる手の早さにも呆れた。


 いうが早いか腰をあげて、彼はさっそく須勢理のそばにやってくる。須勢理を腕に抱こうと背中に回る腕を押しやりつつ、須勢理は顔をそむけた。


「あんたって、本当に腹が立つ。どうせ今だけ。口ばっかりのくせに」


 まだだ、信じない。彼がどれだけ優しい顔を見せようが、そんなものはいつ終わるかわからない。信じるな、と須勢理は必死に胸をいい聞かせていた。


 須勢理の肩に手のひらを置いた穴持は、とても近い場所で呆れて笑った。


「人聞きが悪い。……いつも真剣なんだよ。仕方ない」


 その言葉は、すっと須勢理の胸に染み入った。


 どうせ今だけ、口ばかり。それは、彼がいつも真剣だから。それは、わかる気がする。


 彼は、いつも何かに夢中なのだ。いっていることがころころと変わって見えるのはそのせいで、いつも彼は、それ以外のことを忘れてしまうくらいに全力で何かを向いている。


 それはきっと彼の魅力なのだ。幾千の兵たちを魅了して、その目で娘たちを夢中にさせるのと、理由を同じくする……。


 肩に触れた手を咎めるように横を向いたものの、暴れもせずに黙る須勢理に、頭上から穴持は問いかけた。


「逃げないのか?」


「……考えてるところよ。逃げようかどうしようか……」


 あまりに胸の中の決着がつかないので、須勢理は思うままを告げるが……。


「そうか。都合がいい」


 いうなり、彼は須勢理を抱きすくめる。そして彼は、逞しい腕の中で目を丸くする須勢理の耳元で、囁いた。


「なら、捕まえる。迷うくらいならおれのそばにいろよ。おれから離れても、どうせ必ず悔やむから」


 そういえば安曇が、絶対に後ろを見ない穴持は憧れでした……というようなことをつぶやいていたが、たしかに彼はかなり前向きな性分らしい。たとえその方法がどれだけ強引だろうが、わずかでも可能性があるなら、彼に都合のいい結果が訪れるようにどうにかしてしまうのだ。迷うくらいならおれのいうことを聞け、と。


(ああ、もう……この俺様野郎は……)


 彼は征服するのが得意で、欲しいものはどうにかして手に入れないと気が済まないようだ。目的のためなら、なんでも壊す。すぐ壊す。威力は半端ないくせに、単純というか、極端というか。


 いつか須勢理は、血の気が引いていくのを感じた。


 こんなに危ない男が野放しにされていたなんて。親の顔が見てみたい。そう思ったが。 そういえば……と、前に誰かから聞いた話を思い出すなり、息を飲んでしまった。彼を育てたのは須勢理の父、須佐乃男だという話だった。


 ……とうさまの仕業か!? 武王だろうがなんだろうが、こんな危ないものを育てて野放しにして……あの大悪党!


 穴持の腕の中で、須勢理はびくりと震えてしまった。


「どうした?」


 穴持はそれを気にしたが、須勢理はそれどころでない。


 ……ちゃんと手綱をもって面倒を見る人がいないと。おそらく安曇はその第一人者だろうが、いまのところ、彼の力をもってしても抑えきれていないはずだ。ちゃんとそばで面倒を見る人が……安曇を手伝う誰かがいないと。


 そこまで考えがいき着くと、須勢理ははっと我に返って愕然とした。穴持に初めて出会った晩に胸に閃いた奇妙な想いが、いまさら蘇った。



 ……きっとあたしは、この男のそばで人生を過ごすためにここにいる。



 その言葉は、いまの須勢理の胸には恐ろしいほどなじむ。どうやらその運命とは、頼もしい王の腕に包まれて過ごすような乙女の夢じみた運命ではなかったらしい。


 須勢理の居場所は戦かと思った時もあった。でも、そうではなくて、きっと居場所はこの男のそばなのだ。そして運命というのも、この男と一緒に戦を支配するというよりは、この猛獣の手綱を握って御すること。……安曇と一緒に。


 運命は運命でも、こういう運命だったのか……。


 とうとう、須勢理はうなだれてしまった。腕の中でわなないたかと思うと、ぎゅっと唇を噛みしめて唸る須勢理を、穴持は脅えるように見下ろしていた。


「どうしたんだ、須勢理。……もしかして、まだ逃げたいのか」


 彼の声も目も「いくな」と頼み込んでいる。彼がさっき自分でいったように、彼はいま須勢理を手放すまいと真剣になっていた。


 須勢理はふうと息を吐くと、身体から力を抜いてしまった。


「逃げないわよ、もう諦めた……」


「そうか、よかった」


 諦めてしまうと、頼もしいものをそうは感じたくないと跳ねのけたり、温かいものをそうではないと、優しいものをそうではないと、無理やりおとしめようとする力も、須勢理からは消え去っていく。


 どう強がっても、自分は男より断然細い身体をもつ娘なのだと、そういうことを思い知らせてくる逞しい腕や力強い仕草。それにすっぽりと包まれると、胸の高鳴りに震えるしかなかった。


 大嫌いと大声で叫ぶほど気に食わなくても、諦めるしかなくても、いま須勢理を包み込んでいるのは、どうしてもそばを離れられなかった男の腕。それに身を任せるのは、なにか恐ろしいものに溺れていく気がして気味が悪かった。……本当にこれでいいの? 本当に彼を信じられるの? と。


 でも、それはどうしようもなく甘美で、思っていた以上の安堵を胸にくれる。


 須勢理は、ついに目を閉じてしまった。それから、初めての幸せにじっと浸った。





 再び須勢理が我に返ったのは、しばらく経った後だった。現実を思い出したのだ。


「こんなことをしてる場合じゃ……」


 須勢理がここにいるのは、奇襲に出て矢傷を負った安曇についてきたせいだ。安曇は、穴持を呼んでくるようにと石玖王から命じられていた。それなのに、その武王はいま須勢理のもとにいる。


 これまでうっとりと目を閉じていたことを悔やんで、須勢理は夢中で穴持の胸をおしのけた。


 彼の顔はすぐ上にあったが、急に焦り出した須勢理を前にしても穴持は顔色を変えない。堂々とした雰囲気はたいしたもので、目が合うなり焦りなど溶けて、代わりに安堵が生まれるほどだった。


「砦に戻らなくちゃ。安曇の傷の手当ては済んだ? 彼と一緒に戻るの?」


「安曇? あいつなら、もう砦へ戻った」


「……は?」


「さっき話しにいった時、ちょうど手当てが済んだところだったから、先にいかせた」


 須勢理は目を点にした。いったいなにをいっているのだ、この男は。


 やはり理解できない。さっぱり読めない。と、胸の内側で消えかけた火が再びくすぶる。


「先にいかせたって……安曇は寝てないのよ? 昨日の昼からずっと働きどおしで……」


「障りがあると判断すれば砦で寝るだろ。それくらい、あいつが自分で……」


「それで、あなたはここでなにをしてるの」


 呆れたのと怒ったので、穴持を責める須勢理の顔は目だけが笑わない恐ろしい笑顔になっていた。それにまっすぐ見上げられても、穴持は苦笑するだけ。彼はあっさりといった。


「さっきのおれが砦に戻っても仕方ないだろう? どうせ役に立たんよ」


「……はあ?」


「戦場にいったら、あそこじゃ兵がみんなおまえに惚れてるんだ。こっちの身にもなれよ? 幾千人も相手に嫉妬したら、おれはどうせ、まともに動けない」


「はああ?」


「だから。絶対に逃げるなよ? おれをまともでいさせろよ?」


 ……よくもまあ。と、須勢理はあんぐりと口をあけた。


「脅す気?」


「脅しておまえが手に入るなら。なんでもするさ」


 やっぱり、この男は手に負えない。懸命の捕り物をして縄をかけて、御したつもりでいても、そばにいるかと思えばいつの間にか離れた場所にいて、こちらを見て笑っている。これでは安曇が手こずるのも仕方ない。


 とにかく、と須勢理は慌てて立ちあがった。


「もういいわよ。あたしもいくから。早く戻ろう」


「いいよ。でも……その前に」


 彼の衣を引っ張り上げてどうにか立たせようと奮闘する須勢理の腕をとって、穴持はふふっと笑った。


「こっちを向いて笑えよ、須勢理」


「は?」


「おまえはいつも怒ってる。たまには笑ってる顔も見せろよ」


「……いつも怒ってるって、誰のせいだと……」


「いいから、笑えよ」


 武王を戦場へ連れ出すのと引き換えにせがまれたのは、他愛もない頼みごとだ。


 すでに須勢理を手に入れたと思っているのか、須勢理を見上げる穴持はすっきりとした笑顔をしている。それに見つめられる須勢理のほうはたじたじだというのに。


(人の気も知らないで)


 この人はいつもこうだ。こっちがどれだけ思いつめたり悩んだりしても、すべてなかったことにしてしまう。……それだけ強く、人に影響を与えてしまう人なのだ。


 笑うどころか唇を結んで黙り込む須勢理を、穴持は笑顔で見上げている。須勢理がそむくなどとはつゆとも思っていないようで、必ずいう通りにすると、彼は須勢理が笑うのを待っている。


(本当にもう、この人は)


 呆れてしまう。でも、どうしよう。流される。


 いや、流されるものか……と唇に力を込めた瞬間に、須勢理はもう口元がほころんでいることに気づいた。呆れ過ぎて、唇はいつの間にか笑っていたのだ。


 流されるのはいやだ。でも……試しに流されてみるか。


 しばらくのあいだ穴持のそばにいて、須勢理が覗いたのは彼の嫌なところばかりだった。まるで、どうにかして彼のそばを離れるすべを探しあぐねていたように。


 そうじゃなくて、いいところも。もう少しこの男を覗いてみたい。


 そう思うと、須勢理の頬の強張りは自然と溶けていく。そうして、ついに須勢理がぎこちない笑顔を浮かべると、それを見上げる穴持は幸せそうに目を細めた。


 かけがえのない大事な宝を得たように、壊してはいけない大切なものをそっと見守るように、彼の黒い眼差しは一度力を失って、笑顔も優しく溶けていった。








 昼間は姿の見えないものも、人も。飾りの皮を脱ぎ、姿をあらわす夜の庭。


 武王と王妃も、夜のあいだはただの男と女。もしくは、神獣を追う狩人か。


 でも、朝が来れば、そこはもう人の場所。


 ただの男と女は、人を導く武王と王妃――。




                      ...end




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