番外、後日談 <前編>


 たぶん、真夜中だった。


 寝ずの番を任された番兵が夜通し松明たいまつのそばで目を光らせているとはいえ、人が寝静まった夜半の雲宮は、とても静かだ。


 特に、須勢理すせり臥戸ふしどとする奥宮のさらに奥では、ぴいん……と静けさが張りつめているほどで、まったくの無音。その晩に限って、風の音すらしなかった。そういえば、夕前から雲宮に吹く風が止んでいた。


 暗闇の中でふと目を覚ました須勢理は、ゆっくりと寝返りを打った。


 そばで眠る男を起こさないようにと、彼の胸の上から慎重にごろりと横へ転げたのだが、眠りこけていたはずなのに、彼……穴持なもちは、須勢理のかすかな身動きに気づいたらしい。


「……どうした」


 目は閉じられたまま。寝ぼけているようで、声も掛け布の内側で温まった身体と同じようにぬるまって聞こえる。


 がさり――。二人が触れ合うあたりで、闇に響いた衣擦きぬずれの音。寝返りをうった穴持は、そばを離れかけた須勢理の背中を抱いて、もとの場所……自分の腕の中へ囲い直すように引き寄せた。


「ごめん、起こした?」


「いや。なにもなければ、寝る」


「うん、平気よ……なにもない。ちょっと目が覚めただけで……」


 頼もしい腕と胸にくるまれながら須勢理は小さくつぶやいたが、実をいうと、なにもないわけでもなかった。


 いやに生々しい夢を見た。


 そしてその夢は、あまり寝覚めがいいものではなかった。草木も眠る真夜中に目を覚ましたというのに、そのまま眠気を失ってしまうほど。


 夢に出てきたのは、穴持が雲宮から追い払ってしまった妻たちだ。夢の中で娘たちは、散々に須勢理を責めていた。夢から醒めた今ですら、耳のそばでくっきりと余韻が疼くほどの剣幕で――。


 ……見て、須勢理様よ? あの女が、武王をいいくるめてしまったの。


 ……穴持様を一人占めしたいからって。私たちを宮から追い出すようにいったのよ。


 ……穴持様はあの方のいいなりになっているのよ。とんでもなく嫉妬深くて、口うるさい女なのよ、須勢理様は……!


 夢の中で須勢理を責め続けた言葉は、どれも雲宮のどこかで耳にしたものばかりだ。


 巻向まきむくで須勢理に惚れたと宣言した穴持は、出雲に戻った後も気を変えることがなかった。


 須勢理がいったとおり、集めた女たちのもとを訪れては別離を告げて回った。


 でも、穴持は話をするのが……というより、人の話を聞くのが苦手。きっと、相手の想いを十分にくみ取ることはなかったのだ。


 なにしろ、何をいおうがどれもこれも命令じみたものになってしまう奇妙な男だ。穴持がしようとしたのが相談だったとしても、娘たちにとっては、従うしかない命令に聞こえたかもしれない。


「すまないが、もうおまえのもとに通うことはないだろう。おれにはいい女が……須勢理ができたから。というわけで、おまえは今後好きにしろ。故郷へ戻るもよし、次の夫が欲しいというならそれもよし……」


 そう告げると、


「い、今なんと……今なんと申されました……!?」


 そういって気を失った娘もいたと、穴持は須勢理に話した。


 そのたびに須勢理は、頭を抱えた。


「もう少しいいようがあったのに。あなたはどれもこれも、はっきりといい過ぎるのよ……」


 気を失ってしまったという娘の気持ちが、須勢理にはよくわかった。


 穴持に嫁いだ彼女たちは、武王に一生を捧げたはずだった。それほど重大な決断をして雲宮に入ったというのに、その約束を、突然反故ほごにされてしまっては――。


 でも、穴持を諭そうが、彼は眉をひそめて唸るだけだった。


「じゃあおまえがやれよ。おれに女心とやらがわかるとでも思っているのか?」


「それ、威張っていうようなことじゃないからね? あなたと女の子たちの問題に、口を出すような真似ができるわけがないわ。それこそ女心よ……」


 そして、それからというもの。須勢理は、ちくちくとした暗い眼差しを感じるようになった。館の柱の影や梢の裏で、娘たちがひそひそとつぶやく陰口を聞くことも。


 そんなことが起きても、須勢理は平然とした態度を保って、彼女たちの前を通り過ぎた。


 ……恨まれても仕方ない。当然よ。


 ……いくらあたしのせいじゃなくたって、結果は同じことだもの。


 あたしのせいじゃない? ……そんなことはないか。あたしのせいだわ、みんな。


 とはいえ須勢理も、文句一ついわずに受け止められるほど、寛容な心を持ち合わせているわけではない。


 どうして女ってこう、ぐちぐちぐちぐち……!


 ……ああ、面倒くさい!


 苛立ちはもちろん募るが、彼女たちのことを想えば、こみ上げる憤りは喉で止まる。


 須勢理を眠れなくしたのは、夢の中の責め文句ではなくて、そういう怒るに怒れない苛々かもしれない。


 しばらくずっと胸にはびこっていた苛立ちを思い出すと、須勢理は、真夜中の静寂の中で大きなため息をつく。それから、自分を抱いて眠る武王の胸の上に頬を寝かせたままで、そっと目を閉じる。今そこにある静寂とはまるで真逆の、騒々しい胸の内。それを落ちつかせるように、彼が与えてくれる安堵に浸った。


 大嫌いだけど、この上なくいとしい。穴持はそういう相手だ。


 でも、思うに、そういう想いはとても厄介だ。


 穴持には、須勢理がどうしても気に食わないところがある。でも奇妙なことに、その部分は嫌いと感じると同時にいとしくも感じる。大嫌いなものが同時にいとしければ、彼を心から疎ましく思う未来など、絶対に来そうにないのに――。


 女心を解する繊細さなど持ち合わせていない、穴持の傲慢な部分は、野性的な男らしい魅力として。結局須勢理は、穴持を恋しいと思う気持ちから抜け出せない。


 それはまるで甘い毒に痺れたり、奇妙な海で溺れたりするのに似ていた。


 苦しいと知っているのに、自分からわざわざ痺れに、溺れにいってしまうような――。


 そうと思い知れば思い知るほど、須勢理を支配する恋心というのは厄介な想いだった。




 


 穴持の妻として女宮に仕えていた娘のうちほとんどは、みずから雲宮を出たらしい。


 王妃の座を失ったとはいえ、出雲の英雄の妻だった娘たちは美しかったり賢かったり、なにかしらを誇っていた。好んで次の夫になりたがる武王の部下も少なくなかったのだとか。


 武王の妻という名を保ったままで、離宮に移り住んだ娘たちもいた。そのほとんどが力ある王にゆかりのある娘たちだが、ひときわ豪勢な離宮を構えたのが、一の姫。穴持の一の后という名を戴いたまま雲宮を出た、越の姫だった。






 三十日か、それくらいおきに一の姫の離宮を訪ねるのは、須勢理の決まりだ。


 一の姫のために建てられた離宮は、雲宮からすぐの野にある。


 のどかな野道に蹄の音を響かせて、一の姫の宮殿の門前にたどり着いた時、須勢理の耳には、きゃっきゃっと明るく騒ぐ童の声が聞こえていた。あちこちを走り回っているらしいその童を追いかけている、誰かの声も。


葦男あしお様! そんなところにいっては危ないです……! きゃあ、姫様ぁ~!」


 きっと、穴持と一の姫の間の御子だ。


 故郷の越で一の姫が産み落とした穴持の御子は、男の子だった。葦男という幼名を名づけられたその男の子は、もうじき二歳になる。母君である一の姫と一緒に出雲へ戻って来てから、すでに一年が経っていた。


 かつ、か……。堅く突き固められた土の上を進んで門をくぐると、幼い男の子を追い回す侍女の姿が目に入る。葦男は、木の上にいた。まだ言葉もおぼつかない小さな身体をしているくせに、木登りがお気に入りらしい。


「下男を呼ばなくては。誰か、葦男様を木の上から連れ戻して、誰か! あ……」


 慌てふためいていたはずなのに、侍女の声は、やってきた須勢理に気づくと、ぴたりと止まる。


「須勢理様……」


 侍女は、煙たいものを見るような、そうもいかない相手を前にして戸惑うような、奇妙な真顔をした。とてもわかりやすい出迎えだ。


 この離宮を訪れるたびに、こういう迎えられ方をすることにも、須勢理はもう慣れていた。


「一の姫はいる? 届け物を……」


 馬上から微笑みかけると、須勢理は、手に携えていた包みをわずかに持ち上げてみせる。中にあるのは、近くの里から雲宮にと届けられた果物だ。


 一の姫は、幼い御子が走り回る前庭が見渡せる場所にいた。高床の回廊へ続く階段に腰掛けて、木漏れ日で頬をきらめかせながら、無鉄砲に走り回る我が子の姿に微笑んでいた。


 馬にまたがった須勢理に気づいても、一の姫の微笑は変わらない。侍女たちのように、嫌なものを見るような顔はしなかった。


「まあ、須勢理様……。お久しぶりです、どうぞ奥へ」


 声にまで木漏れ日が似合うふうで、いい方も穏やかだった。






 葦男はかなり腕白な幼な子で、御子を追いかけ回す侍女の声は、もはや息が切れていた。


「葦男様……ま、待って……」


 木窓を隔てて聞こえてくる騒動に耳を傾けて、須勢理はくすりと笑った。


「元気な御子ね。少し見なかっただけなのに、また大きくなったみたい」


「ええ。穴持様と同じ幼名をいただいたからでしょうか。このまま出雲の武人らしく、勇ましく育ってくれればいいのですが……あの方のように」


 須勢理を広間に招いた一の姫は、柔らかく笑む。


 それから、須勢理が運んできた布包みがほどかれて、中から瑞々しい赤紫色をする葡萄が現れると、一の姫は、長いまつげに縁取られた美しい目を輝かせた。


「まあ、立派な……見事な……」


「うん、武王の奥方にって、さっきいただいたの。離宮のみんなで食べてね」


 控えめに須勢理が告げると、向かい合って正座をする一の姫は目を逸らし、ふうとため息をついた。


「須勢理様だって、穴持様の奥方じゃありませんか。誰よりもあの方に愛される……」


 一の姫の美貌にあった爽やかな微笑は、いつのまにか薄らいで、いい方も、いくらか疎ましげなものに変わった。


 須勢理は苦笑した。一の姫とのこういうやり取りにも、もう慣れっこだった。


「今だけかもしれないわ。彼の気まぐれな性格は、一の姫だってよく知っているで……」


「ええ、わかっています。わたくしたちの身の振りは、あの方の御心がすべてです。いちいち苛立つのが馬鹿げたことだってくらい……」


 赤い唇をきつく噛み、昂ぶった気を落ちつかせるかのように、一の姫は黙った。


 木窓から流れ込む涼しい風に乗って、無邪気にはしゃぐ童の声が木窓から聴こえる。それは、二人の気まずい沈黙を撫でる日差しのように、広間の中にじんわりと広がって響いた。


 しばらく沈黙を続けた後で、白い顎を上げ、一の姫は須勢理を見つめた。瞳は不安げだった。腿の上で組んだ手のひらを堅く握りしめながら、一の姫は、赤い唇を再び震わせた。


「須勢理様は、お強いわ。わざわざわたくしを気遣って、こうやって訪れてくださって……。馬鹿ついでに、もう一つ馬鹿なお尋ねをしても?」


 そんなふうに問われたら、了承しないわけにいかない。


「ええ、もちろん」


 一の姫は、ためらうように、じわじわと唇を動かした。


「あの……あの方に、わたくしの元へ通わないようにと、あなたはおっしゃっていませんよね? あの方がわたくしの元に毎晩訪れないのは、あなたのせいでは……」


 一の姫の言葉の最後は、声にならない。声に涙が混じっていくのを止めようと、咄嗟に添えられた手のひらで、一の姫の赤い唇は覆われていった。


「ごめんなさい、その……」


 涙声で謝る一の姫は、須勢理の目の前でしばらく咽び泣いた。


「あの方は、こちらにいらっしゃると、とても優しいのです。わたくしを嫌って遠ざけているようには見えず……それでつい、そんなことを考えてしまって……」


 穴持は、一の姫が暮らすこの宮を今でも訪れている。一の姫だけでなく、妃として近くに住まう娘のもとには、時々足を向かわせているはずだ。


 実は、彼をそうさせているのは、須勢理だった。


『なぜ、おれを追い出すような真似をするんだ。他の女のもとへいけとか……』


 穴持はぶつぶつと文句をいったが、須勢理がいうので仕方なく……と、十日に一度くらいは、どこそこの離宮へ寝泊まりをしにいく。


 はじめのうちは、そこへいっても彼が不機嫌で、須勢理が穴持をいい諭して向かわせていると娘たちに知られたらどうしよう、と心配していた。いくらそれが善意からなされたものだろうが、お情けをかけられたと、逆に彼女たちを傷つけることにならないか、と――。


 でも、その心配は、取り越し苦労に終わる。


 よくも悪くも目の前のことに真剣になる穴持は、いやいや出かけたところで、そこで彼を慕う見目麗しい娘たちに寄り添われれば、その晩はちゃんと彼女たちと恋に落ちるらしい。一の姫が今、ここに来た時の穴持は優しいと口にしたように。


 心配していたことが起きずに済むのはもちろんほっとするが、須勢理の胸の内はとても複雑だった。


 穴持を雲宮から追い出す時もそうだが、一の姫の口から「ここへ来るとあの人は優しい」と告げられた今も、それは同じく変わらない。


 ……彼が、ちゃんと一の姫たちを愛しているのならいい。よかった……。


 一の姫たちを案じて安堵するのは、もちろん本心だ。でも、穴持が一晩でも別の娘の元で過ごすという事実は、須勢理をたまらなく苦しめる。なにしろ、あの気まぐれな彼が、再び須勢理のもとに戻ってくるかどうかなど、わからないのだから――。


 そうして、嫉妬するたびに自分の心の狭さを嘆きたくなる。


 ……彼女たちとは比べ物にならないほどたくさんの時間を、須勢理は穴持のそばで過ごしている、それなのに――わずかな時間を奪われることを、恨むなんて。


 やっぱり、いくら陰口をたたかれても文句などいえない。自分はとても嫉妬深くて、口うるさい女なのだ。自分を悪くいう娘たちに恨まれて当然なのだ。


 安堵と嫉妬。その後にやって来る想いは、謝意だった。


 ……ごめんね、こんな女が現れてしまって――。あなたの居場所を奪うことになって。


 昔と変わらず、今でも安堵と苛立ちを同時に須勢理に与え続ける穴持は、こういう場でも、須勢理に複雑な想いを抱かせる。


「なんていうのか、その……。彼が一の姫に優しいのなら。よかったわ……」


 彼を一人占めしていてごめんね。そのあたしが、あなたに嫉妬してしまってごめんね。でも……あなたを、彼が愛しているのならよかった。本当に。


 複雑な胸の内を表すように、眉根を寄せつつ苦笑すると、一の姫は気まずそうに横顔を向けた。


「……やっぱり、あなたがあの方をここへ向かわせていたんですね……」


 そんなことは一言もいわなかったのに。一の姫は、今の須勢理の態度でそれを察してしまった。


「ええ、わかっています。今、あのお方が夢中なのは須勢理様です。ひとたびこうと思えばなかなか気を変える方ではないということも、わたくしは知っているのに……つい、もしやと……。そうだったらいいのにと……」


 気を落ちつかせるように何度も息を吐いて、一の姫は息苦しそうに続けた。


「あなたは、お強い。あの方のそばにいたのがわたくしだったら、絶対にそんな真似はできません。女宮から追い出された娘の中には、あなたを責める者もいるでしょう。でも、気になさってはいけませんよ? あなたを悪くいう娘は、妃という位を失ったのが嫌なだけです。孤独を知らないのです。女宮に留まっていれば、須勢理様しか見ない穴持様を毎日見なければいけないのに……それを苦しいと思わない者ばかりなのですから」


 一の姫がいうのは、須勢理を勇気づける言葉だ。傷つくのを見ていれば済む相手を慰める言葉。


 唇の端を横に引き、須勢理は苦笑した。


「あなたのほうがよっぽど強いわよ。……ありがとう、一の姫」


 一の姫は、安堵の吐息を漏らした。でも、一の姫が浮かべた満足げな笑みは、すぐに崩れゆく。目つきは、暗く鋭いものへと変わった。


「わたくしは、須勢理様を尊敬しています。同じ女として素晴らしい方だと。でも、悔しくてたまらないのです」


 一の姫の口調は、しだいに早口になっていく。昔、二人が出会ったばかりの頃からは想像もつかない陰鬱な雰囲気をまとって、一の姫は、疎ましいものを罵るようないい方をした。


「あの日、あの方に、巻向へいきたいとなんかお願いしなければよかった! そうすれば、あの方が、巻向であなたを見初めることもなかったのです。ありがとうだなんて、おっしゃらないでください。……須勢理様、わたくしはあなたと比べ物にならないほど酷い女なのです。あなたがあの方と一緒に戦へ向かうたびに、わたくしは心のどこかで祈っているのです。あなただけが死んでしまえばいいと……!」


「一の姫……」


「あなたなんか、いなくなればいいのに……! そうしたら元通りに……あの方のそばに戻れるのに……」


 うっうっという嗚咽を苦しげに唇から漏らしながら、一の姫は目元を覆った白い袖の内側で小刻みに頬を揺らした。一の姫は、自暴自棄になっている風だった。


「酷いことを願う女だとお思いでしょう? 本当にそう。自分でつくづくいやになります。今の話は、あの方にいってくださって構いませんから……」


「――いうわけがないわ。一の姫がそう思うのは当然よ。あたしが逆の立場だったら、きっと同じように苦しんでいたわ」


「……須勢理様」


 ひっく、ひっく……。嗚咽に苦しみながらも、前髪の隙間からちらりと須勢理を見上げた一の姫の瞳は、今の酷い言葉を謝るようだった。


 須勢理は苦笑を崩せなかった。一の姫を想う気持ちと、嫉妬と、謝罪と……。さまざまな想いが入り混じる今は、それ以外の表情を浮かべられなかった。


「あのさ、あたし、もうここに来ないほうがいいかな?」


「いいえ! 須勢理様、いいえ」


 一の姫は、引きとめるように前のめりになった。


「わたくしは、決してそんなつもりじゃ……」


「わかった。なら、またお邪魔させてもらうから」


 須勢理はにこりと笑って、それから、丁寧に続けた。


「穴持は、幸せな男よね。一の姫や、他にも何人もの娘からこんなふうに慕われて……」


「須勢理様が、それをお許しになっているからです。追い払おうと思えばできるのに」


「追い払うなんて、まさか……。穴持には一の姫たちが要るのに」


「わたくしたちが? いえ、慰めのお言葉ですね。須勢理様は本当に……」


 袖で涙をぬぐいながら儚く笑った一の姫を、須勢理はじっと見つめた。


「嘘じゃないわ。それに、あたしがずっと彼のそばにいるとは限らないわ。彼と一緒に戦に出向いているんだもの。いつ命を落としたって不思議じゃないわ。それに……」


 そこまでいうと、一度須勢理はうつむいて、しばらく唇を閉じた。


 須勢理の仕草を見ると、一の姫は訝しげについと首を傾げる。


「……須勢理様?」


「あぁ、ごめん。とにかく穴持は、器用そうに見えて一人では何もできない人よ。いろんな人の助けが要るの」


「そんな、何もできないだなんて……」


「とにかく、一の姫は彼にとって大事なのよ。それは絶対に間違いないわ。それに……」


 やはり何かをいいかけようとして、須勢理は口ごもった。


 その時、須勢理の脳裏には、とある言葉がちらついていた。それは今、一番誰かに話したい言葉だったが、須勢理にとっては、絶対に口にしてはいけない言葉でもあった。


 迷うくらいなら、信じる通りに、やはり胸にしまっておくべきなのだ――。そう覚悟を決めた須勢理は、やはりそれをいわないことに決めた。そして、ふっと微笑んだ。


「まあ、いいわ。彼を愛してあげてね? そして、もしもいつかあたしがいなくなったら、彼をお願い」


「いなくなったら、だなんて……不吉なことをいわないでください」


 一の姫は、叱るようないい方をした。須勢理など死んでしまえばいいといったそばから、次は須勢理の身を案じて……。


 いうことがころころと変わる一の姫の気持ちが、須勢理にはとてもよくわかった。きっと、一の姫も混乱しているのだ。そして須勢理と同じように、さまざまな想いが気味悪く入り乱れる胸の内に、戸惑っているのだ。


 須勢理がいなくなればいいと願うのも、無事を願うのも、どちらも一の姫の本心。そして、どちらかを想うたびに、想ってしまうことを恥じて、もしくは苛立って、ますます苦しむのだ。それは、今の須勢理と同じだ。


「やっぱり、ひどい男よねえ……。娘を自分に夢中にさせて回るくせに、幸せにしようっていう気がまるでないんだから……」


「ひどい男って、穴持様のことを?」


「ええ、そうよ。あたしも一の姫も、本当に物好きよね。思うような幸せなんか来そうにないのに、こんなふうにあの人を想い続けているなんて」


「須勢理様……」


 一の姫は、長いまつげで縁取られた華麗な目を見開いて、ぽかんと唇を開けた。それから、須勢理と目を合わせて、くすりと笑んだ。


「仕方ありません。わたくしは、あの方をお慕いしています。なにが起きようと、一生変わることなく、わたくしはあの方を想い続けます」


 須勢理にとって、一の姫は、同じ男を夫にする妻同士という不思議な仲の娘だ。


 須勢理と一の姫は、見た目も気性もまるで違う同士だが、互いに羨んで、互いに面倒を見合っている。それはまるで戦場で、あいつは強いと敬意をもって戦う敵同士の間柄に似ていて、一の姫が須勢理にとって大事な相手であることに、違いはなかった。


 微笑をたたえたまま、須勢理は一度、そっと唇を結ぶ。それから、慎重に唇を開いた。


 同じ男への慕情と闘い続ける彼女には、告げておきたいことがあった。


「あのね、一の姫……実は」


 それは須勢理の迷いでもあり、不安でもあった。







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