番外、後日談  <後編>


「実は、あたしね、昨日から神野くまのにいっていたの」


「神野?」


 話題が変わると、一の姫はきょとんとまばたきをした。


 神野というのは、出雲の地名だ。異国の出とはいえ、さすがは武王の一の后。神野という耳慣れない名も、一の姫は覚えていた。


「神野って、意宇おうの先の、大巫女のお住まいのことでしょうか?」


「うん。事代ことしろと巫女の本拠地で、出雲一のやしろがある場所よ」


 そこまで聞くと、一の姫は、麗しい弧を描く眉をついとひそめた。それから、須勢理の目の奥を探るように、じっと見つめた。


「須勢理様……? その、神野でなにかあったのですか? そういえば、今日の須勢理様は少しへんです。さっきから何度か、なにかをいいかけましたよね? 須勢理様がそのように口ごもるのは、なにか、へんです――」


 おっとりしているように見えて、一の姫はなかなか鋭い。品のいい所作といい、勘の鋭いところといい――。さすがは異国の王の娘と、唸らずにはいられなかった。きっと一の姫は、幼い頃から、いずこかの国へ王妃として嫁ぐためにと育てられたのだろう。


 実のところ、ぎくりとした。いわないことにしようと決めたはずのことを、追及された気分だった。


「神野で、なにかあったといえば、そうなんだけど――」


 目を逸らしつつ口ごもるが、須勢理はふっと苦笑して、一の姫に微笑みかけた。


「やっぱり、それはいわないことにするわ」


「いわないことって……やっぱり、へんですよ、須勢理様。――神野の大巫女は、言告げをなさると耳にしたことがあります。もしかすると、なにかよくない言葉でもお聞きになったのでは――」 


「鋭いね、一の姫は」


 須勢理は、吹き出した。


「そうなの。神野の大巫女に用があって出かけてきたんだけど、実は、いい言告げと悪い言告げを聞いてしまったの。悪いことのほうは、あたしはそれを信じないことにしたいの。だから、あんまりいいたくないんだ。口にしたら、認めてしまう気がするから。……ごめんね」


「なら、いいんです。それが悪いことなら、ぜひ黙っていてください。本当に起きてしまったら大変ですもの。……それで、須勢理様、いいことのほうは?」


「うん。そっちも、本当にいいことなのかどうかは、よくわからないんだけどね」


 須勢理と向かい合う一の姫は、言葉の続きを待って、じっと動かずに真顔をしている。


 出会ってから数年を経ても、一の姫の美貌は変わらない。嫉妬という、暗い影のある表情を覚えてしまったとはいえ、純粋に人を想う気優しいところも、昔から変わらなかった。


 すう……。ゆっくり息を吐くと、須勢理は思い切って唇を開いた。


「実はね、やや子ができたみたいなの」


「まあ……」


「雲宮にいる事代にそういわれて、神野の大巫女にもたしかめたんだけど、間違いないっていわれたわ。あたしの中に、二人分の命があるって――」


「……おめでとうございます、須勢理様!」


 息を飲むように笑って、一の姫は祝った。でも、須勢理は素直に笑えなかった。


「ありがとう。でも、だから……」


 幸せと不安を混ぜ合わせたぎこちない笑みを浮かべて、須勢理は、一の姫の目元をじっと見つめた。


「あたしもこの先、どうなるかわからないわ。穴持なもちは、子供ができたって大はしゃぎするような人じゃないでしょう?」


「……あ」


 そこまで聞くと、一の姫は苦しそうに目を伏せる。


「たしかに――。穴持様がここへいらっしゃるたびに、葦男あしおにご挨拶させているのですが、あの方はあまり御子に興味がないようで……」


「そうよね。困ったことよ」


 須勢理は、やれやれと肩を落とすようなふりをしてみせる。それから、にこりと笑った。


「でも、子ができるっていいものね、一の姫――。この先なにがあっても、この子がいれば元気でいられる気がするわ。……昔、あたしはね、こんな人生なんか嫌だって思っていたの。でも、実際にそうなると、違うものね」


 くすくすと笑う須勢理につられたように、一の姫も、じわじわと温かな笑みを浮かべていった。


「須勢理様、幸せそう……」


「ええ、実はそうなの。不思議ね、女って。厄介な男に振り回されて、泣いたり怒ったりしているのに、その男の生まれ変わりを得て、こんなに幸せな気分になれるんだもの」


 須勢理が、吹っ切れたような晴れ晴れとした笑顔になると、一の姫も、くすりとはにかんだ。


「では、先達せんだつとして申しますが、子は、本当にいいものですよ。だって、顔つきや気性はあの方なのに、葦男は絶対にわたくしのそばを離れようとしませんもの。危ない真似をしたり、心配させたりして、あの方のようにわたくしを振り回しますが、わたくしを泣かせるような真似は絶対にしないんです」


「本当、誰かさんとは違うわね」


 冗談をいって吹き出した須勢理に、一の姫は噛みしめるようにいった。


「――そうですよ、須勢理様。だからわたくしは、今、とても幸せなんです。いればきっと苦しいだけの雲宮から離れて、時々はあの方が訪れてくださって、葦男の世話をして……。さっきはごめんなさいね、酷いことをいってしまって」


 須勢理を見つめる一の姫の瞳は、本音を語ろうとしている風に真摯だった。


「酷いことをいいたくはないのに、あの方のことに話が及ぶと、つい急に頭に血が上ってしまって……。いまさら信じられないでしょうが、わたくし、須勢理様に、とても感謝しているんです。本当に……」


「――感謝されるようなことじゃないわよ。あたしは、一の姫を苦しめている一人なんだから。でも、ありがとう――」


 じっと見返した須勢理にうなずいて、一の姫は、朱で彩られた小さな唇に笑みをたたえた。


「どうかまた、懲りずにいらしてくださいね。次こそはわたくし、ちゃんと気を落ちつかせて、その……」


「いいのよ。遠慮しないで好きに文句をいえばいいわ。あたしは喧嘩友達でも十分だから」


 くすりと笑った須勢理を、一の姫は眩しそうに見つめた。


「本当に、須勢理様は……。きっと殿方として生まれてきていたら、凛々しい武人になられたでしょうに」


「そうね。男だったらよかった。そうすれば穴持に引っかからずに済んだのに」


 須勢理のいった冗談に、一の姫はふふっと可笑しそうに笑い声を上げた。





 一の姫の離宮を出た須勢理は、門前で待たせていた従者を連れて、雲宮への道をたどる。


 みずから馬を駆りはしたが、歩みはゆっくりだ。腹子が宿っていると須勢理に教えた事代に、釘をさされたからだ。


『とにかく、いつものような無茶はおやめくださいね。馬に乗るなとはいいませんが、豪快な早駆けはおやめください。でも、できれば馬を下りて歩いてください』


『……馬に乗らなきゃ、どこにもいけないわよ?』


『はい。ですから、しばらく大人しくしてください。いっておきますが、戦にいくなどもってのほかですよ?』


『ええー?』


 噂には聞いていたけれど、身ごもるって、なんて面倒なんだろう……!


 と、初めこそそう思ったが、神野という聖地で、出雲一の大巫女とされる老婆の口からやや子の存在を告げられると、不都合を嘆くことは忘れた。


 事代から諭された通りにゆっくりとした歩みで道をいき、気をつけていれば気をつけているほど、まだゆっくりなほうがいいかな? お腹の子は苦しがっていないかな? と気になって、気がつけば、いつも須勢理の手のひらはお腹のあたりを撫でていた。


 ……この子がいれば、今になにが起きても平気。大丈夫。


 一の姫に告げた想いは、本物だった。お腹に手を当てているだけで、これまで味わったことのない安堵がこみ上げる。


 でも、雲宮に近づくにつれて、憂鬱もこみ上げてくる。今から、やや子のことを穴持に伝えなければいけない。身ごもったと知って大騒ぎするような人ではないのに、と、そう思うと――。


(さて、どうしよう)


 何度目かの深いため息をつきながら、やはり、手のひらはいつのまにか腹を撫でている。腹はまだ平たくて、そこに子が宿っているなどとは、外からはわからないだろう。でも、須勢理にはわかった。


 そこには、絶対に特別なものがいた。大巫女や事代にたしかめなくても、須勢理が自分で確信してしまう、いとしいものが――。


 お腹を撫でながら、須勢理は胸で思った。


(いい。正直にいおう。彼がどう変わったって、あたしには、この子がいるから……)


 不安は絶えなかった。でも、茜色の光を浴びながら馬に揺られた須勢理は、たしかに微笑んでいた。






 雲宮に戻る頃には、すでに日が暮れていた。


 ひとまずと寝所に戻ると、そこには先に穴持が待っていた。


 まさか、こんな早くに出くわしてしまうとは――と、目が合うなり、思わず息が止まる。


 身動きをぎくしゃくとさせた須勢理を睨みつけて、上座であぐらをかいていた穴持は、問い詰めるようないい方をした。


「昨日から雲宮を留守にしていたらしいな。おれを追い出しておいて――」


 昨晩も、彼はどこぞの離宮へ出かけていたはずだ。須勢理に追い払われるようにせっつかれて渋々出ていったところで、いけば、結局楽しく時を過ごしていただろうに、穴持は、追い出された時の苛立ちを思い出したかのように不機嫌だった。


「いったい、どこへいっていたんだ」


「それはね、その……実は、神野に」


 心の準備がしっかりできているわけではなかった。でも、出会ってしまったからにはいうしかない。


「実は、いるのよ」


「は?」


「わかんないかなあ。ここに……あなたの子が」


 お腹のあたりをこれ見よがしに撫でてやると、穴持はようやく解した。


 伝えたところで大はしゃぎをして喜ぶような男ではないとは知っていたが、やはり、穴持に喜ぶ様子はない。それどころか、凛々しい黒眉を怪訝にひそめて、彼はおかしな提案を始めた。


「本当なのか?」


「間違いないわよ。神野の大巫女にも診てもらったんだもの」


「神野の大巫女? あいつらがあてになるか?」


「とにかく、間違いないわよ。あたしだって自分でわかるんだから」


「……どうにかならないのか?」


「どうにかって?」


「腹の中の子を、失くすことはできないのか」


「……はあ?」


 喜ばれないとは承知していたが、まさかやや子を流せといわれるとは思わなかった。


 須勢理は激昂して、両腕でお腹を庇いながら後ずさった。


「なんてことを……。いいわよ。あたしなら一人で生きていくから。他の女のところでもどこでも、いけばいいのよ……!」


「またおまえは……。どうしてそうおれを遠ざけるんだ」


 離れようとする須勢理の手首を、身を乗り出した穴持が捕まえる。自分のもとへ須勢理を強引に引き寄せると、穴持は、腕の中でそっぽを向く須勢理に向かってぶつぶつといった。


「厄介だな、子か……。おまえは、子なんかいないほうが面白いと思うんだけどなあ」


「どうして面白いとか面白くないとか、そういう話になるのよ! 子ができたのよ? 少しは喜びなさいよ! ふりでいいから!」


 須勢理が鼻息荒く文句をいうと、穴持ははっとしたように息を飲む。それから、つらつらといった。


「よ、よくやった。あ、ありがとう……」


 でも、いい方はとにかくぎこちない。須勢理は、ため息を吐いた。


「……もういいわよ」






 寝所に沈黙が訪れると、穴持は膝枕をねだった。


 横座りになる須勢理の腿の上にごろりと頭を寝かせると、穴持は、しきりに大きなため息をついた。


「子か……」


 彼は、そばにある須勢理の腹のあたりをちらちらと見ているが、目は、疎ましいものを見るようだった。それに気づくなり、須勢理は穴持の両頬を手のひらで包んで、別のほうを向かせた。


「そんな顔で見ないで。せっかく生まれた命なのに。気に食わないなら、あたしのことはもういいってば。他の娘のところにいったって、あたしは……」


 須勢理がすねると、穴持は、自分の頬を押しやる須勢理の手首を掴んで、そこから避けさせた。須勢理を見上げる穴持の顔は、不機嫌そうにしかめられていた。


「子ができたくらいで他の女のところにいくかよ。おれは、おまえだけでいいっていってるだろ?」


「あたしだけ……? どうしてよ。一の姫も他の姫も、みんな極上の美人よ?」


「美しい女がいい女か? まあ、そう思っていた時期がおれにもあったが……まあいい。おまえもかわいいぞ? おれの好きな顔だよ。美人だよ」


「とってつけたようにいわないでよ。一の姫のほうがめちゃくちゃ美人よ」


 ぷうと頬を膨らませて、須勢理はわざと不細工な顔をつくった。


「あたしは美人でもないし、所作に品があるわけでもないし、女だてらに戦にいったり駆け回ったりして、無鉄砲なところが珍しいくらいよ。それなのに、あたしはしばらく戦にもいけなくなったのよ? 珍しいこともできなくなったあたしなんて、そばに置いておく意味がないじゃない……」


「なにを、そんなにすねてるんだ?」


 眉をひそめて、穴持は不思議がった。


 それから穴持は、みずからごろんと須勢理の腿の上から木床へと転げ落ちると、須勢理の手首を引く。須勢理も自分と同じように床に寝転べと、命じるような手つきだった。


 それで、誘われるままに須勢理も穴持のそばに身を横たえる。


 須勢理がそばに来ると、穴持は腕を真横に寝かせて、須勢理のための枕をつくる。そこに、須勢理が寄り添って寝そべると、指先で須勢理の頬をそっとなぞった。


「おれはおまえに惚れたといったろう? おまえを知って、いまさら他の女のところにいけるわけがないよ。おまえだけでいいんだよ」


「……どうして?」


 須勢理は、ふうとため息をついた。


「わかんないなあ。子供が産まれるまで、豪快な早駆けは駄目っていわれたのよ? 戦にもいけないわ。珍しいことができなければ、あたしはただの野蛮な田舎娘よ。一の姫や、ほかの綺麗な姫を侍らせておけばいいのに……」


「だから、どうしてそんなことをいうんだ? しかも、泣きながら」


 首をもたげて須勢理の顔を見やる穴持は、降参といわんばかりの怪訝顔をしていた。


 須勢理はむっとしていい返した。


「泣いてなんかないわよ……!」


「そうか? 目が潤んだ気がしたが」


 穴持は首を傾げて、見間違いを不思議がった。それから、もうよくわからないといいたげに須勢理の渋面から目を逸らすと、須勢理をさらにそばへ抱き寄せるように、肩の上に手のひらを置いた。


「おれが、おまえのなにを気にいっているか? 全部、と答えるしかないから、なにをというのは特にないんだが……そうだなあ。――しいていえば、おまえは嫉妬しないだろ?」


「嫉妬?」


「ああ。女はみんな嫉妬深い。おまえ以外は」


「そんなの……嫉妬して当然よ。あなたみたいな女たらしが相手じゃ……」


 穴持は、記憶の中の疎ましいものを鬱陶しがるようなため息をついた。


「でも、おまえは嫉妬しないだろ?」


「……しないことはないわよ。あまり口に出さないだけで。……いいえ、嫉妬深いわよ。とんでもなく口うるさくて、心の狭い女よ、あたしは……!」


「だから、なにをそんなに怒ってるんだ?」


 ぶつぶつと須勢理がいうのを遮って、穴持は話を続けた。


「まあ聞けよ。たとえば、一の姫だ。一の姫をおれは気に入っていた。あれは美しいし気立てもいいし賢いし、おれに惚れてた。それでも、あれは嫉妬深いんだよ。口ではいわんが、会えばいつも態度でおれを責める。……無視したが」


「また、さらっと酷いこといった」


 呆れ声でたしなめてから、須勢理は反論した。


「一の姫が嫉妬深い? それは最近の話でしょう? あなたが彼女のもとへあまり通わなくなってから……」


「昔からだ。おれが毎晩あれのもとに通っていた時から、ずっと」


 穴持は、その頃のことを思い返したようにふうと息を吐いた。


「一の姫は、いつもおれを責めてたよ。女相手に嫉妬されるのはどの女も同じだったが、一の姫には、よく出雲相手に寂しがられた。武王の役目などほどほどにして、自分のもとへ来てくれと――。無視したが」


「……また、酷いことをいった」


 呆れ調子で、須勢理はなかば条件反射のように咎めた。

 

 でも、それには穴持もいい返した。


「悪いかよ。おれにとっての一番は、女じゃなくて出雲なんだ。それを邪魔されるくらいなら、気なんか許すか。……おまえだって一度武王になってみればいい。些細な動き一つが歴史、人、全てに作用する。とんでもなくどでかいものがのし掛かる緊張と恐怖を、味わってみろよ。嫉妬だの慕情などは煩わしいと、おれの気がわかるさ」


 彼がいわんとすることは、わかった。雲宮にいる時ももちろんそうだが、戦場へ出かけた時の穴持は、そこへ一緒に出かけた全員分の命を預かるのだ。


 それを、苦ではないと穴持はいつもいっていたが、耐えられるだけで、苦がないわけではないはずなのだ。


「その……勝手なことをいって、ごめん。たしかに、あなたの苦労なんて、あたしにはわからないわ。でも、精一杯わかろうとしてるつもりで……」


 おずおずと謝る須勢理を抱きしめようと、穴持はひときわ遠くまで腕を伸ばした。


「ああ、おまえはわかってる。……覚えてるか? 巻向まきむくで、武王なんだから、毒矢なんか避けて当然。それができないならいちいちくたばるなと、おまえはおれにいったな?」


「……いったっけ、そんなこと」


「いったよ。鬼か蛇かという恐ろしい剣幕で」


「……きっと、勢い任せよ。あたしはあの頃、ずっとあなたを怒っていたから……」


「勢い任せでもなんでも、おれはあの時、おまえに狩られたんだよ。あれ以来、おまえがそばにいないと不安で仕方ない」


 そこまでいうと穴持は、照れ臭くなってうつむいた須勢理の耳元でくすりと笑んだ。


「おまえは、武王でいたがるおれを責めない。そのまま振り向くなと真顔でいってくれる。おれに帰る場所を与えて、安らかにしてくれる」


 力強い腕に抱きすくめられながら、衣越しに伝わり合う互いの温かみに包まれていると、須勢理の耳は、音にまで温かさを感じた。がさり、かさ……という二人の衣が奏でる衣擦れの音や、耳元で囁かれる声も、どれも温かいと感じた。


「好きだよ、須勢理。本当にいとしい……」


 寂しいことに、こんなふうに熱心に囁かれても、須勢理にはまだ彼が信用ならなかった。それでも、今にどうなっても構わない、この安堵に代えられるものはなにもない――そう思うと、須勢理はただ、そっとまぶたを閉じてしまう。


 毒じみた痺れだろうが、溺れているのだろうが、須勢理を捕えて離さないものは、これ以上はないほど甘く、いとしいと感じさせた。


(これに包まれていられるなら、これでいい)


 頼もしい胸元で温かみに浸りながら、須勢理はやはり、みずから深い海に溺れにいくような気分だった。


(こんなに甘い毒は他にない。こんなに深い海も。本当に、この人は毒みたいな男だ――)


 そんなふうにも思うが、そのうち、甘い毒や、捕まる場所がなにも見当たらない深い海じみた彼の愛情すらいとしく想って、毒に痺れたり、溺れていたりすることすら、だんだん幸せに感じていく。


 その幸せは深く澄み渡っていって、最後には途方もなく広がって須勢理を包み込み――須勢理はやはり、そこから逃げ出そうとは思えなかった。






 好きだ、いとしいと繰り返されながら抱きしめられて、しばらくぼうっとしていたものの、須勢理ははっと我に返った。


 気がつけば、寄り添っていた二人の身体はぬくもりを分け合って、同じ温かさにぬるまっていた。


「あれ。なんの話をしていたっけ」


 現実を思い出して、須勢理は少し素っ頓狂な声をあげた。


 穴持の変わり身の早さは、たいしたものだった。さすがは、いつでもすぐさま真剣になれる男。これまでの甘い雰囲気などなかったもののように、彼は須勢理を抱きながら渋い声を出した。


「しかし、おまえを戦に連れていけないのは困るよ。おまえがいない戦は、兵の士気が下がるんだが。どうにかならんのか?」


 なぜ急に戦の話? と思いきや、須勢理の腹子の話の続きだったらしい。


 須勢理が戦に現れないと困るから、腹の子はなかったことにできないか、と穴持は暗にいっていた。


 たちまち苛立ちを思い出して、須勢理は低い声を出した。


「あのねえ……少しくらいあたしの身体を気にして……!」


「身体を? そういうものなのか? でもなあ……厄介だなあ、こいつ」


「あなたね……。そんなことをいいながら触らないで。この子が可哀そうよ!」


 厄介だとぼやきながら触れられているのに我慢がならなくて、ついに須勢理は穴持のそばを離れて、彼の手が届かない場所へと転げた。穴持はすぐさま追ってきて、再び後ろから抱きしめてしまったが。


「待てって。そういうものなのか? ……わからん。わからんが、悪かったなら謝るよ。気をつけるようにする」


「……困った人。何度いっても聞かないくせに」


「そんなことない、ちゃんとわかった。でもな、須勢理。産むならせめて娘にしろよ」


 御子の存在を認めはしたが、そのように勝手をいう。


「はあ? そんなの、あたしには選べないわよ」


「なぜ怒る? 女は子ができると男から離れると聞くが、本当に厄介だな……。こいつさえいなければ、おれはおまえを独占でき……」


「離れて」


「悪かった」


 やや子のことを悪くいうのを聞いた瞬間にそばを離れようとした須勢理も早かったが、穴持も次は早かった。しかも次は、須勢理がそう簡単には逃げられないほどきつく抱きしめてきた。


 仕方なく、須勢理はそのままで尋ねることにした。


「どうして女の子がいいの?」


「おれ以外の男に、おまえを貸してやる気はないから」


「あのね……男って。子供よ? 赤ん坊よ?」


「子だろうがなんだろうが男は男だろ。決めた。おまえの中にいるのは女だ」


「勝手に決めないでよ……」


 本当に勝手な男だ。それはつくづく思ったが、あまりにも穴持がきっぱりといい切るので、いい加減須勢理の顔には苦笑が浮かんでいく。


「でも、あなたがそういうなら、本当に女の子だったりして」


「女だよ。絶対に女だ」


 彼がどんな想いでそういっているのかはわからないし、幸せな結果がついてこなかったらいやなので、無理に確かめようとする気は起きなかった。


 でも、再び須勢理の腹の上に手のひらを乗せた穴持が、はた目には父親らしいとも見えるふりをし始めると、須勢理はつい、今の温かな雰囲気に浸りたくなった。勘違いでも気のせいでもいいから、彼が、須勢理に宿った子の誕生を喜んでいると思いたいと――。


 小さく笑った須勢理は、幸せな芝居をもちかけるようにも尋ねてみた。


「女の子なら、じゃあ、名は?」


「ん?」


「名をつけてよ。あなたの娘に」


「名を?」


 頼まれると、穴持はしばらく黙った。十数えても、二十数えても彼の声は止んだままで、時おりさらさらと屋根を撫でる風の音をやけに鮮明に数えてしまうほど、ゆったりと、緊張に満ちた時が流れた。


 そして、穴持が唇をひらいた。


「……狭霧さぎり


「狭霧?」


「ああ、狭霧。天と地の狭間はざまに留まるものだ。上に昇りすぎず、低い場所から俯瞰して、大地を見渡す。雲宮にかかる白霧のような……そういう女になる」


「占師みたい」


 須勢理はくすくす笑った。それから、自分の腹に置かれた穴持の手のひらに、さらに手のひらを重ねてみた。


 二人の手のひらが重なった場所の奥には、二人の子が脈打っている。そのあたりをがっしりと支える大きな手の甲や、太い指の一本一本を改めて頼もしく感じながら、須勢理は未来を祝ってみた。


「本当にそうなるかもしれないわね。あなたはとても勘が鋭いから」


 それから、照れ臭いほどこみ上げる幸せにつられて笑い声をこぼした。


「狭霧か……。じゃあ、産まれるまでそう呼ぶことにするわ。産まれてみて、男の子だったら可哀そうだけど」


「……男はいやだ、女だよ」


「はいはい。わかったわよ」


 豪傑の風体をしているくせに駄々をこねる穴持にも、微笑ましいと笑いながら。須勢理は、重なった手のひらの奥へ向かって、話しかけてみた。


「ねえ、狭霧。かあさまみたいなおてんばになるのは、やめておきなさいね。それから、誰かを好きになるなら、とうさまみたいな女たらしは絶対にやめるのよ?」


「……嫌味か?」


 すかさず穴持が背後から文句をいうので、須勢理も笑顔でいい返す。


「そうよ? 嫌味よ」


 口ではそういったが、胸には別の想いがこみ上げていた。




 ……とうさまみたいな女たらしは、本当にたいへんよ? 狭霧。


 でも、もしそういう相手に出会ってしまったら、その人と恋に落ちるのも悪くないかもしれないわ。


 穏やかな日々は訪れないかもしれないけれど、きっと毎日、これ以上はないほど恋しいと感じられる。それはそれで、幸せかもしれないから。


 ……ええ。かあさまは幸せよ。幸せなのよ。実は――。




 幸せすぎて、どれだけ笑っても笑いは止まなかった。


 どうせ彼は、言葉でわかり合うような相手ではないし……と、胸でいった言葉をわざわざ声に出して伝えようとは思わなかった。


 須勢理の腹の上に二人で重ねた手のひらに、じっと力を込める。


 それだけで、穴持は意味を解したようだ。須勢理の枕に倒していたほうの肘を曲げると、指先を須勢理の唇に触れさせた。穴持は須勢理を見つめて、それから、彼も満足げに微笑んだ。






                         end....

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