番外、弓引きの逢瀬


 出雲の西方に位置する武王の都、杵築きつき。その王宮は、雲宮と呼ばれる。宮の裏手にそびえる小山がよく霧に覆われるので、まるで、宮そのものが雲を生み出して見えるから――というのが、その由来だった。


 しかし、天まで突き抜けるような初夏の青空のもとでは、その宮も、雲に覆われることはない。王宮の至るところに顔を出す大舘の屋根も、太柱も、門を成す柱も、塀の木目も、陽光を浴びてつややかに輝いていた。


 ある日の昼間、須勢理すせり穴持なもちと出くわした時、穴持は、気分よさげに微笑んだ。


「須勢理、兵舎にいかないか」


「いいけど、どうしたのよ急に」


 何を突然……しかも、兵舎?


 急を要するような何か、危うい事態が起きたとか? ――というわけでは、なさそうだ。


 穴持の顔にあるのは、気持ちのいい陽気に洗われたような、爽快な笑みだった。


「弓の勝負でもしないか。一人五本ずつ。的を外したら負けだ」


「いいけど……突然どうしたの?」


「何も。ただ、おまえの顔を見たら、弓を引きたくなった」


「……あのねえ。あなた、あたしのことをどんな目で見てるわけ?」


 気分よさげに笑う穴持の背後には、雲宮の館衆が二人ついていた。


 武王が宮を留守にする時に王宮の番をする高位の者で、どちらも齢は五十を越えている。武王の身体の影で苦笑する舘衆は、須勢理へこそこそと告げた。


「須勢理様、穴持様は暇なんですよ。さきほどから、暇だ暇だと文句を……」


「このお方は、暇を持て余すのが苦手なんです」


 須勢理は、苦笑した。


「そうでしょうねえ」



 武王になるために生まれてきた、神獣のような男――


 須勢理の父、須佐乃男は、そのように穴持を評していた。


 彼は、高慢との境があいまいなほど自信に溢れていて、人の話を聞くのが苦手で、そのうえ、物を壊すのが得意。配下の男たちを無言で従えてみせる異様な華を身にまとい、出雲はもちろん、周辺諸国にも名を馳せる歴代稀にみる武王だ。



(暇を持て余すのが苦手、ねえ。もし、この世から戦がなくなって平安の世が訪れて、武王が要らなくなったら、この人はどうなるんだろう?)


 考えてから、須勢理はふふっと笑った。


 大八嶋おおやしまのあちこちで戦が起きている今、彼の力が要らなくなることは、しばらくなさそうだからだ。それに、そんなことをぽつりといいでもして、彼に迷いを与えるのはよくないと思った。それで、彼が迷うか迷わないかは、ともかく。


「わかった、いくわ」


 大路の真ん中で歩みを止めていた館衆へ、須勢理が微笑んだ、その時。穴持の後姿は、すでに遠ざかっていた。彼は、自分の誘いを断られるなどとは思っていないようだ。


 陽光を浴びて、雲宮を東西に貫く大路の地面は、爽やかに輝いている。


 遠ざかっていく穴持は、須勢理を振り返りもしなかった。戦場だろうが、平生の遊びだろうが、穴持が見つめるのは、いつも前だけだった。


(来いといったわりに、本当に、この人ってば――。あたしがついていかなかったら、どこまで一人で行っちゃうんだろう……)


 周囲を気遣うことのないこの男に、ひそかないたずらを仕掛けてみようかとも思った。でも、須勢理の足は浮いてしまった。この男を放ってはおけない、と――。


「待ってよ」


 小走りになって声をかけると、ようやく穴持は振り返った。


 目が合った時、穴持は「なんだ、まだそんなところにいたのか」といいたげな渋顔をした。でも、しだいに笑って、大路の中央で足を止めた彼は、須勢理を呼び寄せるように、そっと左腕を掲げた。


 




 須勢理がそばに追いつくと、穴持は浮かせていた左腕を須勢理の肩に回す。


 そばに引き寄せられ、互いに身を添わせて歩くことになり、はた目には仲睦まじい若夫婦が散策をしている風景に見えるはずだ――が、実はそうでもない。


 須勢理の肩を抱いているくせに、穴持はそばに須勢理を従えていることに関心がないようで、大股で、しかも早足でずんずんと歩く。だから、須勢理は、無理やり前へ押しやられているような……連行されている虜囚になった気分だった。


「あの、もうちょっとゆっくり歩かない?」


「どうして?」


「そこまでいわなきゃ駄目なの? あたし、あなたに合わせて歩いたら、走らなきゃなんならないんだけど」


 穴持は自分の足元をたしかめて、いわれる通りに歩みを遅くした。


「あぁ、歩幅が違うのか」


 こういう人だと知っているので、今さら文句をいう気はないが――。とはいえ、いいたいことがないわけではない。今がいい機会だと、須勢理は、唇を尖らせて嫌味をいった。


「よくこれまで、たくさんの女の子にもてたわよねえ。こんな気遣いもできないのに」


「男がそんなことを気にするかよ」


「そう? 安曇あずみはいつも、あたしに合わせてくれるわよ」


 すると、たちまち穴持は、黒眉をひそめて苛立ちをあらわにした。


「……あいつを引き合いに出すな。おれよりあいつがいいってのかよ?」


「何を怒ってるのよ?」


「べつに」


 ふてくされたように横顔を向けた穴持は、須勢理の肩を抱く左腕に、これでもかと力を込めてくる。鼻がつぶれそうになるほど胸元に押しつけられて、足がもつれてしまうほどだったので、須勢理は文句をいった。


「ちょっと……」


 でも、鼻も唇も穴持の上衣に埋もれているので、声はくぐもる。前が見えずに、歩みすらおぼつかなくなった。


「やめてよ、転ぶから!」


 たたっ、た……。数歩進むごとに、つま先は自分か穴持の足につまづいて、須勢理は何度もよろける羽目になった。転ばせようとしているのは自分のくせに、転ぶ寸前で抱きとめて――穴持の太い腕は、面白がるように須勢理の胴を支えた。


「おまえの歩き方が下手なんだ。ほら」


 穴持の声も雰囲気も、遊んでいる時のものだった。呆れて見上げた須勢理が目を合わせた時などは、穴持はやたらと満足そうに笑っていた。


「あのねえ、あなたって、本当に……」


 まるで、好きな女の子をいじめて喜ぶ幼い子供みたいね。


 そういいたかったのだが、やめておいた。穴持が、ますますいじけてしまいそうなので……いや、いじけさせるのはともかく、そうなった彼を連れ歩くのは面倒なので。


 須勢理がそれ以上歯向かおうとしなかったせいか、穴持の嫉妬は落ち着いたらしい。


「ほら、歩けよ。須勢理」


 今度は、須勢理の歩みをわざと止めるようにも、後ろから抱きすくめてくる。仕草はさきほどの報復まがいのものではなく、単にじゃれたいだけらしい。


 ……まるで、好きな相手に飛びつく犬か猫か……


 須勢理は、主に懐いている小さな獣を思い浮かべてしまったのだが、さすがにこれは口に出さないほうがいいと悟って言葉を飲み込み、苦笑を浮かべた。


「なによ。安曇にやきもちを焼いたわけ? さっきあたしが、安曇の名前をいっただけで?」


 須勢理の耳元に降ってくる声は、それなりに素直だった。


「ああ、そうだよ? あいつは、おまえのことを妙な目で見てる。だからいまだに女ができないんだ」


「あのねえ、安曇に失礼よ? そんなことないって。安曇はあなたと違って……」


 大人なんだから。そういいたかったのだが、穴持は須勢理の言い分を聞こうとしなかった。


「そんなことない。妻にと、これまで何人も女を世話してやったのに、あいつはことごとく断りやがって……」


「だからね、安曇はあなたとは違うの。適当に女の子と過ごそうなんて考えない人だから、慎重なだけよ」


「……あいつの肩を持つな」


「じゃあ、どうしろっていうのよ?」


 安曇は、穴持がもっとも信頼する部下だ。普段の彼なら、こんなふうに安曇を悪くいうことはないのだが、今は虫の居所が悪いらしい。何をいっても機嫌が直りそうにないので、須勢理は匙を投げた。


(これ以上は触れないで、今の話が通り過ぎるのを待とう――)


 しかし、こう思わずにいられない。


 たった一言、須勢理が別の青年の名を口にしただけで、こんなに腹を立てるなんて――。


 嫉妬という想いを知っているなら、まず自分の胸に手を当てて、これまで自分がしてきたことを、じっくり考えて欲しいものだ。彼が大勢の娘相手にやらかしたことは、そんなに生易しいものではなかったくせに。






 こんな子供じみた苛立ちを、いつまでも相手にするほうが疲れるというものだ。


 どうせ今いっても聞くわけがないし、まあそのうち、いうことを聞きそうな時に説教してやろう……と、文句を飲みこんだ須勢理は、穴持に遊ばれてやることにした。


「だから、転ぶってば」


「しっかり歩けよ、ほら」


 くすくすと笑い声をこぼしながら、わざわざ歩きにくくなるように背と胸をぴったりとくっつけて、初夏の陽射しの中をよろよろと進んだ。


 出雲一の規模を誇る雲宮の兵舎は、いわば、出雲の軍事の本拠地である。そのせいか、その場所は、他とは違った少々緊迫した雰囲気を常に帯びている。


 兵舎の門をくぐるとまずあるのが、簡単な陣形の稽古もできるほど大きく造られた大庭だ。ちょうど移動の頃合いなのか、そこには、大勢の兵たちがぞろぞろと歩いていた。――が、兵舎の門をくぐって、彼らの主である武王と、その妃がじゃれ合いながらやって来ると、兵たちはぽかんと顔を上げて、足を止めた。


 目のやり場に困りますという顔を大勢からされているのに、穴持は須勢理から離れようとしなかった。それで、須勢理は自分から穴持の腕の中を抜け出した。


「もう、気が済んだでしょう?」


「気が済んだってなんだ」


 穴持の顔から、苛立ちは消えていた。嫉妬ついでに甘えたものの、やはり須勢理が読んだ通りに、気が済んだに違いないのだ。


ふと、行く手から声がした。


「あ、穴持様、須勢理様」


 須勢理と穴持がいたのは大庭の隅で、その奥には、武具をしまう舘や、戦会議に使われる舘や、宿直の兵たちが寝泊りをするための棟など、多くの舘が並んでいる。そのあたりから、大庭を横切って近づいてくる人影があった。――安曇だ。


 穴持は、敵を見つけたようにつぶやいた。


「……あの野郎だ」


 ぎょっとして穴持を見上げると、彼の笑顔には暗い陰りがあった。一度は気が済んだはずなのに、さっきの嫉妬を思い出したらしい。……意外に、根に持つ性質らしい。


 はじめ、初夏の爽やかな日和に似合うふうに安曇の童顔はにこりと笑っていたが、ある時彼も、主がまとう不穏な気配に気づいた。安曇はぴたりと足を止めて、身構えた。


「な、なんですか……?」


 にやりと笑いつつ、穴持は安曇のもとまで近づいていく。そして、少々せっかちな提案をもちかけた。


「安曇、おれは決めたぞ。ここ十日のうちに妻を娶れ」


「はあ?」


「おまえは武王のそえだろ? 妻くらい持てよ。いったい今いくつだ? 身をかためてもいい齢だろうが?」


「だからって、突然……」


 安曇は目を白黒させるが、穴持は退かなかった。


「決めたぞ? 明日から雲宮を出て、いいのを適当に探して来い。気に入った娘がいたら、おれがどうにかしてやるから」


 須勢理は、呆れた。


 ここ十日のうちに、安曇に妻にしたいと思える娘を探しに出かけさせて、見つかりしだい、穴持が武王の権力にものをいわせて話をつける、というのだから。


 きっと、穴持の魂胆はこうだ。安曇のそばで世話をする娘がいれば、いちいち嫉妬せずに済むと踏んだのだろう。しかし、それは、安曇にとっても、彼に見初められるかもしれない娘にとっても――いや、そんな目で物色される娘たちにとっても、いい迷惑だ。


「あのね、穴持……」


 これは、叱っておかねば。須勢理は今こそと話に割って入ろうとしたが、安曇のほうが早かった。


 彼は両手を腰にあてて、はあ……とため息を吐いていた。


「いきなり何をいっているんです、あなたは。ここ十日のうちに、神門かんどの港にある戦船をすべて丹念に見回って、ついでに船底を磨かせておけと、あなたはおれに命じていたでしょう?」


 さすがは、穴持という神獣の御者じみた役を担う青年。安曇が、穴持のわがままに動じることはなかった。


「それが終わったら、次は兵を連れて離れの兵舎にいき、戦陣の稽古をさせろとおっしゃっていたでしょう? あなたはいきたくないから、おれに任せると……!」


「あ……」


 穴持も、分が悪いと悟ったらしい。勝ち誇ったような笑顔は力を失っていき、ついには、安曇から目を逸らした。


 穴持が居心地悪そうに身を引き、守りに転じたというのに、安曇は攻めの手を緩めなかった。


「妻くらい持てって……おれにそんな暇があると思いますか? あなたは最近、ことによく怠けます。須勢理様と一緒にいたいからと、そのたびにおれに役目を押し付けるんです。せっかくの機会なのでいいますが、お役目の選り好みをするのはおやめください。あなたがいなくてもことが運ぶかどうかと見極める分には、まことに結構です、が! 気が乗らないからといって……!」


「わかった、おれが悪かった」


 おそらく、安曇のいうことに自覚があるのだろう。穴持は早々に折れたが、安曇はまだ穴持を叱った。


「悪いと思っているのなら、ちゃんと目と目を合わせてください!」


 思わず須勢理は、ぷっと吹き出した。


 かたや諸国に名を馳せる武王、かたやその副。共に連戦練磨のつわもので、鍛え抜かれた逞しい身体を持つ武人なのに、須勢理の目の前で二人がするのは、まるで兄弟喧嘩だ。例えば、わがままし放題の兄を、幼い弟が叱りつけている風な――。


 くすくす。笑いながら見ていると、穴持はとうとう逃げ出した。


「わかった、安曇。それはいいから、来いよ」


「はい? おれはまだ、話が……」


「いいから、弓の稽古場にいこう。弓を引かせろ」


「はあ?」


「さっさといくぞ。おれは須勢理と勝負がしたいんだ」


「はあ、勝負?」


 安曇の顔は、納得がいかないというふうに歪んでいる。しかし、穴持のほうは、すでに話を終えたつもりでいるらしい。須勢理の手を引くと、早速大きく一歩を踏み出して、安曇を追い越した。


穴持に手を引かれているので、須勢理も安曇のそばをすり抜けることになったが、すれ違いざまに安曇の渋面を見つめると、苦笑を浮かべて目配せを送った。


 ……本当にこの人は、困った人ね?


 目と目だけの会話だったが、安曇は意味を解したらしい。


 物憂げに片腕を上げて、首の後ろで一つに結わえた黒髪を手癖のようにいじると、安曇も眼差しで須勢理に伝えた。


 ……本当に、困った人です。






 須勢理と穴持の後を、安曇は、やれやれといった重い足取りで追ってきた。


 安曇が弓の稽古場にたどり着いた時、須勢理と穴持のそばには世話役を買って出た兵がいて、大弓をそれぞれに手渡していた。


「えっ、弓勝負? 穴持様と須勢理様の……?」


 噂はまたたく間に広がって、武王と王妃の武芸を見ようと、弓の稽古場にはたちどころに兵たちの輪が仕上がる。


 穴持の切り替えの早さは見事なもので、ついさっき安曇から呈された苦言も、その前の嫉妬も、何一つ覚えていないような涼しげな顔をした。


 身体を慣らすように利き腕をぐるりと回しつつ、穴持は、隣で兵から手渡されたばかりの大弓をいじる須勢理に笑いかけた。


「須勢理、何を賭ける?」


「え、賭ける?」


 そんな話は聞いていない。須勢理は目をしばたかせたが、その耳元に、穴持はそっと唇を近づけてくる。そして、なにやら耳元でこそこそと囁いた。


「え? ええっ?」


 聞くなり、頬を火照らせて須勢理はのけぞるが、穴持は知らんぷりをした。むしろ、驚く須勢理を可愛いものを見るように見つめて、唇の端をつり上げた。


「いやなら、おまえが勝てばいいんだ。おまえが勝ったら、おれに何をさせる?」


「だから、急にそんなことをいわれても――」


 須勢理は、うつむいてしばらく唸った。それから――。


「……一日、女装しなさい」


「女装?」


「女の格好をするのよ。角髪みづらを解いて、姫みたいに可愛く結って、唇に紅をさして、女物の衣装を着るのよ」


「はあ……?」


 穴持は素っ頓狂な声を上げ、周囲にはわっと笑いが起きた。


 穴持は、若さという勢いに溢れた武王。濃いきりりとした眉。森で生きる獣のような息吹のある瞳と、鋭い眼差し。腰に佩いた玉の御剣――。どれをとっても印象は勇壮で、娘の格好が似合う風ではなかった。


 そんな彼が、たおやかな姫の格好をさせられたら、いったいどんなに奇妙だろう。


 勝負の行方を面白がって、須勢理と穴持を取り囲む兵たちは、ますます身を乗り出して陽気に笑う。周りからの笑い声におされるように、須勢理は、じわじわと勝気な笑顔を浮かべていった。


「決めた。あたしが勝ったら、女装して一日過ごしなさい。だって、あなたが悔しがることを他に思いつかないんだもの」


「……ほんとかよ。まいったな」


 穴持は渋々と了承した。でも、顔は笑っている。彼も、この場に駆けつけた兵たちと同じように、須勢理との勝負を愉快がっていた。






 やがて、二人が立った場所からちょうど同じだけ離れた場所に、当て的となった木の棒が立てられた。それぞれの当て的を狙いつつ立つ二人のもとへ、そばに控える武人から五本の矢も届けられた。


 準備が整うと、穴持は目配せをした。


「先攻、後攻、どっちがいい?」


「後攻」


「構わんが、どうして?」


「あなたが負けず嫌いだから。あたしが当たったら、あなたは無理やりでも当ててくるもの」


「はは! いい読みかもな」


 初夏の風に似合う爽やかな笑い声を上げて、先手を務めることになった穴持は、手にしていた大弓を構えていく。


 戦場で、穴持は剣をふるうが、それは武具としてではなく、天へ向けてかざしたり、向かう先を示したりと、部下たちを従えるために使う場合のほうが彼には多かった。剣を使って穴持が敵を蹴散らかすところを、須勢理はあまり目にしたことがなかったが、穴持が大弓を持っている姿は、なおさら印象になかった。


 はじめて見るかもしれない穴持の弓を構える姿勢は、意外にも美しかった。


 当て的を見据える横顔も、まっすぐに掲げられた腕も、眼差しも、すべてが同じ方角を向き、大弓を軽々と支える腕は、武具の重さを感じさせなかった。手慣れた風に矢をつがえると、弦をたやすく引き絞って、やじりの先を的を定め、放つ。放たれた矢は、ぶれることなくまっすぐに宙を貫き、ドッと鈍い音を立てて、木の的に突き刺さった。


 周囲から、歓声が起きた。


「おお」


 いつの間にか、勝負を楽しむ兵たち頭の垣根は、二重三重になっていた。


「おまえの番だ」


 穴持が須勢理を見やった時、彼の笑顔は、どよめきに酔った風に誇らしげだった。


 見つめ返すと、須勢理もにこりと笑った。大弓を握り直すと、姿勢を正し、構えて、矢をつがえた。


 須勢理の弓の構え方には、どちらかといえば、流儀や型がなかった。それは、須勢理が弓の引き方を習った相手が狩人で、研ぎ澄まされた技を代々継承していく武人ではなかったせいだ。しかし、須勢理は、自分なりに技を研ぎ澄ませていた。須勢理にしかできない引き方できりきりと弦を絞ると、ひゅんと矢を放つ。その矢も、まっすぐな軌道を描いて、的を射た。


「さすがは姫様」


 勝負の行方を見守るやじ馬から、再び喝采が起きる。大勢の兵で賑わった弓の稽古場は、すでにお祭り騒ぎだ。騒動を見渡して、穴持は愉快そうに笑った。


「あぁ、楽しいな」


 次は、穴持の番だ。穴持は美しい姿勢で弓を構えると、ひゅんと矢を放つ。二本目の矢も見事に的に当たり、それから、四本目の矢を射るまで、二人は互角だった。


 しかし、穴持は五本目の矢を外すことになる。


「……くそ」


 穴持はぼやいたが、失敗の後で須勢理を見やる笑顔は清々しかった。見つめ返して、須勢理は笑った。


「次を当てれば、あたしの勝ちね」


「外せよ」


「いやよ」


 じゃれ合うようにいい合って、五本目の矢を指に挟み、須勢理は大弓を構える。


 須勢理に、次の矢を外しそうな危うい気配がなかったせいか、そばで見守る穴持は腕組みをして、早々に愚痴を吐いた。


「後悔するぞ? おれが女装なんかした日には、とんでもなく不気味だぞ」


「いいのよ。似合わないほうが、よっぽど面白いわ」


「おまえのほうが面白いよ。まったく、飽きんわ」


 苦笑を浮かべたまま、穴持の顔が、須勢理と同じ方角を向いた。須勢理が引き絞る矢の切っ先が、今に必ず射とめてやろうと狙いを定める場所を――。


 そして、須勢理は五本目の矢を放つ。天まで突き抜けるような初夏の青空のもとで、武王の宮に爽やかな笑い声をもたらす、最後の一矢を――。





                         end....





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朝が来れば、そこはもう人の場所 円堂 豆子 @end55

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