獣と生贄 (1)


 勝利の後の砦は、浮かれ声で満ちていた。でも、罵声や慎重な会話が途切れない場所もあった。武将たちの戦会議がおこなわれていた天幕の前だ。


「なぜだ……! なぜ奴らの砦を焼いた、穴持なもち!」


 武王に食いかかっているのは、年の頃三十ばかりという屈強な体躯を誇る大男。穴持と呼び捨てにしているからには、おそらく相応の位を持つ男なのだろうが。誰よりも豪奢な金色の戦装束に身を包み、そこであぐらをかいていた穴持は、彼を相手にしなかった。


「なぜだと? せいせいしたかったからに決まってる。伊邪那のものが目の前にそびえ立っていて、あんたは腹が立たんのか? 石玖王いしくおう


 逆になじり返すような横柄な口調に、彼より年上の武将は顔を赤くしていた。


「使いようはあった。なにも焼いて灰にしなくても……!」


「じゅうぶん使ったさ。目の前で盛大に焼けて、士気は上がった。もっと奴らのものを壊せ、崩せと」


 須勢理すせりは、その戦会議の隅っこにこっそりとお邪魔していた。安曇の後をついてきたらこうなったのだが、誰からも去れといわれないのをいいことに、好奇心に任せて居座っていたのだ。


 ……石玖王。穴持がそう呼んだ豪傑の風体の武将。彼の名を、須勢理はよく覚えていた。


 いま須勢理の腰を飾っている玉の御剣を贈ってくれた王で、出雲連国を成す石見国いわみこくという小国の主の名だ。


 かっかと肩をいからせながら不機嫌に歩きまわる巨体の武将を、そこに集った武人たちが、折れようとしない穴持の機嫌を取るように次々と諌めた。


「ま、まあまあ、石玖王……。いまはとにかく次の手を……」


「いずれにせよ、砦を失ったんだ。これで奴らは後退するしかない」


「いまこそ進撃すべきです。早ければ早いほどいいでしょう」


 十人近く集っていた身分ある武将という風体の男たちは、おのおのの考えを順々に口にしていく。


「早いほうがいいといってもただ攻めるわけには……敵陣の様子をたしかめるのに一晩ください」


「一晩でどうにかなるのか?」


「策士の彦名ひこな様が、早さと確実さを秤にかけるなら、それが一つの区切りだと。たとえ詳しくたしかめることができずとも、一晩のうちの向こうの行動である程度はわかると……」


 そのように口にした男へ、天幕の前であぐらをかいていた穴持は、目を合わせないまま頬を向けた。


「そういえば彦名は? あいつはどこにいった」


「いまは、事代ことしろを連れて丘のやしろに。見張りに出ている窺見と話をなさるとか」


「……ふ、ん」


 やはり誰とも目を合わせないままでうなずいた穴持は、一度ぱしんと膝のあたりを打つと颯爽と顔を上げた。


「奴らが建てたお粗末な砦を崩しただけで、出雲に帰るわけにもいくまい? 進撃する。策は彦名に任せる。おれはいったん桂木かつらぎの王宮へ戻り、次に備える。二日後の昼には戻るが、なにかあれば急使を走らせろ」


 それは決定だ。彼は話の終わりを告げていた。


 一同は頭を下げ、さっさとその場を後にした穴持の後姿を見送った。





 武王が去ってしまうと、その戦会議とやらはおひらきになったらしい。


 鎧の金音を響かせながら去っていく穴持の後姿を、安曇は追っていってしまったので、いまそこにいる武人の中に須勢理の見知りの相手はなくなった。でも須勢理の足は、ある武将のそばへと向いていた。屈強な体躯を誇る大男。さきほど穴持と喧嘩腰のやり取りをしていた石玖王だ。


 ここに集う武人の中でも、穴持の背は高いほうだった。でも、石玖王の背はまだ高い。そのうえ肩幅も広く、胸の厚さなどは穴持の倍はありそうだ。それが頑丈な鉄鎧に覆われているのだから、娘の身体の細さを見慣れている須勢理にその王の姿は、鉄山に手足がついているようにも見える。とにかく巨大だ。


 石玖王の髪は首の後ろで束ねられているが少々うねりがあるようで、紐で結わえようがそれは強靭な首を飾る黒いたてがみじみて見えている。眉も濃い。でも、不思議と目は澄んでいる。太い黒眉の下から覗く目は丸くて、人懐っこい童の雰囲気がある。


 いまも、様子をうかがいつつそばへ歩み寄っていく須勢理に気づくなり、彼は童のように後ずさって驚いてみせた。


 ……もしかしてこの人、若い娘が苦手なの? そんなふうに思うほど、いまの石玖王の身動きは挙動不審気味だった。一騎当千といった豪傑の雰囲気を持つ王だというのに。


「あの、はじめまして。その、剣を……」


 須勢理が石玖王に近づいたのは、いただいた御剣の礼をいうためだ。


 はにかみつつ話しかけた須勢理を、石玖王はまじまじと見下ろした。それから、ははっと大口を開けて笑った。名乗る前に気づいてくれたらしい。


「あぁ、あんたが……須佐乃男すさのおの末のお嬢ちゃんか!」


「はい、須勢理です。あの、剣を……」


「いやぁ、たいしたもんだったな。今日といい昨日といい、兵どもが大盛り上がりだったぞ? あの鬼神のごとき姫君はいったい誰だ、賢王の末娘か、なるほど武王の妃か、とかなんとか……!」


 意外にも、石玖王は陽気な人だった。彼を初めて見たのが穴持とやり合っているところだったせいか、もしかして気性の荒い人なのかと緊張していたのだが。


 がっはっはっ。豪快な笑い声をあげながら、石玖王はにんまりと笑った。


「それがなあ、あの姫の腰にあるのは石見国の石玖王の剣だ……みたいな噂までされてよ。いやー、お嬢ちゃんの武勇伝に俺の名も乗っからせてもらって、ありがとうなぁ!」


 礼をいいにきたつもりが、逆にありがたがられてしまった。しかもお世辞というふうでもなく、勢いあまって須勢理の手を両手で握り締めるほどだ。若い娘の手を握っていると気づくなり、石玖王はぱっとその手を放してしまったが。


 彼は顔を耳の先まで赤くしていた。


「いけねえ、つい……。悪かったなぁ、俺みたいな汗臭い毛むくじゃらに手なんか握られちまって……。あそこに井戸があるからよ、ほら、手を洗って来ていいぞ」


「手を洗う? まさか。そんな必要ありませんよ。それより、剣をありがとうございました。こんなに美しい剣を手にしたのは初めてだったから、とても嬉しかったです」


 くすくす笑った須勢理に見上げられると、頬を赤らめた石玖王は誰の目からもそうとわかるほど鼻の下をのばした。


「そ、そうか? そりゃあ、喜んでもらえて俺のほうこそ嬉しいよ」


 きっと、とても気のいい人なのだ。初めて言葉を交わした豪傑に憧れるようにも、須勢理は目を細めてしまった。


「稽古に励んで、いまにきっとこの剣にふさわしい使い手になります。だからそれまで、この剣はお借りしても……?」


「借りる? 一回くれてやったものを返せなんてけちなことはいわねえよ。それはもうお嬢ちゃんのだ。それに、あんたの腰にあるだけで、兵どもがみんな俺を羨むんだぜ? ぜひとも持っててやってくれよ。それで、ばっさばっさと敵を蹴散らかしてやってくれ」


 その剣で敵を倒せと、穏やかではない誘い文句をかけられてしまうと……須勢理の声は勢いを失ってしまった。


「ありがとう……」


 本当にそれでいいの? その問いかけは、鳴りやまない鐘の音のように胸の中に響いている。覚悟はつけた気でいたが、胸はまだためらっているようだ。


 それで、つい訊いてみたくなった。


 ……戦ってなんですか? あなたは、戦をどう思っていますか?


 穴持でもなく安曇でもなく、心のままのような笑顔を見せるこの王だったら、いったいどう答えるんだろう?


 でも、尋ねようとしても唇が動かなかった。唇がためらうほど、きっとそれは大それた問いだったのだ。


 笑うに笑い切れない奇妙な笑顔を浮かべて口ごもった須勢理に気づいたのか。にっと豪快な笑顔を浮かべる石玖王は、まだ問いかけもしないうちから彼の答えをくれた。


「なにかいいたそうだな? 戦なら好きだぞ? 俺の腕が要るとせがまれる俺の居場所だ。俺を仕留めるくらい腕の立つ奴に、出会ってみたいもんだ。……お嬢ちゃんの聞きたいことは、これでよかったかい?」


 まだ何もいっていないのに。思っていた以上のありがたい答えを、石玖王は須勢理へくれてしまった。


 ぱちくりと目を見開いた須勢理からは、神妙な真顔を成していた様々なものが崩れ去っていって、いつか、くしゃっとした満面の笑みが浮かんだ。





 打ち解けたと感じるほどしばらく話しても、まだ石玖王はふとした時にでれでれと頬を緩ませる。どうも本当に若い娘に慣れていないようだ。でも、それは須勢理に微笑ましい。この王の魅力だとも思った。それに。


(誰かとは大違いね)


 そんなふうにどこかの女好きと比べて、苦笑せずにはいられなかった。


 そのうち、須勢理を呼ぶ声がする。安曇だった。


「須勢理様、いくよ!」


 夕餉の支度が始まった砦では、粥を炊く白い湯気が夕空のもとに立ちのぼり始めている。その奥には騎馬軍の集まりがあって、安曇はそこから手招きをしている。


 そういえば、さっき穴持は王宮に戻って次に備えるといっていた。安曇やそこで馬にまたがる武人たちは、きっと穴持と一緒に戻るのだろう。


「うん、いま……」


 安曇に手を振り返して石玖王を再び見上げると、石玖王はにんまりと笑っていた。


「じゃあな、お嬢ちゃん。二日後にまた会えるかな?」


「二日後……? あなたは戻らないんですか? ずっとここに?」


 安曇の背後にいる騎馬軍の一団と、周囲で夕餉の支度に追われる兵たちを代わる代わる見やる須勢理に、石玖王は、ははっと大声で笑った。


「ああ、俺は居残りだ。俺はこっちのほうが好きなのよ」


 そういって石玖王は天頂を振り仰ぐ。夜のとばりが下り始めたいま、真上の空は茜色と闇の色が入り混じった澄んだ紫色になっている。そこには一つ、二つ、三つ……と、銀色にきらめく夏の星。


 それを見上げてほうと息を吐く石玖王は、巨体に似合わないうっとりとしたいい方で野宿を語った。


「星空……いいじゃねえかよ。ここで祝いの酒をかっ食らって。砦に焚く火も、俺は好きだ」


 須勢理はやはり、彼に憧れずにはいられなかった。


 ……なんて清々しい人なんだろう。やっぱり、いい人だ。


 戦に入り浸っても、こんなふうにいられる道はきっとあるのだ――と。





 石玖王のおかげで、心が洗われたようだった。


 戦はもしかしたら、須勢理の居場所かもしれない。そんなふうに思い始めていた須勢理には、それは本当に正しい道か? と、胸の奥底のほうで響き続けるあやうい鐘の音があった。でも、その鐘にそっと指の腹を置いて揺れを止めるようにして、石玖王は道の一つを須勢理に示してくれた。


 しだいに星明かりが強くなる夕空の道を駆けているあいだ、須勢理の胸はずっと爽快で、頬をすり抜ける風に向かって笑みをこぼしていた。


 そうやって王宮に戻り、一緒に戻ってきた安曇や武人たちと笑顔で別れて、そのまま侍女から湯殿へ案内された須勢理は、ますます気分をよくした。


 焼き石で温めたお湯で汗を流して身を清めて、疲れた身体を今日はよくやったとねぎらって。洗いたての清らかな寝着に身を包んで、一息つき、さて臥戸へ戻ろうと上機嫌で湯殿を後にする。


 湯殿では巻向の侍女が須勢理の世話をしてくれていたが、熱い水の香りが満ちるその館を出た後も、侍女は須勢理の先駆さきをするように供をした。


 でもその侍女は、なぜやら見慣れない道へと足を向かわせる。須勢理の仮宿として充てられたのは、回廊を備えた広い建物の隅にある小さな小部屋だった。それなのに侍女は、明らかに方向の違う別の道へいく。須勢理を導いてしずしずと歩むその侍女は、須勢理を臥戸ではなくどこかへ連れていこうとしているようだ。


「あの……どこへ?」


 すでに日は落ち、あたりは闇。雲がなかったせいで、空には満点の星がきらめいている。まばゆい星明かりが大地を彩る夜だった。


 須勢理が連れていかれた先は、星明かりを浴びた草花が、低い場所でつややかに咲く小さな庭の奥にあった。館だ。王宮の主が住まうという中央の大館から繋がる渡殿もあり、どうやら、かなり身分の高い人物のための居場所のようだが。


「ここは……?」


「あなたをご案内せよと……。こちらです」


 そういって侍女は、館の高床へ続く階段きざはしをのぼり、奥を目指す。彼女の背を追って向かった先は、その館の一番奥につくられた小部屋だった。


 夜だというのに、中では油が惜しげもなく使われて火を灯していて、小部屋と回廊を隔てる薦には部屋の中の火明かりがあかあかと透けている。


 その、火の色に輝く薦をそうっと避けられてできた戸口の隙間から中を覗くと……須勢理はほっと胸を撫で下ろした。見知らぬ人のもとへ連れて来られたわけではなかったと、ひとまず安堵した。


 その部屋の奥、火皿で囲まれた上座のあたりでくつろいでいたのは、穴持だった。


 彼は脇息に肘を預けてあぐらを崩していたが、やってきた須勢理と目が合うなり、ぎらりと目を光らせて笑いかけてきた。


「入れよ」


 ……なんだか、妙な笑みだ。須勢理は笑顔を強張らせるが、そこにいる彼にとっては、須勢理の表情などどうでもいいらしい。


 彼は顎を振って須勢理の背後にいた侍女へ合図を送った。出ていけと。


 無言の命令通りに、須勢理をここまで送り届けた侍女は深く頭を垂れ、避けていた薦をぱさりと落として、そこから遠ざかっていった。薦で外から区切られた小さな部屋に、須勢理を残して。


 侍女の控えめな足音が遠ざかり、静けさが訪れても、須勢理はしばらくそこから動けなかった。自分を見据える穴持のぎらついた目が気味悪かったのだ。なんだか……猛獣のための生贄として、巣穴に放りこまれた気分だった。

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