獣と生贄 (2)


「そばへ来いよ。早く」


 なかなか須勢理が戸口から動こうとしなかったせいか、しだいに穴持の声は苛立っていく。


 来てはいけない場所へ足を踏み入れてしまったような妙な違和感とせめぎ合いながら、須勢理はじわじわと彼のもとへ近づいていった。


 彼があぐらをかく上座へつま先が触れる前から、穴持は須勢理を呼び寄せようと片腕を掲げていた。そして、彼の指先が須勢理のまとう衣の腿あたりに触れるなり引っ張られて、半ば無理やりのように彼の腕の中へ落ちる。


「ちょっ……」


 文句をいおうが、穴持は耳を貸さない。それどころか胸の中に須勢理を抱きとめるやいなや、ぎゅ、ぎゅっ……と須勢理の背中を力強く撫でてきた。仕草も手のひらも、やたらと熱い。


「やめ……なんなのよ、いきなり。離して……!」


 強引な抱擁に腹が立って、思い切り胸を突き飛ばしてどうにか腕の中を抜け出すが。穴持の手は離れゆく須勢理の手首をすぐさま掴んでしまったので、抜け出したとはいえ、身体と身体のあいだに隙間がほんの少しできた程度。まだ須勢理は、穴持の香りやぬくもりが届くほど近い場所にいた。


 そのうえ、少し離れたせいで穴持の顔と真正面から対峙する羽目になった。彼の持つ黒い眼差しに真正面から射抜かれると、須勢理は身を凍らせてしまった。それは間違いなく、獣かなにか。獲物を見据えるぎらついた目だった。


 須勢理は、愕然とした。勘は正しかった。やはり須勢理は生贄として連れてこられたのだ。それ以外のなんでもなかった。


 彼も湯浴みを済ませたのか、いつもは角髪みずらに結っている黒髪は解かれていて、まっすぐに胸元へ落ちている。昨晩、須勢理のもとを訪れた時と同じく武具は脱いでいて、須勢理と似たような寝着だけの無防備な身なりをしていた。でも、彼を勇ましく飾り立てる戦装束が消え去った今のほうが、なおさら凶暴に見えてしまうのはなぜなのか。


 少なくとも今の穴持は、武王としての昼間の姿よりも須勢理をよほど脅えさせた。須勢理の中のなにかが逃げろと叫んで、じりじりと後ずさりを始めてしまうほどだった。


「ま、待って。話そうよ。あの、いきなりは……ちょっと……」


 でも、穴持は遠慮を通すような男ではない。彼の黒い瞳はまるで舌舐めずりをする獣じみていて、ぎろりと須勢理を射抜いて離さない。


「どこもかしこも、大弓を掲げて微笑む姫君を見たかと、おまえの噂ばかりだよ。幾千人の兵が、揃っておまえに惚れたようだぞ? ……気に食わんな。おまえはおれの物なのに」


「は? なんのこと? あのさ……」


 穴持から遠ざかろうと、とうとう腕をふりほどいて須勢理が後ろへ退いても、逃げようとする獲物を窮地に追い詰めるのを面白がるように、彼は執拗に追ってくる。


 いったいこの男がなにを望んで須勢理をここに呼んだのかは、さすがに須勢理もわかった。というより、色気じみたものをここまで隠すこともなく迫られれば、気づかないわけがない。


 でも、あまりにも彼の欲望がむき出しなので。そういうことをよく知らない須勢理でも、少しくらい話をするとか、いい雰囲気をつくるとか、そういう能はないわけ!? と、情緒のなさを責めたくなる。


 やはりここは猛獣の巣穴だった。いたのは腹を空かせた凶悪な獣で、そこへ須勢理は餌として放りこまれたのだ。


 ……ちょっと、おかしいでしょう、これ? ねえ!?


 そんなふうに、誰でもない誰かへ素っ頓狂な声で尋ねたくなるほど、須勢理の胸の内側はいまの奇妙な状況に焦っていた。でも、目の前で須勢理に飛びかかろうと隙を窺う穴持は、とうとう一度大きく腕を伸ばして、須勢理の手首を再び掴んでしまった。掴まれたと思うなり、須勢理は暴れたが。


「待って……離してよ!」


「なにがだ。夫が妻にこうして、いったいなにが悪い」


「だって、おかしいでしょう? 砦じゃ、いまも石玖王たちが夜の番をしてるわけでしょう? それなのに……!」


 武王ともあろう人が、そんな時に女にうつつを抜かしていていいわけ!?


 そんなことを訴えたが、穴持は相手にしなかった。


「なにが? なにか起きれば急使が来る。それまでは好きに過ごせばいいだろう?」


「でも、急使がいま来たら? それに……!」


 この、人の話を聞かない男にどうにかわかってもらおうとあれこれ訴えてみるが、なにをどういおうが、なしの礫。穴持は耳を貸さない。それどころか、彼はついに、須勢理にとっての戦の始まりの大号令となる言葉を吐いた。


「ああ? いつ来てもいいように酒は控えてる。女くらいいいだろうが」


「はあ!?」


 腹の底から馬鹿にするような大声を出すと、須勢理は穴持のぎらついた黒目を睨んだ。


「なんなの、そのいい方! 酒と女は同列なわけ?」


 これまで彼へ放ったどの言葉よりも、軽蔑を込めたつもりだった。でもそれすら、穴持はものともしない。


 身を庇うように腕を顔の上で交差させる須勢理のそばに寄ると、自由を奪おうと手首を押さえつけてくる。そういう乱暴な仕草にも、須勢理は腹が立って仕方がなかった。


「ちょっ、ていうか、……ねえ!」


 しだいに須勢理の声が罵倒の雰囲気を帯びていっても、穴持は態度を変えない。むしろ獲物を自分の身体の下に組み敷いて満足したのか、誇らしげに鼻で笑ってみせた。


「おれがおまえを欲しいといってるんだ。素直に抱かれろよ」


「はあっ?」


 寝言は寝ている時にいって。この俺様野郎!


 自由を奪おうとする力強い腕を懸命に押しのけながら、須勢理も力ずくで抗った。


「素直にいやがってるんだけど……だから、やめてよ!」


 ばた、ばた――! あちこち押さえつけられて、自由に動かせるのはいまや足だけだ。だから足で木床を何度も蹴りつけて、のしかかってくる大きな身体を避けようとするが、さすがは武王の体躯。須勢理の力で、それはぴくりとも動かなかった。


 じたばたと暴れる須勢理をなおいとしそうに、穴持は顔を近づけてきた。


「須勢理……」


 そういう甘い囁きも、まるで獲物を糸でからめとった蜘蛛が瀕死の蝶を愛撫するようで、いまは嫌悪を煽るものでしかない。


 彼のことは偉大な武王と認めて、それなりに尊敬もした。でも、それとこれとは話が別。夫として尽くせる相手とは、まだ須勢理は認めていないのだ。


 もしかして昨晩の続きのような雰囲気でこういうことが起きていたら、いくら認めないと胸をいい聞かせたところで、最後には流されてしまったかもしれない。でも、こんな乱暴な真似をされれば、幻滅もいいところだ。


 近づいてくる顔を直前で避けて、須勢理は喚いた。


「このっ……けだもの!」


「けだもの? 夫に向かって――」


「妻に向かって、襲いかかるような真似をするからでしょう!? いいから、そのでかい図体をどけろっ!」


 どかっ! という鈍い音が部屋に響いた。


 瀕死の蝶が蜘蛛へ繰り出した奥の手とばかりに、須勢理が渾身の力で蹴りつけた先は、娘が身を守る最後のすべとしてひそやかに聞き知った場所。


 声にならない呻き声を漏らした穴持は手を緩めたので、抗い続けて切れた息をそのままに須勢理は武王の身体の下から抜け出し、戸口へと逃げた。


 穴持は、そこで片膝をついたまま動かなくなった。さきほどまで彼にあった色気のようなものはすっかり消えてなくなっていて、それどころか穴持は青ざめていた。


 散々傲慢なことを口にしていた唇から漏れる言葉も、いまは力がない。


「あ、危なかった、おまえ……もう少しずれてたら……!」


 彼が青ざめた理由などを須勢理は知る由もないが、わけがわからないなりに、いい返さずにはいられなかった。


「ずれてたらなんなのよ!? あんたみたいな奴は、いっそのこと滅びてしまえ!」


 戦場での恐怖など、かわいいものだった。初めて知った娘としてのいまの恐怖と、どうにか逃げ出せたのだという安堵で、須勢理の目は涙で潤んでいく。声も震えた。息も。


 そして、泣き顔を隠すようにも一気に背を向けた須勢理は、穴持の小部屋を勢いよく飛び出してしまった。






 気を抜いた瞬間に涙が出そうになるのを、息を止めるのと引き換えに抑えつけた。そのせいで息が苦しい。苦しいから、こんな場所をさっさと出てしまいたいと足早になり、須勢理は木床を踏み鳴らして回廊を戻った。


 いま、なにが起きた? 強引に迫られた。それから、彼の本心を聴いた。


 ……女なんか酒と同じ。物と同じ。おまえはおれの持ち物だ。


 きっと心のどこかで、須勢理は薄々それに気づいていた。だから、そんなものを知ってしまう前に彼のそばを離れてしまいたいと、そう願っていたはずだ。でも……ついに知る時が来てしまった。


 悔しくて仕方ないが、いったいなにがそこまで悔しいのかもわからないほど、須勢理は混乱していた。


 いま須勢理の目に映る景色はとても狭くて、それは自分の寝床へ向かう道の幅だけだった。


 星に彩られた月の庭も、ほのかな明かりに涼しげに煌めく屋根の連なりも、それから、あちこち掴まれたせいでしわが寄った寝着を身にまとって、鼻息荒くそこを通り抜ける須勢理に唖然とする人々の姿も、なにも目に入らなかった。異変に気づいたのか、わざわざ須勢理のもとへ駆け寄ってきた人の存在にも。


「す、須勢理様……須勢理様!」


 聞き慣れた声から何度も呼ばれて、とうに通り過ぎた背後を振り返ると、そこには見慣れた顔がある。安曇だった。


 憤怒の表情のような、泣き喚く直前のような。真顔を奇妙に歪ませて一目散に夜道を突き進む須勢理の姿に、安曇はなにかが起きたと察したらしい。


 立ち止まった須勢理を追いかけてくる彼の表情は、須勢理をそうさせた原因を疎ましいとでも感じてくれたのか、悲痛に歪んでいた。……が。


「なにかあった? ……あ」


 須勢理のもとへ駆け寄った彼の視線が須勢理の来た道をたどり、背後にそびえる館へいき着くなり、彼は言葉を濁した。その館は、穴持の居所だ。


 勘のいい彼のことだ。いったい須勢理がいままでどこにいて、そこでなにが起きたかくらい、いまの一瞬で勘づいただろう。須勢理の目を潤ませるほど酷い仕打ちをした犯人にも、彼は気づいたに違いないのだ。


 安曇は、そのままぴたりと身動きを止めてしまった。それまでは、須勢理に酷い真似をした奴がいるのなら、自分が片を付けてやるといわんばかりに、須勢理の側に立つような心配顔をしてくれていたのに。彼の身動きは急にぎくしゃくとしたものになって、唇をわずかに開けて「あ……」とか「その……」とか、言葉にならない息を吐くしかしなくなった。


 もちろん須勢理は、その理由を悟った。安曇は、その犯人への文句をわずかたりとも口にするのをためらっているのだ。――その犯人が、彼の仕える主だから。


 でも、そういう忠誠的な態度を目の当たりにするのは、今の須勢理にはひどく腹立たしかった。


「なにかいったら? あたしになにが起きたかくらい、わかったでしょう?」


「いや、その……」


 寝着が乱れているのを思い出して、須勢理は胸元のあちこちに寄っていたしわをそっと直した。でも、安曇はその仕草からも目を逸らそうと地面を向く。その、主の非から目をそむけようとする態度も鼻につく。須勢理はとうとう唸るようにいってしまった。


「……あなたの主よ。あなたが仕えている男は、最悪のけだものね? 武人としては最高かもしれないけど、人としてはどうかと思うわ!」


 一度口から飛び出してしまえば、それはなかなか止まらない。


 発奮してまくしたてる須勢理を、安曇は懸命に宥めた。


「それは、その……すみません」


「なんであなたが謝るのよ? 安曇に謝ってほしいわけじゃないわ。もういや、あんな奴のそばになんか二度と寄らない。あんな男なんか……! 妻なんかやめる。絶対に離縁してやる!」


 それは、安曇にするような話ではなかったかもしれない。それに、穴持と須勢理は一応夫婦という間柄なのだから、須勢理が目に涙を溜めてまで怒る理由など、安曇には理解しにくいはずだ。


 いつもの須勢理だったらきっとそんなふうに考えて、安曇の前で喚き散らすような真似はしなかった。でも、いまは。暴れるしかできなかった。


「須勢理様、落ち着いて。その……すみません……」


「だから、なんで安曇が謝るのよ!?」


 そんなふうに須勢理が罵っても、安曇は謝り続けた。主の非を代わりに詫びるように。もしくは、どうにかして須勢理の昂ぶった気を落ち着かせようと――。でも、混乱した須勢理は、安曇のそういう気遣いにも気づくことができない。結局須勢理は、そこでしばらく喚き続けてしまった。


 でも、ある時。須勢理は、そこへ近づいてくる華々しいものに目を奪われてしまった。


 いとしい相手を想って輝く麗しい瞳。そして相手のもとへ一歩一歩近づいていくのを恥じらい混じりに喜ぶ、愛らしいはにかみの笑顔。土の上だろうがどこだろうが思うままに横切ってしまう須勢理とは違って、先駆の侍女の後ろからしずしずと渡殿を歩み、さきほど須勢理が息を切らせて逃げ出してきた館へ向かう、異国の美姫の姿がそこにあった。……一の姫だった。


 ゆっくりとやってくる一の姫は、星明かりの降り注ぐ庭からじっと自分を見つめる須勢理の視線に気づいたらしい。安曇のそばで息を殺して立ちつくす須勢理へ小さな顔を向けると、美姫は照れ臭そうににこりと笑い、会釈をする。そして、須勢理の目の前を通り過ぎていった。


 一の姫が歩む渡殿の行き先は一つしかない。出雲で見かけるものと似通った堅固な木組みでつくられた館で、その奥には穴持の居場所である小部屋がある。


 さっき自分が逃げ出してきた回廊へと姿を消した一の姫を見送って、須勢理は茫然とした。


 一の姫が誰に呼ばれて、どこへ向かったのか。そんなことは考えずともわかって、それは怒涛の津波のように押し寄せて、須勢理の胸にあった何もかもを押し流してしまった。


 怒りも悲しみもすべて押し流されてしまったから、もう何も残っていない。


 須勢理の唇は凍りついて、声からはいっさいの感情が抜け落ちていた。


「……なんなの? あの男、一の姫を呼んだんだわ。あたしがいうことを聞かなかったから」


 涙をこらえる気力も残っていない。だから、ほろほろとこぼれ落ちる温かい滴は、ぬぐわれることもなく頬を伝った。


「やっぱりあの人、女なら誰でもいいんじゃない」


「……あの」


 須勢理を見下ろす安曇の目は、壊れかけたものを心配するようだった。須勢理は、息を吸うついでに笑ってしまった。


「知ってる? あの男にとって女は酒と同じなのよ? 少しのあいだ酔えればいいの。あたしが選んだのは酒と同じになるような、そんな人生? 馬鹿みたい……」


 それから、須勢理は頬を流れる涙を腕でぬぐった。……あんな男に涙を流してやる気はない。そう思ったのだ。


 妃として彼に仕える気は、とっくに消え失せていた。穴持の中で尊敬できた部分はどれも夫としてではなくて、武王として。武人としてだ。


 妃なんか、絶対にやめてやる。もう兵でいい。


 彼に仕える大勢の兵のうちの一人で構わない。それならきっと、武王として彼を好きでいられるから……。


 ……武王として、好きで……?


 そこまで考えがいき着くと、愕然とした。


 どうやら自分は、穴持のことをどうにかして好きでいたいらしい。知れば知るほど嫌悪を抱いてしまう彼の夫の部分から目をそむけて、好きなところだけを見て――。


 兵として戦に出るために巻向までやってきて、鎧に身を包んで男に混じって馬を駆り、人を殺して、泣いて、混乱して……。そこまでして。


 ほろん……。と、大粒の涙が頬を落ちた。それは怒りのせいではなくて、自分を責める涙だった。


(……馬鹿みたい)


 そこまでしてあんな男を好きでいたいと、胸のどこかで願っているなんて。勘違いだ、あるわけないといい聞かせているくせに、運命の出会いとやらを胸の底で信じているなんて。


 音のない唸り声をあげながら、須勢理は唇を噛んだ。いっそのこと噛み切って自分に傷をつけてやりたかった。


 安曇は、そこで突っ立ったままの須勢理をじっと見守ってくれていた。頭が朦朧として、いくら待ってもらっても、もうこれ以上はなにも話せる気がしないというのに。申し訳なく思って、須勢理はかろうじて別れの挨拶を告げた。


「ごめん、安曇……戻る」


 安曇は童顔を苦しげに歪ませて、須勢理を見つめていた。どうにかして慰めたいと、表情はいっていた。でも、彼が口にしたのは、須勢理が望むような言葉ではなかった。


「その……穴持様の振る舞いは、兵の憧れになっているんです。手柄を立てていつか成り上がって、ああなってやると……」


 いくら彼の気遣いの結果だったところで、それは逆効果だ。穴持に忠誠を尽くす彼の言葉は、いまの須勢理には耳触りでしかなかった。


「冗談いわないで。娘を物として褒美にもらうようなことが、兵の憧れ?」


 そっぽを向いて鼻で笑うが、いい返しもせずにじっと黙り込む安曇の真顔に、仕方なく須勢理はふうと息を吐いた。


 出雲には力の掟がある。


『力あるものが上に立つ。出雲に血の色は無用』


 きっと戦場は、人が成り上がるために最も手っ取り早い場所なのだろう。いつか手柄を立てて上にいく。そのために……と士気を高める兵たちの姿は、戦場を知った須勢理にはたやすく想像がつく。それに、戦場は男の居場所だ。娘の須勢理には理解が難しくても、安曇がいうとおり、そういうものなのかもしれない。


 でも、納得する前の最後の抵抗とばかりに、須勢理は質問を変えた。


「安曇はどうなの? あなたは、あいつみたいにしたい?」


「おれは……穴持様ほど器用じゃないので」


「普通そうよ。……ううん、わからないわ、男のことなんか。とにかく、そうじゃない男の人がいるってわかっただけで、あたしはいいわ」


 もう、なにも考えたくなかった。腹が立って仕方のない男のことも、そんな彼をどうにかして好きでいたいだとか、あまりにも馬鹿で盲目で情けない自分のことも。すべてから目を逸らして、忘れ去ってしまいたかった。


 振り切るように息を吐き、須勢理は安曇に背を向けた。


 その場を立ち去ろうとする須勢理を、安曇は引きとめようとした。


「須勢理様、穴持様はその……多くを従える身だから、女人に溺れるのは良くないと思うんです。今のなさりようは、真逆にぶれるよりは、そう悪くないのではと、おれは……」


 彼は、今のあやうい須勢理を気にかけてくれている。それはわかった。でも、安曇に慰められてやる気はさらさら起きなかった。彼が、須勢理と一緒に主の文句をいってくれるわけでもなく、穴持の悪態をつくたびにそれは間違いだと諌められるなんて、そんなのはまっぴらごめんだ。


「いい。あなたがあいつを慕っているのはよくわかってる。でも今は、あいつを庇う言葉なんか聞きたくないのよ」


 どうしてそれくらいわからないの? 抑えていても、そういう苛立ちが声を震わせるのはなかなか止められない。


 拒絶した須勢理に、安曇は差し伸べかけた腕をそろそろと下ろしていく。それを横目で見たついでに背後でそびえ立つ館も目が入って、須勢理は夢中で目を逸らした。今、そこにいる二人のことを思い出したのだ。


「愚痴に付き合ってくれてありがとう。部屋に戻るわ……」


 結局須勢理は、逃げ去るように安曇のそばを離れてしまった。


 背後の館の奥で仲良くやっているだろう穴持と一の姫のそばから、できるだけ早く離れてしまいたかった。






 一日が過ぎ、さらに朝が来て。王宮に戻っていた出雲軍が砦へ戻る日がやってきた。


 安曇は一度、須勢理のもとを訪れていた。


「……どうする? 戻る?」


「うん、どうしよう」


「その……穴持様はあなたに、来いと……」


 安曇は居心地悪そうに主からの命令を伝えたが、須勢理はそれに横顔を向けた。


 安曇がわざわざ須勢理の居場所を訪れたのは、須勢理がこれまでしていたように戦の匂いのする場所に顔を出さなくなったからだ。それはひとえに、穴持と顔を合わせたくなかったから。


 ここしばらく、須勢理の唇から出ていくのはため息だけだった。笑顔など忘れた。言葉や、冗談の使い方も。


 回廊の端に腰を下ろして、夏の終わりの庭をぼんやりと眺めながら、膝を抱え込んで。須勢理は、自分をさいなむ声にとらわれ続けていた。


 ……どうやら自分は、穴持が好きらしいのだ。


 酒と同じに扱われても、喧嘩別れをした後ですら安曇をよこすだけで謝りにも来ない男に……。いや、あの男が頭を下げて謝る姿など想像がつかない。なにより、彼があの晩のことを悪いと思っているはずがないのだ。そうなら、須勢理と喧嘩別れをした後に、のうのうと一の姫を彼の寝床へ呼んだりしないはずだ。


 ……当然だ。須勢理は彼にとって酒なのだから。酒に遠慮をするわけがない。


 次に顔を合わせても、悔しい想いを引きずっているのは間違いなく須勢理だけだ。おそらく穴持はいつも通りで、戦の支度に忙しければ須勢理を無視するだろうし、またもし須勢理へ興味が湧けば懲りずに同じ真似をして、強引に迫ってくるかもしれない。


 そんな彼のことを……武人としてはともかく、人としてはまるで尊敬できない彼を好きだと感じている自分が、このうえなくいやだった。わけがわからない。ありえない、と。


 もしこれが本当に恋というものなら、奇妙で、まったく理に合わない感情と呼ぶほかない。胸に疼くこの想いに従ったとしたって、須勢理にいいことはなにも起きそうにないのだから。


 ……やっぱり、やめておけと告げる理性に従って離縁するべきだ。とうさまだって、あの男は須勢理の手に負えないと、はじめからいっていたじゃないか。


 恋心などは愚かなものだと自分をたしなめて、穴持の妻をやめよう。そうしたって彼は痛くもかゆくもないはずだ。


 でも……本当にそれで耐えられる?


 そういうやり取りがずっと胸の中で続いていて、なにも手につかない。ただそこで夏風に吹かれながら膝を抱えるしか、須勢理にはできなかった。


 朝餉が済み、王宮に満ちていた慌ただしさが薄らいだ折り。砦へ戻ろうと支度を進める武人たちの動きがいよいよ忙しなくなっても、須勢理は一緒にいくかどうかを決めかねて、そこを動けずにいた。


 須勢理のもとへ人が訪れたのは、そんな時だ。やってきたのは、越の館に仕える侍女だった。


「よかった、ここにいらっしゃって……。お噂は本当だったのですね」


 呼びかけられて顔を上げてみると、やってきた侍女はほっとしたように胸を撫で下ろしている。


「須勢理様。本日は戦へお出ましにならないと聞いたのですが……」


「うん?」


 噂? それに、そんなにほっとすること?


 気になることはあったが、目の前で笑う侍女の顔がいやに喜ばしげなので、それ以上はいわずにおいた。


「あたしに、なにか?」


「それが……。一の姫様が、ぜひ宴をひらきたいとおっしゃっているのですが」


「宴? いまから? ……まだ朝なのに」


「姫君と姫君の宴です。御酒ではなく、珍しいお菓子でもご一緒なさいませんかと、そのように」


「ふうん?」


 正直なところ、侍女のいう姫君と姫君の宴というものはまったく想像がつかない。でも、侍女からの誘いは今の須勢理にとって、またとない逃げ道だった。


「いいわ、いく。それで……悪いけど兵舎へいって、あたしが今日は戦ではなくて越の館へ向かうっていうことを誰かに伝えてくれると、ありがたいんだけど……」


 それくらい、本当なら自分でいくべきなのだろうが。今は穴持とも、彼を慕う誰とも顔を合わせたくなかった。須勢理から快諾を得ると、侍女はぱっと顔を輝かせた。


「兵舎ですね? お安いご用でございます。すぐさま人を遣らせます。よかった、これで姫様も……!」


 これで、姫様も?


 ただ宴の誘いに乗っただけでここまで大仰に安堵されたり大喜びされるのも、やはり妙だと思ったが。


「須勢理様、どうぞこちらへ。越の館にご案内します」


 侍女はさっそく背を向けて先駆をはじめてしまうので、須勢理も立ち上がり、後を追うことにした。






 越の館は、王宮の端にあった。近づいていくと館の入口には、そこへ続く道をしきりに覗いて、今か今かと到着を待つ一の姫がいた。一の姫は、わざわざ須勢理の出迎えに外へ出ていた。


 まだ遠い場所から目が合うと、一の姫はほっとしたように微笑んだ。


「いらっしゃい、須勢理様……」


 一の姫は嬉しそうだ……というより安堵していた。そして居心地が悪そうでもある。


 須勢理は目をぱちくりとさせた。やっぱり、なにかへんだ。そう思ったのだ。





 越の館は、王宮が二方で接する山の斜面のうちの一方の山際に建てられていて、館は夏山の緑を背景にしてひっそりとたたずんでいる。池がつくられた前庭をもつその館は、須勢理が思っていたとおり優美だ。そこでいま主として暮らす一の姫のたおやかな雰囲気に、その館はよく馴染んでいた。


 宴の場となった広間へは、一の姫がみずから案内をした。


「奥へどうぞ。お客様を招くのはとても楽しいわ。この館にあるものは越から運ばれたものばかりなんです。異国の風情を愉しむと思って、どうかくつろいでくださいね、須勢理様」


 にこやかに笑う一の姫はあれこれとよく気がついて、戦の旅の道中のへっぴり腰しか知らずに、世間知らずだのなんだのと馬鹿にしていた須勢理は、その時のことをたちまち悔やんでしまった。


 いまの一の姫は、たとえるなら水の中を優雅に泳ぐ美しい魚。魚に陸を歩けといっても無理な話なのだ。それほど戦の道というのは、この姫にとってきっと相容れないものだったのだろう。へっぴり腰になってしまうのは、当然だった。


 娘らしい気遣いを隅々までいき届かせて客をもてなす一の姫は、異国の王の娘の名に恥じない。出雲の武王の一の后としても。品よく微笑む一の姫には、須勢理のような粗暴さなどかけらもなかった。


 ……負けて当然。あたしがかないっこない。


 つい苦笑して、全面降伏してしまうほどだった。


「どうぞ。越から運んだ菓子です。お口にあえばいいんですが」


「……ありがとう」


 館の内側にも庭があって、その庭は須勢理が招かれた広間に面している。壁を成していたものはすべて開け放たれ、緑の香りを乗せた夏風がゆるりと流れ込み、それは夏のじっとりとした湿り気をすがすがしいものへと変えていく。


 越の国はどんな場所だとか、ここまでの旅はつらかったとか、他愛もないおしゃべりはしばらく続いたが、きっと一の姫が須勢理を呼び寄せた理由は、こんな世間話をしたかったせいではないだろう。一の姫の笑顔は美しいが、どこか上の空だ。なにかいいたいことがあるのを、いつ切り出そうかと迷っているふうに。


 だから須勢理は肩をすくめると、一度黙った。一の姫がその話を口にするきっかけをつくってあげようと。意図に気づいたのか……。苦笑した須勢理と目を合わせた一の姫は、白い顎をそっと下げて麗しい目を伏せた。長いまつげで瞳を隠し、それから……思いつめたように口火を切った。


「あの……須勢理様、戦はどうです?」


「うん?」


「その……戦というのは、とても怖い場所だと聞きました。いつ命を落とすかわからないと……。そんな場所へ女の身でいってしまって、怖くはないのですか?」


 須勢理は真顔になって唇を閉じた。戦の話になるとは思わなかったのだ。


 それに、一の姫の物憂げないい方は、どうしてか癪に障る。


 ……戦なんていう野蛮な場所へいってしまって平気なんですか? 女の身で。


 暗にそんなことを尋ねられた気がして、ついむっと眉をひそめてしまった。


「怖くなんかないわよ。震えあがっている暇なんかないわ。どこに敵の目があって、背中に何本矢を残しているかとか、そういうことを覚えておくだけで精一杯よ」


 どうせあたしは、あなたとは違う。優雅な館で大勢の侍女たちからかしずかれて、宴や菓子や美しい衣装に囲まれて暮らすあなたとは。


 抗うようにも雄々しく答える須勢理に、一の姫は「そうですか……」と、ほうと息をつく。


 一の姫は落胆して見えた。須勢理がさきほど感じたのはただの思い違いだったようで、野蛮な姫だと責めているふうではなかった。むしろ一の姫は、須勢理のようにできない自分を嘆いていた。


「あなたは武人ですね……羨ましいです。あなたは、あの方とずっと一緒にいられますね」


 あの方、というのはもちろん穴持のことだろう。一の姫は、須勢理のようにいとしい相手のそばへ寄れないことを寂しがっているようだった。


 でもそれは納得がいかない。戦に出向いたとしても、須勢理はけっして穴持のそばにはいないからだ。


 彼はいつも遠く離れた場所にいて、須勢理と穴持のあいだには彼を軍神と慕う幾千もの兵がいる。よっぽど彼は遠ざかるのだ。


「一緒に? まさか。あの男はどこへだって勝手にいくわ。一人で」


 どれだけ歩み寄ろうが、人の話にまるで耳を貸さないあの男に。なにを考えているのかさっぱり理解できない彼への苛立ちを思い出して、つい口調は荒くなった。


 でも、一の姫はますます寂しそうに微笑んだ。穴持を相手に平気で文句をいう須勢理を羨むように。目尻には涙すらにじませて――。


「でも……きっとあなたは、あの方のそばにいけます。わたくしよりずっと近い場所まで」


 さすがに須勢理はおかしいと思った。


「どうしたの? なにかあった? 泣いたりして……」


 なにかあった? と尋ねつつも、その原因に心当たりはついている。


 一の姫の涙の原因は、絶対にあの男だろう。


 またあいつか……!? と、自分と同じ境遇に置かれた哀れな娘のかたき討ちをかって出るように、須勢理は前のめりになった。


 うつむいて、とうとう肩を震わせはじめた一の姫は、白い頬に美しい涙の筋を伝わせた。それから小さな赤い唇をひらいていくと、震える声でいった。


「実は……」





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