二人でも、独り――
一の姫が須勢理へ話したのは、決して涙ながらに語られるようなことではなかった。
うつむいて白い顎を震わせる一の姫は、お腹のあたりに手のひらを置いた。いとしいものをそうっと撫でるように。
「実は、わたくし、あの方の御子を……」
「え……?」
「懐妊を……。先日、急に具合が悪くなって、
はらはらとこぼれ落ちていく涙で、一の姫の長いまつげが濡れていく。それを見つめながら、須勢理は気が遠くなっていくのを感じた。
須勢理は穴持に仕える妃のうちの一人で、彼はほかにも大勢の娘を侍らせている。そういうことには慣れたつもりでいたが、自分の夫でもある男の御子を身ごもったと別の娘から告白されるのは、とても不思議な気分だ。当たり前のことだと頭はわかっているのに、胸は戸惑い、思わず眉をひそめて……嫌悪を顔に出してしまいそうになる。それを須勢理は理性でこらえた。
……落ちつけ。あたしは彼の特別じゃない。
あの女たらしのことだ。彼はそう幼いわけでもないし、穴持の子なんか、すでに何人いてもおかしくない。そもそも須勢理は、それに文句をいえる立場でもない。
苛立ちを無理やり押しこらえると、須勢理は目の前ですすり泣く一の姫へ祝いの言葉をかけた。
「お、おめでとう。どうして泣くの? 幸せなことじゃない?」
「……ええ、幸せです」
泣き続ける一の姫は長い袖の先で口元を隠してしまった。嗚咽はだんだんひどくなって、ついにはしゃくり上げるように何度も細い肩を揺らす。声はひどく震えていた。
「でも……あの方は、お子があまりお好きではないみたいで……。前に須勢理様とすれ違った晩に、あの方にもお伝えしたのですが……あの……とても不機嫌になられて……」
「はあ? 不機嫌って?」
「面倒だと。それならここまで連れてこなかったのに、なぜもっと早く気づかないんだと……」
一の姫はとうとう、それ以上話を続けることができなくなった。嗚咽で喉が詰まって言葉が出ないとばかりに口元に添えた指先を小刻みに震わせて、ただ泣き咽ぶ。
須勢理は、身体中の息を出し切るような大仰なため息をついた。
(あの男は、本当にもう――)
怒りを通り越して呆れ返って、怒鳴り散らす気力すら失われていった。
「なにが面倒よ。そんなの、気づけなくたって一の姫のせいじゃないわ。ここへ一の姫を連れて来たのだって、なにもかも、もとはといえば自分のせいのくせに……!」
須勢理はなじったが、一の姫はそれを聞くなりぱっと泣き顔を上げて、嘆願するような目でまっすぐに見つめてくる。
「ご面倒をかけたのは本当なのです。御子を産むまでここにいるわけにも、また山道をいくわけにもいかないと、越へ急使を送って、迎えの御輿を呼ぶことになって……。それで、普通に出歩けるようになるまで、出雲にはしばらく戻るなと……」
「だからって、まずは喜ぶべきでしょう? 一の姫の身体を心配するとか。たとえ本当はそう思っていなくたって……!」
須勢理は唸り声をあげるように穴持を罵るが、それにも一の姫は慌て始める。頬に落ちた涙を袖先でそそくさとぬぐうと、嘆きをこらえるような無理やりの笑顔を浮かべた。
「ごめんなさいね、泣いてしまって。あの方を責めるような言葉まで口にして……恥ずかしい。でも、どうしてもあなたとお話したくて……。戦の地にまでついていけるあなたなら、わたくしよりよくあのお方をご存じなのではないかと、それで……」
きっとそれが、ここへ須勢理が呼ばれた理由なのだ。
懐妊を知らせれば喜んでもらえると思ったものの、夫からの冷遇に戸惑った一の姫は、わらにもすがる思いで相談相手に須勢理を選んだのだ。
でも、一の姫は結局なんの相談もしなかった。苦しい想いを口にしたが、須勢理が一の姫の苦しみを代弁した瞬間から、いとしい相手の悪口をいった自分を責めはじめて、赤い小さな唇をきゅっと結んで、それ以上は飲み込んでしまった。
一の姫は微笑んだ。麗しい瞳を、涙で濡れそぼったまつげできらきらと飾りながら。
「でも、わたくし、本当に嬉しいんです、わたくしの中にあの方がいるんですもの。やっとあの方を一人占めすることができたんです、わたくし……」
そういって、細い胴の前に置かれた手のひらでゆっくりと腹のあたりを撫でる一の姫の顔は、泣き笑いしているように見えた。でも、言葉通りに幸せそうだ。今の須勢理には決して真似できない、いとしい相手の子を得た娘の柔和な顔つき……母の顔をして――。
でも、須勢理は、素直にそれを喜べなかった。
自分より先にその幸せを得てしまった一の姫の笑顔に、少なからず嫉妬した。それは悔しいけれど事実だ。でもそれ以上に、穴持に腹が立って仕方がなかった。嫌いで仕方ないのに、その彼を好きだといって、いまだにそばを離れられない自分にも。
須勢理は、幸福そうに泣く一の姫の顔から目を逸らして、木床を見下ろした。
……こんなものが、あいつの妻として得られる最高の幸せ?
……いつ飽きられるかもわからなくて。気まぐれを待って。無視されながら、あいつの身代わりとして子を育てることが?
……冗談じゃない。
奥歯を噛みしめたその時、須勢理の耳にはいつか聞いた父王の声が蘇っていた。思い出すなり低く響いて離れなくなったのは、こんな言葉だ。
『おまえみたいなじゃじゃ馬が相手だったら、もしや、あの獣も観念するかな』
はじめにその言葉を聞いた時は、言葉の意味も、穴持がいったいどんな人なのかもわからないまま、少しくらい期待していた。あたしが相手なら「観念」してくれるのかな、と。
でも今は……。なにも知らずに無鉄砲な真似をし続けてきた自分が馬鹿で間抜けで、それこそ無知な田舎娘としか思えない。
どこでもない木床を睨みつけながら、須勢理はきつく唇を結んでいった。
(……そんな、とうさま。あたしにだって無理よ。あんな大馬鹿のけだもの)
今の須勢理には、どうにかして彼をそうさせようという気力すら残っていなかった。これ以上歩み寄ったり、なにかをしたりしても、思うような幸せは絶対に須勢理のもとへやって来ないと、手を放しかけていた。
吹っ切れたように笑顔を取り戻した一の姫と、しばらく姫君の宴とやらを続けた後、そこを去りゆく際には越の侍女たちから深々と頭を下げられた。
「ありがとうございます。おかげで姫様も少し落ちつかれたようで……。泣き続けていてはお身体にさわります。どうか須勢理様、またいらしてくださいね。姫様のお話相手に……」
ようは、慰めに来いということだ。涙ながらに頭を下げられると須勢理も「わかった」とうなずくしかないが、気は晴れなかった。
離宮で暮らしていた頃、須勢理は近くの山里にしょっちゅう出入りしていたが、そこでは若い夫婦に子ができたとわかれば里をあげて祝うのが普通だった。身ごもった妻は里に出入りするすべての人から大事にされて、夫は妻を気遣って……。近くに住む身分ある人もそれを祝ったので、須勢理も、須佐乃男の代わりに祝いの品を届けたことが何度もある。だから子ができるというのは、とても幸せなことだと思っていた。
でも一の姫は、一番大事にされるべき相手から遠ざかって、たった一人で苦しんでいる。そのうえ須勢理を、「彼を責めないでください」とたしなめる。
(……もう、たくさん)
越の館を出た須勢理の足は、ずんずんと早足で進んだ。一の姫を慰めてあげたいという気はあるが、できればこれ以上近づきたくなかった。穴持の妻だから仕方ない、そういうものなのだと、悲しみに耐える一の姫の姿を見慣れてしまうのは絶対にいやだった。
眉をひそめながら大股で歩いていると、前のほうに騒がしい気配があるのを見つけた。
ちょうど須勢理の足は、王宮の王門から続く大路に差し掛かっていた。そこには王門をくぐって、忙しなく進んでくる一団がいる。
大きな御輿を担いだ兵たちで、そばには馬に乗った位ある戦の君たちの姿もちらほらと見える。御輿の上に乗せられているのは、背中を丸めてうずくまる小柄な男。袖も裾も長い奇妙な衣装をつけている、事代という呪術者のようだ。
(なんだ、あれ)
やってくる奇妙な一行に目を凝らしていると、御輿の上に揺られているのは事代だけでないとわかる。事代は、御輿に乗せて運ばれてくる人を癒そうとそばで祈祷をしていたにすぎなかった。小柄な呪術者のそばには、図体の大きな男が横たわっていた。
午後の陽光に、その人が身にまとう戦装束がきらりと金色に輝く。それを見た瞬間、まだ遠い場所にいた須勢理にも、御輿に乗せられて運ばれてくるのが誰かわかった。
金色に磨き上げられた鎧兜を身に着ける人など、出雲軍にたった一人しかいない。……穴持だ。
先頭は穴持を乗せた御輿だったが、その後ろにも続々と列は続いている。馬の上でぐったりとなる兵たちや、その手綱を引いて駆ける兵。穴持のそばを並走する馬の上には、豪傑の風体をする石玖王の姿もあった。
「石玖王!?」
話ができる人がいたと、須勢理は駆け出した。
須勢理に気づいた馬上の武将は、一度ほうと口元をほころばせた。でも、顔は苦々しげに歪んだままだった。
「なにが……いったいなにが……!?」
一行のそばに駆け寄った須勢理は御輿の上でぐったりとする穴持や、そばでしかめっ面をする石玖王を代わる代わる見上げるが。石玖王は舌打ちをするだけだ。
「どうもこうも……。お嬢ちゃん、しばらくこいつの世話を頼んでいいか? 俺は
「桂木って?」
「この王宮の主だ。まずいことになったと。……すぐに戻るから、そのあいだに、この馬鹿をまともに戻してやってくれ」
ちっ。最後にひときわ忌々しげな舌打ちを残して、石玖王はそのまま馬の腹を蹴る。そうして一人颯爽と馬を走らせた豪傑は、あやうげな一行のそばを追い抜いてしまった。王宮の中央にそびえる大舘……桂木という、この王宮の主の居場所へ向かって。
穴持は、彼の臥戸に運ばれて寝床に寝かせられた。息は今にも止まってしまいそうなほど苦しげで、顔色は悪い。青ざめているというよりは土気色になっていて、奇妙な病に蝕まれてしまったかのようだ。まぶたは下りていて、意識はない。でもしきりにうわ言を繰り返している。
「伊邪那を……進め……進め……」
夢を見ているのか、幻を見ているのか。明らかにおかしい。
ここまで彼を運んできた兵たちが慌ただしくそばを離れてしまうと、穴持の小部屋には御輿の上から一緒に付き添ってきた事代と須勢理だけが残った。
いや、すぐにべつの事代もやってきた。新たに現れたその事代は盆の上に湯気の立つ器を載せて運んでいた。薬湯らしい。
やってきた若い事代は、盆を床へ置いてしまうと、穴持の頭上へ回りそばで恭しく膝をつく。そして、彼の背中の下へ細腕を差し入れて身体を浮かせようとする。上半身を起こして、薬を飲ませる気なのだ。
でも、それはすんなりとはいかない。誰かに触れられていると気づくなり、穴持は細腕を振り払うように暴れた。
「触るな……なんだ、いったい……」
「お薬です、穴持様。毒を清める……!」
勝手にされるのを嫌がるように、意識がないくせに穴持の腕は乱暴に振り回される。武王の力強い腕が飛んでくると、身体の細い事代はそのたびに悲鳴を漏らして身構える。当たったら最後、背後に吹っ飛んで、怪我でも負わせてしまいそうなのだ。
須勢理は慌てて事代の手助けに回った。振り回される腕を押さえて、背中を支えた。
「穴持、あたしよ、須勢理。わかる? ここは戦場じゃないわ。あんたの臥戸よ?」
耳元で何度かいうと、声に気づいたのか穴持は一度ぴくりと頬を揺らした。でも、それを見つめる須勢理は血の気が引いた。頬も額も、太い首も、彼はどこもかしこも汗まみれだった。触れてみるとわかるが、熱もある。
……毒を食らったんだ。戦場で。
今朝、ここから出た後に彼の身に起きたらしい出来事に気づくと、穴持をいい聞かせようとする須勢理の声はさらに切羽詰まったものになっていく。
「毒を受けたんですって? 薬を飲まなくちゃ。ほら、口を開けて」
一度、ぼんやりとした彼の瞳が須勢理を向いた。その後で彼は弱々しくうなずく。話は聞こえているらしい。
でも、おぼろげに意識が戻ったとはいえ、まだ身体を動かせるほどではないようだ。穴持の強靭な身体を支えようと背後に回った須勢理に、体重はすべてのしかかってくる。だらりと力なく垂れる腕や背中を懸命に支えて、須勢理は事代へ呻いた。
「薬を飲ませるんでしょう? 早くして!」
「は、はい……!」
でも、穴持はまだそれを振り払うような身振りをする。
「おれに触るな……なんなんだ……」
「毒よ、毒を受けたんだって。王宮に戻ってきたのよ。薬を飲まなくちゃ。お願いだから、大人しくして――!」
さっき目が合ったと思ったのは気のせいだったのか。彼はまた暴れはじめてしまった。
意識がなくても身体が弱っても、決して大人しくならない武王の身体を必死に押さえつけて。とうとう薬湯の最後の一滴が唇の奥へ注ぎ込まれた頃、ぜえ、はあ……と須勢理は息を荒くしていた。
その後、駆けつけた侍女や下男たちの手で戦装束も外されたが、寝床で力なく横たわる穴持はどう見ても病人にしか見えなかった。
目を閉じたままだったが、一度彼は、小さくひらいた唇の隙間から声を出した。いくらかは正気に戻ったらしい。
「……苦しい。安曇は……?」
「安曇?」
そういえば、彼の姿がない。穴持のそばにいつもいる人だと思っていたのに……。
王宮まで穴持を送り届けたのもそういえば彼ではなくて、石玖王だった。
「きっと、砦であなたの代わりをしているのよ。彼に任せて少し休めば……」
落ちつかせるように須勢理はいったが、まぶたを閉じたままで穴持は首を振る。
「砦じゃだめだ。攻めろと伝えて……」
「……穴持」
いつも威張り散らしている武王が、こんなふうに弱っているのを見るのはひどく悲しい。大嫌いだ、腹が立つと罵り続けてきた須勢理でも思わず励ましたくなって、そうっと指を彼の腕に伸ばした。……でも、それはすぐに振り払われる。
「誰だ……安曇は……?」
「誰って、須勢理よ……」
「安曇を呼べ……安曇を……」
正気に戻ったと思ったが、やはりそうではなかったらしい。飲み干した薬が効いてきたのか、ますます重く垂れたまぶたはぴくりとも揺れなくなり、穴持の唇から洩れる声はすでに言葉と呼ぶものではなくなった。
倒れた彼を気遣おうと伸ばした指すら、振り払われてしまった。薬湯を飲ませるのに奮闘したのに、何度も自分は須勢理だと名乗ったのに、今もそばで見守っているのに、彼はそれでも須勢理を気に留めない。
彼が視ているものは戦だけで、そばに置きたいのは安曇だけのようだ。毒のせいで弱り切っている今ですら。
時おりぴくり、ぴくりと腕や指先を跳ねさせながらも穴持の呼吸はゆっくりになり、彼は眠りに落ちていく。それをじっと見つめながら、須勢理は静かに涙をこぼした。
ふと、両隣に座っていた事代たちがまた手仕事を始めた。水壺に浸してあった布を手に取ると、それで穴持の顔や、上着の紐を解いてあらわにされた胸元などをぬぐっていく。そこには、じっとりと汗が浮いていた。その汗はわずかに琥珀色に赤らんで見えている。
「薬で、毒を身体の外に出しているのです。毒の汗です。姫様はどうぞお手を触れぬよう……」
そのように断りを入れられるので、須勢理はそっと涙をぬぐうと気丈な声でいった。
「わかったわ。触れないから」
どうせ振り払われるのに。……これ以上触れたりしないわよ。
そんなふうに、胸の底で自分を嘲笑いながら。
事代たちの手によって赤黒い汗が拭きとられていって、再び薬湯を口に含んで、さらに深い眠りに落ち……。一通りの処置を終えると、事代たちはそわそわとそこを去りゆく許しを求めた。
「ひとまず、これで一晩様子を見ます。あの、あとはお任せしても? 私たちは次の方のもとへいかなければ。毒矢を射られたのは全部で八名と聞いています。なにかあれば呼んでいただければ、すぐに……」
「ええ、見ているわ。どうぞ」
須勢理が応えると、二人の事代は足早にそこを去っていく。そして、彼の小部屋には須勢理と穴持の二人きりになった。
ぐったりと四肢を投げ出して眠る穴持の枕元、誰よりも近い場所に須勢理は座っていた。そばにいる人は誰もおらず、戦場のように彼を崇める目が二人のあいだにあるわけでもなく、一の姫やほかの妃たちと一緒に世話をしているわけでもない。
いま、須勢理はたった一人で穴持のそばにいる。それなのに。まるでそばにいる気がしない。
やりきれなくて、須勢理はつい笑ってしまった。
いくら須勢理が彼を向こうが、彼は須勢理を必要としていないのだ。彼は誰の助けも要らない男なのだ。……須勢理がここにいる意味は皆無だ。
そう想うと、また涙が浮かぶかと思ったが、そうでもなかった。須勢理にこみ上げるのは涙ではなくて、小さな笑いだけだった。
静けさと切なさに耐えながらしばらくじっとそこで穴持の寝顔を見つめていたが、やがて荒々しい足音が近づいてくる。やってくるなり、入口にかかっていた薦をばさりとのけたのは石玖王だった。
「そいつは?」
須勢理は答えた。大股で近づいてくる石玖王に席を譲るために、腰を浮かせて、穴持の枕元を離れながら。
「さっき、事代たちが薬湯で出した毒の汗を取り除いていたわ。一晩様子を見るって……」
「一晩? それじゃ遅いんだよ。……おい、穴持、起きろ!」
いうが早いか、むんずと大きな手のひらを伸ばした石玖王は穴持の肩をゆすり始めた。かなり激しく揺さぶっても、穴持に目を開ける気配はない。薬のせいか、土気色に変わっていた肌は、いまは血の色が薄らいで白ずんで見えている。顔も青白くなっていて、ますますぐったりと力を抜いた穴持に目を覚ます兆しはなかった。
諦めるまで大声で呼び、揺さぶり続けていた石玖王も、とうとう手を放した。
「この野郎。こいつが命じなきゃ、こっちは動けねえっつうのに!」
「動くって……なにを?」
「
「大年?」
聞いたことのない名前だった。反芻した須勢理へ、石玖王は説明した。
「大年は巻向のいまの王の名だ。世継ぎの若王……この王宮に住む桂木へ、いつ王の座が転がってもおかしくねえほど老いているがな」
巻向の王宮と呼びはしていても、いま須勢理が厄介になっているこの都はいまの王の居場所というわけではないらしい。
「その大年様の王宮って遠いの? 巻向には王宮がいくつもあるのね……」
「まあな。しょっちゅう戦が起きる場所だから、いつどこで戦が起きてもどうにかなるように、桂木の王宮もここ以外にもあるよ。そっちへは、たったいま使いが発ったが……」
「そうなんだ……」
大事な話なのだろうが、いまは興味がない。
味気ない相槌を打ちつつ、須勢理は隣で肩をいからせる石玖王へ正直に告げることにした。
「……勘だけど。穴持はその大年様のことをあまり気にしていないかも……。さっきも、うわ言でずっと安曇の名前を呼んでいたわ。砦にいちゃいけない、攻めろ、そう安曇に伝えろって……」
石玖王はがっくりと大きな肩を落としてしまった。いい方はまるで、それを予見していたようだ。
「……やっぱりか」
「やっぱりって?」
「大年と穴持の仲は、そうよくないんだ。巻向を伊邪那から守ろうと、出雲は何十年ものあいだに何度となくやってきては伊邪那といがみ合った。そのうちに出雲の兵は大勢巻向に住みついて、いまや出雲は、巻向になくてはならないものになってる。世継ぎの位を得たのも、大年の娘と須佐乃男の子、桂木だ」
石玖王の声はしだいに深刻そうな影を帯びていく。しかも父の名まで登場した。須勢理はそばで神妙な真顔をする石玖王をぼうっと見上げてしまった。
「……とうさま?」
「ああ。ここは巻向だが、いくらか出雲に染まってんだ。大年は近頃、須佐乃男が欲しがったのは伊邪那ではなくて、巻向だと疑ってる」
「え?」
そこまで聞いて、やっと話が見えてきた。つまり、こういうことだ。
何十年ものあいだ、出雲は伊邪那から巻向の地を守ってきた。
でもその戦に決着はいまだつかず、それまでのあいだに巻向には出雲の兵が大勢移り住み、出雲の須佐乃男と巻向の大年という二人の王のあいだには婚姻という繋がりもでき、次に巻向の王となるのは出雲の血が混じった御子だという。
それに大年という老王は気づき、焦り始めたのだ。
伊邪那から巻向を守るというのはただの口実で、出雲の目的は巻向を奪おうとする敵と同じ。助けるふりをしつつ、内側から巻向を乗っ取ろうと企んでいるのではないか、と。
ついと眉根を寄せた須勢理に、石玖王は穴持の寝顔を見下ろしたままで淡々と続けた。
「須佐乃男を悪くいう大年を、穴持は馬鹿にしている。同祖のよしみで守護を買って出た出雲を、かつて大年は歓迎していた。娘を須佐乃男の后にやるくらいにな。それを手のひら変えて、巻向の兵を庇って、いつも前に出て命を晒してる出雲軍を咎められるのが胸糞悪いっていう穴持のいい分も、そりゃあわかるんだがな」
はあ。一度大きくため息をついた石玖王は、苛立ちを吐き捨てるようにいった。
「この強情馬鹿、絶対に大年に頭なんか下げねえよ。……安曇が死んでも知らねえぞ!」
「安曇?」
国と国がどうとか、それに父王が絡んでいるとか。そういう難しい話は、その名を聞いた瞬間に須勢理の頭から吹き飛んだ。
「どういうこと? 安曇がどうなるの? 死んでも知らないって……」
そこで初めて須勢理は、安曇がこの場にいないことを恐ろしく思った。安曇はおそらく、穴持と一緒に戻ることが許されなかったのだ。……どこかで、なにかをしているのだ。
さきほど、自分が石玖王へ伝えた穴持のうわ言もふいに思い出した。
「そうだ、砦にいちゃ駄目だって……攻めろって……」
石玖王の巨体に掴みかかるように、須勢理は食いかかった。
「安曇はどこへいったの! 危ない場所? こいつの命令で? どこ……!」
一度、石玖王は穴持の青ざめた寝顔をちらりと見下ろす。それから、諦めたようにぽつりと漏らした。
「出雲の武王が倒れたんだ。俺が伊邪那の武王なら、今夜、総攻撃をかけるね」
総攻撃……。その不穏な言葉を聞くなり、須勢理の目には戦場の光景が蘇った。
出雲軍が焼いた砦から、そういえば敵の姿は減っていた。攻めにおされて退いたのか。そんなことを考えたこともあったが、いまはその続きが気になって仕方がない。
退いたなら、どこへ?
それより、砦を崩して進軍したという出雲軍はいったいどこへ向かっていたのか。彼らの本拠地ではないのか。総攻撃というからには、そこに集っている兵がまとめて攻めてくるということだ。またとない好機を狙って。
もう一度ため息をつき、石玖王は話を続けた。
「奴らの陣へ向かった俺たちを、奴らは待ち受けていた。俺たちは森で奇襲を受けたんだ」
「……奇襲」
「そうだ。毒矢でな。毒が回る前に、穴持は安曇に命じた。今夜、奴らを陣から出すなと」
石玖王は淡々というが、須勢理はなぜか笑ってしまう。
「今夜、陣から出すなって?」
「一晩しのげってことだ。今晩もてば桂木がどうにかする。安曇は、今夜の出撃を食い止めにいった」
「食い止めにって……?」
やっぱり笑ってしまう。石玖王が話すのが、真顔で聞き続けることができない恐ろしい話にしか、須勢理には聞こえなかった。ひきつるような笑いを浮かべる須勢理に、石玖王は吐き捨てるようにいった。
「少人数でする戦なんぞ、奇襲しかねえよ」
安曇は、穴持の性格も戦況も知り尽くしている。命じられた瞬間に先を全部読んで、すぐに支度を始めた。本当に早い。あいつは早い。武王の影となって数千人の先頭に立つのも、命がけの奇襲に出るのも同じだといって、たった数人を引き連れて颯爽と砦を出ていった。
石玖王はそんなふうに安曇の機転の良さを褒めたが。ぶるぶると拳を震わせる須勢理の耳に、それはもはや入ってこなかった。
腰を飾る剣の鞘を握り締め、硬さをたしかめた須勢理はすぐさま腰を上げて、穴持が伏せる小部屋を飛び出ようと薦を跳ね除ける。
勢いに気づいた石玖王はすぐに須勢理を追って、回廊へ飛び出してきた。
「どこへいく、お嬢ちゃん!」
「安曇のところに決まってるわ。少人数? なら、一人でも増えたほうがいいでしょう?」
須勢理はもう背後を振り返りもしなかった。
肩で風を切ってずんずんと回廊を歩き、庭を横切り。兵舎の前を通った時に壁際に落ちていた胸当てを見つけるなりそばへ寄って、立ち止まることもなく身をかがめて掴み取り、やはり歩きながらそれを身に着け……。矢でいっぱいになった矢筒と大弓も殴るように掴み取って乱暴に背負うと、まっすぐに馬屋へ向かう。
「お嬢ちゃん、待て……待てって!」
後ろから追いかけてくる石玖王はずっと叫び続けていた。でも、須勢理の耳にもうそれは聞こえない。
馬屋に入るなり馬番に有無を言わさず鞍をつけさせ、それにまたがり……。
若い娘に触れるのをためらうように、追いかけてきていた石玖王はつかず離れずの距離を保っていて、腕を伸ばせば掴めただろうに決して須勢理に触れようとはしなかった。でも、とうとう石玖王のごつい手のひらが須勢理の手首を掴む。その時須勢理の手は、すでに手綱を握っていた。
「正気か、お嬢ちゃん! 安曇ならもうとっくに砦を出た。一人でいってなにができるんだ。死ぬぞ!」
「死ぬ?」
須勢理は馬上から石玖王を見下ろすと、鼻で笑ってみせた。危機を知らしめるように声高に宥めてくる石玖王のいう言葉が、なんの意味もないことに聴こえて仕方なかった。
このままここでのうのうと生き延びて、いったいなにが惜しい?
問われて胸で問答してみるが……なにも見当たらない。安曇を見捨ててまで欲しいものなど、なにも思い浮かばなかった。
残してきたのは、彼の臥戸で毒の病に伏せる穴持だが……彼だって、看病をする娘なら彼にはいくらでもいる。これから須勢理がどれだけ親身になって世話をしたところで、それは彼に必要のないことだ。気まぐれに感謝をされたとしても、どうせ彼はすぐに忘れる。なかったことになる。
そんなくだらない時間と、安曇の無事を比べるなんて。比べようとするだけでばかばかしい。
須勢理は石玖王の腕をふりほどき、大声で威圧した。
「いい! いま追いかけなくて、万が一安曇が戻ってこなかったら、どうせあたしは、その時に悔しくなって死ぬ!」
ダン! 思い切り馬の腹を蹴ると、須勢理を乗せた馬は軽快な足音を立てて馬屋の前の広場を駆け抜け、王門をめがけて砂粒を舞いあげていく。
呆気にとられたような驚嘆顔が、切り裂いていく風の向こうにいくつも見える。背中で聴いた気がする、石玖王の呆れ声もあった。
「……あの武王にあの妃ありだな、こりゃ」
でも、須勢理はもうなにも気にならなかった。
なにも要らない。いま去りゆこうとしている王宮にも、そのほかのものにも。失って惜しいものなど、なにひとつなかった。
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