死神との逢瀬


 武王の腕に身を任せるのは、なにか恐ろしいものに溺れていく気がして気味が悪い。でも同時に、それはどうしようもなく甘美だ。


 涙に濡れた頬を大きな手のひらで支えて、背に落ちた黒髪に丁寧なくちづけをして……。須勢理の呼吸を乱れようがなくなるまで鎮めてみせると、穴持は腕を枕に差し出しながら寝床の端に頭を預けていく。そして、須勢理を抱きしめたまま木床の上へ身を横たえた。


 抗う隙など見つからない。それほど彼の仕草は自然で、落ちついていた。こんなふうに取り乱す相手を見るのは日常茶飯事で、宥めるのも慣れている、というふうだった。


 穴持はしばらく須勢理の髪を撫でていた。まるで仲睦まじい恋仲の男女のように、滑らかな木目の床の上でぴったりと寄り添いながら。


 ふいに須勢理は、悔しく思った。


(あ、しまった……)


 この男の為すがままになっている。いまや彼を、須勢理は夫とみなしていないのに。


 兵としてならともかく、妃として彼に仕える気はとうに抜け落ちている。でも、この男の馴れ馴れしい腕を跳ね除けたいと胸は思っているのに、肩が何度かわずかに震えるだけで、けっして手のひらはそのように動いてくれない。悔しいことに、あれだけ須勢理の頭を火照らせていた怒りは、まったく湧いてこなかった。


 どうして? 彼が武王だから?


 戦を見て、幾千人の部下を無言で従えてみせた彼に畏怖を抱いたから?


 それとも……初めて足を踏み入れた戦の世界にまだ混乱していて、力強い腕に頼りたいと思っているから?


 自問自答しても、答えは出ない。答えを見つけたとぬか喜びするたびに、自分ではない誰かの匂いとぬくもりに包まれていることにはっとして、見つけたはずの答えを見失う。そして目はどうしてか、すう……と息の音を聞くたびに柔らかく上下する逞しい胸元を追ってしまう。


 ふと視線を感じて恐る恐ると顎を上げていくと、少し高い場所から須勢理を覗きこむ穴持と目が合った。彼は頬杖をついていて、口元には微笑みがある。


 笑みは穏やかだった。彼はゆっくりと唇をひらいて何かを語りかけようとしたが、その声もまるで、囁くように静かだ。……でも。彼の黒目はいつもと変わらない。それは須勢理を難なく射通すほど強かった。穏やかな笑みをたたえている今ですら。


「怖くなったら、おれのせいにしろ」


 それだけでは、意味がわからない。聞き返すと、穴持は付け加えていった。


「おれが命じているから殺したと、そう思え」


 ……戦の話だった。


 須勢理の髪や額にくちづけたり、背中にぐるりと腕を回したりしてぴったりと寄り添っているというのに、彼がしたのはやはり妃としての須勢理にするような話ではなかった。


 いや、誰かの妃になったことなど初めてだ。本当はどういうものかなどが須勢理にわかるはずもないのだが。でも……この男は理解できない。何を考えているのか、さっぱりだ。それだけは強く思った。


 彼の言葉は短くて、言葉だけを聞いていては何を伝えようとしているのかわかりにくい。


 だから須勢理は、自分をじっと見つめる黒い眼差しをまっすぐに見返した。すると……。


 彼は言葉ではなくて、目で真意を語る人なのか。眼差しは須勢理へ語り始めた。


 今のように人を殺したと震えあがる時が来たら、責任から逃れてしまえ。自分のせいではない、おれのせいだと、罪をなすりつけろ――。彼の目はそういっていた。


 彼が伝えたがったことはわかった気がする。でも、納得がいくはずもない。


「……でも」


 渋っても、須勢理を見下ろす穴持の微笑はぴくりとも崩れない。


「どうしても怖くなる一瞬がきたら、そうやって乗りきれといってるんだ。戦で生き残るかどうかは腕が立つかどうかじゃない。罪の意識に負けて隙をつくるかどうかだ。いい意味でも、悪い意味でも」


 やはり彼の言葉は淡々としすぎていて、すぐに飲みこめるようなものではない。


 正直なところ、よくわからない。掴みきれない。でも、重い……。まるで死神の言葉のように。


 怖くなって、須勢理は彼の強い眼差しから目を逸らした。


「あなたは? 何千人もの部下からあなたのせいで人を殺したと思われて、苦しくないの?」


 尋ねても、やはり彼の笑顔は崩れない。


「ないね、まったく」


「……どうして」


「出雲を守っているのは、このおれだという自負があるから」


 あっさりと彼の唇から出てくる重い言葉は、一瞬のよどみすらなく淡々と流れる。答えを迷うような気配は、彼にはいっさいなかった。


 いま須勢理と穴持が二人でしているのは、それほど簡単な話ではないはずだ。


 戦の話で、誰かの命を奪うことについての恐ろしい問答。その行為へ対する罪の話。穴持のする話を須勢理はかろうじて飲みこんで、どうにか尋ね返している。でも穴持は、そのあやふやな問いかけに明瞭で簡潔な言葉であっさりと答えてくる。


 面食らって、須勢理は穴持の笑顔をぽかんと見上げた。


 きっと彼には、迷いのようなものがないのだ。すべては彼の本心。――覚悟を決めているのだ。


 勢いに飲まれたように須勢理が黙っても、彼にある微笑は変わらない。勝気な娘をいい負かしてやったと勝ち誇ったり、得意げになったりする素振りも彼にはなかった。


 さきほどまでと寸分たがわぬ淡々としたいい方で、穴持は続けて答えた。


「おれはな、須勢理、死神らしいぞ? 敵にもそうだが、出雲の中ですらおれをそう呼ぶ奴もいるくらいだ。だが……おれがこの手で何千人の命を奪おうが、おれはそのぶんの出雲の人間の命を守っているはずだ。死神は裏を返せば守り神だよ。それのなにが苦しい? 誉れだよ」


 思わず、彼の眼差しに射抜かれた目の奥が恍惚として、目がくらんだ。


 強い。強くて強くて強くて――。つい頼りたくなる。


 そこで淡々と語る穴持は、やはり微笑を崩さない。須勢理の黒髪を撫でる手の動きも、たゆむことがなかった。


「戦っていうのは、殺し殺されるためだけに仕上がった外つ國(とつくに)だよ。この世の決まりなど、もとから通用しない場所だ。……おれを信じろ。おまえは絶対に間違っていない。だから、次からも迷うな。おまえや、おまえの守りたい奴が傷ついたり死んだりする前に、とっとと相手を殺せ。いいな?」


 彼がいうのは、一方では正しい。そして一方ではひどい間違いだ。


 でも、その矛盾に苦しめば苦しむほど、穴持がいうように罪の意識に負けるのかもしれない。戦が溢れるこの世でその答えを探すことは、もしかすれば不可能なのだから。


 いま、まるで恋仲の二人のように寄り添ってぬくもりを分け合っているのは、戦地で幾千人もの兵に狂気を与え、わずかな身振りで従えていた男。戦の化身だ。


 彼は、この世の決まりがいっさい消えてなくなる混沌の地で、そこへ放りこまれる男たちを導いてみせる強大な存在。そして彼らが命を落とさないように守っているのも、たしかにこの男だった。彼は一方では邪悪だが、一方では……。


 そういうことを次から次へと理解していくと、須勢理は唇を噛んでいた。


 どうにも抗えない状態にまで、いいくるめられた気がした。彼を認めるほかない。彼のことは英雄、正義と呼ぶしかないのだ、と。たとえ真逆の意味が絶えず付きまとうとしても――。


 そんなふうに須勢理が目つきや態度を変えても、穴持にそれを気にする気配はまるでなかった。


 頬杖をついて、床の上に頬を寝かせる須勢理をわずかに高い場所から見下ろす笑顔は柔らかいままで、彼の指先は白い寝着に散った長い黒髪を撫でるのを愉しんでいる。


 戦の話をしていたはずだが――。彼にとっては、なんでもない話のようだ。


 話は話。彼の目は戦という根深い問いを追って沈むこともなく、須勢理をじっと見つめ下ろしている。そして、その眼差しはあっさりと須勢理を魅了する。彼の黒い瞳には力があって、不思議と幾千の眼差しに見つめられている気分にもさせてくる。


 幾千の……そう思うなり、須勢理はその理由に閃いた。


 そういえば彼は、無言のうちに数千人を従えてみせる男なのだ。それが今はたった一人、須勢理を見つめて微笑んでいる。


 ああ、これだ……。と、須勢理はますます目がくらんだ気がした。


 この目のせいで女の子たちはころっといってしまうんだ。


 直視しきれなくなって、須勢理は目を逸らしてしまった。


 でも、須勢理の視線の先を追って、穴持は顔を近づけてくる。ささ、さ……。身動きにつられてお互いの衣が擦れて音を立てるが、その音はやたらとなまめかしい。衣擦れの音がこんなふうに一つの音色にまとまるには、身体と身体を誰かとぴったりと寄り添わせていないといけないのだ。こうして男と女が抱き合っていないと、奏でられない音色なのだ。


 一度気になると、微かな衣擦れの音は耳触りなほど耳元で響く。急に緊張して、須勢理は思わず穴持へ背を向けた。


 でも彼は、やはり須勢理の焦りなど気に留めない。頬杖を崩して逞しい腕を宙に這わせた彼は、須勢理を後ろからぎゅっと抱きしめてしまうと、彼のものと比べると格段に細い肩の上に顎を乗せた。それから、肌と肌が触れ合う耳元で吐息をこぼした。


「須勢理……」


 まずい、流される。どきどきと高鳴っていく胸を、須勢理は懸命に諭した。落ちつけと。


 須勢理がどう思っていようが、一応二人は夫婦という間柄なのだから、いま起きていることは当然といえば当然だ。いくら須勢理が穴持を咎めようが、彼にも言い分はあるだろう。


 でも、初めて会った晩以来、こんなことは二人のあいだに起きなかったのだ。雲宮で過ごすあいだ、須勢理はずっと彼から視えないもののように扱われて、そのうえ部下の兵にするような命令をされた。須勢理は彼にとって大勢いる妃のうちの一人で、そうでなければ幾千の部下のうちのたった一人だったのだ。……それなのに。


 あまりにも当然のように抱きすくめられて、耳元で囁かれて……。こんなふうにしていると、こんな男を好きではないといくらいい聞かせても、そんなわけがないと胸がいい張る。初めて会った晩の胸の閃きは本当だ。きっと彼は運命の相手だと、須勢理の困惑にいまさら追い打ちをかけようとする。だから須勢理は、懸命に抗った。


(違う。まさか……! 運命なんてありえない。あれは誤解よ。田舎娘の勘違いよ。本当にやめたほうがいい。今ならまだ間に合うわ。……この人にはたくさんの妻がいる。あたしが一人彼の前から消えたって、この男は痛くもかゆくもないわよ)


 頬や耳たぶのあたりを頬で撫でる穴持を、須勢理は小さな悲鳴で咎めた。


「……やめ……」


 でも、彼はそんなものを聞かない。悲鳴に応えるでもなく、ただ彼は彼の問いをした。


「忘れさせてやろうか? 戦の恐怖を」


 言葉は相変わらず短くて、それだけでは何をいっているのかわかりにくい。でも、彼が言葉を発した瞬間に、妙に艶っぽい雰囲気が二人をまるごと包みこんだ。須勢理へ、言葉の意味を強引にわからせるほどの艶が。


 須勢理はぱっと頬を赤くして、すぐさま拒んだ。


「ううん、いい……!」


 断ってから、ふうと息を吐き……一番の理由を告げた。


「忘れちゃだめだ。覚えていなくちゃ」


 そうしなければ、ただの魔物になり果てる。穴持がそうしろといってくれたところで、彼にすべてを押しつけて体よく罪をまぬがれようとするのは嫌だ。その後で、きっと自分をさいなんで、いまよりもっと混乱する。


 真顔になって押し黙ると、須勢理の耳元で穴持がくすりと笑った。


 誘いかけるように力強く抱きすくめていた腕から力を抜いていくと、須勢理の背中から胸元を離していった。須勢理に腕枕をしてそばに寝転ぶと、彼は指先で須勢理の頬をそうっと撫でた。


 それから、じっと目と目を合わせると、さっきよりさらに熱を帯びた声で囁いた。


「おまえはいい女だ。かわいくて、賢くて、凛々しい。いとしいよ、好きだ……」


 顔には出さなかったが……須勢理は胸の中で呆れるしかなかった。


(よくもまあ、ぬけぬけと)


 でも、初めて会った晩も、そういえば彼はこんなふうだった。他に想っている妻が大勢いるなど、そんな疑念をつゆほども抱かせずに、彼は須勢理を魅了した。それで須勢理は彼に愛されていると勘違いしてしまったのだ。


 どうやらその時と同じことが起きかけている今、須勢理はときめく胸をどうにかして落ちつけようと躍起になった。嘘だ、信じない。どうせ口ばっかりだ、と。


(でも……どうしよう)


 どう強がっても、自分は男より断然細い身体をもつ娘なのだということを思い知らせてくる逞しい腕や力強い仕草。それにすっぽりと包まれると、須勢理は胸の高鳴りに震えるしかなかった。


「抱いていてやるよ。だから、眠れ」


 耳元で囁かれる揺るぎない声にも、口惜しいことに、胸は、このうえなくほっとした。





 翌朝、穴持が須勢理を起こしたのはまだ暗いうちだった。


「起きろ。おれは砦へ戻る。……おまえも来るか?」


 暗がりの中でも、彼の黒い瞳はひとさら強い存在感を放っている。光すら握りつぶす漆黒の輝きは、森の奥で目覚めた獣が唸りをあげているようだった。


 鼻先が触れ合いそうな場所から須勢理を見つめるその目は、尋ねているようでそうではない。


 ……おまえも来い。おれと戦え。奇妙なことに、彼が何かを口にすれば、どうしてかどれもこれも命令じみてしまう。だから、須勢理は吹き出して答えた。


「わかった。準備をしよう?」


 彼と二度目の夜を過ごしてみて、須勢理は身に染みた。


 彼はきっと、武人としては最高の男だ。武王として崇められてしかるべき人だ。


 ……では、夫としては? それは、さあ、まだよくわからない。


 でも、夫としての穴持がどうなのかはさておき、そんなものを知ってしまう前にそばを去りたいという想いは変わらなかった。


 なんとなくだが、彼の妻でいても、いいことは起きない気がしたのだ。


 愛を囁かれるたびに、どうせ口ばかりだ、信じるなと胸をいい聞かせるのは、あまり幸せな気分ではなかった。





 妙な華を絶えず身にまとう穴持は、彼のそばにある何もかもを彼の持ち物にふさわしい壮大なものに見せてしまうようだ。


 再び戦装束に身を包んで、穴持と馬を走らせた須勢理を待ち構えていた出雲の軍勢は、穴持だけでなく彼の妃である須勢理の到着までをもろ手をあげて喜び、歓声で出迎えた。


 戦場へ戻った須勢理を称える数千人の熱気を浴びても、どうしてか須勢理は、それを冷めた目で眺めてしまった。どうやら須勢理には、一晩のうちに余裕めいたものが培われていたらしい。そして、別の決意も。


 戦を知って、武王を知って、もう一つわかったことがある。


 昨日、初めて戦が原に足を踏み入れた須勢理は、間違いなくただの魔物だった。


 一番まずかったのは、我を忘れていたことだ。この世に戦がはびこっていて、こうするしかないのなら、ちゃんと目を開いていなければいけなかったのに。……穴持のように。





 どれだけ遠くに離れても、穴持の居場所はどこにいてもすぐにわかる。兵たちの心が彼を向いているからだ。この世の決まりごとがことごとく覆される混乱の中ですがりつくべき目印……軍神として。


 時が来て、穴持の声が出撃を告げた。


「いくぞ! 戦が原から、伊邪那いさなを追い払え! 残りかすのごみどもを、根こそぎ死の国へ送ってやれ!」


 武王の死の号令に突つかれて、生き物のようにうねり始めた熱気。それに突き動かされるようにして軍勢はゆっくりと動き出し、再び須勢理は戦地へと身を投じた。


 須勢理は相変わらず安曇に従うことになったが、今朝にかぎって安曇の機嫌はかなり悪い。


 昨日は最も砦に近い後方を守っていた安曇や、彼が率いる武人たちが立ったのは、目の前に草原が見渡せる先頭。どうやら昨日と今日とでは戦陣の形が違うようで、今日安曇が任されたのは最前線に立つ先駆けのようだ。


 不機嫌な安曇は、しきりに背後の須勢理を気にしていた。目は、本当に行く気ですか? といいたげだ。


 ドン、ドン、ド……早まっていく太鼓の音。それに煽られて高まっていく軍勢の熱気。それがとうとう最高潮に達して周囲で渦巻いても、安曇の表情は憂いたままだ。狂気を昂ぶらせる太鼓の音も、彼には効かないらしい。ため息をこぼすと、安曇は愚痴のようなものまで吐いた。


「まったく、穴持様の気が知れないよ。どうして今日の戦にまで須勢理様の出陣を許すかなぁ。しかも先陣にとか……」


「なに? なにかいった?」


「……なんでもない」


 すぐさま聞き返した須勢理に応えるあいだも、まだ安曇はため息を吐いていた。


 それから彼は、数人の武人を呼び寄せた。昨日須勢理の周囲をかためて守っていた箕淡たち、若い戦の君たちだ。


「須勢理様を守れ。前へ出すぎないように注意しろ。後方にも気を配って……」


 安曇は昨日と同じように、彼らに須勢理を守らせようとしていた。そう気づくなり、須勢理は身を乗り出して拒んだ。


「安曇、あたしなら平気よ。絶対に昨日みたいに取り乱したりしないから。今日は……」


 でも安曇は頑としてうなずこうとしない。「駄目です」といって、彼はただ首を横に振る。


「どうして? 二度目だもの。戦ってものならわかったし、覚悟もついた。今日は……」


「そういうことは、自分で身を守れるようになってからいってください」


 ついに安曇は、須勢理を馬鹿にするようなため息まで吐いた。


 冷めた口調で吐かれた喧嘩の文句を買うように、須勢理も一気に頭に血を上せた。


「なっ……。たとえそうでも、あたしがどうなったっていいじゃない? あたしはただの兵よ。特別扱いなんか……!」


 憤慨した須勢理を、やはり安曇は苛立ちを押しこらえたような冷えた声で切り捨てる。


「ただの兵じゃないんです。特別なんですよ、あなたは」


 ……むっ!


 須勢理は身体中の血が飛び散っていきそうなほど憤った。でも、それを目尻で見つめる安曇の横顔は怒りを抑えているかのような渋い顔のまま。はあ……と、迷いごとを吐き出すようにため息をついた彼は、渋々というふうに話を変えた。


「じゃあ須勢理様、矛を構えてみて」


「矛?」


 矛とは、槍のような長い柄に剣じみた大きな刃を取りつけた武具。須勢理に与えられていたその武具は、馬にまたがる足を支えるあぶみの下に据えられていた。


 それは巻向まきむくにやってくるまで触ったことのない武具だったが、外し方はこうです、振るい方は……と、安曇から簡単に扱い方を教わっていた。でも、安曇からせっつかれるままに、いざその武具を手に取ろうとするものの、ただ手に握るだけでもあっさりとはいかなかった。馬具に据えられた矛を外そうと躍起になってがちゃがちゃと音を立てる須勢理を見下ろす安曇の目は、ほら見たことかといわんばかりに呆れていった。


「……いい? 弓はともかく、あなたは他の武具を扱えないんだよ」


「そんなこと……! 剣は使えるって前にいったわ!」


「じゃあ、どれくらい使える? 狩りをした時に使ったことがあるというなら、剣で獣を仕留めたことが何度ある? しばらくあなたの手さばきを見てたけど、剣の扱い方は素人同然だったよ」


 ……浮かれるな。たった二度目の戦のくせに。


 安曇の厳しいいい方は、そういう現実を須勢理に思い知らせた。


 勢いを削がれて静かになった須勢理を、安曇はさらに諌めた。


「……あなたは目立つんですよ。目立てば狙われるんだ。それなのに穴持様は……わかってるくせに……! 箕淡たちにあなたを守らせるのは、あなたが弓の名手だからだ。あなたに敵の騎手の額を撃ち抜いてほしいから。今日は先に撤退しろとはいわないから……そういうことにして、従いなさい。いい?」


 口調はゆっくりで丁寧だが、安曇の言葉は有無をいわせない。いまはなおさらだった。


 彼は何度も舌打ちをしていた。腹を立てているようだが、怒っている相手は須勢理ではなさそうだ。肩を落とす須勢理をちらりと見つめた安曇の目は、彼らしく穏やかで優しかった。


「この戦が落ちついたら、剣と矛の扱い方を教えようか? 自分で身を守れるように」


「……お願い」


 消え入るような声で静かにいった須勢理に、安曇は苦笑じみた笑顔を向ける。それから馬の腹を足で蹴って、彼は須勢理に背を向けた。





 オオォオオォ……。


 雄叫びをあげる出雲の軍勢の先頭を任された安曇は、今日は誰よりも前にいた。


 三人の武人に匿われるようにして、須勢理は安曇が率いる集団の中でも一番後ろに追いやられていたが、そこからでも前に広がる景色は圧巻だった。


 広がるのは、腰の高さまで伸びる緑の草に覆われた広大な大地。彼方には敵の砦がそびえ立ち、そこで異国の兵たちは同じように雄叫びをあげている。


 敵対する二つの国の兵たちの殺気が満ちているとはいえ、まだそこはただの原っぱ。侵しがたい気配だけが凝り固まる、虚ろな場所だ。そこへ、初めの一歩を踏み出して先陣を切るという命令を下された安曇は、いまから戦をつくりあげていくのだ。


 穴持はいま、騎馬軍の将として後方にいる。だから、前方で武王の影となって軍勢を導く先駆けを任された安曇の背中には、いまやすべての男たちの目が集中している。おそらく敵の目も。


 いつだ? どちらだ? 誰から来る? 


 一触即発の睨み合いの緊張が、戦の野には充ちていた。


 でも、視線の矢面に立つ安曇に怯む気配はない。穴持のような獰猛な獣じみた雰囲気を持つわけではないのに、どうしてか今の彼には侵しがたい堅固さが溢れていて、それは彼をただ者には見せない。いや……そういえば彼は、須勢理が初めて会った時からそうだった。簡単には懐に忍びこめないような妙な壁があって、人の良さそうな笑顔を浮かべていたとしても、彼は決して無防備ではなかった。


 ふと、須勢理に話しかける声があった。隣で須勢理を囲む武人のうちの一人、箕淡だ。


 箕淡は、年が須勢理とそうは変わらない。安曇とも同年の彼は、友人を庇うかのように申し訳なさそうに笑っていた。


「あの、須勢理様。さっきの……その、安曇を怒らないでくださいね。弓の名手は、そう前にいっちゃ駄目ですよ。離れていても射抜けるのが名手なんですから。須勢理様はまだ間合いの取り方をご存じないと、あいつはそれを心配して、それでおれたちにあなたを……」


 彼は、さっきの安曇の不機嫌な言動の理由をわざわざ説明するようだった。


 箕淡が何をしたがっているのかを悟るなり、須勢理は夢中で首を振った。横にだ。


「怒るわけ……!」


 そうだ。さっきの安曇は正しかったし、須勢理に逆らう余地などなかった。怒るどころか、さっきの小競り合いを思い出すと恥ずかしくて居心地が悪くなるほどだ。


 たった一度目の戦でうまくいきかけたからといって、安曇や箕淡たち、数々の戦をくぐり抜けた武人たちの前で、特別扱いをするなと息巻いたなんて、思い上がりも甚だしい。


 たとえそれが恐ろしい太鼓の音と熱気の渦に惑わされたせいだったとしても、同じようにそこにいて太鼓の音と熱気に身を晒している安曇に、それに誘われた様子など毛ほどもなかったのに。


 ますます肩身が狭い思いをして唇を横に引いていると、素朴な顔立ちをする箕淡はさらに説明を加えた。彼は、軍勢の先頭に立って始まりの時を待つ安曇や、彼の背後で黒山を成す兵たちを軽く見渡していた。


「穴持様は、今日でここの戦を終わらせるつもりなんです」


「……え?」


「二日もかければじゅうぶんだと……。安曇は、今日でかたを付けろと命じられています」


「……うん」


 実のところ、よくわからなかった。須勢理が戦に参じるのはたったの二度目だ。ここにいるだけで精一杯の須勢理には、たぶん箕淡がしようとしている戦術の話などはうまく飲み込めない。


 目の前には、広大な緑の野に仕上がる戦の匂いがたしかにある。それを今日でおしまいにしろと、安曇は命じられているという。よくわからないなりに、安曇の肩にはたいそうな荷が乗っているのだろうと感じた。


「それが安曇の役目なの? 安曇一人に命じられることなの?」


 彼は自分を副将だといっていた。一応、と謙遜はしていたが。


 箕淡は、少し先で戦が原を睨む安曇の背中をちらりと見やった。須勢理もつられて目をやるが、安曇は、ほかで勇ましく武具を構える豪傑の風体の武人たちとはいくらか違って見える。安曇は、そこに集う誰よりも冷静とても遠くまでを見渡していた。


 須勢理へ顔を向けて、箕淡はにこりと笑った。そして、頼もしい友人を称えるように安曇の秘密を教えた。


「あいつ、あれでも模擬戦じゃ、十年ほとんど負けなしなんですよ?」


「模擬戦って? ……十年?」


「模擬戦っていうのは戦を真似た遊びですが、武人としての素質を見極めるといわれています。穴持様が相手でも、あいつはほとんど勝っているはずです。砦から見下ろすだけの策士より、よっぽど頼もしいですよ。戦のど真ん中にいて、その都度正しい指示をくれるんだから。……あっ、ここだけの話ですよ?」


 箕淡は、思わず口をついて出た策士とやらをけなす言葉を内緒にするようにせがんできた。


 若い仲間を誇らしげに称える箕淡の笑顔に、それから仲間内の内緒話じみた会話に。須勢理はじわじわと笑顔になっていった。


 その時だった。周囲の気配が変わった。殺気というべき荒くれた興奮が一気に高ぶり、それを操った安曇の腕が天高い場所へ掲げられ、出撃を命じた。


「出るぞ!」


 彼の駆る馬を追い、雄叫びをあげる歩兵の群れを導いて、とうとう軍勢は形を変えて敵陣へ向かって進み始めた。


 はっとして馬の腹を蹴りかけた須勢理の足を、箕淡は笑顔で抑えた。


「おれたちも進みましょう。でも、ゆっくりいきます。ちゃんとおれたちに守られていてくださいね? くれぐれも安曇の気を散らさないように」


「安曇の気を? わかった、そうする」


 はたしていまの彼が須勢理を気遣うかどうかは疑問だが、気の利いた冗談だと笑って、須勢理は慎重に手綱を操った。


「よし……いこう!」


 勢いよく飛び出していった歩兵の群れを追って、さく、さっ……と、軽快に草を踏み分けつつ進み始めた背後で、須勢理はだみ声を聞いた。熟練者の雰囲気をにじませる男の罵声だった。


「あの勇ましいお姿を見ろ! あの姫の初陣も昨日だぞ? 恥を知れ坊主ども!」


 騒々しさにつられて振り返ると、壮年の歩兵が年若い部下を罵っていた。見れば、壮年の歩兵から怒鳴られる少年たちの顔は一様に青ざめていて、身体は震え、あやうい緊張に包まれている。


 その少年たちは須勢理と同じように、昨日初陣を済ませたばかりなのかもしれない。彼らの長から見ろ、と命じられて須勢理を見つめるものの、少年たちの幼顔はとても奇妙なものを見るように呆けている。


 少年たちと目が合うなり、須勢理もきょとんと目を丸くした。それが、「見ろ!」と手本にされるほど誇れるかどうかは謎だが、たしかに今の須勢理に恐怖は微塵もなかった。昨晩穴持から戦の心得を聞き、昨日しでかした過ちを挽回してみせると意気込んでいて、脅えるどころか颯爽と手綱を操り、一刻も早く……と、心はすでに刃が入り乱れる場所へと向かっていた。


 彼らとしばらく目を合わせているうちに、須勢理は微笑んでしまった。それから、明るい声で誘いかけた。


「平気よ、いこう? この先に罪があるなら、あたしがかぶってあげる。だから、脅えて震えあがって、あなたたちが傷ついてしまわないで」


 呼びかけられて、ますます目を見開いていく少年たちへにっこりと笑いかけて、ダン! と須勢理は勢いよく馬の腹を蹴る。


「さ、いこう! 一緒においで!」


 隣で息を飲んだ箕淡や、須勢理を守る残り二人の武人に失笑されつつ、背後を振り返っては、須勢理に魅せられたように後を追ってくる兵たちに微笑んだ。


 いま須勢理が笑顔で口にしたのは、暗に、敵の命を奪いにいこうという言葉だった。


 でも……それでいい、と須勢理は思っていた。いつか悔やむ時が来るのかもしれないけれど、それは絶対に今ではないからだ。


 それに、こうするしかない人が要るなら。こんなふうに恐ろしい真似ができない人の代わりに、平然としていられるあたしがやる。そして……あいつと一緒に死神だと敵から恨まれて、恐れられればいい、と。



 その日、敵陣の砦を守っていた兵の数は明らかに昨日より減っていた。昨日の猛攻に恐れをなして退却したのか、それとも本当に数が減ったのか。


 両軍は入り乱れたが、出雲優勢は変わらない。悲鳴と雄叫びの満ちる騒乱の中で、ひときわ澄み渡る安曇の声が響く。


「とどめだ。いまのうちに前に出る。囲い込んで追い詰めろ、逃げ場をなくせ! 走れ!」


 その号令が合図だった。その瞬間、彼の周囲に集う兵たちがまるで一つの生き物に変わったかのように蠢いて彼に従う。武王、穴持にしていたような熱狂の雄叫びをあげて。


 一丸となった兵の群れを従えて敵地へ真っ向から突き進んでいく安曇の後姿は、雄姿と呼んでもまだ足りないほど勇ましい。


 安曇が率いる軍勢が動き方を変えるのを、後方の騎馬軍は目を光らせて待っていた。ドドド……という地響きを上げながら、砂煙を巻き上げる一団はまっしぐらに追いあげて横から伊邪那軍を囲い込み、そうかと思えば反対側からも騎馬軍が勢いよく前進する。


 劣勢に追いうちをかけるような猛攻に、伊邪那軍はもはや砦を捨てて敗走するしかなかった。


「追い討ちをかけろ……!」


 騎馬軍の行く手あたりから穴持の声がする。同じ言葉を繰り返してこだまをつくる武将たちの声も、戦の野に連なる。


 目まぐるしく変わっていく陣形に見惚れているうちに、ついに敵陣の砦からは火の手があがった。ごうごうと燃え盛る業火の炎が砦を飾っていくと、出雲軍にあった殺気じみた雄叫びは勝利の歓声に変わった。







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