武王と、大蛇の腹の中(2)


 混乱はすぐに怒りを呼んだ。顔も名も知らない人だろうが、見慣れた出雲造りの鎧を身にまとう兵が敵から剣を振るわれて血を流すのを見るのは、どうしようもなく腹立たしい。


 混乱と混じった怒りは身体の内側でぱんぱんに膨れ上がり、須勢理の別の怒りを呼び覚ます。


 浮かんだのは、一の姫の顔。穴持の顔。それから、自分の顔……。それから。


 ……怒るといいよ。これまで一番いやだったことを思い出して、頭に血をのぼせておく。


 安曇の助言のとおりに、かつての怒りとやすやすと混ぜ合わさって、それは最高潮に達した。


 いま須勢理を囲んでいるのは三人の若い武人だけで、安曇はそばを離れていた。


 彼はずいぶん先へいってしまっていて、そこで入り乱れる敵を大勢相手に馬上から矛を振り回している。


 敵らしい軍勢にも、安曇や須勢理たちのように馬に乗っている武人が何人もいた。彼らは馬上で剣を振りかざして、眼下の部下に向かってなにやら大声で叫んでいた。


 須勢理は、ぽつりと思った。


(撃てる……)


 馬にまたがる彼らは格好の的だ。歩兵の上にいて、上半身が見えている。身にまとう見覚えのない鎧や兜は堅固そうだが、一撃で相手を仕留めることのできる目と目のあいだは……剥き出しだ。


(どうしてみんな狙わないの? 撃てるのに)


 静かに、須勢理は大弓を構えていた。背負った矢筒から矢を引き抜き、そうっとつがえて――。


「す、須勢理様……!?」


 両隣にいた武人たちが息を飲んだ。呼びかけられると、須勢理は小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。


「どうして狙わないの? あれはいい的よ?」


 そして……ヒュンッ! 十分に引き絞られた矢は宙を裂き、まっすぐに騎兵の額へ。


 ぐらり、と馬上でよろけたその男は、あるとき落馬して歩兵の隙間へ姿を消した。


 前方にいた安曇が振り返った。周囲の武人たちも何かを口々にいっている。


 でもどれも須勢理には見えなかったし、よく聞こえなかった。


「思ったより飛んだ。もう少し遠い場所にいる的も撃てるかも……」


 須勢理の唇から出ていく言葉は、ただ的射ちを愉しむようだった。


 そして、つがえた二本目の矢も宙を裂き、その矢を最後まで支えていた指先が矢羽を離れるやいなや、その指は癖のように背後の矢筒へ向かい――。ヒュンッ!


「もう少し前へ出るわ。向こうにあと三人いる」


 次の的を探すように、須勢理は馬の腹を蹴っていた。


 そして、雄叫びが満ちる戦が原で茫然となる兵たちの前で三本目、四本目の矢をつがえて、撃つ。それも見事に命中すると、敵陣側から怒号が響いた。


「あの女だ、あの女を殺せ!」


 そう叫んだ馬上の武人は、まだ遠くにいた。


 ふん。鼻で笑った須勢理は、五本目の矢を掴もうと背へ指をさまよわせた。もちろん、そこで須勢理を殺せと命じたその武人を射殺して、返り討ちにしてやるためだ。


 でも、その手を止めるものがいた。


 いつの間にそこまで戻ってきたのか。安曇だった。


「やめろ、須勢理様、狙われた!」


 でも須勢理の目が追うのは、大猿のように遠くで剣を掲げる敵将だけ。剣の刃がここまで届くわけがないのに、あんな場所で振りかざしたりして、ばかみたい。……射てやる。


 いま須勢理の目に映っているのは、その男だけだった。男の命令に従って、須勢理の足元に忍び寄ろうと地べたを這ってやって来る彼の部下たちの姿は、見えていなかった。


 安曇の声は、いっそう強くなった。


「いったん下がれ! 須勢理様!」


「……射てやる。腹立つ、腹立つ……」


 的しか見ない須勢理の唇から漏れるのは、それまで胸を埋めていた怒りの言葉だけだった。


 安曇は怒鳴った。


「須勢理様!?」


 いまにも平手を食らわせてきそうな声だった。それでようやく須勢理は我に返った。


「……え?」


「下がって! 狙われてるから! おい、箕淡みたみ! 須勢理様を連れて砦まで戻せ!」


 安曇はそばにいた武人に声をかけて、須勢理を無理やり戦場から遠ざけようとした。


 須勢理が、それに抗うことはなかった。


 急に夢から覚めたように勢いを失って、意識が朦朧としていたのだ。


「女が逃げる……! 追え、追えー! 戦の君様の仇を討てぇ!」


 背を向けて逃げる須勢理を、敵将の怒号が責めていた。でも、そのとき以上に男と須勢理のあいだの距離が狭まることはけっしてなかった。


 馬ごと追いやられるように、敵同士がぶつかり合っているあたりから離されると、うきうきとして話しかけてくる声があった。安曇がさきほど箕淡と呼んでいた若い武人だ。


 箕淡は目を輝かせて、須勢理の真顔を覗きこんできた。


「須勢理様……! すごいよ! よく、戦の君ばかりを見事に……!」


「え?」


「みんな指揮官でしたよ? 四人は仕留めましたよ!?」


 箕淡は須勢理を称賛していた。でも混乱が遠のいて、我を失っているあいだにいったい何をしたのかもよく覚えていない今、須勢理はいったい何を褒められているのかもわからなかった。


「四人……?」


「はい! 奴ら、油断したんですよ。弓を構える須勢理様が目に入っていなかったんだ! ざっまあみろ、伊邪那のケダモノども!」


 箕淡は息を詰まらせるようにして笑っていた。


 でも須勢理には、なにが可笑しいのかわからない。それどころか――。


 あたしは魔物だ。魔物……と、気が遠のいていく気がしてたまらなかった。


 ……想像以上に、須勢理は凶暴な娘だったらしい。


 なんの抵抗もなく、やすやすと四人もの命を奪えるほど。





 再び戦地へと戻っていった箕淡と別れた須勢理は、武人たちが出払ってすっかり静かになった砦の隅っこにどすんと尻もちをついた。指にも眉にも唇にもさっぱり力が入らなくて、呆けてしまった。


 どれだけ経ったのかわからない。


 気がついた時にはすぐそばに安曇が立っていて、心配そうに覗きこんでいた。


「撤退したよ。快勝した。……大丈夫?」


 安曇だ……。それは気づいたけれど、やはりなんの話をしているのかわからない。……いや、わかるに決まっている。戦のことだ。


 さきほど須勢理が早々に退散した後……須勢理が、夢中で四人の指揮官を射殺した後の話だ。


「大丈夫……」


 須勢理は笑顔を浮かべていた。でも、それを覗きこむ安曇の顔は浮かない。


「本当に……?」


 さっきまでは耳が聞こえなくなったかと思うほど静かだったのに、軍勢が引き上げてきたいま砦は音に溢れている。勝利に酔う男たちの歓声や、武具の音、足音に、話し声。


 でも、須勢理の耳にそれは大きな騒音としか聞こえずに、耳は力を失っていった。目も……。


 熱心に見下ろす安曇と目が合っているのに、須勢理の目には彼ではない人の幻が重なっていく。それは、かつて須勢理に弓の使い方を教えた狩人の青年の顔だった。


 そういえば、その狩人の雰囲気は安曇に似ていた。幼い須勢理がいたずらをしたり、甘えたりしても、決して本音で返さない人だった。


 狩人の青年の懐かしい声も、ふいに耳に蘇った。


 それは、いつも本音を明かさなかったその青年がたった一度だけした、本気の話だった。


『ひとつ、約束です。矢で撃ち抜いて獣や鳥の命を奪ったら、必ず食べてください』


『……食べるって?』


『あなたが満腹なら、空腹な人に与えてください。亡骸をそのまま捨て置くのは絶対にいけません。食べるために撃つんです。理由もなく、ただやみくもに命を奪うと、いまに癖になる。その癖が身体に染みつけば、あなたは魔物と同じになります。だから、必ず食べること。いいですね? それが弓矢を扱う時の約束です』


 この人は本気だ。きっと大事な話だ。……でも、どうして? と、その頃の須勢理は彼がなぜそこまで深刻な顔をするのかわからなかった。


 でも、きっと大事なことだと悟って、彼のいうとおりに狩りに出て獣や鳥を射殺した後では、必ず離宮か近くの村へ運んだ。運ぶのに手がいっぱいになると狩りはおしまいにしたし、自分一人では運べない大物を仕留めた時には、必ず人手を呼んだ。


 彼のいいつけを、須勢理は守ってきたのだ。



 ……息を飲んだ。いま戦場で、須勢理は四人の命を奪ってきた。


 気づくやいなや、須勢理は血の気が引いたと思った。


(どうやって食べる? 人を。まさか)


 人を殺した。亡骸をそのまま戦が原に捨て置いて。泣いても喚いても須勢理には運べないほど、たくさん。


(どうしよう……!)


 胸の奥では自問自答が繰り返されて、最後には、絶叫のようなものが生まれた。






 軍勢は、砦で夜を明かすことになったらしい。夜襲に備えるのだ。


「ひとまず王宮へ。誰かにそばにいて欲しかったら、誰にいいつけてもいい。誰かを走らせて、おれを呼んでもいいから……いいね?」


 際まで見送りにやってきた安曇に念を押されつつ、王宮へ戻ることになった須勢理は、おぼろげな笑顔で馬上から安曇を見下ろした。顔や身体がうまく動かなかった。


 戦地でも世話になった若い武人、箕淡に供をされながら巻向の王宮へ戻ったが、彼が手を回してくれたのか、馬屋を出るやいなや、すぐに須勢理は大勢の侍女に囲まれることになった。


 戦装束を解く手伝いを買って出た侍女たちは、次は須勢理を湯殿へと案内する。そこで熱い湯で身を清め、真っ白な寝着に身なりをあらためると、やはり須勢理は呆然とする。


 ついさっきまで、血なまぐさい戦場にいたはずなのに。


 須勢理の身はそうではなかったが、砦は血で溢れていた。返り血を浴びて顔や鎧を真っ赤に染めた武人たちが誇らしげに闊歩していた。……そういえば、安曇もそうだった。


 須勢理を見送った彼は優しい表情を浮かべていたが、頬や肩には赤黒い染みがついていた。安曇も、きっとたくさん人を殺したのだ。


 でも、なにより許せないのは自分だ。須勢理も彼らと同じなのに一人だけ砦を離れて、身を清めて、まるで何事もなかったように臥戸にいる。兵ではなくて、いまさらまるで、どこかの姫君のように振る舞っている。


「……あ」


 嗚咽が吐き気のようにこみ上げた。涙も。でも、叫んだり泣いたりすることすら身体が動くのを戸惑っている今は、うまくできなかった。だから、喉で詰まって息苦しくて、須勢理は床に手のひらをついて咳き込んでしまった。


(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)


 なにを不安がっていて、どうすればいいのかもわからなかった。


 須勢理はまだ混乱していた。いくら戦地から遠ざかって素知らぬふりをしたところで、それは逃げられるものではなかった。


 ふと、足音を聞いた。回廊を歩んできた誰かが、須勢理が籠った臥戸の前で立ち止まった。回廊とこの部屋とを繋ぐ戸口を覆う薦の向こうに、誰かが立っている気配もたしかにある。


(……誰)


 尋ねたくても、声を発する勇気が持てずに、唇はかたまったまま動かない。


 そこにいた人は、遠慮を通すような人ではなかった。


 薦の向こう側からかけられた言葉は、問いかけの形ではなかった。


「おれだ、入るぞ」


 いうが早いか戸口を閉ざしていた薦がかき上げられて、そこにいた男が姿を現す。


 壮麗な星空を身体で遮って、そこで悠然と立っていたのは、若い武王……穴持だった。


 須勢理は、身構えてしまった。


(どうしていま、この人がここに……)


 この状況はありえない。彼は武王だ。安曇たちが夜襲に備えて砦で夜を明かすというのなら、彼だってそこにいるべき人だ。


 それが、いったいなぜ須勢理のもとにいるのか。


 いや、それより……。彼の姿は須勢理をじわじわと震え上がらせた。


 戦という、戦が原で蠢いていた巨大な人食いの化け物のようなものを意のままに操っていたのは彼だ。彼は戦という死の祭りの祭主であり、武王という名の化け物の親玉。神獣――。


 目の前に戦というものが再び現れたと感じるなり、たちまち須勢理の胸には昼間の光景が蘇って、苦しみで溢れかえった。


 恐ろしい太鼓の音から、殺せとせっつかれたこと。目の前で傷ついていく仲間の姿を見たあの時は、敵だという異国の人々が許せなかった。でも終わってみれば、須勢理も同じことをしていた。いや、もっとひどい。あの時の須勢理は的を探しただけだった。混乱していて、何が起きているのかもわからないうちに、恐ろしいことをいくつもやらかした。


 それは、恐怖だ。……だからといって。恐怖から……いや、事実から逃げている自分がなによりみっともなくて、腹立たしかった。


 ひとつだけでも身悶えするほどの脅えなのに、三つがまとめてやってくると、もう抗いようがなかった。須勢理はそこで身動きすることもできずに、凍えてしまった。


 ぱさり、と薦が彼の手から落ちゆく音が鳴る。


 星空の余韻の光は途切れ、須勢理の小部屋は再び薄闇に沈み、その向こうを行き来する人の気配は遠のいた。


 静寂の中、穴持は静かに尋ねかけてきた。


「今晩、ここで寝てもいいか」


 いっている意味がわからない。声はかすれてしまったが、須勢理は応えた。


「ここで? なぜ」


「夫が妻のもとで寝るのに、理由がいるのか」


 一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる穴持は、須勢理がしゃがみ込んだ寝床から外れた木床の上に腰を下ろすと、そこでごろりと横になった。


 彼の振る舞いに、相変わらず遠慮はない。でも、前に恵那(えな)が憤慨していたような傍若無人という雰囲気でもない。


 須勢理は唇を噛んでしまった。いつもどおりのことが恋しい今くらい、いつもどおりに須勢理のことなど無視してくれればいいのに。そんなことも、勝手に思った。


「……何をしに来たの。砦にいたんじゃ……」


 警戒したせいか、声は小さくなる。自分の腕を枕にそこに寝転んだ穴持はわずかに顎をかたむけて須勢理を見上げた。その、光すら握りつぶしてしまいそうな強い眼差しは、やはり須勢理をあっさりと魅了する。……初めて出会った晩のように。


「安曇に任せて、戻ってきた。おまえの様子を見に」


「あたしの?」


「安曇が、おまえが震えているのを見たといったから」


 ……なるほど。安曇の差し金だ。


 須勢理を心配した彼が、様子を見てくるように穴持を説得したのかもしれない。


 寝床にしゃがみこんでいた須勢理は、身体を支える指先を震わせてしまった。安曇に、余計な真似をするなと怒鳴りたくなった。


 ……こんなの、気まずいだけじゃないか。須勢理は、出雲に戻ったらこの男と離縁してやると胸に誓っているのに。


 要らない世話だ。穴持を来させるくらいなら、安曇が来てくれれば良かったのに。


 そういえば安曇は、誰かにいてほしかったら自分を呼んでもいいと別れ間際にいっていたが……。こんなことになるくらいなら、安曇の迷惑になるかも、なんてことは考えずに彼を呼んでおけばよかった。


 唇の内側でこっそりと歯ぎしりをしながら、穴持の強い眼差しから逃げるように横顔を向けた。でも、穴持は、須勢理がそっぽを向こうが何をしようがどうでもよさそうだった。彼は笑いかけるように見上げてきた。


「誰だろうが、初めて戦を見れば震える。今日、おまえのように初陣を済ませた坊主たちは一か所に集められて、慣れてる奴らに肩を抱かれたり、背中をさすられたり手を握られたりしてるはずだ。おまえもそうするべきだが、おまえの場合は誰かに頼むわけにいかないしな」


 混乱ついでに、須勢理は笑ってしまった。穴持のいい方はまるで、曲がりなりにも自分の妃である娘のそばに別の男を寄らせるわけにはいかないと、嫉妬しているようにも聞こえる。安曇からここへ向かうように泣きつかれたからだと、正直にいえばいいのに。


「あたしを慰めにきたの? あんたが? 出雲の武王みずから? ……まさか」


 安曇に頼まれたから……と、さっさと本当のことをいってほしかった。わけのわからないことの連続から、そろそろ解き放ってほしかった。


 でも、須勢理に応えた穴持の声はどういうわけか温かかった。そのうえ。


「必要なければ砦へ戻る。……でも」


 大きな手のひらでそっと宙を掻いた彼は、寝床の上で強張る須勢理の指先を包み込んでしまった。そうかと思うと近くへ引き寄せて、腕の中に抱きしめた。


「震えてる」


 わけがわからない。いつの間にか須勢理は穴持の腕の中にいて、そのうえ大きな手のひらで頬を包み込まれていた。そうすると、須勢理からはいっさいの力が抜けていく。


 混乱した身体が人の温かみを望んでいたせいか、それとも……。穴持に抱き締められた須勢理は知らずのうちにぽろぽろと涙をこぼしていて、頬を包み込む大きな手のひらを、温かな涙で見る見るうちに湿らせてしまった。


「須勢理……」


 耳元で囁かれる自分の名や、武王の息づかい。


 額やまぶたの上や、頬や髪や……顔のいたるところでは、彼の唇がゆっくりと行き来している。そんな真似をされる了承をした覚えなどないというのに。


 だから、須勢理はやはり腹が立った。


(こいつ、手が早い。でも……)


 彼の唇はここまで来るうちに夜風に冷やされでもしたのか、少し冷たい。それが火照った頭を冷やしていくようで、彼からの冷たいくちづけは、今の須勢理にちょうどよかった。




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