乙女の誤算 (2)
「あたしは山の離宮育ちだから、狩りをするくらいしか遊びがなかったのよ」
「狩りって、弓矢で?」
「剣も使えるけど、弓のほうが得意よ。何年か前に、あたしに弓の扱い方を教えてくれた狩人がいたの。獣はすばしっこいから、遠くから狙うほうが楽だったしね」
「兵舎の的射ちでは、ほとんど外さなかったとか……」
「あんなの。梢の向こうを駆け回る鹿や、空に逃げる鳥を射るよりよっぽど楽だもの。的は動かないんだから」
「的は動かない、か」
そのうち安曇は、囁くような声で感嘆するように須勢理を褒めた。
「武芸もそうですが、敬服します。あなたはとても聡明な姫君ですね」
でも、そんなふうに他人行儀な接し方をされるのはどことなく気味悪い。きっと猫の皮をかぶっているだけで、本当の彼はそこまでいいことばかりを考えている人ではないと、須勢理はとうに気づいているのに。
「敬服とか聡明な姫君とか、その堅苦しい話し方、やめない? あなたがこの軍の副将なら、あたしはあなたの部下よ。年だってあたしとそこまで違わないでしょう? 安曇って齢はいくつ? あたしは十七なんだけど」
二人のあいだにあった壁のようなものを手ずから殴り壊すように、須勢理が安曇のよそよそしい態度を責めると、安曇は一度呆気にとられたように目を丸くする。それから、肩を揺らして笑い始めた。
「あなたには負けました。齢は十八、あなたの一つ上です」
「じゃあ、なおさら……」
「気をつけます。いや、気をつけるよ……と、軽い感じでいったほうがいい?」
くっくっと肩を震わせて笑う安曇の目は、さっきまでとは違っていた。
いまの彼は、ただの年が近い青年。さっきより表情はずっと自然で小気味よくなり、彼の雰囲気に似合っている気がする。でも、相変わらず笑顔は優しいようでいて堅固。向こう側はなかなか見せてくれない。
内側が見えにくいというのは、どうも彼の魅力の一つのようだ。きっと安曇は、とても用心深い人なのだ。でも、本当のところが見えなくても、それが彼だとわかってしまえば須勢理はそれでよかった。
それからは会話も弾み、安曇が出かけていた戦の話や須勢理の山暮らしの話など、しばらく二人には話が途切れることがなかった。
軽口の応酬のように話をするのも、時おり、少し先をいく一の姫が「きゃあ!」と何度目かの悲鳴を漏らして、それを宥めにいった安曇が須勢理のもとへ戻ってくるたびに「ああ、厄介だ」とばかりにぺろっと舌を出しているのと目が合うのも、どれも愉快だ。
そうしてしばらく時が過ぎ――。
その頃になると、二人の周りを歩く武人たちも話の輪に加わっていた。
女ながらに武具をたずさえて山道をいく武王の妃を興味深そうにこっそり覗いていた兵たちは、話を振られれば嬉々として名乗って、すぐに話を合わせてくる。
戦装束が擦れる音が鈍く重なって満ちる山あいの道に、陽気な笑い声を響かせながら。山道を歩む須勢理たちめがけて、ある時、前のほうからものものしい雰囲気が近づいてきた。
武人の列を肩でよけながらやってくるのは、厳しい目をした身分ある武人というふうな男。須勢理の知らない顔だったが、安曇や周りの武人たちは男を見るなり口をつぐむ。それまでそこにあった気楽な雰囲気は一掃されて、のどかな山道にはぴんと張り詰めた緊張が戻った。
安曇を呼びに来たらしいその男は、声が届く場所まで来るとそこで足を止めた。
「安曇、前へ。穴持様がお呼びだ」
「すぐに」
安曇は短く答えて、すぐさま一歩を大きくしようと足を浮かせる。
でも、足を止めた。彼は、心配そうに須勢理を見下ろした。
「須勢理様、あの姫を……」
前のほうにちらりと眼差しを送る彼の視線の先には、馬に揺られる姫君の後姿がある。それだけで、安曇が何を気にしているのかを悟った。
「わかってるわよ。あなたの代わりならやってあげるから、安心してここを離れていいわ。本当は、こんなところで女の世話を焼くような人じゃないんでしょう?」
笑顔でいうと、安曇は申し訳なさそうに、それから頼もしいものを見るようににこっと笑った。
彼は再び足を浮かせて、すでに背を向けて遠のいていた男の後を追っていく。彼を呼んでいるという主……武王のもとへ。
人の列をかき分けて前へと進み始めた安曇の姿を見つけるなり、馬上の一の姫はたちまち血相を変えた。
「安曇はどこへ? あの方のもとへいくの? わたくしも連れていって! あの方のそばへ……ねえ、お願いだから……!」
麗しい姫君の甘い嘆きは、汗の匂いと疲労が漂う軍列には哀れなほど不似合いだった。
誰が見ても場違いな響きとしか思えないものを遠慮なく声にする一の姫が、須勢理はだんだん可哀そうにも見えてくる。
世間知らずな女だと馬鹿にしていたけれど、彼女だけが悪いわけではないだろうに。
こういう心のままの素直な甘えは、そういうのが好きな男には愛らしい甘美なもののはずだ。彼女に惚れこんでいるらしい穴持にとっては、きっと――。
離れるなんていやだ、一緒についていきたいと甘えられたところで、道が険しいから絶対に来るなと拒むべきだったのは穴持のはずだ。
それを許したどころか、須勢理に彼女の世話をさせようなどと妙な画策をしたのも、彼。
……一の姫はきっと悪くない。妙な男に捕まっただけだ。須勢理と同じように……。
ふう。須勢理は一度息を吐いた。息を吐ききった後で、山の新鮮な空気を吸い込むと、須勢理の目は自然と優しくなっていた。
足は、ゆっくりと一の姫を乗せる馬のそばに近づきゆく。そして、一の姫の憂い顔を見上げた須勢理の唇は、すらすらと慰めの言葉を奏でていた。
「穴持はね、いまとても忙しいんですって。大丈夫よ、軍が次の休息地に立ち寄ったら、きっと彼はあなたに会いに来るわよ。だってあなたは穴持の一番のお気に入りの、一の后様だもの」
安曇の代わり。そう思えば、その役目を買って出るのも苦ではなかった。……はずだった。でも。慰めの言葉を口にするなり、胸が「あれ?」と戸惑った。
胸の中では、唇が語っていた言葉が消え入ることなく渦巻いている。
……軍が次の休息地に寄ったら、きっと彼はあなたに会いにくる。
……だってあなたは、穴持の一番のお気に入りの、一の后様だもの……
ぽっかりと、胸に穴が空いた。
……いったいあたしは、何をしているんだろう?
虚しさがこみ上げて、愕然として、須勢理の目は急に輝きを失ってうつろになっていく。でも、一の姫はそれに気づかない。
馬上で揺られる一の姫は、まつげに飾られた瞳でそばを歩く須勢理をじっと見下ろしていた。感極まったというふうに、麗しい目元には涙すら滲んでいる。
「須勢理様……。わたくし、あなたが怖いお方とばかり……。だって初めて会った晩、あなたはとても恐ろしかったんですもの。でも、誤解を……」
正直な姫だ。純粋で……。
実はあなたのことが怖かった、だなんて。黙っていればばれないのに。
「ごめんなさいね、あなたのお世話になるのに、いままでご挨拶をしなくて……。何度も声をかけようとしたのですが、あなたに近づくのをためらってしまって、わたくし……」
胸の中の暗い想いを可愛らしい声で告げて、素直に謝ってくる可憐な姫。
一の姫が須勢理を怖がっていたというのなら、須勢理だって彼女を世間知らずだと馬鹿にしていた。
須勢理はそれをまだ告白していないし、今度もする気などないというのに。
一の姫という穴持の一の后はやはり、須勢理にはない魅力を備えた美姫だった。
こんな姫に甘えられたら、可愛らしくて、男だったら守ってやりたいと思うのかもしれない。
でも……須勢理は気づかれないように奥歯を噛んでいた。
謝罪されて、素直な彼女との違いを思い知り……ますます腹が立った。
やっぱり、面倒くさい女。世間知らずで……。
気づいてよね。一応あたしだって、あいつの妻なんだから。
そりゃあ寵愛を受けているのはあなただろうけれど。
……いえ、いいのよ。
ただの誤解だっただけで、たぶんあたしは彼を好きではないと思うから。
恋心は誤解だったといい聞かせて、抑えつければ抑えつけるほど、苛立ちは募っていく。
なぜ誤解といい聞かせなければいけないの?
心のどこかでは誤解ではないと信じたがっているはずなのに。なぜ? 誰のために?
でも、そこで純粋な笑みを浮かべる一の姫にひそかな憤りを訴えられるほど、須勢理は誰かを傷つけるのが得意ではなかった。
一の姫は悪くない。悪いのはあの男。
出会ったあの晩に、須勢理に間違った恋心を抱かせるような芝居をした、あの男のせい。
須勢理が今ここで苛々としているのも、すべてあの男のせい。
すべての元凶と信じて疑わない相手の男を貶めて気を晴らそうとしても、胸の内のむなしさや悔しさはぬぐえなかった。いや、かえって苦しさは募っていく。
誰かのせいにしようとしている自分がどんどん気味悪くなって……嫌いになる。
やがて、苛立ちをどうにか隠しながら、戦の旅はとうとう終わりを迎える。
出雲からはるばる巻向という異国へたどりついた兵たちは、めいめいの休み場所へ向かって列を崩していった。ある者は巻向の王宮の中へ。ある者は王宮の外の木陰へ、野営となった川べりへ。
須勢理も一の姫も、王宮の中へ招かれた。でも、二人が案内されたのは別々の場所だった。一の姫には、出迎えの侍女たちが大勢待ち受けていた。
「姫様! 長旅などなさって、ご気分は? あら、あらあら、まあまあ! 麗しい黒髪がこんなに砂にまみれて……すぐに湯浴みの支度を!」
一の姫は、出迎えに現れた侍女たちと、顔見知りのような気さくな挨拶をしている。顔がどこか似通っているので、その侍女たちは同郷の越の人なのかもしれない。
「さあ、越の館へ。さぞかし足もお疲れでしょう」
「ええ、とても疲れたの。わたくし、こんなに遠くまで山の旅をしたのは初めてで……」
「そうです、よくぞここまでいらっしゃいました。じゅうぶんにお休みいただかないと。さあ、こちらへ!」
どうやら、この巻向の王宮には越の館という建物があり、きっとそこには一の姫を見知っている同郷の人々が住まっているのだろう。
そういえば安曇は、巻向についてからは一の姫を別の館に閉じ込めて戦から離すといっていた。須勢理が彼女のお供をするのは、戦の旅の途中だけでいいと。
その別の館というのが、同郷の人が住まう越の館という場所なのかもしれない。
一の姫を取り巻く華々しい輪の外で一人ぽつんと立ちつくす須勢理を、ふと一の姫は振り返って微笑んだ。
「須勢理様、本当にありがとうございました。わたくしがここまで来れたのは、道中ずっとあなたに励ましていただいたおかげです。近々、お礼の宴をひらきたいの。必ずお誘いするから、ぜひ来てくださいね」
贅沢に慣れた品のいい笑顔。それは、名のある王の御子といえども、生まれながらの姫、王子は存在しないといい聞かされて育つ出雲ではあまり見かけない表情だ。それだけに、一の姫のまとう華やかな雰囲気は目にまぶしくて、圧倒される。
にこりと須勢理に笑いかけたのを最後に、一の姫は侍女たちに先駆をされてゆっくりと背を向ける。そして、少しずつ遠ざかっていった。
こんなに砂にまみれて……さぞかしお疲れでしょう。と、侍女たちは主の姫君の姿を嘆いたが、馬に揺られることもなく兵たちと一緒に山道を歩いてきた須勢理と比べれば、一の姫の身なりはよっぽど綺麗だった。疲れだって……。
須勢理はこっそりと歯を食いしばっていた。道中ずっと抑えつけていた苛立ちが、高波になって押し寄せてくる。それをどうにか止めようと――。
(あたしとあの姫は違う。馬に乗るだけだって、慣れないことをすれば疲れるに決まってるわ。疲れをねぎらわれて当然よ。……あたしは平気。馬に乗ってまっさかさまに谷底に下るのだって平気だもの。みんなと一緒に山道を歩くくらい……)
でも……唇をきゅっと結んでいないと、なにかの拍子で薄気味悪いものが目もとにこみ上げそうだった。
そのうち、須勢理のもとにも案内役の館衆が一人駆けてきた。
「須佐乃男様の御子、須勢理様ですか? 初めてお目にかかります。父王君には、我が主がまことにお世話になり……!」
気のいい笑顔を振りまいて彼が須勢理を案内したのは、巻向の王が住まうという館の端にある小部屋だった。
茜色の光が降りはじめた中庭を回廊越しに眺めることのできる雅びな場所で、部屋は狭いがそれなりの場所だ。一の姫が向かった先は、きっとここよりよほど優雅な場所だろうが――。
「すみません、ここしか空いていなくて。いま、侍女にお着替えを届けさせますから」
深く頭を下げて去っていった男を強張った笑顔で見送ってから、須勢理は案内された小部屋に駆けこんでしまった。
勢いよく薦を引き、一人きりの小部屋に閉じこもると、とうとう瞳からは涙がこぼれる。
止めようとして力を込めれば込めるほど、目もとも鼻のあたりもよけいに熱くなるので逆効果だった。
(なにが……どうしてあたしは泣いてるの。泣くことなんか何もないのに。馬鹿みたい)
自分を嘲りながら叱咤するものの、一度溢れてしまうと、何日ものあいだこらえ続けたものは次から次へと流れ落ちて来る。
いい。一度思い切り泣いてしまおう。そうしたらきっとすっきりする。
暗い小部屋の隅にふらふらと歩み寄り、人が行き来をする回廊から出来る限り離れてしまうと、泣き声が外に漏れないように、砂にまみれた袖で口元を覆った。
「……く」
なぜ泣いているのかは、よくわからなかった。だから頭に浮かぶのは、自分への文句ばかりだ。
(あたし、あの姫のことを妬んでる? 悔しいと思ってる? ……ばっかみたい。一の姫がどうだっていいじゃない。比べたってどうしようもないのに。まさかあたし、穴持があたしを好きじゃないってことを、いまさら悔しがってるの? まさか)
初めて穴持に出会った晩に、運命じみたものを感じたのは勘違いだ。
口先だけの妻問いを真に受けて、いわれるままに嫁いでしまったなんて、間抜けもいいところ。
ただの勘違いだったのだから、彼に自分よりもっと好きな相手がいるのは当然だ。
だってあの姫は美しくて甘え上手で、須勢理にはない魅力をたくさん持っている。
そのうえ異国の王の娘。性格も悪くなくて、お礼に宴を……と綺麗な笑顔でいえる子だ。
……穴持があの姫をそばに置きたがるのは当たり前だ。
あの姫のように可愛らしく甘えるどころか、須勢理は大声で罵倒したというのに、須勢理が彼のそばに呼ばれるわけがない。
ひとしきり泣くと、落ちつくものだ。
すう、はあ……と息を整えると、狭い小部屋の隅っこで息を殺して泣いていたみじめさを痛感して、やはり思う。
(……あたし、馬鹿みたい)
それから、両手両足を広げて伸びをしながら、木床の上に大の字になった。寝転んで上を見上げると、屋根の内側、順序良く並んだ丸太の筋が暗がりの中に浮かんで見えている。
まだ新しいのか、木の色は薄く木目も鮮やかだ。そのなだらかな模様を意味もなく目で追っていたが、なにか無駄なことをしていたと気づくなり、両目をつむる。――そして。
(運命の相手、だなんて。……田舎娘の勘なんて、あてにならないわね)
ふいに浮かんだその言葉を胸に刻みつけると、ぐっと拳を握りしめた。それから、ゆっくりと起き上がる準備をした。
望むものがやって来るのをただ待つのは、性に合わない。
着替えも、汗を流すための
自分は決して特別ではない。小さな頃から唱え続けてきた言葉に従うように。
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