武王と、大蛇の腹の中(1)


 須勢理すせりが仮住まいをすることになった異国の王宮。戦の支度に追われたそこは、異様な熱に包まれていた。


 日に何度も、戦装束に身を包んだ男が馬にまたがってどこかの館へ乗りつけて、どうやら伝令役らしいその男が何かを朗々と口にするなり、人はどよめいたり、舌打ちをしたりする。


 兵に混じりつつ様子を見ていると、どうやらこういうことらしいと須勢理は思った。


 すでにどこかで、敵国との戦は始まっているのだ。いや、わからない。とにかく須勢理たちが出雲を出る前から、睨み合いじみたものは続いているらしい。


 そして、いま敵を牽制している軍勢は、ここからすこし離れた場所に築かれた砦で昼夜を過ごしているらしい。そして……緊張は日ごとに増しているようだ。


 須勢理と一緒に出雲からやってきた兵たちは数日前から、彼らの寝床になっていた川べりから姿を消していた。きっと、戦地の砦という場所へ先に移動したのだろう。


 兵にまぎれて戦の支度を手伝っていた須勢理の耳に入る武人の声は、日に日に深刻そうな影を帯びていく。


「奴らの野営に人が集まっているんです。事代ことしろを連れた窺見が、伊邪那いさなの都から続く兵の列をたしかに見たと……」


「こちらの動きに気づいたのだろう。小癪な……」


「向こうが陣営を整える前に攻めるべきです。出来る限り早く」


 そうやって彼らの焦りを感じるたびに、須勢理も焦った。


 須勢理が巻向まきむくまで来たのは、戦をこの目で見るため。武王と離縁するのを踏みとどまって、一の姫の護衛に付き合ってやったのはそのためだ。


 あたしもそこへいきたい。いかなければ、ここにいる意味がすべて消える。穴持なもちの命令通りに彼のお気に入りの姫を護衛しただけで、旅が終わってしまう……。


「ごめん、ちょっと用事が……」


 手仕事を途中で抜け出した須勢理は、慌てて安曇あずみの姿を探した。


 安曇は、小さな館のそばにいた。これまで須勢理が手伝いをしていた兵たちとは一線を画した、質のいい衣服に身を包む武人たちの輪の奥だ。


 安曇の姿を探しあてると、須勢理は人ごみをかいくぐって彼のもとを目指した。


「安曇……!」


 呼びかけると、うずくまって手元を覗きこんでいた安曇も須勢理に気づいたようで、丸めていた背を伸ばして立ち上がる。須勢理に向けられた笑顔は爽やかで、前に山道を隣り合って歩いていた時とそう変わりばえしなかった。


 戦況に一喜一憂して焦る他の武人たちと違って、彼には余裕があった。そのうえ須勢理と目が合うと、武人の輪を抜けて彼もみずから歩み寄ってきた。


「須勢理様。おれも話しにいこうと……」


 それから彼は、願ってもない言葉をいった。


「戦にいってみる? たぶん明日か……とにかく明朝にはおれも砦に移動するんだけど」


 生きるか死ぬか。恐ろしい場所として語られることの多い戦を、雨か風の話をするようにあっさりと語る安曇の笑顔は穏やかだった。


「もちろん。いいの? よかった、それをお願いしにきたところだったの!」


「いいの? って、いきたかったんでしょ? 山道を歩くあいだ、ずっとそういってたくせに」


 即答した須勢理に、安曇はくすくすと笑っている。


「じゃあ、お偉い様方にはおれから話しておくから。明日は早いよ。でも、必ずよく寝ておくこと。いいね?」


「うん、わかった!」


 そういうわけで、須勢理の初陣は難なく決まってしまった。


 目を輝かせて明るく答える須勢理を見やると、安曇は苦笑を浮かべた。


「戦にいくっていうのに、そんなに喜んで。本当に、物好きな姫君もいるもんだね」


 でも、けなすような笑みではなかった。だから、須勢理も笑顔でいい切った。


「姫君じゃないわ。あたしは兵としていくの」


 この王宮でじっとしていたら、それこそ須勢理は前に進めないのだ。


 穴持のことはもういい。巻向へ来たのは彼の妃としてではなくて、兵としてだ。兵として戦を見て、目的を果たしたら、その後は出雲に帰って、父王の住まう離宮へ相談にいこう。武王と離縁するには、どうしたらよいのかと――。


 




 翌朝。日が上る前に起こされた須勢理が安曇からいわれた場所を訪れると、そこには小さめの戦装束が用意されていた。立派な大弓と矢筒、それから、光珠がはめ込まれた御剣まで。


「これ、あたしの?」


 はじめて手にする美しい宝剣の鞘を震える手で抜いていくと、現れたのは光の色をした刃。それは煌びやかに輝いて、朝の光がまだ届かない早朝の薄闇の中でも、きらきらと透明に光っている。


 須勢理は、刃を見つめてうっとりと息をした。


「……きれい」


石玖王いしくおうからの贈り物だよ」


 教えてくれたのはやはり安曇だった。二人がいたのは、巻向の兵舎の前の広場。そこでは武具を抱えて集まった武人たちが、最後の仕上げとばかりに戦装束を整えている。


 出立を目前に控えたその場所には、勇ましい緊張が満ちている。でも、須勢理のそばで世話を焼く安曇の仕草にはまだ余裕があった。


「ごめん、石玖王って?」


石見国いわみこくの主。須勢理様が戦に参じると話したら、須佐乃男様の姫に古い剣を持たせるなと、ご自分のを――ね。石玖王は、須佐乃男様のもと部下だから」


「……とうさまの?」


「そうだよ。というより、ここにいる連中は、たいてい一度は須佐乃男様のもとにいたと思うよ」


 そういって安曇はあたりを見回すが……。そこで戦の支度をしている武人たちはみんな、身分ある戦の君というべき姿をしていた。身にまとう鎧兜も腰に佩いた剣も、巻向まで山道をたどるあいだに世間話をした下っ端の兵たちの質素なものとは違う。


 ……当然だ。須勢理がいるのは王宮の中なのだ。


 位の低い兵たちは王門をくぐることを許されずに、近くの川べりを仮宿にしていた。いや、そこからもすでに追い払われている。彼らはとっくの昔に砦に向かっているはずだ。


 いま王宮に残っているのは、歩いて戦地へ向かった兵たちにもすぐに追いつけるような、馬に乗ることを許された武人たち。おそらく、兵を従える身分の武将たちなのだ。


 それに気づくと、須勢理はふいに罪悪感に襲われた。猛者というべき彼らと違って、須勢理は初めて戦に参じる。それなのに、名のある武将たちと同じように支度をしているなんて。


 でも、いまの状況を拒むには、須勢理は戦のことを知らなすぎた。


「須勢理様、馬には乗れるっていってたよね?」


「ええ、大丈夫」


 戸惑いをふっきるようにも強く答えると、安曇はにっと笑った。


「じゃあ、いこう。おれたちもそろそろ出なくちゃ」





 安曇は須勢理の面倒を見るように命じられているのか、ずっと須勢理のそばを離れず、むしろ導くようだった。


 王門を出た騎馬軍は、ほどよい速さを保って湖のそばの野道を駆ける。


 安曇の背後で手綱を操りながら、須勢理には奇妙な想いがこみ上げて、最後までぬぐうことができなかった。例えるならまるで、巨大な生き物の腹に飲まれてしまった気分だ。


 ドド、ド……! 周囲には、百頭近い馬の蹄が土を蹴りあげる音が満ちている。それは地鳴りや、押し寄せる大水が地を這う音や、知らずのうちに身体の芯を揺さぶって、震えさせる轟音に似ていた。


 ときたま大粒の砂が頬を打つほど、あたりは巻き上げられた砂煙に満ちている。


 轟音と同じ速さで進む騎馬軍は、まるで光り輝く一頭の大蛇おろち。馬にまたがる武人の戦装束はまるで、その大蛇の光り輝く金の鱗の一枚一枚。その鱗の一枚に、須勢理もなっていた。


 いや、初めての光景に追いつこうと焦る須勢理は、鱗になったというよりは、その巨大な化け物の腹の中から、外の様子を探ろうと懸命に覗いている気分だった。



 やがて道の果てに草原がひらけて、大きな木組みの建物が見えてくる。……砦だった。


 砦の手前には密集する山蟻のように大勢の兵が集っていたが、砂煙をあげる騎馬軍が近づいていくと、黒い塊になった彼らはどよめきをもって迎える。


 大蛇じみた騎馬軍の腹の中から須勢理はそれを見つめたが、見ているうちに目が不思議がった。人の目では視えないはずのもの……戦の熱気という、不気味なものを視ている気がした。


 黒山となった軍勢の歓声に応えて、騎馬軍の先頭で剣を掲げているのは、ひときわ豪奢な鎧を身にまとう男。出雲の武王、穴持だった。


「穴持様!」


「出雲の軍神!」


 出迎えの歓声はたった一人の男の呼び名に代わるが、それはまるで、やってきた大蛇の御名を呼ぶようだ。


 兵たちはそれぞれの武具で天を突き上げ始め、身動きとともに息はまとまり、名は連呼された。


「穴持様、穴持様、穴持様……!」 


 いったいここには、何千人の兵がいるんだろう……。先をいく安曇に倣って馬の歩みをゆっくりにした須勢理は、騎馬軍を取り巻く熱狂の渦を見渡して茫然となった。


 つい、目で追ってしまうのは出雲の武王、穴持だった。


 数千人から名を呼ばれ、その分の眼差しを一身に浴びても、彼は顔色一つ変えない。


 待ち受ける兵の前でとうとう歩みを止めた彼は、掲げていた剣で宙をひと薙ぎした。腕を横に振った、ただそれだけの仕草だ。でもそれを背後から見つめる須勢理には、彼が空を斬ったように見えた。ただ人ではない不可思議な力で――。


 きっと、兵たちにもそう視えたのだ。一度、息を飲んだように野が静まり返ったかと思うと、次の瞬間にはさらに湧く。


 ウワアア……! そういう言葉を超えた熱いどよめきも、須勢理の耳は知らなかった。





 大蛇の腹に飲まれて向かった戦地には、さらに巨大な化け物がいた。戦というものだ……。


 そんなふうに思って、須勢理は仕方がなかった。


 その渦に飲まれてしばらく茫然としていたが、やがて、びくりと震える。また初めてのものを聴いたのだ。太鼓の音だった。


 ドン、ドン、ドン……と、脈と同じ速さでゆっくりと打たれるその低い音色は、地下深い暗い場所から聴こえてくるまじないの音のようだ。勝手に身体を操るような奇妙な力を帯びていて、それは須勢理の脈を乗っ取ろうとする。


 わけもわからず武具をたしかめてしまう。そういう響きだ。


 須勢理を取り巻く歓声はひときわ低くなり、恐ろしい雄叫びに変わった。


 出撃の支度をせよと、おそらく戦いの始まりを告げる合図だったのだ。時がきた、戦え、と。


 ふいに、安曇の声を聞いた。


「……怖い?」


 彼は、ここへ着いてからしばらく須勢理のそばを離れていたはずだった。でも、いつの間にか戻ってきたらしい。


 隣で馬を駆る彼は、兜をかぶらず手にしたままで微笑んでいた。笑顔にはまだ余裕が感じられる。でも、爽やかさは消えていた。


 はっとした須勢理は、慌てて首を横に振った。


「怖くなんか……。驚いたのよ、初めて見たから。すごいね、戦の熱気というのか……」


「やめるなら今のうちだよ。正直、戦なんて年若い姫の見るものじゃないと……」


 須勢理は、安曇の言葉を強く遮った。


「見てみなくちゃわからない」


 安曇は苦笑を浮かべて、手にしていた兜を頭にかぶせた。そして顎の下のあたりで紐をきゅっと結び、頭に据えた、その瞬間。目つきが変わった。


 口調も鋭くなる。彼がどれだけ穏やかな声でゆっくりと話そうが、いまやそれは厳命にしか聞こえなかった。


「必ずおれの指示に従うこと。周りの連中にも。……あなたを守るから」


 安曇が急に冷えた目配せを送った先には、三人の若い武人がいた。いずれも馬にまたがっていて、背には大弓を背負っている。


 彼らは口元に笑みを浮かべて、馬上の須勢理を見つめていた。勇敢にも戦装束をまとった姫君の初陣を守ろうと、そういう意気込みが彼らの笑顔には見て取れた。


 そして……。しだいに、太鼓の音が速くなる。ドン、ド、ド……と、音と音のあいだが狭まっていくたびに、脈動までがつられて速くなっていく気がする。周りに満ちていた雄叫びも、小刻みに力強くなっていく。その、天を撃つ杭のような雄叫びは、やはりたった一人の男に向けられていた。


 幾千もの狂気混じりの眼差しの中心にいるのは、出雲一の武王、穴持。


 玉の御剣を天へ向かって掲げる彼は、一度吠えた。


「出るぞ……! 国獲りだ!」


 人の声には聴こえなかった。とにかく、そこにいるのはただの人ではない。


 いつも彼が身にまとっている妙な華は、いまも彼のそばにあった。それは戦という死の祭りに熱狂する兵をまるごとくるみこんで、さらに興奮を掻き立てるほど、いまや強大に彼の周囲に吹き荒れていた。



 戦の地というのは、もしかして言葉の要らない場所なのか。


 とにかくまるで異界。くにだ。


 ほかでは見えないものを視て、聞こえないものを聴いている。


 そして、もうひとつ気づいたことがある。


 武王というのは……まるで化け物の親玉。神に近い。




 神獣、か――。父王の言葉を思い返しつつ、須勢理はとうとう動き始めた安曇の後を追って、馬の腹を蹴った。


 ついてくる須勢理を振り返る安曇は、念を押すように尋ねた。


「怖い?」


「……怖くないといえば、嘘になるわよ。でも、平気」


 須勢理は正直に答えたが、たしかに恐れじみたものはその声になかった。そのうえ瞳は、初めて訪れた異界の地に見惚れるようでもある。


 それで、安曇がそれ以上思いとどまるようにすすめることはなかった。


「ひとつ、助言を。怒るといいよ。これまで一番いやだったことを思い出して、頭に血をのぼせておく。初めはそうするといい」


 怒るといい? 怒る……? いわれた通りに、これまでで一番腹が立った時のことを記憶に探すと、それは意外に近い場所にあった。


「……なら、簡単よ。つい先日のことだから」


「先日?」


「なんでもない。いいのよ。いまにとっては好都合な出来事だったってことだわ」


 安曇の目は、一度いつもの彼らしく優しくなって須勢理を案じた。


「……あまり深入りしないように」


 でも、それが最後だ。きつく前を睨んだ安曇は、須勢理に見せたことがなかった表情を浮かべた。まるで彼という人が、別人に代わってしまったように。


「無理をしないで。今日は武具に触れなくてもいい。考えるのは、まず手綱を操ることです。おれから前に出ないでください。……真後ろがいい。そこならおれの矛が届く」


 助言というより、それは命令でしかなかった。


「わかったわ」


 須勢理がそう答えるしかない、厳しいいい方だった。





 やがて、人の群れが蠢き始めた。


 戦が原と呼んでしかるべきその野には、いまや戦の匂いのないものは存在しない。


 地面を覆う緑の草を震わせる雄叫びは、出雲の軍勢ものなのか、それとも奥にそびえる砦から押し寄せる敵軍のものなのか。山々の隙間で響くそれは山肌に跳ね返って、恐ろしいやまびこのように、そこでいつまでも鈍くこだましている。


 前方の安曇は、周囲の武人へ目配せを送った。


「後衛、出るぞ!」


「出るぞ、続けぇ……!」


 地べたを走る兵たちへ号令をかけたのは、副将だという安曇ではなくそばにいた武将たちだった。


 少しずつ馬を進めさせる安曇は、やはり背後の須勢理を気にしている。


「いきます」


 奇妙だと、須勢理は思った。安曇はこの軍の副将だといっていたのに。


「あたしのことは放っておいていいわよ? 安曇は副将なんでしょ……」


「従いなさい」


 振り返る安曇の穏やかな顔には、凄味のようなものすら滲んでいた。


「おれがあなたについているのは穴持様の意思であり、石玖王や、須佐乃男様のもとにいた名のある武人たちが、あなたの初陣を守りたいといったからです。あなたのためじゃない。須佐乃男様のためです」


「とうさまは関係ない。穴持はなおさらよ、あたしは……!」


「従いなさい。これ以上無駄口をきくなら、あなたを連れてはいけない」


 安曇の険しい表情や口調は、須勢理に有無をいわせるようなものではなかった。


 渋々と、須勢理はうなずいた。


(須佐乃男の娘だなんて……特別なものなんかじゃないのに。娘も息子も、とうさまにはたくさんいるのよ? 出雲には血筋が関係ないくせに)


 むっと唇を結んだ須勢理を振り返った安曇は、須勢理が黙り込んだのを見届けると背を向ける。


 そして、彼の両隣を、安曇の部下らしい騎兵たちがすり抜けていった。


「続けぇ!」


 そして、雄叫び。勇ましい蹄の音を追って大勢の兵が追っていき、周囲に轟音が溢れて、乱れた。


 その後を追って安曇も進み始め、須勢理のためにそばに残ったらしい三人の騎兵もゆっくりと前へ進み出す。剣を抜き、槍を構え、斬りかかるべき敵を見つけようと兵が目を血走らせる場所へと。


 あちこちで死に物狂いで振りまわされる刃や、それを操る腕や身体。その上に飛び散っていく赤い何か。


 人の動きも感情も、めまぐるしく変わりゆく動の世界に合わせようと、須勢理は手綱を握り締めた。それから……まともに物事を考えられなくなっていった。混乱した。


 いや、戦という場所が、混乱そのものの巣窟だったのだ――。






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