英雄、色を好む(2)

 やがて、今日の分の矢を引き終え。火照った身体を夕風に冷やし、大弓を引き絞り疲れた細腕を大きく振りまわして、須勢理が今日の稽古をひそかにねぎらっていた時だった。


 夏の終わりの太陽が地上に残した茜色の潤光の中を、須勢理のほうに向かってやってくる青年の姿があった。


(誰だろう? 見たことのない顔……ううん、そんなことはないわ。知ってる――)


 どこで彼を見たのかと記憶をたどると、須勢理はすぐに思い出した。


 その青年は、穴持なもちを見かけた時にいつも彼のそばにいた人だ。


 ゆっくりと近づいてくる青年は、身動きもせずに待ち受ける須勢理と目が合うと、居心地悪そうにそっと目を逸らす。


 彼の年は、せいぜい十八か十九。須勢理とそうは違わないように見えた。童顔をしているせいか、もっと若くも見える。でも、あどけない幼な顔は決して無防備ではなかった。彼は人の良さそうな笑顔を浮かべていた。それなのに、簡単には懐に忍びこめないような奇妙な堅固さがある。


 若くても、童顔が彼を幼く見せようとも、それなりのことができる人なのだろう。彼には、そんな雰囲気があった。


(穴持様の側近かなにかかな)


 夕空のもとで恵那を従えつつ凛と立つ須勢理のもとへやって来ると、青年はまず頭を下げて名乗った。


「はじめまして、須勢理様。おれは穴持様に仕える従者で、安曇あずみといいます。お見知りおきを」


 いい方も仕草も丁寧なのだが、なぜか彼の声にはやけくそといわんばかりの雰囲気がある。


「はじめまして、安曇。須勢理です。なにか?」


 首を傾げながらも須勢理が次を尋ねてやると、安曇は一度ため息をついた。それから、やはり渋々というふうに告げた。


「あの、須勢理様、その、穴持様がお呼びなのですが」


「穴持様が?」


「はい。兵舎の奥に、あの方のための庵があります。そちらでお待ちです。案内します、どうぞ」


 いうが早いか背を向けた青年、安曇はやはり気が乗らないというふうで、はあ……と、ため息をついている。


 早速歩きだした安曇の後を追ってしばらく進むあいだ、須勢理の背後についていた恵那はずっとはしゃいでいた。


「とうとうですね! きっとお誘いですよ。よかった! 恵那は宮に戻りますよ。お二人のお邪魔になるでしょうから!」


 顔を赤くしてそわそわと耳打ちする恵那を、須勢理は小声でたしなめた。


「お誘い? それなら、兵舎じゃなくてあの人の住まう御館へ呼ぶわよ」


 須勢理の声に、浮かれた様子はかけらもなかった。目も、先駆をして数歩先をいく安曇という青年の背中をちらちらと睨むように見ていた。


「それに、この人、若いけどきっとかなりの身分があるわよ? しかも武人よ。そんな人が、いくら主のためだからって、妃を呼びにいくようなちゃちなお使いをするわけないわよ?」


 手のひらで覆いをつくって、須勢理は気味の悪いものを見るようにいっそう声をひそめたが、先をいく安曇はそれに気づいたらしい。


 声が漏れていたのか。それとも、従順に後をついていくものの、怪しいものを疑うような態度を崩さない須勢理に胸のうちを察したのか。


 一度振り返った安曇は、すまなそうに笑った。


「あなたは、利口な姫君です」


 それは須勢理の懸念を、その通りだ身構えておけ、と忠告するものにほかならない。


 その瞬間に、須勢理にあった妙なもやは、嫌な予感へと変わった。


 須勢理の顔立ちには、黙っていれば少女の憂いが漂う儚げな印象がある。


 眉は薄く、肌の色は白く、唇の色も薄桃色。大人しい優しい姫だったという母譲りの顔だが、持って生まれた気性は顔にはそぐわない。


 儚い印象があるはずの薄い色の眉はぴんと横に張られ、愛らしい唇はかたく結ばれ。耳元では、弓を引き絞る時に弦が唸るきりきりという音の幻すら、勇ましく響き始めた。


(なにかある。穴持様は、あたしになにかをさせる気なんだ。この、安曇っていう人がこんなに申し訳なさそうにしてるんだもの――)


 まっすぐに虚空を睨み始めた須勢理を不安げに見やると、恵那の声も震えていった。


「す、須勢理様……いったい武王は、あなたにどんな御用があるというのでしょう……」


 ふんわりと腰から下を覆う裳を、細い脚で内側から蹴り飛ばすようにしてずんずん歩く須勢理の足は、立ち止まることを知らなかった。


「いけばわかること。いくよ」






「こちらです、どうぞ」


 案内されたのは、兵舎を囲む林の中にひっそりと立つ小さな館だった。


 戸口で立ち止まった須勢理を追い越した恵那は、そこにかかる薦をそっと避けて主のための路をつくるが、館の中の様子を目にするなり、恵那はそこから立ち退くことも忘れて目を点にした。


 武王のための庵という建物は、広くも狭くもない大きさだった。武将たちの戦会議にでも使われているのか、奥の壁には絵地図らしき大きな布がかかっている。武王の持ち物にふさわしく、壁には出雲の軍旗が美しく飾られていて、そのせいで館の内側は、軍旗の黄と赤に染まって見えていた。床には、飴色の板が敷き詰められている。


 須勢理の夫、穴持は絵地図の真正面であぐらをかいていて、戸口の須勢理と目が合うと、にっと笑いかけてきた。


「須勢理、待っていたぞ」


 でも、須勢理は笑い返す気が一切起きなかった。


 穴持のそばには、美しい娘が一人いた。贅沢な品が溢れていた女宮でも、なかなか見ることのなかった豪奢な染め布で仕立てられた衣装に身を包むその娘は、花の色の上衣に、艶やかな黒髪をまっすぐに垂らしている。袖は長く、その袖で口元を覆っているので、黒髪と袖に隠されて、覗いているのは目と白い頬くらいだ。その目の、なんと柔和で華やかなこと。娘は、優しい魅力のある美姫だった。


(……ありえない)


 須勢理は、逆上するのを懸命にこらえた。


 どうして夫が、他の女と仲良くやっているところに呼ばれなくちゃならないんだ――?


 奥歯を噛みしめて怒りをこらえて、脱力した腕を戸口の柱に添わせると、どうにか須勢理は返事をした。


「お呼びとのことだけれど、なんの用かしら」


 丁寧な言葉づかいをこころがけたつもりだったが、怒りが染みだして自然と声はきつくなる。でも、そこで美姫をはべらせている穴持に、ひるんだ様子はなかった。

「中へ入らないのか?」


 笑顔のままでそんなふうにいわれるので、柱に沿わせた指先には思わず力がこもる。木目を爪で引っ掻いて苛立ちをこらえつつ、須勢理は嘘をいった。


「ここでいいわ。弓の稽古をしていたから、暑いので」


 本当は、夫のはずの男が、別の娘とたわむれている場所に一歩たりとも近づきたくなかったからだが。


 言葉にはしなかったが、須勢理の不機嫌な態度と口調でそれくらいわかるだろうに、そこで悠然とあぐらをかく穴持はただうなずいただけだった。


「そうか。ならそこで聞け。……頼みがある。明日から共に戦に出て欲しい」


 ……すこしくらい、気づけ!


 腹の底で文句をいいつつ、須勢理は頭に血が上っていくのをこらえた。


「話が読めないわ。もう少し詳しくいってくれないと」


「戦ができる女が欲しい。兵舎にかよっているらしいな? 腕は立つと聞いた」


「戦に?」


 狩りを遊びとして育って、戦や、まだ見ぬ武王に憧れて育った須勢理にとって、それは都合のいい話だった。


 獣と狩人が命と命を賭けて差し向かうように、戦では人と人が全身全霊でぶつかり合い、己の強さと運を試すらしい。いつかこの目で戦を見てみたい。


 須勢理はそんなふうに思っていたので、いま穴持がいった言葉は、二つ返事で了承してもいい提案だった。


 でも、癪に障る。意味が、よくわからなかった。


 どうやら彼は、須勢理が武具を扱えることを聞き知って、戦場に赴いて共に戦おうと誘いかけているらしい。それはわかるし、それは須勢理にとって願ってもない話だ。


 でも、須勢理の視線は穴持の得意げな笑みではなくて、その逞しい肩にもたれている美しい姫へと向かう。


 頼りなげな細い腕を武王の背に回して、なにかに脅え、素直に助けを求めるかよわい姿。


 そこにいた美姫にあるのは、なにか困ったことがあっても、悩むより先に自分でどうにかしてしまう須勢理にはない、娘らしい可憐な仕草だ。


 須勢理はとうとう、一番気に食わないことを尋ねた。


「……その方は?」


「この姫か? ……一の姫。越の大君の娘で、跡取りの王子の姉。おれの一の后だ」


 ぴきっ。須勢理のこめかみが苛立ちで凍った。


 一の后というのは、正妃だ。そこにいる麗しい姫君は、女宮に大勢匿われた穴持の妃たちの中でも一番の位をもつ姫君らしい。須勢理よりも格上だということだ。


 百歩譲って、それは仕方ないとしよう。須勢理は、決して特別ではない。


 彼の妻になったとはいえ、須勢理は雲宮に来たばかりで、いうなれば彼の妻たちの中では一番の素人。逢瀬を重ねたわけでもなく、穴持と二人で過ごしたのは、たった一晩だけだ。


 夫となった相手……そこにいる武王は、出雲の西半分を領地として君臨する戦の王。


 夫となったからには、彼は須勢理の主ともいえる。


 身の程はわきまえている。でも、どうしても納得がいかないことがあった。


「あなたの一の后……そう、美しい方ね。それはいいわ。それで、どうしてあたしに、その人を抱きながら頼みごとをするわけ?」


 とうとう一番の怒りの種を口にすると、さすがに声が震える。


 でも、穴持の態度は変わらない。彼はえらく簡単に答えた。


「姫が怯えているから」


 すうーっ……と、須勢理は息を吐いた。ああ、そうですか。


 穴持は、自分にもたれかかる一の姫のたおやかな肩を抱いていたが、その腕を放すそぶりも見せずに須勢理を見つめた。彼の瞳は漆黒の闇色をしていて、光すら引き寄せて握りつぶすような妙な力がある。初めて会った晩に、須勢理を惹き寄せたように――。


「おれは明日、伊邪那いさなを攻めに発つ。だが姫が、おれのいない雲宮にいたくないというのだ。だから姫も一緒にいくことになった。それで……」


 それで……? その先の言葉を、怒りに震えた須勢理は閃いてしまった。


「それで、あたしにその姫の護衛をしろというわけ?」


「話が早い」


 穴持は満足そうに笑った。


 須勢理の背後では恵那が息を飲んでいる。戸口で恵那と同じように控える安曇という青年も、あぁあ~……というふうにますます目を逸らした。


 須勢理を含めて、ここにいるみんなが呆れかえっている。


 この、ふつふつとこみ上げる熱さは間違いではない。当然の怒りだ。


 須勢理が柱に添えていた手のひらに、木を握りつぶしそうなほど力を込めた時だった。


 穴持のそばで、須勢理の苛立ちに気づいたらしい姫君がそっと須勢理を向いて哀願した。


「そ、その……どうか、お願いです。お助けください。あなたはとてもお強そう。敵も、物の怪もきっと逃げていくわ」


 一の姫という異国の姫君は、須勢理を持ち上げようとしてそういったのかもしれないが、 それは須勢理の怒りの火に油を注ぐだけだった。


(なんなんだ、この世間知らずな女は)


 どうにかこらえようとしていたが、とうとう堰が押し流された。こみ上げた憤りに翻弄されて、須勢理は興奮に任せて暴言をつらねた。


「ばかじゃないの? いきたいってその人に頼んだのはあんたなんでしょう? なら、それくらい自分でやりなさいよ。あんたみたいな虫のいいへなちょこを守る気なんかないわ!」


 一度外れてしまえば、もう止まらない。須勢理の怒りの矛先は穴持へも向かう。ぎろりと睨みつけると、須勢理は心のままにいった。


「でも、戦にならいってもいい。どれだけでもぶった斬ってやるから。あたしを連れていきなさいよ、穴持さま……。いいえ、あんたみたいな男に、『様』なんか、金輪際付ける気も起きない。穴持でいいわ!」


「す、須勢理様……」


 そばで恵那が表情を凍りつかせるが、いまの須勢理は、なぜ咎められるのかもわからなかった。まだいい足りないとばかりに戸口で仁王立ちになる須勢理に、奥であぐらをかいていた穴持は大声をあげて笑った。


「呼び捨てか! おれの目に狂いはなかった。やはりおまえは刃の精か、女神か……が」


 笑い飛ばすと思いきや、次の瞬間、穴持は表情を一変させる。須勢理の興奮をさっとひと撫でで凍りつかせるような、冷やかな目をした。


「おのれの務めを認めん戦の君なら、おれは要らん。いまおまえは、この姫を護るために呼ばれたんだ。戦に出たいというのなら、務めをまず果たせ」


 その冷たい目こそが、武王の目だったのか。


 須勢理の胸はいくらか脅えたが、頭にはまだ血が上ったままだった。


「なら、いかない。あたしがいくわけがない」


 吐き捨てると、今にも握り潰してしまいそうに柱を掴んだ。


 穴持の、須勢理を上から押さえつけるような苦言は、彼の妻として怒り狂う須勢理には逆効果だった。


 我慢の限界だった。夫だからと、長いあいだ憧れていた出雲の武王だからと、よく知りもしない相手に義理立てをして。これまで恵那を諌めていた自分がばかみたいだ。


 そんな真似をしてやるような相手ではなかったのに――。


「ふざけないで! もういいわ。あたしは須佐へ帰るから。あたしはあんたの妃で、兵でも侍従でもないのよ!」


 ガン! 勢い余って柱に一発蹴りをいれると、夜の小道へむかって踵を返す。それから。


「須勢理様!」


 慌てふためく恵那の声を、須勢理は背後に聞いていた。



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