Turangalila(ソラトとハフリの結婚式)

 それは、よく晴れた日のことだった。

 旅の道中、草原の最中で。男は一夜の宿を乞おうと、ひとつの集落に行き着いた。

 時刻は太陽が南中する少し前。白い布を張り巡らせた大きな幕家が立ち並ぶ集落は、不思議なことにしんと静まり返っていた。

 首を傾げた男の前を、ふいに色鮮やかな影が過ぎる。

 影は、両腕に色とりどりの織布を山と抱えた娘だった。腰まで伸びた烏の濡れ羽色の髪が、ひかりを弾いて青みを交えている。群青色の大きな瞳と視線が交わる。娘ははたと方向を変え、男のもとへと駆け寄った。

「旅の方ですか?」

 首肯する。一晩泊まりたい旨を伝えると、快諾された。旅人の訪れというのはよくあるもので、まろうどは盛大に歓待するのがこの土地のしきたりなのだという。

「今日お越しになったのは運が良いですよ」

 娘が嬉しげに言うので理由を尋ねると、これから祝言が執り行われるのだという。祝言。婚礼の儀である。「それはめでたいことだ」と男が驚くと、娘はころころと笑った。

「行きましょう。みんな向こうの広場に集まっているんです。料理も山ほどありますから、ゆっくりしていってください」

 娘が抱える布に視線を落とし、男は持ちましょうかと申し出る。けれど娘は「大丈夫です」とやんわり断った。

「力仕事は得意なんです。それに、これは花嫁のものだから。あたしが自分で渡したくて」

 布の意匠の意味を一つ一つ説明する娘は、我がことのように嬉しげだった。饒舌な語りに耳を傾けていると、はっと「あたし、話しすぎですね」と頬を赤らめる。いいえ楽しいですよ、と答えると「よかった」と安堵したように笑う。なんとも感じの良い、明朗快活な娘である。自分に娘がいたらこの年頃だろうか。いや、もう少し若いか。と男は栓のないことを考え、そっと苦笑した。

「ツムギ」

 集落から出て、少し離れたところに人だかりが見え始めた頃。男の声が響いた。人ごみの中から一目散に駆け抜けてきたのは長身の青年。見るも鮮やかな赤い短髪に鳶茶の瞳。おそらく彼が呼んだのは娘の名だったのだろう。

「遅いから、なんかあったんかなって」

 このあたりでは珍しいなまりを含んだ言葉。青年がちらとこちらに、やもすれば胡乱げですらある視線を寄越した。娘が呆れたようにため息をついて男のことを説明すると、青年はようやく表情を和らげ「ようこそ」と整った顔に人好きのする笑みを浮かべる。

「ハフリは?」

「もう上座に座っとる。はよ持っていかんと」

 気遣わしげな視線を寄越した娘に、あとは誰かに声をかけるから気にしないようにと告げる。青年に急かされるようにして、娘は人だかりへと向かっていった。二人の背中を眩しげに見送り、男もまた、ゆっくりと祝いの席へと向かっていく。こんなにも賑やかな場に足を運ぶのは、久方ぶりのことだった。

 「旅の方ですか」「ようこそ」「ようこそ」「どうぞこちらに」

 男に女、子供に老人、あらゆる人々に声をかけられもみくちゃにされ、男はいつのまにか、わいやわいやと祝いの最前席へと案内されていた。焼いた肉と馬乳酒を手渡され、草原に敷かれた布の上へと着席する。息を吐き、ようやっと頭を上げて前を見る。

 空を切り取ったような鮮やかな青と白の布を用いた衣。精緻な刺繍の施された揃いの衣を纏った娘と青年が、上座に並んで座っていた。がっちりとした体格の花婿は随分と硬い面持ちをしていて、かたわらの赤髪の青年に茶々を入れられては渋い顔をしている。

 先ほど会った黒髪の娘は、甲斐甲斐しく花嫁の世話を焼いていた。そのさまは友人というより姉妹のようだ。色とりどりの布を周りに配置し、花嫁に最後に花束を持たせる。この寒地かつ乾地で、色鮮やかな生花を集めるのはそうたやすくない。きっと花嫁のために労を惜しまず用意したのだろう。

 花嫁が幸せそうに花束に顔をうずめた。小さな体躯の、愛らしい娘である。淡い金髪に深い緑の瞳。この辺りでは見ない容姿だ。

 周りに尋ねてみると、花婿は村長むらおさである男の息子だという。花嫁は、随分遠い南の地から嫁いできた。何年も前から二人は想いを通わせていたが、花嫁の体が弱かったのに加えて、この土地の状態が数年前まであまり良くなかったため、なかなか祝言をあげられずにいたのだという。「やきもきしたもんさ」と隣の男性が犬歯を見せて笑った。おそらく彼の妻である女性——彼女は先ほどあった黒髪の娘とよく見ていた——もまた「祝言が挙げられて良かったわ」と安堵を覗かせる。

 良い日に来ました、と男が述べると「だろう。もっと呑め」と酒を注がれた。

 馬頭琴の伸びやかな旋律。笛と鳥たちのさえずり。子どもたちが踊りながら降る鈴の音。笑い声。笑顔。胃の底に落ちた馬乳酒が心地の良い熱を帯びて、身体を温める。

 歌が響く。

 けして大きな声量ではない。けれども確かな存在感を持って、歌声が響く。

 花嫁が歌う。まるで彼女がひとつの楽器であるかのように、言葉を超えた、歌詞を持たない歌を紡ぐ。やわらかい声だった。木の葉のささめきのようであり、あるいは光の律動のようでもある。いのちを讃美するように、流れる時を見送るように。祝福を、祈りを、そして、愛を。彼女は歌っていた。歌っていると、感じた。

 ああ、これは。

 トゥーランガリラ、と男はつぶやいた。

 旅の途中で出会った言葉だった。遥か遠い場所で使われていた、昔々の言語だという。

 トゥーランガリラ。それは、愛の歌。あるいは喜びの聖歌。

 花嫁の歌が世界を言祝いでいる。全ての音を導いて蒼穹に向かう。太陽のひかりと混ざり合って、降り注ぐ。世界が輝く。温度を増していく。高鳴る胸の鼓動を意識する。

 花婿が待ちかねたように花嫁を引き寄せぎゅうと抱きしめると、周りから口笛と笑い声が一斉に響き、空を揺らした。



***


トゥーランガリラ【Turangalîla】

2つのサンスクリット(梵語)“turanga”と“lîla”に由来しており、これらの言葉は古代東洋言語の多くの例に漏れず、非常に幅広い意味を有し、“Turanga”は「時」「時間」「天候」「楽章」「リズム」など、“Lila”には「遊戯」「競技」「作用」「演奏」あるいは「愛」「恋」「恋愛」などといった意味があるとしており、この二語からなる造語“Turangalila”には「愛の歌」や「喜びの聖歌」、「時間」、「運動」、「リズム」、「生命」、「死」などの意味があるとされる。

参照:wikipedia


Turangalilaは製本版「響空の言祝」の裏表紙の似非バーコードの下にも記載した言葉でした。私の中での「響空の言祝」というタイトルそのものを違う言葉に置き換えるならこれだなあと、勝手に思っている言葉です。


サイト公開:2017.1.1

カクヨム転載:2019.2.10


番外編が尻切れとんぼなので最後の締めにと投稿しました。

今後も細々と小話を追加したり、赤い子と青い子の後日談を書いたりする予定です。


ここまで読んでくださった貴方に心からの感謝を。


青嶺トウコ


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