ツムギとハフリ(三章3後)
ツムギが小さく身じろぎすると、自らの左肩に寄りかかる少女の頭も小さく揺れる。それにちらりと目をやって「重い」と呟くも、押し退ける気にはなれなかった。
少女――ハフリは身体をくたりとツムギに預けている。長い前髪のせいで表情は伺えないものの、聞こえる寝息は穏やかでしっとりとしていた。先日父親に「いびきがうるさい女は嫁に行けんぞ」と言われたことがふいに思い出され、小さく舌を鳴らす。どーせあたしにはこんな可愛げありませんよと思いながら唇を尖らせもする。先日妹に「お姉ちゃんのいびきはウバタマの嘶きよりうるさい」というお言葉を頂いたばかりだ。
ゆるく波打つ薄金色の髪が時折夜風にもてあそばれてツムギの頬をなでる。ひどくやわらかくて、くすぐったくて、むずがゆくて。落ち着かない気持ちにさせられる。悪く言うならば、苛々させられる。そして思い出す。そうだあたしはこの子が大嫌いなんだった。おどおどしているところも、背を丸めて歩くところも、顔を覆い隠すような前髪も、ちいさな声も、すべてがすべて気に食わない。すっかり忘れていた。そう、——忘れていた。
深いため息をこぼす。つま先をしばらく見つめた末、うがーとうめくような声をもらして空を仰いだ。そこにあるのは闇で染まった雲の天井だけで、あの果てない藍色をした夜空の欠片は、とうに消え去っている。
額の怪我にあてがわれた布も視界に入る。それを固定しているものは、この少女がこの村へと持ち込んだ数少ないもののひとつではないだろうか。物陰から見たハフリの荷物は、遠方から連れられてきたにしてはあまりにも少なかった。
あやういのよ、とツムギは思う。あやういのよ、この子。人の怪我は必死に手当てするくせに、自分の怪我には無頓着だし。そこまで考えるとまたため息が漏れた。何をこんなに考えているのだろうか、自分は。
あたしはこの子が大嫌い。その理由をあげればきりがない。けれど、その一番の理由はハフリにとってはひどく理不尽でなもので。身勝手だとわかっている。わかっているのに、心の奥底で弱い自分がで叫ぶのだ。とらないで。あたしの居場所をとらないでと。
宙に向かって手を伸ばす。指先は空をかき、何もつかめはしない。澄んだ静謐な空気は平時は心地よいものであるのに、ふとした瞬間に不純物を弾いて浮かび上がらせる。普段どれほど目を背けてみても、弱い自分は消えやしないことを思い知る。柄にもないと強がってみても、鳩尾のあたりに例えようのない重さが溜まっていく。
おさまっていた額と手首の痛さまでぶりかえしてきていよいよ落ち込んできたそのとき、ぎゅむ、と。もぞもぞと動いたハフリがくるりと身体を反転させて抱きついてきた。げ、と反射的に思ってやんわり引きはがそうとすると、がっちりと腰に腕を回される。「離しなさいよ」と声を放ってみたものの、反応はない。そのくせしがみつくように抱きしめてくる。まるで言葉の分からぬ赤子か、聞き分けの悪い幼子を相手にしているようだ。ふう、と息が漏れた。けれどその息は先刻まで吐き出していたものよりもずっと軽くて。自分でも驚いて目を見張る。数回まばたきを繰り返したのち、しがみつくハフリの身体を少し動かして膝に頭が乗るようにしてやる。長い前髪をそっとのけてやると、このうえなく安らかな表情をした顔があった。口を小さく開けて息をして、時折閉じてはなにやらもごもごと動かしている。その様子を見ていると身体の力がすとんと抜けて。苛々も鬱々も通り越し呆れてしまう。
衣越しに伝わるぬくさは、子羊のそれに似ていた。子羊だと思っておこうと考える。それなら、それならば、きっとすこしだけやさしくなれるから。
子羊の頭をそっとなでながら、ツムギは目を伏せる。徐々に身体を包み込むまどろみは、綿のようにやわらかく、あたたかかった。
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