二章 山烏の村(2)
*
森を出てからというもの、暑さに弱いティエンを
休息をとるのは、大抵、草原に点在する泉の傍だった。樹があれば頭上に布を張り、その下でソラトはひたすら眠り、ハフリもティエンに身を預け、フゥとともにまどろんでいた。
日が暮れかけるとどちらともなく身を起こし、ふたりと一匹と一羽で食事をとる。
会話がないことに気付くと、ソラトが村の様子を語るのが常だった。
——緑の草原に、ぽつぽつと白い幕家が並んでるんだ。幕家には村の細工師が模様を彫った扉がひとつあって、決まって南を向いている。扉を開けた家のなかには、壁一面に一針一針丁寧に刺繍された布が張ってあってさ。だいたい女たちが縫うんだけど、俺には絶対つくれないって思う。
豪快に噛みちぎった干し肉を頬張りながら、ソラトは話し続けた。
——村のまわりにはいくつか放牧場がある。家畜は羊や馬が多いかな。草が無くなってきたら、違う
——男も女も、じいちゃんばあちゃんも、子どもだって馬に乗れる。年に一度、騎射の祭りがあってさ。馬に乗ったまま的を射て、当たった数を競い合うんだ。去年俺は、二位だった。二つ年下に、目と腕がいい奴がいて、なかなか勝てない。
草に降りた露を弾きあげ風とひとつになって駆ける馬の姿が、脳裏に鮮やかに浮かんだ。
草原の向こうに、知らない世界がある。ソラトの話に、ハフリの胸は高鳴るばかりだった。
村のことを語るソラトは饒舌だったが、時折思い出したように表情を曇らせることがあった。寂しげな苦笑まじりに、「今は随分寂しくなっちまったけどな」とつぶやく彼に、ハフリはかける言葉を見つけられないままだった。
そんな日々を過ごし、森を経ってからおおよそ半月が過ぎたころ、ハフリたちは山烏の村へと到着した。夜明け前のことだった。
「もう少しだ」とソラトが呟くのを耳に、ハフリはうとうととしていた。背中越しに伝わるソラトの心臓の鼓動がまるで子守歌のようで、なかなか眠気から抜け出せない。
ティエンの体温は高く、座っているだけでもあたたかい。顔をあげれば凍てつくような寒さが肌を覆うけれど、身体に巻き付けた毛布は分厚く、くるまっていればさほどの辛さはなかった。
風がふわりと舞いあがり、ずん、と重みが身体に戻る感覚とともに、ティエンが地面に降り立った。胸元の袋を見下ろすと、フゥはまだ眠っている。
夢うつつに目をこするハフリに、「おはよ」と告げたソラトは、どこか歯切れが悪い。
「今からおばばさまに会いに行くんだけど」
頭をかいたり首を傾げたりとひとしきり悩んだ末、
「拾ってきたことにしようと思うんだ」
「ひろって、きた?」
いまだ意識の醒めやらぬハフリが目を瞬かせると、ソラトが慌てたように補足する。
「お前を森から連れ出してきただろ? それを、草原に倒れてところを助けたことにしたいというか……」
頭が急速に覚醒し、血の気が引いて視界が揺らぐ。
もしかすると自分は、彼にとんでもないことを頼んだのではあるまいか。ここに来てはいけなかったのではないか。
おそらくすべて顔に出ていたのだろう。ソラトはさらに慌て、まくしたてるように言葉を放った。
「お前を連れてきたことが駄目なんじゃない。うちの村は特殊で、変な誤解が生まれる可能性があって」
誤解? と尋ねそうになるも、咄嗟に口をつぐむ。
ソラトがそうしたいのなら自分は従うまでだ。彼が話したくないことならば、訊かないほうがいい。
こぶしを握り、無意識にくちびるを引き結ぶ。
大丈夫、きっと大丈夫——本当、ほんとうに?
「大丈夫だ」
力強くまっすぐな、ハフリの心をとらえる声。
心を読んだかのような言葉に驚いていると、ソラトは「だから」と眉尻を下げた。
「そんな顔すんな。本当に、大したことじゃないんだ」
わずかな逡巡の末、うなずく。不安がゆっくりと、心の奥に帰っていく。
「じゃあ、行こう」
ソラトが安心したように笑った。
手を取られ、導かれる。少しかさついた、けれども大きくてあたたかいソラトの手。そっと指先に力をこめると、思いもかけず握り返され、不安が帰った場所から、熱に似た何かが湧き上がる。身体と顔が、火照ってしかたない。
この感覚が何なのかはわからない、けれど。
小さな声でも力でもソラトは気付いてくれる、それだけのことが、どうしようもなくうれしかった。
ハフリが案内されたのは、村の一番奥にある幕家だった。他のものより一回り大きく、扉には両翼を広げた鳥の彫刻が施されている。
深呼吸を終えたソラトが扉に手をかけたようとしたそのとき、
「ソラトか」
歳を感じさせながらも張りのある声。同時、ごんという鈍い音が響く。ソラトに先んじて、扉が中から押し開けられたのだった。
それなりの勢いで開けられた扉は、ソラトの顔に直撃。ハフリの手を握ったまま、ソラトは屈んで悶絶した。
「だ、だいじょうぶ?」
ハフリは顔を抑えるソラトを慌ててのぞきこむ。幸い血は出ていないが、相当痛いようだ。
扉を押し開けた小柄な老婆が言い放つ。
「山烏の血を引くとは思えんほどに、勘が鈍い」
ばさばさと広がった焦げ茶色の髪。鷲鼻も相まって、その姿はまるで本で見た『やまんば』を想起させる。
黄ばんだ白目の中央にあるのは、虎目石の瞳孔。ソラトの血縁、ソラトのいうところの「おばばさま」であるとハフリは理解した。
「おばばさまは、おかしい」
ソラトが額をさすりながら立ち上がる。
「なんで集会用の幕家で待機してるんだ」
老婆は悪戯が成功した子どものように、くつくつと肩を揺らした。
「でもお前も、ここだと思って来たのだろう?」
「まあ、そうだけど——」
ふたりの良く似た瞳が、ハフリに向けられる。
先に口を開いたのはソラトだった。
「おばばさま。この子は」
「金の髪に翠の瞳……歌鳥の民だな」
鋭い光を秘めたまなざしがハフリを射抜く。すべてを見透かすかのような視線にたじろぎ、無意識に一歩後退すると、地面が乾いた音を立てた。
「草原に倒れていたところを、助けた」
ハフリを背に庇ったソラトが告げるも、老婆は嘆息し簡潔に返すのみだった。
「ソラト、下がりなさい」
「でも」
言い募ったソラトを言葉なく一蹴すると、老婆は節くれだった手でハフリ招き、幕家に入っていった。
ハフリはソラトの背に、「あの」とささやくように問いかける。
「わたしはほんとうに、ここにいてもいい?」
「いていい」
振り向いたソラトのこたえに、揺らぎはなかった。
繋いでいた手をゆっくりとほどく。最後の指が一度ほどけて、けれどもたまゆら、指先だけが触れ合った。
「いってくるね」
ハフリは思い切って幕家の扉を引き開けて、立ち入った瞬間息をのんだ。
幕家の天井は存外高い。広さも二、三十人が余裕で輪になって座れるほどだ。
なによりハフリを驚かせたのは、壁だった。
ソラトに聞いた通り、壁は刺繍の施された布に覆い尽くされている。
歌鳥の民は直線によって作られる幾何学模様を好むが、山烏の民の刺繍はとても複雑だ。曲線を用いて、花や雲のような模様を連ね、はたまた葡萄のようなかたちを描く。紋様のなかに鳥が飛びかい、馬が駆けている。
色も多彩で、金糸や銀糸がまぶしく輝く。布は綿から光沢を放つものまで様々だ。
「すごい」
思わずと声を漏らすと、奥からかみ殺した笑い声が響く。
「こちらにあがりなさい」
「す、すみません」
慌てて扉を後ろ手に閉め、靴を脱いで敷布にあがる。
「ここは山烏の民が大切なときに集まる場所だからね。一番上等な刺繍をかざってあるのさ」
老婆は隅に積み上げられた円形の座布団をひとつ手に取る。
水の波紋のような刺繍が施されたそれをハフリの前に置き、自身は木の椅子に腰かけた。座るように促されハフリも膝を折って居ずまいを正す。
老婆は横にある台から水晶玉のようなものを取り上げひとなでし、よく通る声で口火を切った。
「わたしはイグサ。村長でありソラトの祖母だ」
うなずくと、イグサは「さて、どうしたものかね」とひとりごち、端的に言い放った。
「わたしはお前さんがここに居ることに異論はない。ずっと居てもらっても構わない」
だがね、と続けて、
「お前さんは、いつまでいるつもりでいるんだね。森の外であるこの土地に」
思い当たるのは、ひとつのこと。
——歌鳥の民は、森の外では生きられない。
このひとは一体、どこまで知っているのだろう。どうしてセトもイグサも『外』の世界に深く通じているのだろう。
「どうするんだね」
再度問われ、ハフリは背筋を伸ばす。
他のことに気を取られている場合ではない。
ソラトも、長であるイグサも、ハフリがここに居ていいと言ってくれた。ならば自分は、
「置いていただけるなら、いつまでも」
居させてくださいと。
森との別れも、死期が近付くかもしれないことも、あまり実感がなく、恐れも不安もなきに等しい。ゆえに。見落としたもの、見返さないものの大切さも忘れてただ、新しいこの場所で自分の居場所を作りたいと、ハフリは強く思った。
「そうかい」
イグサは曖昧な笑みを浮かべ、ひそやかに嘆息した。
「ここで暮らすからには、しっかり働かせるからね」
「はい、イグサさま」
安堵と、身体が弾けてしまいそうな歓喜を抑えつけ、ハフリは深く頭を下げた。
幕家を出ると、ソラトが駆け寄ってくる。
「なにもなかったか」
うなずくとさらに「ほんと?」と尋ねられ、何度も首肯する。
「よかった」
息をついたソラトが「実はさ」と声を潜めた。
「ガキの頃、房飾りが欲しくて馬の尾の毛を切ったら、村で一番高い木に一日中縛り付けられたことがあってさ。怒るとすげえ怖えの、あのひと」
身を縮めるソラトに、ハフリは思わず吹き出した。
「ほんとの話だからな? ……って言っても」
ソラトは苦笑し、寂しげに付け足す。
「その樹も今は枯れてるんだけどさ」
そんなソラトを見つめることしかできず、ハフリははがゆさを覚える。
何か気のきいたことが言えればいいのに。彼にしてあげられることが、ひとつでもあれば良いのに——と。
「可愛いお嬢さんだわ! ほらあなた、こっちこっち」
女性の声とともに、人影がこちらに近づいてくる。
ひとりはソラトよりも大きな男性、ひとりはハフリと同じくらいの背の女性。そしてもうひとりは、とても小さい。
焦げ茶の髪と瞳を持つ三人を、ソラトが指差した。
「父さんのリクヤと母さんのオウミ、あと弟のハルハ」
「よ、よろしくお願いします」
頭を下げると、オウミが人懐っこい笑みを浮かべて、ハフリの手を取った。
「はじめましてハフリさん。ハフリちゃん、の方が良いかしら。どうぞこれからよろしくね。綺麗な髪と瞳の色。肌もきれいだし、若いってほんとすてき」
矢継ぎ早な言葉にハフリが閉口していると、横からリクヤが呆れたようにつぶやく。
「驚いているだろうが」
「何よあなた、嬉しくないの? 息子が、『外』からこんな可愛い子を連れてきたのよ。つまりこの子は——」
オウミの口を、ソラトが素早く塞ぎにかかる。
「だから、そういうのじゃなくて、倒れてたのを助けたんだって」
声を潜めオウミに言い聞かせるソラトの様子を眺めていると、服の裾が引かれた。ハルハだ。
屈んで目線を合わせると、小さな手がハフリの頬に触れ、ふっくらとした指先が長い前髪をのけた。
開けた視界に固まっていると、
「きれいな目」
なんのてらいもなく言われ、たじろぐ。鮮やかさのない暗い緑の瞳を、褒められたことなど一度もなかった。
「ぼくはハルハ。あのね、このまえ、ろくさいになったんだよ」
「ハルハ」
「そうだよ」
「ソウダヨ」
ふいにハフリの胸元からハルハの声が響く。目覚めた小鳥が朝を告げるように機嫌よくさえずった。
「とりさん?」
「フゥっていうの」
「フゥ。きれい。空のいろだ!」
ハルハがまぶしげに、それこそ本当の空を見上げたかのように笑うものだから、ハフリまで嬉しくなる。
肩に触れられ顔をあげると、ソラトと目があった。
何か言わなければと思う。このこぼれる気持ちを言葉にしなければ、と。
けれど言葉が見つからず、喉もうまく動かない。
「ハフリ」
わかってる、と言うようにソラトがうなずいた。
「——ようこそ、山烏の村へ」
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