一章・婚約(2)
――お前達には、祝言を挙げてもらいたい。
「「は?」」
スオウと声が重なった。両親に目で訴えてみるが、神妙にうなずかれるだけだ。
「お前たちも村の中ではもう年かさだ。村の状況も落ち着いてきたし、ここらで明るい話も欲しい」
「待ってください!」
うわずったスオウの声に、イグサがぴしゃりと返す。
「長たる私が決めた。両家にも異存はない。祭を含めた期間で、心の準備を整えるよう」
明らかに動揺しているスオウを横目に、ツムギは胸に手を当て、小さく深呼吸をする。こういう場面は久しぶりだ。近頃のスオウは弁が立つが、幼いころは大人しく口下手で、そんなスオウに助け船を出すのがツムギの役割だった。指先で軽く胸元を叩く。
(あたしまで慌てたら、だめ)
イグサの話を整理する。
今回の話は突拍子もないが――結婚相手を村長や両親に決められるのは、別段珍しいことではない。ツムギの両親も遠縁の織鶴の民同士の見合いであるし、ソラトの母にいたっては、夫の顔も名前も知らずにこの村に嫁いで来たと聞く。
ツムギたちが暮らす山烏の村は、十数組の家族が暮らす小さな村だ。ツムギと年が三つと離れていないのは今や男ばかりで、スオウとソラトともう二人。女は三つ年上が二人がいたが、ともに三年前、十八歳で余所の村へと嫁いでいった。ツムギは夏至の手前で、十九歳になる。
一人で生きていく道を考えたことも、なかった。
ならば縁談は避けようのない話で、相手によっては村を離れることだってあるのだと、漠然ではあるが覚悟はしていた。なれば。まったく知らない男のもとに嫁ぐのと比べれば。幼いころからの気心知れた人物が相手なのは、間違いなく幸運だ。
(あれ)
割合すんなりと現状を受け入れようとしていることに気付き、驚く。
(あたしは……悪くない話だと思う。でも、スオウは)
嫌われているとは思わないが、受け入れがたい理由があるのだろう。もしかすると、スオウにはすでに心に決めた人がいるのかも知れない――ソラトにとってのハフリのような、とくべつな存在が。
だとしたら、今彼を助けられるのは自分しかいない。
(あたしが、しっかりしなきゃ)
両親同士がのんきに「ふつつかな娘ですが」だの「愚息がお待たせして申し訳ない」だの好き放題言い合って頭を下げ合う中、ツムギは「待ってください」と声を上げ、スオウの手を取った。
「イグサさま、スオウと話をさせてください」
*
「大丈夫? ひどい顔色してる」
スオウの額ににじんだ汗を、懐から取り出した布で軽く拭ってやる。普段は飄々として万事器用に切り抜ける幼馴染が、これほど狼狽しているのも珍しい。
「ねえ……その、もしかすると、心に決めた人がいるんじゃないの? ならイグサさまにちゃんと言うべきよ。今からだって遅くないわ。なんだったらあたしが言ってあげ――」
「
何が「違う」のかはわからなかったが、袖をくいと引かれる。少し見上げた位置にある鳶茶色の瞳が、弱々しくツムギを見つめた。
「ってか、ツムギは良いわけ?」
「あたしは……悪くない話だって、思ったけど」
「はぁ?」
「だって、いつかは結婚するでしょ? 全く知らないひとのところに嫁ぐよりはずっと良いなって。村にもいられるし」
スオウが深くため息をつく。
「あのさぁ、オレと夫婦になったとこ、想像できるわけ?」
「……できないけど。みんなそういうものじゃないの?」
「オレはずっと、」
一度、言葉が途切れる。視線が交差する。互いに一歩も動かず、距離を詰めたわけでもないのに、踏み込まれる感覚があった。
「――ツムギはソラトのことが好きだって思ってたんやけど」
ツムギは反射的に口を開いたが、何も言葉がでてこなかった。心臓がばくばくと早鐘を打ち始め、瞳の奥がちかちかとする。
ソラト。
もう一人の、一つ年上の幼なじみ。
特別な想いがないと言ったら嘘になる。ツムギにとって、ソラトは大きな部分を占めていた。彼が馬に乗れるようになれば、負けじと乗馬の稽古に明け暮れたし、彼が商談を任されるようになれば、役に立ちたいと染織品の目利きを学んだ。特別に優しいわけではないけれど、幼い頃は闊達さに惹かれた。経るにつれ、村長の孫として毅然と立つ姿に、追いつきたい、隣に立ちたいと思った。
褒められれば嬉しかったし、頼られれば誇らしかった。
でも、それだけだ。
あまりにおさない、子供めいた感情だと、知っていた。
「そりゃあ……好きよ?」
心のうわべだけをなぞった言葉が、まろびでる。
「でも、ソラトたちを見ててわかったの。ソラトとハフリが互いに向ける気持ちとあたしの気持ちって、強さとか、大きさとか、深さとか、なんかそういうのがぜんぶ、全然違ったなーって」
舌はもつれそうだったが、するすると吐き出してしまえばそれが真実になった。冗談交じりに笑うことだってできた。心臓の鼓動もいつのまにか落ち着いた。
胸をなで下ろす。
「……スオウ?」
なのになぜ、スオウはこんなに張り詰めた表情をしているのだろう。
ああ。これは――怒っているのだ。行き場のない怒りを抑えて堪えた、まるで泣き出す寸前のような顔。幼いころによく見た顔だ。ふくよかな白い頬を真っ赤にして、拳を握ってふるふると震えていた。今のスオウのどこにも小さな子供の面影なんてないのに、同じに見える。
「なんで怒ってるの?」
「怒っとらん」
「怒ってるじゃない」
スオウがわからない。
イグサが提案した婚約を飲み込めないようだ。
けれど、ツムギが「待った」をかけにいこうとすると止めた。
そのくせ、ツムギが婚約に割合前向きなことを示せば、わざわざ水を差すようなことを言い、果てにはなぜか怒っている。
わからない。わからないが。
もしツムギを止めたのがスオウなりの優しさで、あの時ツムギに恥をかかせない断り方を考えていたのだとしたら――
「
「――嫌や」
鋭い視線とともに即答され、身体が強張る。拒絶されるにしても、スオウならばせめて言葉を選んでくれると思っていたのだ。一気に喉が干上がり、声が掠れた。
「イグサさまが、決めたことよ」
「どうとでもなるやろ。オレはツムギみたいに相手に困っとらんし」
「な、」
「ツムギにとってのオレは『手近でちょうど良い相手』かも知れんけど、オレにとってはそうやない。……村の外にも、女の子はたくさんおるし」
明確な拒絶に頭を殴られたかのような感覚に襲われ、ツムギは立ち尽くした。
夫婦という関係は想像できない。けれども、ツムギにとってのスオウは、喧嘩こそ散々してきたが掛け値なく信頼している相手であるし、幼いころから長い時を共有してきたかけがえのない存在だ。
だから――傲慢にも、スオウにとってのツムギもそうなのだと思いこんでいた。しかし現実はかけがえないどころか、『手近でちょうど良い相手』ですらないらしい。
恥ずかしさと悔しさと腹立たしさがないまぜになり、頭に血が上っていく。顔が熱くなる。最終的に怒りに似た感情が胸を占め、ツムギは衝動のままに憤然とスオウの横を突っ切ると幕家の扉を乱暴に開いた。一斉に集まった大人たちの視線を燃えさかる群青の瞳で受け止め、
「婚約します!」
宣言して勢いよく扉を閉ざす。一瞬のことだったのに息が弾んだ。
肩を上下させて呼吸を整えていると、歩み寄ってきたスオウが呆然と呟く。
「いや何しとん、」
「納得できない」
言葉を遮ってスオウに詰め寄る。ツムギの頭頂ほどの高さにある鳶茶の瞳には困惑の色ありありと浮かんでいたが、今のツムギに慮る余裕は皆無だった。渦巻いていた様々な感情は今やすっかり怒りに集約され、全身を支配している。見下ろされているのがあまりに癪で、襟元をつかんでぐいと顔を引き寄せた。
「あたしじゃ駄目なわけを説明して。他に誰かいるなら、理由があるなら、ちゃんと言って。じゃなきゃ、絶対撤回しない!」
噛みつくように言い放ってその場を後にする。
あまりに身勝手なことを言った罪悪感で立ち止まりそうになるが、立ち止まったら自分が粉々に砕けてしまう気がして、それが怖くて、逃げ出すように歩調を早めた。
スオウと夫婦や恋人に「なりたい」と思ったことはない。
それに、ツムギはスオウの意見を尊重するそぶりで幕家の外に連れ出した。それなら、彼のどんな返答も受け入れるのが筋だった。
だから、スオウに拒否されて惨めな気持ちになっている自分はどうかしているし、スオウの意思を無視して婚約を宣言してしまった自分はもっとどうかしている。
でも、自分からは、どうしても撤回する気にはなれない。
その理由もつかみきれない。
めちゃくちゃだ。
村の外れを抜けて、いつの間にか開けた草原を前に立ち尽くしていた。少しずつ緑が息を吹き返しはじめた大地。遥か彼方、淡い青にかすんだ山々から初夏のみずみずしくも涼しい風が吹いてくる。弾んでいた呼吸が落ち着いてくると頭も冴えてきて、目と鼻の奥がつんと痛んだ。痛みを振り払うように、首を大きく振る。
(スオウが理由を言ってくれたら、あたしが矢面に立って、なにがなんでもこの婚約を白紙に戻す。どんな理由だって、受け入れる)
幸いというべきか、夏至の祭まで約ふた月。綵鳥の里から山烏の村までの帰路を含めれば、さらに数日。スオウから理由を聞き出す猶予はある。
婚約撤回の醜聞は、自分一人が負うような理由をでっち上げればいい。そして方々に頭を下げ終わったら、なるべく早く、遠く離れた土地へ、下働きでも後妻でも、引き取ってくれる人のところにいこう。平身低頭謝れば、イグサとて厄介払いを兼ねて、縁故をたどるくらいはしてくれるはずだ。
響空の言祝 きょうくうのことほぎ 青嶺トウコ @kotokaze
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