響空の言祝 きょうくうのことほぎ

青嶺トウコ

本編(完結)

序章 歌鳥の民

序章 歌鳥の民(1)

 ハフリの長い前髪が、指先に退けられることはついぞない。髪の奥ではいつだって、深い緑の双眸そうぼうが、自信なさげに揺れている。

 さらと風にそよぐ、淡い金色きんの三つ編み。麻の貫頭衣から伸びる手足は白く、細い。衣服の襟首に施された刺繍の極彩色だけが、鮮烈に存在を主張していた。

 細い髪が紗をかける、ぼんやりとした狭い視界。広がる蒼穹と草原の色を直視することなきままに、ハフリはひとり、立ち尽くしている。

 背中に触れる森の気配を意識せぬようにつとめ。

 前髪の向こうの地平線を、見つめている。



  *



 森からはみでた樹のもとで、膝を抱えていたハフリは、草のあおい匂いとともにそうっと息を吸いこんだ。


   鳥は われらに調べを与え

   風は われらの歌運ぶ……


 小さな口からこぼれたことばは、歌というよりささやきで、抑揚も、音の高低もなきに等しい。

 か細い声は、誰にも届かず消えていく。まるで、聴かれることを忌むかのように。


   いのちあるものすべてに幸あれ

   あまねくものに癒しあれ……


 これは祈りと祝福の歌。けれどハフリが紡ぐのは、臆病で陰鬱な、ただの声だった。


   われらの声、まさし、く……


 喘ぐように息を継ぐもくちびるのわななきに抗えず、ハフリは声を打ち切った。

 深く重い息を吐き膝を伸ばす。草のうえから取りあげられももに落ち着いたのは、黄ばんだ羊皮紙がのぞく、革張りの古書だった。

 指が表紙に触れた瞬間、風がぶわりと吹きすさぶ。


   祈り歌わん やすらぎを

   祝い讃えよ いのちのたえ……


 風にのって届いたのは、ハフリの声とはまったく異なる、正真正銘の歌声だった。森から響く丁寧で美しい旋律が、迷うことなくこちらへと向かってくる。

 草を踏みつける軽快な足音。ハフリはとっさに本を胸にかき抱き、曲げた膝に顔をうずめた。

「また、こんなところにいる」

 降ってきた声にしようがなく顔をあげると、見知った少女が立っていた。艶めく蜜色の髪ときらめく若葉色の瞳から、ハフリは目を逸らし、うつむく。

「今日もいばら道を通ったのね」

 おもむろにハフリの手を取った少女——キリは、ハフリの肌に刻まれた幾筋もの紅い線に柳眉をひそめた。

 掴まれた手を引こうとするも、キリはそれを許さない。止める間もなく、かたちの良いくちびるが歌を紡ぐ。


   風と生きるは 歌う鳥

   天の恵みと地を繋がん……


 やさしい旋律にいざなわれ顕現したあわい光が、肌に舞い降りしみていく。ちりちりとした感覚とともに、傷が薄れ、消えて。瞬く間に元通りになった手を眺め、ハフリは顔を歪めた。

「はい、おわり。自分で治せれば、いちばんだけど」

 キリの言葉に胸の奥が軋んだ。

——ハフリとキリは、歌鳥うたとりの民。金の髪と翠の瞳を持つ、歌でいのちを癒す者。

 癒しの力は、定められた音程とことばを正しくなぞった歌に宿る。準備や難しい手順はいらない。覚えた旋律を、ただ紡ぐだけだ。

 けれど、それだけのことがハフリにはひどく難しい。

 ハフリは音痴おとしらずだ。どれほど懸命に喉を震わせたところで、生まれるのは失笑ものの音ばかり。歌えない焦りが喉を圧迫し、普段の声すら小さくかすれていく始末。誰にも合わせる顔がなく、森に居場所が見つからない。いばらの道を通ってきたのは、人がたむろする場所を避けたからだ。

 隠すように抱え直した本を見やって、キリが心底不思議そうに口を開いた。

「その本、いつも持ってるね。何が書いてあるの?」

 黙り込むハフリに嘆息しつつも気遣わしげに、

「毎日森の外に出て……寿命が縮まったらどうするの」

——歌鳥の民は、森の外では生きられない。

 遠い昔からの言い伝え。嘘か真か定かでないが、歌鳥の民が森を離れることはない。森は暖かく実り豊かで、外の世界に求めるものがないからだ。

 森の外、草原の彼方には、歌鳥の民とは容姿も暮らしもまったく異なる鳥の民がいるという。けれど外のことを知るすべはなきに等しく、外の人間がこの森に訪れることも滅多ににない。

 だからハフリは、森と草原の間にいるしかない。

「ねえ、ハフリ。一緒にいようよ。こんなところにいなくてもいいじゃない。歌い方だって教えるから」

 他意や悪意がないのはわかっている。それでも胸は痛むのだ。きっとキリはこんな痛みを知らない。そう思うと恨めしく、そう思う自分が情けない。

 ことあるごとに目に留まるのは、キリの頭に巻かれた細い布——幾何学模様の刺繍が施された額飾りと、そこに飾られた鮮やかな瑠璃色の羽根。額飾りと羽根は、一人前の歌鳥の民と認められた者のみに与えられる装身具だ。

 無論、ハフリにはない。

「キリには、わからないよ」

 届かない声を吐き出して、

「放っておいていいんだよ。わたしのことなんか」

 ゆらりと立ちあがる。一歩二歩と進んで、伸ばされた手を振り払い、追いかける声から逃げ出した。

——歌によって癒す者。森のなかでしか生きられぬ者。

 自由に空を翔る鳥は、歌えなくてもいいだろう。されどハフリは籠の鳥。歌えなければ意味がない。

 歌えなくては森にいられない。外界に飛び出す勇気もない。だから、森外れの樹にすがっている。

 視線を地面に落としたまま、手足が傷つくのも厭わずいばら道に突っ込む。歩を進めながら、戻るしかない現実に絶望する。逃げる場所などどこにもない。ハフリもキリも結局は、同じのなかにいる。

 いばらの棘が頬をかすめ、痛みに足が止まった。

 行き場のないやるせなさが引いたかと思うと、情けなさに覆い隠される。涙がせりあがりぽろぽろとこぼれ、息が荒くなり肩が上下した。唸るような声を漏らして、地面に膝をつく。土に爪を立ててみても、何も変わらない。非力で、何もできない自分を思い知るばかりだ。

「もう、やだ」

 堪らず吐き出した言葉は、何に対してなのか。わからない、わかりたくない、このままいばらに囲まれて、眠って、目覚めなければ良いのに——と、うずくまり切に願ったそのとき、どこからか「ぴぃ」と高い音が響いた。「ぴゅう」と続けて音がする。引き攣った、苦しげな音だった。

 少し離れた場所で、いばらと地面に挟まれ何かがもがいている。蒼穹を切り取ったような青色の鳥。風真似鳥かざまねどりだ。

 涙をぬぐって歩み寄り、小鳥にかぶさるいばらに手を伸ばす。退けようと試みた棘が翼をかすめ、小鳥が甲高い鳴き声を上げた。

 そっと動かしたつもりでも小鳥は苦しげにさえずるが、やめるわけにもいかない。いばらはハフリの手をも傷つけ、指先には痺れるような痛みが走った。知らずのうちに汗が頬を伝う。

 慎重にいばらを退かし続けたのちようやく解放された小鳥は、細い足から紅い血を滴らせていた。身体はぐったりと力なく、こちらに向けるまなざしの光は弱い。

 このままでは、しんでしまう。

 脳裏にキリの旋律が響く。歌えさえすればたちまちに治せるはずなのに、ハフリにはそれができない。

(どうすればいいの)

 なすすべなくうつむき——地面に置いていた革張りの本に目を留め、息を飲んだ。

 この本は、見知らぬ誰かが書き記したもの。記されているのは、歌がなくとも、時間がかかろうとも、傷や病を癒す為のすべ。森にはない道具なども書かれていたが、使える知識も多くある。

 思い出せ。この本にはなんと書いてあった?

 しけつ。音がひらめく。そうだ、止血だ。

 自らの服の端を細く裂き、小鳥の足に結び付ける。

 本を脇に挟み、両手で小鳥をすくいあげ、かばうように胸に抱いた。手のひらに伝わるあたたかさが、いつ消えてもおかしくないのだと思うと、怖くてたまらない。急がなければとくちびるを引き結び、立ち上がって、いばらを避け走り出す。

 向かうのは、森の端に建てられた円錐状の小さな天幕。ハフリがひとり暮らす家だ。

 ものごころつく前に母をうしなった。病に臥せった父を弔ったのは、十二の歳を迎えた頃。もう、四年も前のことになる。

 ハフリに本を与えたのは父だ。文字の読み方や書き方、薬になる草、すべて父から教わった。

『本をよく読みなさい。きっとおまえの力になるから』

 口癖のようにハフリに言い聞かせていた父。揺れる髪の毛は銀。ハフリにむけるまなざしの色は鈍色。

 父は、歌鳥の民ではなかったのだ。

(だからわたしは歌えないの?)

 必死に走っているはずなのに、そんな思考が脳裏を過る。暗い考えを振り払うように首を横に振ると、長い前髪が頬を叩いた。

 悪いのは自分だ。

 変わることのできない、弱い自分に違いない。


  *


 天幕の隅に置かれた卓のうえで、空色の小鳥が風音をさえずっている。風真似鳥は様々な音を真似できるときくが、普段の声はその名のとおり風の音らしい。

 ハフリは敷布に腰を下ろし、丈夫な葉を縫いあわせ小袋を仕立てていた。一針一針すすめながら、ここ数日のことを思い返す。

 小鳥の足から流れていた血は、天幕に連れ帰ったときには止まっていた。衰弱も試行錯誤の看病ののち快方に向かった。けれど両翼は胴に貼りついたように強ばって、離れる様子が見られない。当初は治療のせいではと気に病んだが、どうやらそうではない。

 この小鳥は、飛ぶことができないのだ。

 風真似鳥はこの森で子育てをし、子が飛べるようになると森から一斉に旅立っていく。それは時期でいうと、ひと月ほど前のこと。翼の障害のせいで飛び立てなかったと考えると、一羽でいたことに説明がつく。

 ハフリが助けた小鳥は、ひとりぽっちの小鳥だった。

「できた」

 蔓の首掛け紐を繋げた小袋に、卓上からすくいあげた小鳥をそっとおさめる。

 ひょっこり顔を覗かせた小鳥は心地よさげに目を細め、そよ風のようにさえずった。

フゥ

 与えた名前を呼び、羽毛に頬を寄せる。

 目を伏せて、足早な心音とやわらかいぬくもりを肌に感じながら、「一緒にいよう」とハフリはささめいた。

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