四章 ひとつの笛(3)

 走って戻って来たソラトは、手に筒状の何かを持っていた。その表情は先ほどと比べいくらか和らいでいて、安堵する。

「これ、何かわかる?」

 目の前に差し出されたものには、見覚えがあった。

「笛?」

 ソラトはうなずくと、ハフリから数歩離れた地面にどかりと腰掛けた。居ずまいを正そうとしたハフリに「楽にしてて」と声をかけ、笛を見聞するように角度を変えて眺めている。

「さっき『決められた音律』が云々って言ってただろ。俺にはそれが、わからない」

 声には、ぶっきらぼうでありながらも落ち着いた響きがあり、ハフリに何かを伝えようとする意志が感じられた。

 ソラトが笛の穴に手を当てる。ハフリの知る笛であるなら、穴を端から順に話せば、階段のように規則的に連なった音が響くはずだった。

 けれど。

 ひとつ、ふたつ、穴から指が離れるたびに出る音は、どんどん高くなっていく。しかしどれもこれもハフリが聴いたことのない音ばかりだった。それどころか音と次の音の高さは、近かったり遠かったりで、規則性がない。

 であるのに、これっぽっちも不快ではないのだった。風とじゃれ合うその音は、優しくハフリの耳に馴染む。

 ソラトは一度笛から口を離すと「吹くのは久しぶりなんだ」と苦笑した。

「山烏の民はさ、自分の楽器は自分で作る。材料なんて、石とか木の枝くらしかないんだけど。そのなかで、じいちゃんばあちゃんたちの知恵を借りながら、一から作ってく。できた楽器はそいつだけのもので、そいつだけの音ってわけ」

 自慢気にそう言って、ひょろろと笛を鳴らした。つづけて、ひゅうと吹く。少し間が抜けていて、それなのにどこか懐かしい、やわらかな音色がひろがった。

「こうやって、調子を合わせるんだ。こうしてるとなんていうか、笛と自分が重なるときがある。そしたら、吹ける」

 来た、と嬉しげに呟いて一言。

「聴いてろよ」

 息が、音となり。

 音がつらなって、糸となる。風と寄り添う。

 高い音は身体の内側で細かく反響して勢いづき、頭のなかで渦巻くものを連れて天に飛び立つ。低い音は心臓に直接触れ、やわらかく包むかのようだ。音が肌に触れ、手を差し伸べてくる。それらは自由で奔放で、飄々としていて。作られたのではなく、産み出された、生まれてきた音だった。音が生きている。 踊って、広がって、流れて、融けて、染み渡ってゆく。

 どうしようもなく心地よい。

 風と音がからみあい、まざりあい、時にほどけて散らばる。

 まばたくと、急に視界が開けていた。風にさらわれた前髪が、視界の隅で揺れている。

 開けた世界は、一変していた。

 目の前に広がっているのは灰色の空と枯れた草原であるのに、散らばった音の欠片に鮮やかな色を感じた。

 否、殺風景な景色そのものを、青空と緑の草原以上ににうつくしいと感じた。

 そう思えるのは、きっと、

(ソラトが、変えてくれるからだ)

 心の奥の奥で、何かを見つける。それは、今まで感じたことのなかったもの。まだつぼみすらつけていない、土から顔を出したばかりの芽のような感情だった。

 まだ芽吹いたばかりのそれは、小さいながらもとても瑞々しくつややかで、伸びやかで、双葉がふわりと揺れるたびに光を振りまく。その芽が振りまくひかりが、今まで時折あふれそうになっていた感情の源だと気づく。

 心臓が高鳴った。その音に、自分が生きていることを意識させられる。わたしは生きている。だからソラトに会えた。そんな当然のことが、どうしようもなく奇跡めいて感じられて、目の奥が熱くなった。

 ふと、ソラトと目があう。濃茶の瞳。しなやかな獣のような彼の目に、自分はどううつっているのだろうと考える。不安と期待が入り交じり、感情はどんどん判別がつかなくなっていく。

 ただただ光があふれる。その光は、やさしく甘い、けれども強い衝動。想い。わたしは。わたしは、ソラトのことが——

「おい」

 唐突に音が止み、ソラトの焦った声がきこえた。彼は慌てたように立ち上がると歩み寄り、膝をついてハフリの顔をのぞきこむ。

「なんで泣いてんだ」

 え、とハフリは目尻に触れ、指先についた雫に呆気にとられた。眉尻を下げるソラトを前にして、慌てて涙を拭う。「あのね」と、たどたどしく言葉をもらす。

「ソラトの音が、きれいで、それで」

「そんなことで泣いたのか」

 ソラトが呆れと安堵が混ざった顔をする。

 その顔が思いのほか近くにあることに気づき、今度は顔が一気に熱を持つ。「ちかい」と、やっとのことで小さな声を搾り出すと、フゥが「ひょろろ」とソラトの笛を真似して鳴いた。

 ソラトは解せないように首をかしげたものの、直後、

「わ、悪い」

 飛び退る。なんとなく気まずい沈黙が流れ、ちらと目の前の少年を見れば、心なしか彼の頬も赤く染まっている気がして、余計に身体が熱くなる。そんな自分が恥ずかしくなって、うつむく。すると、

「おまえ、さ」

 ソラトの唸るような声がして、顔を上げた。彼は地面を見つめ、何かを言うか言うまいか悩んでいるようだった。そのまま、しばらく落ち着きなく視線をさまよわせる。

 ハフリの頬の火照りが引いてきた頃、ソラトは意を決したように顔を上げた。まっすぐなまなざし。声が、空気を貫く。


「歌えるよ、きっと」


 一瞬何を言われたかわからず、ハフリはまばたきを繰り返した。

 ソラトはしまったと言うような表情をして目を逸らし、両手で髪をかきまわす。そこまできてようやく、耳から入ってきた言葉がすとんと落ち着いて。そっと息をつき、言葉を反芻する。

 歌えるよ、きっと。

 先刻、身体の奥から炎が湧き出るような熱さとは違い、その言葉からゆっくりと、やわらかなあたたかさが広がっていく。

「ありがとう、ソラト」

 言葉がこぼれた。しかしそれは、いつも以上に小さな声で。いい加減情けなくなってきて肩を落とすと、

「礼をいうことじゃねえよ」

 ぶっきらぼうな、けれどハフリにとってはやさしい声が返ってきた。

「そろそろ、戻るか」

 ソラトが立ち上がる。その拍子に、彼の首元でじゃらと鎖が音を立てた。連なるのは、銀色の方位磁針。錆は、もしかすると森にいた時よりも酷くなっているかもしれない。けれども、

「つけて、くれてるんだ」

 そのことがうれしくて。本当にうれしくて、ハフリは立ち上がる。背中を向けて歩き始めていたソラトを抜かし、一歩前にでる。彼に背を向けたまま、一度空を仰いだ。息を吸う。いまはまだ歌えなくても、声を出すことならばできる。

 くるりと振り向く。ふわりと金色のお下げが舞う。突然の動きにフゥが不機嫌そうな声をあげたけれども、それすらも胸のあたたかさに加わるようで、いとおしくて。頬がゆるむ。目が細まる。口許がほころぶ。心の奥の芽が揺れる。あのね、とささめいて

 

「わたし、ここに来てよかったよ」


 ソラトはしばし驚いたように目を見開いていたものの、破顔して「そっか」と、いつかと同じ言葉を返した。

 笑っているはずなのに、その表情がどこか曇っているように感じたのは、気のせいだったか。疑念を確信も払拭もできぬ間に、ソラトはハフリを追い抜く。すれ違いざまに、かすかにハフリの頭をなでて。

 その触れるか触れないかの距離に胸のざわめきを覚えて、ハフリは思わず「待って」と呼び止めていた。

 ソラトがゆっくりと振り向く。慌ててあたりを見回すと、目に留まったのは木造の小屋で。

「あの小屋のなかには、なにがあるの?」

 ソラトは訝しげに目を細めたものの、

「確か本だったかな。おばばさまとか先代の長老が、自分で書いたり行商の民から買ったりしたものだってさ。難しい字が多くて、読んだことないけど」

 本、と口のなかで反芻する。その単語に心惹かれるのは、この村に来てからあまり書物を読んでいないせいかも知れない。もし可能ならば、蔵書を見ることは可能だろうか——と思ったその時、慌ただしい足音が響いた。

「ソラト! こんなところにいたんか。イグサさまが呼んどる」

 赤い束ね髪を跳ねさせて、スオウがこちらに駆けてくる。ソラトの表情がたちまちに曇ったのを、ハフリは見逃さなかった。

 しかし、それを問いただす間もなく「先に、いくから」とソラトが走り出す。スオウと一言二言交わしたようだったが、みるみるうちに背中は遠ざかっていった。

 代わりにスオウが歩み寄ってきて、

「もしかして、お邪魔やった?」

「そんなことないよ」

 ハフリが焦って首を横に振れば、声を立てて笑う。どちらともなく、村の方へと歩き始める。

「ちゃんと話せた?」

 思いのほか真面目な声音の問いかけにハフリがきょとんとすると、「ソラトの前やと固まってるから」とスオウは苦笑する。

「仲、ええね」

「え?」

「ハフリちゃんとソラト。年下のオレがこんなこというのもなんやけど、ソラトって偏屈やし馬鹿真面目やから、相手疲れん?」

「そんなこと、ないよ?」

「そりゃよかった」

 スオウは面白げに笑う。

「ハフリちゃんがここに来た時は、ソラトが嫁さん連れてきたって噂になったもんやけど、あながち嘘やないかもな。ほら、山烏の民は、他の民から嫁さんもらってきた一族やから」

 ハフリの感情や理解よりも一足飛びの言葉に、思わず首を傾げてしまう。

 そういえば初めて会った時オウミが何かその類のことを言おうとしていた気がする。

 一瞬赤面しかけたが、オウミが口にするのをソラトが止めたことを思い出し、目を伏せた。

「わたし、無理を言ってここに連れてきてもらったんだ。だからそんなこと、ありえないよ」

「そーかなー」

 スオウはのんきな声で応じたが、それ以上は何も問わなかった。

 幕家の並びに入る。煙突からはもくもくと煙が出ており、夕飯の準備をしていることが察せられた。遠くには放牧から帰ってきた羊達が群れをなしている。

 ふいに思い浮かんだのは、ツムギの何気ない言葉だった。

——ソラトがあちこち飛び回ってるのも、多分イグサさまから指示が出ているからよ。

 なにかが、引っかかる。あの、とスオウを見あげる。

「わたし、何か意味があってここに連れてこられたのかな」

 スオウが不意打ちを食らったような顔をして、口を開きかけた。しかし、

「あー! バカスオウそこ踏んだら殴る!」

 鼓膜を破るようなツムギの大声に、びくりとふたりで足を止めた。

「なに、一体」

 スオウが呆れたように問うと、ツムギは胸を反らしてこたえる。

「足もと見なさいよ足もと」

 そこにあったのは、小さな緑の芽だった。萎びた草のなか、つやつやとした若葉が精彩を放つ。

 それを見たスオウは興味無さげに、

「放牧するとこに生えとる草やん」

「それはここから離れたとこでしょ。こうして灰が降る場所でも一生懸命芽を出したんだから」

 ハフリはかがみ込み、その芽をじいと見つめた。

「きれいですね」

「でしょ」

 ツムギも横で膝を折ると、やわらかそうな葉に指先でそっと触れ、おだやかな笑顔を浮かべた。

「たぶん、花が咲く植物だと思うのよね」

「なんや、ツムギが興味もつならてっきり食用やと」

 茶化すスオウに、「なによ悪い?」とツムギは頬を赤らめ口を尖らせた。

 そんなふたりのやり取りを見守っていると、背後から「ハフリ」と高く幼い声に呼ばれる。

 ふらと、幕家の影からよろめくように現れた影は小さく頼りない。

「ハルハ」

 呼ぶと、紅潮した顔をこちらに向ける。瞳は熱っぽく潤み、足取りは覚束ず、お世辞にも体調が良いようには見えない。

 ハフリが駆け寄ると、身体を支える為か足にしがみついてくる。その呼吸は荒く、服越しでわかるほどに身体が熱い。「どうしたの」と問えば腕にぎゅうと力を入れ、幼子とは思えぬ深く重い息を、ひとつ。

 ハルハは腕の力を緩めると一歩離れて、まっすぐにハフリを見る。小さな口からこぼれ出たのは、ひどく簡潔な、けれども切実な響きを持った一言だった。

「にげて」

 その場にいたハルハ以外の三人は、まず等しく首を傾げた。誰が、どこから、何故逃げなければならないのだろうと。

 心がざわめく。ハルハは誰の目を見て言った?

「にげないと」

 ハルハはハフリの手を握ると、力なく引っ張った。

「わたし、が?」

 躊躇いがちに尋ねると、うなずかれる。

「お兄ちゃんとおばあちゃんが、さっき言ってたの。ハフリはイケニエなんだって。火蜥蜴の山にササゲルんだって。よく、わからないけど」

 よくないことでしょう、と。続けられた声はうつろに響き、感じたのは、鼓膜を揺らす震動のみだった。

 言われたことが、理解できない。すべての言葉は意味を持たないただの音となり、風に融けて消えゆく。

 イケニエ。オニイチャントオバアチャンガ。

 うそ、とつぶやいたのは、自分だったか。それともツムギか、あるいはスオウだったのか。

 ただ、無意識にハルハの手を握り返していた。ちいさな、ちいさな手。平時より高い体温が染み入るようで、けれどもあまりにもちいさくて。あの手が、あのひとが、恋しくなる。乞うように、名前を呼びそうになる。

 背後で足音が響いた。

 振り向いたそこには、ハフリの知らない少年がいた。いつも光をはらんで輝いていた瞳は曇り、何の感情も見いだせない。一歩、また一歩と彼は歩み寄ってくる。ひどく静かに、踵から足を付いて。

 その足の下にあったのは、細く幼い、けれどもひかりをまとっていた緑の芽。それが折れた、あまりにつたない音をハフリは聞いた。

 一筋、乾いた風が吹く。枯れた草達は揺れることなく沈黙する。辺りを包む静寂は、温度を持たず、ひたすらに無機質で。雲に覆われた空は薄暗く、夜の訪れを告げていた。


 山烏の村の日暮れは早い。薄暗くなったと思えば、あっという間に夜の帳が辺りを覆う。けれども、雲を介しているせいかその暗闇の色はぼんやりとしていて、淡い。炎を焚くと、なおのことその色は淡くなり、炎の苛烈な赤をやんわりと包み込む。和らいだ灯りは、ひとびとの輪郭を、その表情を縁取っていって。すると、まるでひとが光をまとっているかのように見える。ハフリは、その様を見るのがすきだった。

 この地の夜は、寒い。もとより寒冷地ではあるが、日没とともに一気に気温が下がる。羊たちは寄り添いあい、人もまた、開けた場所に大きな篝火を燃やして、ひとり、またひとりと集まり始める。放牧から帰った男達は馬乳酒の入った皮袋を片手に陽気に語り始め、女達は彼らが顔を赤らめた頃に夕飯を運んでくる。そこからはまるで小さな祭りのようだ。きらめく火の粉のなか、子供達の影が軽やかに踊り、娘達が小鳥のように歌い始める。すると不思議なことに、寒さを忘れてゆく。むしろあたたかく感じるほどになる。山烏の村の夜は、一日のなかで一番あたたかい時間でもあるのだ。

 反して、歌鳥の森の夜は。

 天上に広がる夜空は澄み渡っていて、銀色の星明かりがまぶしいほどだった。けれどもその大半は樹々に覆われてしまっていて、夜になると全てのものの見分けが付かなくなってしまう。父がいたときは夜に森の外へと出て星読みをしたものだったが、ひとりになってからはすることもなく。

 蝋燭の炎は闇夜の漆黒と戦うかのようにきらめき、目に痛いほどだ。その輝きに耐えきれず、いつもハフリは眠気に包まれる前に火を消してしまう。そして真っ暗になった天幕のなかで、父のくれた本とともに自らの膝を抱えるのだ。なかなか訪れない眠気にくちびるを噛み締めて、身体の震えを押さえつけるようと腕に力を込める。

 父が亡くなったのは、ハフリが十二の頃。とうに身の回りのことは出来るようになっていたけれども、寂しさも心細さもなくなることはなかった。日の出ている間はセトの庵で本を読んだりできたものの、こうして夜は必ずひとりぽっちになる。だからハフリはことさらに、夜が嫌いだった。


 けれど。

 山烏の村にきてからというもの、夜を迎えるたびに少しずつ、夜が好きだと思えるようになった。


 今日もまた、遠くから男達の笑い声がかすかに聞こえてくる。立ち並ぶ幕家に人の気配はない。皆夕飯の準備に取りかかり始めているのだ。そのなか。誰もいないはずの幕家のあいまで、ハフリはソラトと向き合っていた。ハルハの手を握り、背中越しにツムギとスオウの気配を感じながら。

 空気が凍てつく。全てのものが停止していく。或いは、消え去っていった。音も温度も感じられない。

 それは狩人が現れた時の空気に似通っていたが、あの時の理解を超えた不気味さは存在していない。けれども、徐々に逃げ場を失うような焦燥感が、爪先から脳天までを痺れとともに迸っていく。

 逃げられない。いきが、くるしい。喉が絞め付けられる。身体は磔にされたかのように、指一本動かすことができない。

 ハフリはただ、立ち尽くしていた。瞬きすることすらも叶わぬまま、目の前の少年を見つめていた。

——ハフリはイケニエなんだって。火蜥蜴の山にササゲルんだって。

 ハルハの言葉が蘇る。蘇る、のだけれども、理解できない。単なる音が連なったものにしか思えなかった。

 それなのに、身体が内側から震える。恐れている。動けと身体に命じつつも、止まったままでと願っている。

 しかしその願いは、ツムギの足音に破られた。彼女はハフリとハルハを挟み対面しているソラトへと躊躇せず歩み寄る。

 そして彼を見上げると、腕を振りあげ。

 頬を張った高い音が、空気を棘の如く変質させ、ハフリをも貫いた。身体が反射的にすくみ、止まっていたすべてのものが動き出す。流れ出し、崩れる。

 ツムギの紺色の瞳には困惑が揺れ、同時に何よりも怒りが燃え盛っていた。刺すような視線をソラトに向け、抑えた声で、唸るように呟く。

「なにを考えてるの」

 ソラトは微動だにしない。赤くなっていく頬を気にすることもなく、感情の見えない瞳でツムギを睥睨する。光をうつさない濃茶の瞳は、ひたすらに深く暗い色をし、嵐雲にも似たひどく重々しい影に覆われている。

 ツムギは苛立たしげに顔を歪めると、ソラトの胸ぐらを掴みあげ、噛みつくように叫んだ。

「何か……何か言ったらどうなのよ!」

 ソラトはひどく緩慢な動作で、けれども強く自らの髪をかき回した。小さく口を開けて、閉ざし。押さえつけるかのような、硬質で底の見えないまなざしをツムギに向ける。

「何を言えって?」

 低く抑揚のない声。

 ツムギがもう一度振り上げた腕を、掴んで止めたのはスオウだった。

 いつ、彼が自分を追い抜かしていったのかもハフリはわからない。頭が、回らない。ハルハがハフリに寄り添い、衣服越しに伝わる小さな身体の火照りだけが、妙に頭のなかを占めた。そうだ、ハルハは体調を崩しているのだ。早く、幕家に連れて行かないと——

「放しなさいよ!」

 宙を漂っていた思考が、ツムギの怒声に引き戻される。

「落ち着け、ツムギ」

「でも」

「いいから」

 ツムギを諌めながらも、スオウの表情は硬い。

「この土地に伝わる伝承のことか? 火蜥蜴の山に神女を捧げるっていう」

 探り、うかがうような声音に、ソラトは「ああ」と、嘆息とともに億劫そうな返事を寄越した。簡潔すぎる返答は、全てを雄弁に語っていた。向き合うしかなくなった現実が、ハフリを浸食していく。

 前髪が風に吹かれてはらりと落ちた。視界は遮られ、恐らく周りからもハフリの表情はわからない。

 それでいい、と思った。

 身体はもう、動くことができる。けれどハフリは動かなかった。小さく浅い呼吸を繰り返しながら、前髪の向こうを見つめていた。

「オレはてっきり」

 スオウの語気は、平静を装いながらも荒い。

「そんな言い伝え、お伽噺だと思ってた。それにそれは、他の民——ここらのやつらに伝わっとった話で、本当かどうかもわからんやろ。オレらは、今こそここに留まっとるけど、遊牧の民なのに、そんな、云われもわからん話を信じるんか」

 スオウの反論は、矛盾している。土着の民に伝わる話であるならば尚更、額面通りではなくとも何らかの根拠が、語り継がれてきた理由がある筈だからだ。

 それは、山烏の民——多くの民の血を取り入れ、様々なひとびとと触れあい生きてきた彼らならば、わかりきっていることでもあった。

 庇われている。もしくは、この事態をスオウも否定したがっている。

 しかし、

「おばばさまの予言と照らしあわせた結果だ」

 ソラトの返答はにべもなく、微塵の揺らぎもない。

 視線が、交差する。

 ハフリが知るソラトの瞳は、光と生気に満ちていた。なのに、今自分に向けられるまなざしのなかにそれはない。何も、見だせない。

「それに俺も、夢を見た」

 再度、風が吹く。前髪をさらっていく。夜の空気が、まるで手のようにハフリの両頬を包み込み、掴み、固定する。逃げることを許さぬ空気の温度は、死人のそれに似ていた。

 以前ハフリが触れた、動かぬ父の手。まるで石のような硬さと、冷たさを思い出し、肌が粟立つ。

 やだ、と口の端から漏れた言葉は、誰にも届くことなく消えた。耳を塞ぎたかった。目を閉ざしたかった。

 なにひとつ抗えぬまま。ソラトの声は、鈍器のような堅さと重み、衝撃を伴って、ハフリを殴りつける。

「そいつを、火口に突き落とす夢だ」

 認めざるを得ない。いつからかはわからないが、今のソラトにとってハフリは生贄でしかないのだと。

 理解した刹那、一瞬視界が暗転し、糸が切れたように膝が折れた。ハルハが小さく悲鳴をあげ、ツムギが駆け寄ってくる。

「誰が聞いとるかもわからんのに、そんなこと言ってええんか」

 スオウの挑戦的な問いかけにも、ソラトが動じることはない。

「人がいないのは確認済みだ。ハルハが聞いていたのは誤算だったけどな」

 それに、と続けて

「お前らだってこのことは誰にも言えない。わかってるだろ? 村の奴らのから元気も、危うさも」

 ハフリもそれは理解していた。どんなに明るく振るまっていようと、村のひとびとは常に空から降る灰と、枯渇していく水に神経を尖らせ、疲弊している。

 村長であるイグサ——彼女の予言は、村人達の支えでもあるのだ。村人達は皆、彼女が言葉を発しない間は、危機的状況には陥らないのだと信じている。ハフリもそのひとりだった。

 ソラトがこちらへと数歩近づく。薄闇のなかでも、はっきりと表情の見える距離で、ソラトは笑った。明らかな嘲笑だった。憐れむように眉を歪めて、乾いた息を吐き出す。上げられた口角は引きつっているようにも見えた。

「お前、本当に馬鹿だよ。俺みたいな奴のこと信じて、付いてきてさ。同情する」

 淡々と放たれた声に、身震いした。

 身体の内側が、痛い。土足で踏みにじられ、踵で抉られるかのような痛みが全身を駆ける。こんな酷い痛みを、ハフリは知らない。息をしても痛い。いきているだけで——痛い。

 耳と目も塞げば、少しは痛みが和らぐ気がした。けれども身体は動かない。見たくないと思うのに、縋るように彼の瞳を見つめてしまう。

 そして、こんな状況でも吸い込まれそうになるのだ。

 曇っていようと陰っていようと、ハフリは彼の瞳を見ずにはいられなかった。まるで小鳥のすりこみのようだ。馬鹿みたいだ。そう思うのに。

 声が、剣のようにハフリに突き刺さる。

「何も知らないままでいれば、最後まで優しくしてやれたのに。残念だよ、ほんと。まあ、どのみち——」

 顔を歪ませたソラトが、今にも泣き出しそうな幼子のように見えて。ハフリは痛みも忘れて、思わず名前を呼びそうになった。しかし、

「逃がすつもりは、ない」

 突きつけられた言葉は、何をかもを拒否していた。

 吸い込んだ空気は、声になることなくハフリの外に吐き出される。ツムギがハフリを抱きしめ、ソラトを睨みつけた。

「自分が何言ってるか、わかってるの」

「わかってる。余計なこと考えんなよ、ツムギ。お前らはこいつがどこから来たのかも知らないだろ」

 容赦なく言い捨てて、ソラトはきびすを返す。スオウが一歩踏み出たものの、そのまま静止した。ハルハが潤んだ瞳でこちらを見つめている。

 地面を転がる枯れ葉の寂しげな音が耳にしみる。

 衣越しに伝わるツムギの体温はあたたかく、腕で包まれ風から守られているのに、寒気がして仕方がない。

 傍らに立ち尽くしていたスオウが顔に手を当てて深く息を吐く。それを見やったツムギは固い声を放った。

「知ってたの」

「なんとなく、な」

 力のないスオウの返答に、ツムギは口を閉ざす。眉を歪めハフリを抱きしめる腕に力を込めた。

「……かえさないと」

 ツムギの独白にも似た呟きに、身体が強ばった。返される、帰る——森に。樹々が生み出す、こぼれんばかりの光を孕んだ濃密な空気を思い出す。喉が、水を欲するかの如くごくりと鳴った。

 同時、身体が軋む。内側から萎びて枯れて徐々に粉々になっていくかのような感覚に、震えた。

 このままここにいてはどうなるのかを本能は理解し、森に帰るべきであると理性は告げている。けれど、

「わたし、」

 ハフリの奥にある、本能とも理性とも違うものが小さく、けれども確かに鼓動する。弾みに押し出された空気は声になり、切実な響きをもって口の端からこぼれた。

「ここにいたい」

 胸元に光る金色の方位磁針が、しゃらんと涼やかな音を立てた。その音が耳からゆっくりと身体中に染みわたり、鼓動が、先刻よりはっきりとしたものになる。けれどもその正体はわからず、縋るように顔を上げるとスオウの視線とぶつかった。

 赤茶色の瞳を思案深げに眇め、スオウが呟く。

「どうしたもんかな」

 浅く吐き出された息は乾いていた。

「っても今は、何も思いつかん。ごめん」

「……ううん、しかたないよ」

 足腰に力が入らずへたりこんだまま視線をさまよわせると、緑の色が目に止まる。踏みつぶされてしまった芽は、くたりと地面に身を横たえていた。瑞々しい光を放っていた翠の小さな葉は砂にまみれ、茎は根本からぽっきりと折れてしまっている。かろうじて根へと繋がるその姿があまりに痛々しくて。ハフリはそっと目を伏せた。

 心の奥の痛みが、体中を侵食する。目の奥が熱く、痛い。泣いてしまいたいと、痛みを吐き出すように思った。

 けれども、涙は出てこなかった。

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