四章 ひとつの笛(2)
朝靄にけぶる景色に、カン、カンと軽やかな金属音が響き渡る。その音はいつしかふたつ、みっつと、村中の幕家の傍らで奏でられ、広がる。時折調子を変えて、カンカカ、カカカンと。
徐々に靄がひいていくと、ちらほらと女達の姿が浮かび上がる。小さく鼻歌を交えながら、彼女らが叩くのは銀色の筒。幕家の煙突だ。
山烏の民、ことさらに女達の朝は早い。雲に覆われた空がうっすら白んできたころに目覚め、忙しく働き始める。
毎朝、食事より何より先にすませるのは、煙突の煤落としだった。幕家から取り外した煙突を、棒で叩いて煤を落とす。そして一日のはじまりに焚く炎の煙には、きれいな煙突をくぐらせるのだ。
ハフリも棒を片手に、腰を屈めて煙突を叩く。
歌鳥の民にとって炎は夜を照らす光であり、神霊が宿る大切なもの。
山烏の民にとっても、かたちは違えど火はかけがえのないものだ。だからこそ、悪戯に途絶えさせぬよう、火持ちの良い動物の糞を焼べるのだと、今ならわかる。躊躇いは完全に払拭できたわけではないが、理由を知るだけで心は随分と軽くなった。
棒で叩くたびにに筒が細かく震え、音が反響する。筒の外に飛び出た音は、周りの音とともに草原を跳ね回り、眠気もどこかにさらっていった。
「そうそう、そんな感じよ」
横で見守るのはソラトの母、オウミだ。ちらと目をやると、やわらかなまなざしが向けられる。
カンカン、カカカン。高らかに、祭りの音楽のように響く朝の音。山烏の民の一日のはじまり。
その営みにハフリがようやく慣れてきたのはここ最近、ソラトが帰ってきた頃からだ。そこからさらに数日が経て、手伝えることも少しずつ増えている。
ここに来たばかりの頃は、過ぎゆく日にちを数えていたものの、いつしか頓着しないようになっていた。
森を出て、一体どれほどの日にちが経ったのだろうか。そこまで考えたとき、最後の煤がはらりと地に落ちた。
「終わりました」
手で顔を軽く拭い、ぱっと顔をあげオウミをうかがう。
「あらあら」
オウミがくすりと吹き出した。
「顔に煤がついてるわ。拭ったときに付いたのね」
確かに手はおろか服まで所々、煤で黒く汚れている。
気づけば他の女達は仕事を終えていたようで、聞こえてくるのは羊の鳴き声だけ。
「すみません、時間がかかってしまって」
「気にしないで、ありがとう」
オウミは鷹揚に微笑んで、ハフリの手から煙突と棒を取り上げた。
「片付けておくから、手と顔を洗っていらっしゃい」
こくりとうなずき水場に向かう。
水場といっても、森のように泉があるわけではなく、大きな水甕が数個置かれているだけだ。水は毎朝何人かが牛に甕を積み汲みにいく。一番近い川が灰で汚れているために、今は別の川へと遠出しているときいた。
ひとりで馬に乗れず、腕っ節もないハフリはついていくことすら敵わないが、大変な仕事だ。
下くちびるを軽く噛みしめ、拳に力をこめる。
(まだ、だめだ)
いつになったら、周りと同じようにできるようになるのだろうか。内側で渦まく情けなさと、申し訳なさに巻き込まれそうになるのを堪え、空を仰ぐ。そこにあるのは青空ではなく灰色の雲だけれども、呼吸が楽になり胸がすいた。
明日は、叩き方を変えてみようか。筒の角度を変えてみてもいいかもしれない。
甕を満たす澄んだ水は、わずかな光もはらみきらめく。ふるふると震える水面のうつくしさに思わず指を伸ばし——とどめた。草原の生活において、水はとても貴重なものだ。無駄にするようなことはできない。
桶に水をくみ上げる。それを口許に運び口内をゆすぐ。地面に置き、両手を手早く洗った。最後に手で水をすくって、顔を——
「おはよ」
地面に甕を置く重い音、震動。それらとともに、高い声が降ってくる。手にすくった水を落とし顔をあげれば、そこにいたのはツムギだった。
彼女が今日の水汲み当番だったのだろう。甕を運ぶのに力んだのか、頬が赤く染まっている。幼子が入れる程の大きさの甕だ、運ぶのは一苦労に違いない。
「お疲れさまです。そうだ、怪我の調子は——」
「何回聞いたら気がすむのよ。ほら、見なさい」
ハフリの言葉を遮って、ツムギは呆れたように息をつき額を指差す。そこには昨日まであった当て布はなく、小さな傷跡がひとつ残っていた。目立つほどではないが、額を大きく出すツムギの髪型では隠すこともできない。
顔を曇らせたハフリの頬を、ツムギは両手で挟み込み、ぐいっと押しつぶした。
「あのねえ、人間生きてれば怪我のひとつやふたつできるわけ。そんな顔するとかばかじゃないの、って」
ぐぶ、と。ツムギの喉の奥で空気が押しつぶされた音がしたかと思うと、
「あんた、なにそれ」
あははと両手をハフリから離し、腹を抱えてツムギが笑う。腰を丸め、目尻にしわをつくり、肩を揺らす。収まったかと思えば、目が合って。するとまたしても発作のように笑いだす。
「ツムギ、さん?」
首をかしげるハフリの顔を、身体を震わせながらツムギが指差した。
「あんた、ヒゲ生えてるわよ」
甕をのぞきこむと、見事に鼻とくちびるの間に黒い筋が付いている。道理でオウミも笑うはずだ。
慌てて桶を手許に引き寄せる。が、後方から聞こえた足音に、つい振り返ってしまった。
そこにいた人物は寝癖のついた濃茶の髪をがしがしとかきながら、眠たげに目を細めた。視線が交差する。身体が強ばる。頭のなかからすべてが吹っ飛んでしまって真っ白になる。
「……おはよ」
放たれた低い声が挨拶だと、咄嗟に理解できなかった。ただ、真っ白な脳裏に濃茶の瞳がふたつ焼き付く。どくんと心臓が鳴って、何かが奥の方からわきあがり、あふれそうになる——が、
「ひげ」
ソラトのつぶやきに、それらは一斉に引いていく。同時に、血の気も。次の瞬間にはかっと燃えるような感覚とともに一気に顔中が熱くなって、
「こ、これは!」
叫ぶように声を放っていた。自分で自分の声量に驚き、更に呆気にとられたソラト、ツムギを見てたじろぎ、たどたどしい言葉を吐き出す。
「その、えっと、えんとつそうじ、で、だから、」
ツムギがやれやれと肩をすくめ、ソラトは、
「わかった、わかった」
くすくすと笑い、ハフリの頭を軽くなでた。
「わっ」
思わず声が漏れ、口をつぐむ。
いつからか、ソラトに触れられるといっそう落ち着かない。
彼の手は今、あたたかいのだろうか。それとも、また冷えているのだろうか。その手を掴み、触れて確かめたい。できることなら、握り返して欲しい。こぼれる思考は奔流のようで、息をするのもせつなくなる。
離れていく指先の軌跡が冷たい乾いた風になって、薄金の髪を揺らした気がした。
「顔、洗わないの?」
ツムギに問われ、慌てて桶の前に屈む。
「あ、あらいます」
「俺はティエンの様子見てくる」
「そう。いってらっしゃい」
二人の会話を背で受けながら、冷たい水で顔をすすいだ。それでもまだ、頬が火照っている。ようやく漏らした息は、熱を宿して白くたなびいた。
「なんか、久々に笑ってるとこ見た気がする」
ツムギのつぶやきに、顔をあげる。
「そうなんですか?」
「いつも口数少ないし、無愛想じゃない」
確かに、帰ってきてからというものソラトの眉間には常にしわがよっているし、声は唸るように低く、放つ言葉もひどく簡潔だ。それは出会った当初の印象——ハフリのなかの彼の姿とは少々違っていて、正直戸惑うこともある。
けれどもツムギは、ハフリが『いつもと違う』と感じるソラトが『いつもの』彼だという。
「小さいときはホントやんちゃというか……わりとくそがきだったけど、落ち着いたもんよ」
幼い頃から一緒にいた彼女がそう言うのなら、そうなのかもしれない。けれども、
「少し、心配なんです。イグサさまと話したあととか、いつも考え込んでいる顔をしてるから」
「……イグサさまと話して考え込んでるんだとしたら『予言』が関係してるかもしれないわね」
「予言?」
「ソラトたちに流れているのは山烏の民の血と、
そのなかでも、と続けて
「イグサさまはすごいチカラをお持ちなの。ソラトがあちこち飛び回ってるのも、多分イグサさまから指示が出ているからよ」
「しじ」
おうむ返しすると「そういうこと」とツムギはうなずいて、ハフリの頬を軽くつねった。
「だからあたしたちは、イグサさまが動かない限り、どうにかなるって信じていられるのよ」
ツムギは幼子に言い聞かせるように顔を寄せて、強く、不敵に笑った。ハフリも、つられてほほえむ。
けれども、自分の奥底で何かが、軋んだ音を立てた気がした。同時、喉が引き攣るように痛む。まるで身体を捻られるような痛みとともに、咳が漏れる。
「ちょっと」
のぞきこむツムギに「だいじょうぶです」とかすれた声でこたえる。ここ数日、同じことが何回か起きているとは、言えない。
咳が止んだ後は、身体中から空気が抜けたようになる。失った分を補おうと、大きく深く、息を吸った。
先刻軋みを感じたのは、咳のせいだったのか。それとも……なんだった? うまく考えがまとまらない。
予知。指示。誰の。どうして。
「大丈夫なの?」
弱々しい声にはっと顔を上げる。
「心配かけて、ごめんなさい」
「別に、心配なんてしてない」
ぎゅ、とツムギに手を握られ、引かれる。やわらかく、あたたかい手だった。
「乳搾り行くわよ。まだやったことないでしょ」
ちらと振り向いて、むずがゆそうな顔をする彼女に「はい」とあわく笑い返す。
先導するツムギの背中から空に目をうつすと、いつもと変わらぬ曇天があった。なのになぜだろう、息を飲む。たまゆら胸を占めたのは、どす黒い嵐雲を目にしたような感覚。
気のせいと断ずるには不穏な予兆に、ハフリはひとしれず、身を震わせた。
村はずれの小屋。その壁に背を預けて、腰を降ろす。
ツムギに連れられ牛の乳搾りを手伝い、朝食を頂いたのちいつも通り薪を運んで今に至る。
ふうと息をつくと、胸元から同じ音がする。目線を落とすとフゥと目があう。ハルハが寝込んでしまい、ハフリのもとに戻って来たのだ。体調を崩すと、ハルハの気管支には動物の羽毛が障る。
心なしか元気のない空色の小鳥の喉元をなでてやると、気持ち良さげにさえずって身をすりよせる。
こうしてひとりと一羽で過ごしていると、まるで森はずれの木のもとにいるかのようだった。
(森、か)
緑の木々に覆われた深い森。そこで暮らす、金髪緑眼のひとびとのことを、近ごろよく考える。
歌鳥以外の血を引くハフリは、森で異分子だった。
遠巻きにされることはあっても面と向かって生まれを誹られることがなかったのは、なんのことはない、大半の人間はハフリに対して無関心だったからだ。森の恵まれた環境に心身を満たされた人々の視界にハフリは入らず、負の感情の捌け口にすらならなかった。
その代わりに、父を喪ってからのハフリは、いてもいなくても変わらぬ存在だった。セトやキリはハフリのことを気にかけてくれていたが、今度は彼らに見限られることが恐ろしくなり、離れられる前に自分から距離を置いた。
歌えない原因が父の血にある確証はないのに、その可能性に縋らなければ立っていられなかった。父がどの民であるかがわかれば、逃げこめる場所が見つかる気がしていた。
歌えないのに歌鳥の民に属する自分が厭わしく、歌鳥の民ではない何かに、なりたくてならなかった。
ゆえに先日、落とした額飾りをスオウに差し出されたとき、素直に手に取ることができなかった。手放すことも考えた。
けれどその一方で、スオウに腕へと戻されたとき、心底安堵したのだ。
(ほんとうは、)
父と母の子として生まれたこと、歌鳥の民に属し生きてきたこと、何ひとつ、拒絶も否定もしたくない。
ハフリの内側は、自分が自分以外の何者にもなれないことに絶望するのを、やめたがっている。
胸を張れる自分になりたいと、願っている。
——山烏の民がもうひとつ民の名を名乗るのは、自分たちに継がれ流れる多くの血を忘れないためよ。
ツムギの言葉が脳裏をよぎる。
ハフリに流れているのは、母から継いだ歌鳥の民の血と、父から継いだ外つ民の血。
断ち切ることができないのなら、向き合って受け入れるしかない。否、受け入れて、あげたいのだ。
きっとそれが、山烏の民になるということで。彼らのような強さを手にいれることにつながる。
だから。
すぅ、と空気を吸う。フゥのつぶらな瞳と目が合い、ほほえんでみせた。冷たく乾いた、けれども澄んだまろやかな空気が肺を満たす。——が。
鳥は われらに調べを与え
風は われらの歌を運ぶ……
空気は澄んでいるのに、吐き出されるものはいつも歪みよどんで聞こえる。しかしそれを理解してもなお、諦めきれない。もう少しで歌える気がするのだ。
けれどもそれは未だ、
いのちあるものすべてに幸あれ
あまねくものに癒しあれ……
独りよがりな想いにすぎず。小さな口からこぼれる音は、キリのように滑らかで整った音程も持たず、やわらかくやさしい響きも感じられない。
自分の内側をさまよって音を探す。あれでもない、これでもない。こんな音を出したい訳じゃない。こんな風に歌いたいわけがない。キリのように歌いたかった。誰にも笑われない、憐れまれない、顔をあげて紡ぐことのできる旋律を、手にしたかった。
われらの声、まさし、く……
違う。違う違う違う! 喉を押さえる。無意識のうちに絞めつける。声が詰まりかすれていくのに気が回らない。視界が揺れる。思考が同じところを廻る。
昨日も一昨日もその前も、変わらない。
われらの声、まさしく、き……き——……
ついに呼吸が覚束なくなり、喉から手を離して荒い息を繰り返す。いつもここで歌詞は止まり、それ以上を口にすることができない。
歌鳥の民にとって歌は重要かつ神聖なものだ。それは歌えないハフリにとっても同じで、捨て去ることのできない感覚だった。その証拠に、おのれの意志とは無関係にくちびるはわななき、喉は
目を伏せ、膝を引き寄せ抱えた。
冷たい風にため息をひとつ乗せようとしたものの、思いとどめる。代わりにくちびるを噛みしめ、顔を上げて前を見た。見えるのは、灰色ではあるけれど森よりずっと広く感じる空と、枯れながらもしたたかに根をはる草達。
ここにきて、変わりたいと思えた。少しずつ、変わってきている——そう思うのは、おこがましいだろうか。
フゥが心配そうな声でさえずる。「だいじょうぶだよ」とこたえた声はひどく震えていて。まるで、いばらの道のなかでうずくまっていた自分に戻っていくようだった。毎回こんな思いをしてまで、歌おうとする意味があるのだろうか。歌えるようになるのだろうか。わからない。けれど、諦めたくない。なのに、負けそうになる。自分の不安定さに嫌気がさす。
「……ソラト」
思わず、口の端から言葉がこぼれた。
「なに」
低い声とともに、足音が響く。慌てて顔を上げれば、そこにいたのはかの少年で。気難しい表情で、けれどもしっかりとハフリを見据えていた。
ハフリは反射的に立ち上がる。こたえる声があったことに驚き、なにより恐怖する。まさか、
「きいてたの?」
ためらいがちな首肯に、血の気が引いていく。きかれた——その事実がハフリを追い詰める。一歩後退し、さらに一歩よろめき下がる。歩み寄るソラトに、弾かれるように背中を向けた。
「どうしたんだ」
しかし逃げることは叶わず、腕をつかまれ引きよせられる。その力強さに、縋るように振り返ってしまう。
わたしは、と自嘲する。わたしはこの人なら助けてくれると思って、甘えている。名前なんて呼んだりして。泣く気にもならないほどの自己嫌悪が、身体のなかで渦を巻いた。
「へたくそだったでしょ。わたしの歌」
うつむき、吐き捨てるようにつぶやいた。
「決められた音律の通り歌えない。綺麗な声すら出せない」
どうしてこんなときだけ口は良く回るのだろう。
「小さくて、かすれてて、調子はずれで。想いすら、篭らない——」
そこまで口にしたとき、腕をつかむ手に力が加わったのがわかった。
「俺は」
唸るように放たれた声は低く。身を強ばらせて恐る恐る表情をうかがえば、彼の目線は足許にあった。顔を歪め、苛立たしげに言葉を吐き出す。
「そういう言い方、好きじゃない」
「……ごめんな、さい」
消え入るような謝罪に、ソラトは空いた手で乱暴に自らの髪をかき乱す。彼が自らに爪を立てている気がして、痛々しくて。ハフリが手を伸ばそうとすると、
「悪い。怖がらせた」
ソラトの呟きに、手を下ろし、首を横に振る。ソラトは相変わらず険しい顔をしていた。その姿がひどくいきぐるしそうで、心配になる。
「ソラト」
上背のある彼の顔を見上げその名を呼ぶと、まなざしを向けられた。その瞳を見ただけでは、彼の胸中を察することなどできない。ただ、見つめ返すだけ。虎目石の色にも似た、深く鋭くつやめかしい茶色。考えることも息をすることも忘れ、吸い込まれそうになる。
ふいと、再度目を逸らされる。ソラトはハフリの手を解放し、踵を返しながら言った。
「そこ座って、待ってて」
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