五章 賭け(2)
*
遠くから音がきこえる。
渡り鳥の鳴き声だと、夢うつつにハフリは思った。森を満たす、美しくもかしましい小鳥たちのさえずりとは違う。遙か彼方へ呼びかけるような、伸びやかで、胸に直接響く低い音。
それは、いつか聴いた笛の音を彷彿とさせた。
「——ハフリ」
唐突に耳朶に触れたのは、脳裏に思い描いたひとの逡巡を含んだ声で。
弾かれるように身を起こす。眠気など跡形もなく吹っ飛び、心臓がばくばくと脈打っていた。あたりを見回すも人影はなく。かわりに、机の上で無邪気に首を傾げる空色の小鳥と目が合った。
「ハフリ」
と。ソラトの声をそっくり真似る小鳥に、ハフリは力なく苦笑を浮かべた。
「もう……びっくりした」
心臓を落ち着かせようと、大きく息を吸ってゆっくりと吐く。
ハフリが眠っていたのは村はずれの小屋のなか。いつの間にか、机に突っ伏して眠りに落ちてしまっていたようだ。頬には袖口の刺繍の凹凸の跡がついている。
狭い小屋のなかは本があちこちに積み上げられており、床にはハフリがやっと腰掛けられるほどの空間しかない。外からの光源はちいさな窓がひとつあるのみだ。
ハフリは立ち上がり、窓枠に手をかけた。押し開けると、つんと冷たい、澄んだ空気が顔を包み込む。すこし離れたところから、煙突を叩く音がきこえた。
空を見上げ、明るさに目を細める。相変わらず空は曇ってはいるものの、今日の雲は薄く、太陽の光をはらんで金色めいていた。空を翔る鳥たちの翼の端がうっすらと透けて見え、降りそそぐ陽光の欠片は、ほのりとあたたかい。
一度大きく伸びをして、ハフリは本の山に向き直る。光が射した小屋のなか見渡すと——周りの本の位置が微妙に変わっていたり、手つかずの本の山に積もっていた埃に誰かが触れた跡があることに目がとまった。思えば、灯したままだった蝋燭の炎も消されている。倒したりしていたら、危うく火事になるところだった。
さらに視線をめぐらせると、床には毛布がいちまい。先刻飛び起きたときに肩から落ちたのだと思われたが、持ちこんだ覚えのない毛布である。手に取ると、毛布には毛皮が裏打ちされていることが知れた。普段使いの毛布より、さらにあたたかさを保つものだ。
「ツムギさん、かな」
あるいは、スオウかも知れない。ハフリがこの小屋に出入りしているのを知るのは、ごく数人だ。ツムギとスオウは、ことさらにハフリを気にかけてくれて、日中ハフリがすべき仕事のほとんどを引き受けてくれている。
毛布を丁寧にたたみながら、ひそやかにため息をひとつ落とした。
小屋の鍵を手渡されてから、四日のときが過ぎている。
寝食以外は小屋に篭っている状態だ。はじめは本の題名で関連のありそうなものを選別し小さな記載まで見のがさぬよう読んでいたものの、残念ながらめぼしい情報は得られず、今はとにかく手当たり次第片っ端から読み込んでいる。それでも、一縷の活路すら見出せない。
過ぎていく時間よりも恐ろしいのは、本の山がどんどんと崩れていくことだった。すべて読み終えて、なにも見つからなかったらどうすればいいのだろう——この小屋の本を漁ること自体がハフリの賭けであり悪あがきで、徒労にすぎない可能性のほうが高いのだということを、嫌でも思い知らされる。
視線を落とすと、机上のフゥの傍らに開いたままの本が目に入った。挿し絵が大部分を占める手書きの絵本だ。かなり古びていて、絵の具は所々はがれ、色は褪せている。
それは、堅苦しい文章の連なる書物や手記の中では異質な本であり、恐らくは幼い子供らにむけたもの。
御伽話、昔話とでも言うのか。それらが口頭で語り継がれていくものだと思っていたハフリにとっては興味深い一冊だった。
内容は、この地に御座した荒ぶる龍を、天帝——山烏の民が信仰するという神——が鎮め封ずる、といったものだ。
開かれた頁は最後の一歩手前で、緑萌ゆる山と、天に昇る男が描かれている。
——てんていさまは りゅうのからだをやまにかえました。たましいはやまのてっぺんにふうじ、まつりました。
めくるとそこには、ひとびとの笑う顔。
ハフリは添えられた一文を、指でなぞりながら、そっと読み上げた。
「するとあめはやんで、ひとびとはしあわせにくらしました」
ぱたりと本を閉じて、「龍……か」と言葉をこぼす。
龍など本のなかでしか見たことがなく、実在するのかもわからない。けれどもし実在するのなら。目覚めて雨を降らせてくれればいいのになどと考えてしまう。
御伽話に縋りたくなる程度には、疲れているらしい。そんなおのれを鼓舞するように、拳を握って「頑張らなきゃ」と口にする。
ひゅ、と喉が窄まるような音を立てたのはそのときだった。反射的に、ハフリは身を屈める。身体中の毛が一斉に逆立つ感覚。ほとばしった悪寒に目を見開いた瞬間、背中に激痛が走った。背骨を砕き、皮膚を突き破り、血塗れの姿で生まれる得体の知れないものの幻影がハフリに襲いかかる。痛みと密に連動し、幻とは思えないほどに生々しくハフリの身体を支配する。
「……っ」
絶叫したつもりなのに、声が出ない。体内で何かがのたうち回る。ハフリの内側を破壊する。目を閉じることすら許されず、呼吸もままならず、自らをきつく抱きしめることしかできなかった。
痙攣を繰り返しながら、背中が——肩胛骨が宙に釣られるかのように持ち上がる。
それに抗い、卵のように丸まろうとすると、おのれの身体がこれから生まれるものを包み込む殻に過ぎぬような心地がした。なかのものが生まれたら、用済みになるのではないかなどという考えが脳裏を過る。
まともな思考すらも奪いさる激痛のなか、息も絶え絶えになりながら、誰にともなく、乞い、願う。いくばくかの猶予を。わずかばかりの時間を。生きる、力を。
(まだわたし、なにひとつできてない)
ひどく不鮮明で徐々に暗転していく視界のなか、両手で縋り付くように、胸元の方位磁針を握りしめていた。
「目が覚めたかい」
そっと頭を持ち上げられたかと思うと、口許に器があてがわれる。
「薬湯だ。呑むといい。気休めにしかならないがね」
自嘲まじりの呟きとともに、器から液体が流れ込んできた。つんとした刺激臭を持つ液体は飲み下せば清涼感があり、ハフリの喉を労るように流れていく。
呼吸がわずかに楽になり、ハフリはようやっと目の前の人物の名を呼んだ。
「イグサ、さま」
眉間に深い皺を寄せ、イグサが嘆息する。彼女の頭の向こうにあるのは天井だ。そこにきてようやく、おのれがイグサの膝に枕されていることを理解する。山積みの本は随分無理やりに壁際へ寄せられていた。
イグサの指がハフリの前髪にそっと触れる。こそばゆさに目を細めると、しゃがれた、されど明朗と響く声に名を呼ばれた。
「ハフリ」
はい、といらう。
「逃げてもいいのだよ。おぬしのその症状は、森に帰れば治るものだ」
なにを、言って。
反射的に身を起こそうとしたハフリを、イグサは額を抑えて制した。ハフリの身体が過分に熱を孕んでいるのだろう、イグサの冷えた手のひらが心地良い。
気だるさに身を任せ目を伏せると、イグサの声がぽつりぽつりと降ってきて、頬にまぶたにしみていく。
「最初に山烏の民と呼ばれていた者たちは、黒目黒髪で、緑深き山の奥に暮らす民だった。それがいつしか山を下り、他の民とまぐわい、多様な生活を営むようになった」
言葉のひとつひとつが、親が子に寝しなに語る物語のように響いて。ハフリはうっすらと目をあけながら、イグサの言葉に耳を傾けていた。
「わしら一家の茶色の髪と瞳は、時鳥の民のもの。厳密に言えば、わしらのなかには山烏と時鳥の民以外の血も混ざっているのだがね。どうにも、どんな血が混ざろうと、時鳥の民の容姿とチカラが付きまとうようだ。遊牧して暮らしていたのもまた、時鳥の民でね。——彼らがなぜ遊牧して暮らしていたか、おまえさんにはわかるかい?」
イグサはハフリの髪を手櫛する。あまりにやさしいその動作は、やさしい以上に力ないものにも感じられ。
なぜだろう、ふりそそぐイグサの声が涙のように思えた。
「わたしたちの未来を知る力、そして歌鳥の民の癒しの力。これらは、未来に干渉し、あるべきさだめをねじ曲げる可能性のある力だ。そういった力にはね、必ず制約がついてまわる。ゆえに、時鳥の民はひとところに留まらぬ生を、歌鳥の民はひとところに留まる生を、強いられる。時鳥の民は、各地を転々と暮らすことによって世界への、未来への干渉を避けてきた。が、わたしの高祖父の時代に『この地に留まれ』と予言が下った。ゆえにわたしたち、時鳥の民が率いる山烏の民は、予言に従ってこの地で暮らすことと相成ったのさ。けれどそれは『ひとところに留まらぬ生』という、課された制約に反することだ。ならばなぜ、そんなお告げが下ったと思う」
ハフリの返事を待たず、イグサは喉を一度鳴らして言葉を紡いだ。
「わたしはね、こう思うのさ。——滅びるのが、我らのさだめなのではないかと。世界がそれを、望んでいるのではないか、と」
「そんな」
今度こそハフリは身を起こし、イグサと正面から向き合った。深い皺のなかに埋もれる虎目石のようなイグサの瞳は、ただただ深い哀しみと、迷い子のごとき寄る辺のなさをたたえている。
「イグサさまがそんなこと、仰っては」
それ以上、彼女を咎める言葉を口にすることはできなかった。
「……この土地を離れることは、できないのですか」
「予言には必ず意味が在る。意味がなければ予言ではない。わたしたちにとっては絶対のものなのだよ。だから、逆らうことなどできない」
イグサは肩をすくめ顔を歪めた。彼女がわらおうとしたのだと理解したのは、しばし間を置いてのことだった。それにね、とイグサは自嘲混じりの声を吐き出す。
「山烏の民がここに定住したのは、今やうんと昔のこと。定住する前は馬や羊たちと様々な場所を移動し、ひとところに留まることなく暮らしていたときく。けれどわたしは、この村の外での生き方を知らぬ。今や、他の土地に移り暮らすことも、流浪の民に戻ることも、容易なことではない。けれどねハフリ。お前さんは山烏の民ではない。予言に縛られる必要はない。それに、守るべき制約と、帰るべき場所がある」
「それでも」
とっさに声を放っていた。
「わたし、決めたんです。ここにいるって。ここにいたいって」
イグサの手をとる。
節くれ立った手は、関節が曲がったままで、爪はひどく短く、肌は浅黒く皺深く、決して見かけは美しいとは言えない。
けれどそれは、おのれが傷つくこともいとわず大切なものを守り生きてきたひとの、美しさなどかなぐり捨てた気高い手だった。『祖母』と呼ばれるひとの手を知らないハフリにも、この手が多くのものを守り育て、慈しんできたことがわかる。触れるだけで泣きたくなるほどに伝わってくる。
その手を今度は自分が守りたいと、望む。
「だから、だいじょうぶです」
イグサの手をぎゅっと握りしめる。非力な手だと思われているかもしれない。けれどもそうせずにはいられなかった。
「ばかな子だね」
呆れたような呟きとともに引き寄せられ、頭を胸に抱かれる。
「この小屋とは逆方向の村はずれに、常緑の樹がある。行ってみると良い。少しは身体が楽になるやもしれん」
「常緑の、樹?」
「この土地に唯一残る緑。神木さ」
ハフリの頭をなでながら、イグサは口を開く。
「癒しの力とは、おのれの生気を他者に分け与えること。歌鳥の民は、失った生気を樹々から受け取り補う。裏を返せば、樹からしか生気を受け取ることができない。ゆえに歌鳥の民は、生気こぼれる森のなかでしか生きられぬ」
でも、とハフリはイグサの胸から顔を離す。
「わたしは。……わたしは、癒しの力を使えません」
「いいや」
ハフリの言葉をイグサはやんわりと否定し、
「歌鳥は常に、他者の命に手を伸ばしている」
繋がれたままのハフリの手に目をやり、あわくほほえんだ。
「ハフリ。癒しの力は間違いなくお前さんに宿っているのだよ」
空に向かって伸びる逞しい枝に、視界を塞ぐほどに太い
けれど、寡黙な老木が守り育むみどりは瑞々しく、やさしい色をしていて。その色のまばゆさにハフリは眦をゆるめ、フゥは肩の上で嬉しげに鳴いた。
羽のようなかたちをした葉が風に揺られてハフリを招く。歩み寄って幹に触れれば、渇いた喉が水を欲すると同じに、軋む身体が樹の生気を欲しているのがわかる。
目を伏せて身体を幹に預けると、樹の内側を流れるさやかな水音が皮膚に伝わる。手足に付きまとっていた重みが霧散したかと思うと、熱っぽさや息苦しさも徐々にやわらいでいった。地に足ついた心地がする。おのれの身体が真実自分のものである実感を得て、ハフリはひどく安堵した。
今まで気づくことはなかったけれど、森の樹々やあの森外れの小さな樹にも、こうして生かされ守られてきたのだろう。
ぽつりと、こいしい、と。何も省みず、逃げるように森を出てきたときには覚えもしなかった感情がぶわりとわき上がり胸を占める。悲しむべきなのか喜ぶべきなのかわからず、顔が歪んだ。
ソラトの傍にいたくて、彼にわらってほしくて、山烏の村に留まると決めた。その決断自体に悔いはなかった。ただ、樹々の恩恵なくして生きられぬ身体は、どう抗っても近いうちに限界を迎える。
限界と言うのはすなわち死だ。
ハフリに残されたわずかな時間は、ハフリにひとつしか選ぶことを許さない。ひとつ選んでしまったら、他はすべて切捨てるしかない。生き続ければいつしか選べたかもしれないものやあらゆる可能性がこぼれ落ちて消えていく。死ぬとはそういうことなのだと、朧げながらに理解する。
(……キリ、セトおじいさま。お父さん、お母さん)
うずくまる。森に置いてきた、大切な人たち、思い出。ろくに振り返りもせぬまま、捨てられると思っていた自分が愚かだったのだ。
今すぐ森へ戻れば身体は生気を取り戻すかもしれない。けれどこの状況でおめおめと森に戻り、キリやセトに顔を会わすことなど考えられない。
それこそ、森を出たときとなにも変わらない。
(どうすればいいの)
生贄になってもいいと思った瞬間はあった。どうせ死にゆく身体なのだから、ソラトや山烏の村の役に立てるのならそれも悪くないと。今でもそう思う自分がいる。けれどもそれと同じくらい、死ねない、生きたい、と叫ぶ自分がいるのだ。我が儘だと理解しながら、何ひとつ手放さなくて済む方法があるのではないかと諦めきれない。諦めたく、ない。
そうだ諦めてたまるものか、と。わずかに生気を取り戻したからだが心を奮い立たせる。
幹に頬を擦り寄せ息をひとつついた。樹に励まされている気がした。
おもむろに根元に腰を下ろし、果てなく続く地平を、その先を見つめる。
(諦めたくない。もう、逃げたくない)
口を噤んでいた肩のうえのフゥが、いつか聴いた笛の音をさえずる。ハフリは無意識のうちに、その音によりそうおうと宙をたゆたうかたちなき音を手繰っていた。見えぬ指先に触れたそれを引き寄せ抱きしめて、もういちど、羽を与えて送り出す。
送る。おくる。贈る。
はなうたを、風にのせる。
定められた詞も旋律も持たない音たちが、踊るように空にかえってゆく。あるいは、一音、一音、ひとり、ふたりと、脳裏にひとを思い描けば、そのひとのもとにはばたいていく。音としてはきっと届かない。けれどもどうか、たいせつなひとたちのもとへ、と希う。寄り添うように、包み込むように、守るように、照らすように。
どうか、そばに。
ソラトのもとに。
音のなかに見えないひかりをみたような気がした。
いつしか久方ぶりの深い眠りに落ちていた。身体を包む心地よいぬくもりと重みにまどろみながら、ゆっくりとまぶたを持ち上げると、まばゆいばかりの金色が視界にあふれていた。
獣の瞳がハフリを射抜く。
「ティエン」
どうりであたたかいはずだ。けれどなぜかの獣がここにいるのか。驚き辺りを見回してみるもあるじの姿はなく、小さなため息が漏れた。
時刻は夕刻に差しかかったあたりだろうか、まだ明るさは残っているものの顔に触れる風は冷たい。ツムギが小屋に夕食を運んでくるまでに帰らなければ、心配をかけてしまう。
ゆっくりと立ち上がると、ティエンが嘴で樹の向こう側を指し示す仕草をした。目をみはり、もしやと思い幹の裏側に回る。
そこには焦げ茶色の髪の少年が地面に腰を下ろし静かに寝息を立てていて、たまらず、確かめるようにハフリはその名を呼んだ。
「ソラト」
くったりと樹に身体を預ける少年は目を醒す様子もなく眠っている。眉間に皺はなく、力の抜けた表情は出会ったときの闊達な印象とも、最近の険しい面もちとも違っていた。
なぜだか今はじめて、ソラトを見た心地がした。
短い髪に太めの眉、少し曲がった鼻筋と乾いたくちびる。とりたてて変わったところなどなにもない、目の前に居るのはハフリと変わらぬただのひと——言うなれば、ハフリより身体が大きく二歳年上なだけの少年だった。
出会ったときからずっと、ソラトは自分とは違うのだと思っていた。心のどこかで、ソラトのなかには自分のような迷い躊躇う弱さなどないのだと信じていた。否、ハフリはソラトに、迷ったり躊躇ったりしない強い人でいて欲しかったのだ。強い人の傍にいれば自分も強くなれるような気がして、無意識に理想を押し付けていた。
愚かな考えと思い込みだった。ソラトが迷わないはずがない。躊躇わないはずがない。自分の命ひとつ抱えて生きていくのも手にあまるというのに、村の命運も他人の命も、ひとりで背負うには重すぎる。
「……ごめんね」
言葉がぽとりと地面に落ちた。
すべてを取り払った寝顔を見て、ソラトが自分と同じ人間であること——当たり前すぎるそのことを、ハフリはようやく受け入れる。
落胆も失望もなかった。凪いだ心が、盲信を剥がし、独りよがりな想いを退けていく。
余計なものを剥ぎ取ったそこに残ったのは、触れたいという衝動じみた気持ちだった。
考えなど、なかった。
静かにソラトの傍に寄り、膝を折ると指を伸ばして焦げ茶色の前髪に触れた。そしておもむろに身を乗り出すと、ソラトの額にひとつ、口づけを落とす。
おのれの熱をひとかけ与えたその行為に、意味も意図も、躊躇も羞恥も存在しない。
ひかりが降りつもるような感覚に満たされながら、ソラトの弱さもまとめていとおしいと思った。すると不思議と、自分のなかにある弱さも赦してあげられるような気がした。
弱さが弱さでないようにすら、感じた。
(……すき)
あの日手を差し伸べてくれたのがソラト以外の誰かであっても、ハフリは手を取り森を出たかもしれない。誰でも良かったのかも知れない。それでも、あの日あの時あの場所でハフリが出会ったのはソラトだった。だから「もし」なんてもうどこにもなくて、ここにある現実と今に繋がる過去だけが確かなものだった。
(だいすき)
好きという感情は、ソラトの笛の音やはなうたに似ている。決まったかたちなどなく、けれどどれもきらきらとしていて、世界をよりいとおしく彩ってくれる。
(この気持ちを、知れてよかった)
立ち上がり、服に付いた砂を軽く払った。
「ソラト」
名前を呼んで、彼の肩を数回軽く叩く。ゆっくりとまぶたを持ち上げた少年に、ハフリはわらって手を差し出した。
「かえろう?」
ソラトは眠気醒めやらぬ表情で目を数回瞬かせ、ハフリの手を見つめていた。しばしの間を置いて理解ができないというように眉を顰める。放たれた低い声は、ハフリに向けてであるのにどこか独白めいていた。
「お前が帰る場所は、ちがうだろ」
ハフリが言葉を返せずにいると、耐えかねたように「なんで」と吐き捨てる。
「なんで、なにも言わないんだよ」
ふいに手首を掴まれ、強く引き寄せられる。均衡を崩して地面に膝をつき、前のめりになった頭はソラトの胸の前で静止した。何が起きたかわからず、視線は地面に落ちたまま。
掴まれた手首が、熱い。
ソラトは一瞬たじろぐ気配をみせたが、ハフリのつむじに落ちてきた言葉には訴えかける強さがあった。
「言えよ。生贄になんかなりたくないって。生きたい、死にたくない、帰りたいって。何でもいいから。そしたら、俺は——」
ソラトはそこで息を飲んで口を噤んだ。
そっと彼の顔をうかがうと、虎目石のような深みのある茶色の瞳が、はりつめた感情をたたえていた。
ソラトはハフリから目を逸らして唸るように、
「お前は、どうしたいんだ」
改めて問われると、迷う。ここにいたい、と伝えるのは簡単だけれど、それはソラトの問いへのこたえにならない気がした。
ここに残れば切り捨てるものがある。
森に帰っても切り捨てるものがある。
生きること、死ぬこと。いたい場所、帰るべき場所。二者択一を前にして、思うことは。
「……わからない」
ソラトの身体が強ばったのがわかった。
「生きたいし死にたくないし帰りたいって思ったよ。けど、それと同じくらいに、もしかするとそれ以上に、ここを見捨ててまで生きたくないとも思うんだ。わたしに何ができるかなんてわからないけど」
一度息を飲む。あらゆる恐れをくだして、自分と目の前の少年に対して、断ずる。
「絶対に諦めたくないの。たいせつなものを、ひとつも棄てたくない」
砕いた二者択一の破片が、光に変じてきらめく。
欲張りだと謗られても、無謀だと笑われても、まだ、終わっていない。だから諦めてやるものか。伸ばした手が果てに触れない限り、心がここが果てであると絶望しない限り、可能性があるのだと、ままならない世界に、あるいは自分を蝕む何かに対して叫んでやりたい気分だった。
ふっ、と。
ソラトの身体がわずかに弛緩する。彼の口からゆっくりと吐き出された息には、重々しさは感じられなかった。掴まれていた手首から指が離れる。ハフリがかたまっていると、ソラトはうつむき気味のまま静かに言った。
「手、かして」
解放された手を、自らの意志で彼の手のひらに重ねる。大きさを比べるように合わさった手は、どちらともなく指と指が絡められひとつになった。
「まだ、俺のことを信じられるか」
ソラトの口から頼りなく絞り出された問いに、ハフリは迷うことなくこたえた。
「信じてる」
ソラトは一度くちびるを噛み締め、目線は地面に落としたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「龍の山の頂きに、龍の
脳裏に、小屋に置かれていた絵本の内容がよぎる。
ソラトの声には切実さと震えが混ざっていて、ハフリは握った手を支えるように力をこめた。
「こんな状況になった原因はすべて火蜥蜴の山の噴火で。雨を降らすことが一時しのぎに過ぎないことはわかってる。ずっと祀られてきたものを壊す罪深さも、感じてる。勝算のない、賭けみたいなもんだけど。でも俺は、例え村が救われるんだとしてもお前を犠牲になんてしたくない。俺はお前が——。お前、に。だから、」
たどたどしい言葉を打ち切って、思い切ったようにソラトが顔をあげる。手をぎゅっと握り返され、視線が交差する。虎目石の瞳にふっと光がさしてまなざしに芯が通り、色が琥珀に変じるかのように澄み渡った。
「生きていて欲しいんだ、ハフリ」
うん、と。吐き出したつもりの言葉は途切れかすれて声にならなかった。身体の中心が震えたかと思うと、ぶわりとこみあげたものがそのまま表出し、とめどなくこぼれて頬を滑り落ちる。一度嗚咽をもらしてしまえばもう止めることは出来ず、赤子のように声をあげて泣いた。熱を宿した涙が、拭ってくれるかたく冷えた指先にしみていく。とかしていく。
ソラト、と途切れ途切れになんども名前を呼ぶ。律儀にかえってくる相槌が嬉しくてならなかった。
背中をさする手になだめられながら、
——生きていて欲しいんだ、ハフリ。
ソラトがくれた言葉を大切にしまうように、胸元の方位磁針を握りしめる。この言葉さえあれば、このさきどこにいても、生きていけると思った。
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