終章 いつかかえる場所
終章 いつかかえる場所(1)
うっすらと緑のぞく草原に目を細め、ハフリは碧天を仰ぐ。
空を覆う厚い雲が消え、火蜥蜴の山の噴火も収まり、気づけば半月が経った。
ソラトの母・オウミはあの日ほうほうの体で帰って来たソラトとハフリをひどく心配しあれこれと問いただしたし、父リクヤも随分気を揉んでいた様子だったが、他の山烏の民たちは事態に驚き喜びこそすれ、経緯や原因までを気にする者はいなかった。
それでいいのだと思う。ハフリ自身も、なぜこうなったのかわかっていないのだから。
「ハフリ、こっち」
ツムギに呼ばれ、薪置き場のそば、横たえられた丸太に腰かける。ひと仕事を終え、先ほど彼女と合流したばかりだ。
「日にっ日に不機嫌になってる」
乳茶を注いだ椀をハフリに差し出し、ツムギが唐突に口をきる。その口ぶりは、苛立っているようであり呆れているふうでもあった。
主語の抜けた言葉に頭が追いつかず、ひとまず受け取った器に口をつける。香ばしい茶葉となめらかな牛の乳、ひとつまみの塩の味が口のなかに広がったかと思うと、喉を通過しそのまま胃の底に落ち着いた。
満足感に舌鼓をうち、
「ええと、どなたが?」
問うと、ツムギは大仰なため息をついた。
「ソラトよ」
「ソラトが?」
首をかしげると、短い髪が頬をくすぐった。ツムギによって色の抜けた部分は切り落とされ、肩より上で揃えられている。寝癖を直すのに苦労はするが、頭が軽くて気持ちもいい。
それにしても、
「ソラトが不機嫌? どうして」
なにかあったのか、あるいは調子でも悪いのだろうか。
「あのねえ」
がしと肩を掴まれる。ツムギの顔面には笑みが貼り付いているが、こめかみに浮いているのは青筋だ。
「あんたが帰るなんていうからでしょ」
山頂で、ソラトに告げた言葉を思い出す。
——わたしが村の人の名前を全員覚えられたら、わたしを森に送り届けて欲しい。
——森に、帰ろうと思うの。
しばしの間を置いて返ってきたソラトの反応は「そうか」の一言だった。
それがどうしてソラトが不機嫌なことに繋がるのか、わからない。森への往復に時間も手間もかかるからだろうか。だとしたら心底申し訳ないが、森に帰ることは、
——生きていて欲しいんだ、ハフリ。
ソラトがそう言ってくれたときに、決めていたことだった。
「ねえ、ほんとうに帰るの」
確認するように、問われる。
思えば、帰ると告げたときのツムギの取り乱し具合と言ったら結構なもので、「なんで」「どうして」とうろたえ、果てにはひとり納得し「殴ってくる」とソラトのもとに向かおうとしたのでスオウとともに止めたのだった。
一悶着の末に、ぽつりと。
——じゃあまたかえってきなさい、と。
ツムギが言ったのを思い出す。
その言葉に、ほんとうはうなずいてしまいたかった。
すぐでなくとも良い。数年後、数十年後、いつか。ここにかえってくる約束ができたらどんなにかと思った。そう、どんなにか、と。
「あんた、もうこっちには帰ってこないつもりでしょ」
ツムギの断言に、取り繕うことができず硬直する。なんで、と問う前に、
「わかるわよ。理由もなんとなく、わかる」
ツムギはこたえ、寂しげに笑った。
「あたしが一発殴って済むことだったらいくらでもやってあげたけど、そうじゃないもんね」
誰を、と言わないところが彼女の優しさなのだろう。
唾を飲み下し、口を開く。
「そうでもあるんですけど、それだけじゃなくて」
ハフリの曖昧な言い方に、ツムギはくちびるを尖らせた。
「なによ。あれだけここにいたいって言ってたじゃない。身体だって、よくなったんでしょ」
歌鳥を失ってからというもの、咳や発作に見舞われることはなくなった。『森の外では生きられない』という歌鳥の民の制約から、解放されたとも言える。
けれどそれは、この先永久に、ハフリの歌には癒しの力が宿らないことも示していた。つまり、なにをどう頑張ってもハフリは一生、一人前の歌鳥の民にはなれない。
以前のハフリがこの状況に置かれたなら迷わずここに残ることを選んだだろう。
「わたしが、帰りたいんです」
けれど今は、違う。
「森に帰っても、歓迎してもらえるか……受け入れてもらえるはわからない、ですけど」
それでも、
「あいたいひとたちが、いて。話したいことや伝えたいことがたくさんあるんです」
歌うことを覚えた。誰かを想って音を生み出すのは、幸せなことだった。時間が経ち、その感覚が身体に馴染んでいくほど、力を失っても、不思議と自分が真実歌鳥の民であるような気がする。
独りよがりかもしれないが、その想いが今のハフリを支えていた。
「だから、帰ります」
ハフリのこたえにツムギは手を放し、やれやれと肩をすくめた。
「あんたって、意外と頑固よね」
そうだろうか。そうかもしれない、と苦笑する。
「あ、ハフリちゃん、ツムギ。いたいた」
鮮やかな赤い髪と栗毛の馬が目にとまった。
「スオウ。それに……」
人影はスオウの横にもう一人。白い馬を引く少年の名前は、
「ホタカ、さん」
覚えた名前を口にすると、少年は亜麻色の髪を揺らしておっとりと微笑んだ。
「そうそう。呼び捨てでもいいけれど」
ホタカはスオウらの友人のひとりだ。スオウと同年、つまりはハフリとも同い歳であり、口調も穏やかなので話がしやすい。
龍の山より帰還してからの半月、ソラトの——というよりはツムギとスオウの手を借りて、少しずつ、けれど確実に村の人びとと言葉を交わせるようになった。
「明日だよね、里帰りするの」
一時的な里帰り。表向きはそうなっているので、こくりとうなずく。「気をつけてね」と微笑まれ、胸がちくりと痛んだが「ありがとうございます」と頭を下げた。
山烏の村が、ここに生きる人たちが、好きだ。知れば知るほど好きになる。覚えた顔、覚えた名前が増えるたびに、毎日が楽しくなった。
それでも、森に帰ること、ここに戻らないことは、誰のためでもない、自分のために選び決めたことだった。寂しさはあっても、後悔はない。
唯一心残りがあるとすれば。
(ソラトともっと話したかったな)
気づけば村を発つ前日。ツムギの家に身を置いていたこともあり、ソラトと顔をあわせたのも数えられるほどだ。言葉を交わした回数はそれよりも少ない。
(……話したいなら自分から行けばよかったんだ)
それができなかったのは、秘めた想いを知られることが怖かったからだ。
傍にいたら、ふたりきりになったら、隠しきれない。目線、仕草、声の調子。どれだけ努めて抑えても、気持ちを言葉にしなくても、彼に伝わってしまう気がした。伝わったら最後、ハフリの想いと願いを、ソラトは拒まないだろう。それが償いになるのならと、自分の意志を無視してでも受け入れるはずだ。
それだけは、たまらなく嫌だった。
森に帰ると告げた時と同じに、表情をなくした顔で受け入れられたらと思うと、身震いする。大切にしたかったはずの想いは粉々に砕け散り、二度とかえってこないだろう。考えるだけでもきえてしまいたくなる。
だから、隠し通さねばならなかった。
幸いなことに、森まではソラトだけでなくツムギとスオウも同行してくれる。ふたりがいてくれるなら、きっとうまくやれるはずだ。
「って、そうだ」
スオウが思いだしたように言う。
「ハフリちゃん、イグサさまが明日の朝に話したいって言っとった。集会用の幕家で待っとるって」
「イグサさまが?」
「うん」
「わかった、ありがとう」
イグサと話すことができたら、とは思っていた。いくつか聞いておきたいこともあったし、彼女にも改めて謝意を伝えたかったのだ。
「荷造りしないとね」
馬を引いて去っていくスオウとホタカを見送りながら、ツムギがつぶやく。ふいに、ハフリの頬をつまんで、
「おんなじ顔してるわ、あんたたち」
伸ばして、はなす。頬をさすって首をかしげるハフリに、ツムギはため息をついてわらった。
ほんとばかね、と。吐き出された独白は、ハフリの耳には届かなかった。
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