2.きみのそばにいたい(下)

 ぐったりしたハフリを抱えて駆け込んだソラトを見て、セトは瞬時に状況を理解したようだった。ハフリの額に手を当てて熱を測り、喉の奥を確認すると少し安心した様子を見せる。深刻な病状ではないことが察せられ、ソラトも胸をなでおろす。

 セトはキリを呼んで水と火を用意するように頼むと、ソラトにはハフリを家まで運ぶように指示をした。

 ソラトが道に迷いそうになりつつもハフリの家にたどり着いて寸刻後、キリを伴いすり鉢と薬草の入った籠を抱えたセトが現れた。

 ソラトが天幕の外でなすすべなくまごついている間に、セトは手際よく薬草をすりつぶし、キリはハフリの着替えを終えるとセトの調合した薬草を湧かした湯で溶かしたりと甲斐甲斐しく動く。

 慣れた手つきでことを済ましていく二人の様子に、ソラトは思い当たるものがあった。

「もしかして、よくあることなんですか」

 薬湯を飲ませに天幕に入ったキリと入れ違いに出てきたセトは、苦笑まじりに答えた。

「まあ、ひととせに一、二回だな。……私が知る限りでは」

 表情を曇らせたソラトの背中を、セトが軽く叩く。

「ハフリは特別体が弱いわけではない。誰にでもある体調不良だ。薬を飲んで眠れば、明日には良くなる」

 セトを手伝い、焚いていた火を消し、広げていた薬草を片付ける。

 空を見上げると、日は西に傾きつつあった。本来ならば日暮れまでには森を出るつもりだったが、セトやキリがいるとはいえハフリから離れる気になれない。

「心配かね」

 問われ頷くと、セトは「今日は泊まって行きなさい」と続けた。

「キリに客用の敷布を用意させよう。ハフリも誰かそばにいた方が安心するだろうしな。ああ、フゥは我が家で預かっているから、心配しないように」


  * 


 すだれをめくって、身を屈ませつつ靴を脱いで幕家に足を踏み入れる。床に敷き詰められた大きな緑の葉が足を包み込んだ。

 床の広さは人がふたり並んで眠れるほどしかない。分厚めの織物を敷いた寝床の上に、麻布にくるまったハフリが眠っている。

 横に腰を下ろして様子を伺う。頰はまだ赤く、眉間にはしわが寄っていた。外界から身を守るように膝を抱えて眠るすがたに、普段の無防備さはない。思えば、ハフリの安らかな寝顔の記憶がない。森から連れ出したときは緊張からか小さな音でもよく目を覚ましていたし、体調を崩してからは血の気の失せた顔ばかりだった。

 何かしなければという気持ちに駆られ、額に浮かんでいた汗をセトに渡された布でそっと拭う。——ハフリのまぶたが震え、開いた。しまった、とソラトは息を飲む。

「……ソラト?」

「悪い、起こした」

「帰らなくてよかったの? 帰らなきゃいけなかったよね?」

 身を起こそうとするハフリを慌てて制する。

「そんなこと心配すんな。まだ寝てろ」

「でも」

「いいから」

 肩口を軽く押して寝床に戻すと、ハフリは天井を見上げて細く息をついた。

「ごめんなさい」 

 独り言のように、かすれた声を続ける。

「わたし、いつもセトおじいさまにもキリにも、具合が悪いって言えなくて。ひとりで丸まって眠って、起きたらよくなるって言い聞かせて。でもたいてい、治らなくて。キリに怒られるの。セトおじいさまは、かなしそうな顔をする」

 言葉尻がわずかに震えていた。深い緑の瞳の表面で、水の膜が揺れ、透明な粒が目許に浮かぶ。

「また同じことしちゃった。……ソラトにも」

 こぼれる、と思った瞬間に手を伸ばしていた。指先に留まった涙は熱く、触れた肌からちりちりとした痺れのような感覚が広がった。ハフリは二、三粒涙を落としたきり、嗚咽を漏らすこともなく、静かに目を伏せる。声を上げることや気を昂ぶらせることを、自らに禁じているようにも見えた。

 ソラトはそっと、手のひらをハフリの髪にすべらせた。ハルハが体調を崩したときにこうしていたのを思い出したのだった。最近のハルハは数日に渡って伏せるようなことは減りつつあるが、それでもやはり、体調が芳しくないときは人がそばにいると安心するようだった。

(ハルハだけじゃない。俺だってそうだ)

 弱っているときは人恋しくなる。誰かに優しくされたくなる。

 一方で、誰かに手を差し伸べられたいと願う自分を浅ましく感じたりもする。がんじがらめになって誰にも頼れなくなるときもある。覚えのありすぎることだ。人のことをどうこう言える立場ではない。

 それでも。

「あの、さ」

 切り出すと、ハフリが濡れた瞳をまたたかせた。

「離れてる時はなんの力にもなってやれないけど、そばにいるときくらいは頼ってほしい。頼られたい。勝手なこと言ってるって思うけど……そう思ってるのはきっと俺だけじゃない。セトさんやキリさんもそうだろうし、ツムギやスオウだってそうだ」

「うん」

 ハフリが肩を縮こまらせてうなずくので、どうしたものかと眉をひそめる。説教がしたいわけではない。ただうまく言葉が見つからない。考えて考えて、考えるのをやめて、

「……大切なんだよ」

 荒削りなまま吐き出した言葉が、結局のところ真実そのものだった。

 ハフリが驚いたように目を見開き、幾度かまばたきを繰り返す。そしてゆうるりと、やわらかく目を細めた。こわばっていた小さな身体がほどけて、余計な力が抜けていったのがわかった。

 ひねりも工夫もないそのままの言葉ひとつがハフリを楽にするならば、もう無駄に言葉を選んで考え込むのはやめよう、とソラトは胸に誓う。

 ささめき声が耳朶に触れる。

「わがままいっていい?」

「いいよ」

「手、つないでほしいな」

「そんなんでいいのか」

 ためらいがちに差し出された小さな手をしっかりと握る。落ち着くかたちを探るように互いの指の間に指をすべらせる。自分の、指は太く皮膚は硬く浅黒くすらある手が、細く白くやわらかいハフリの手と、ごく自然に合わさっている。改めて眺めるとどうにも不思議な心地がした。

 ハフリの手はいつもあたたかいが、今日は平時よりもさらに火照っている。薬湯を飲んだとはいえ、熱が下がるまでにはまだ時間を要するのだろう。

「ソラト」

「なに」

「ありがとう」

「……なにが」

「いろいろ、たくさん」

 きゅ、と握る手に力が込められた。

「離れてるときも、ソラトはわたしを助けてくれてるよ。ソラトのことを考えると元気になるの。今もソラトが山烏の村で頑張ってるんだろうなって思うと、わたしも頑張ろうって思えるんだ」

「俺も、」

 食い気味に口を挟んでしまい、慌てて言い直す。

「俺もそうだよ」

 ハフリが恥ずかしげにはにかむ。言葉のやり取りはそこで途絶え、心地のよい沈黙が西日とともに幕家を満たした。空いた手でふたたび髪をなでるのを繰り返すと、ハフリは少しずつうつらうつらとしていった。

 ふと室内を見渡す。歌鳥の民の円錐型の天幕は、山烏の民の幕家とは似て非なるものだ。幕布は薄く、入り口はすだれで、風通しの良さを重視している。狭さもあって家具は少ない。この空間にある家具といえば、植物のつるを編んで作られた長いひつと、木で作られた比較的新しい本棚、小さな座卓の三つきり。以前スオウやツムギと訪れたときは生活感に乏しく物寂しさを覚えた。

 けれど今はところどころに、色とりどりの小さな布が飾りのように配置されている。手のひら大の布。はっきりとした色遣いに、見覚えのある精緻な刺繍。これはもしや、

(ツムギのやつ、いつの間に)

 まめに鳥を遣わせていると思ったら、物まで贈っていたのかと驚く。しかもそれなりの数だ。張り合おうとは思わなかったが妙な悔しさを覚え、ソラトは小さくため息を落とした。

 日が暮れたかと思うと、たちまちにあたりが夜の帳に覆われる。

 ソラトは夜目が効くほうだが、それでもかなり暗い。生い茂る木々の合間を縫って降り注ぐ月光だけが、わずかな光源だった。ソラトはハフリと手をつないだまま、腕を伸ばし気持ち距離を置いたところに身を横たえた。

 ハフリの白い肌と淡い金色の髪が、かすかな光彩をまとっている。侵し難く現実離れした、ひどくうつくしいものを見ているような心地がした。一方で、つないだ手から伝わるぬくもりが、ハフリが生きているにんげんで、ひとりの少女で、かけがえのないひとであることを、ソラトにゆっくりと知らしめた。

(そういえば)

 ハフリは今日「苦しい」とも「辛い」とも言わなかった。自分の行いで傷つけたセトやキリに対しての申し訳なさとソラトへの気遣いは口にすれど、決して自分の感情を吐き出しはしなかった。

——今もソラトが山烏の村で頑張ってるんだろうなって思うと、わたしも頑張ろうって思えるんだ。

 あの言葉は嘘ではないだろう。けれど口にしていない気持ちもあるはずだ。離れて暮らしている以上、相手の身に何が起こっているか、どんな暮らしをしているのか瞬時に知ることは叶わない。不安や心配に襲われる日が、ソラトにとてある。

(……いつになったら、村に連れていける)

 半年で、村に一番近い川の水が灰を混じえなくなった。

 雨の降る回数は少ないが、一年経ってようやく、地面の奥で眠る種子や根にまで水気が届こうとしているのを感じる。この先、固い土を割って、どれだけの植物が芽を出すだろう。何本の木が息を吹き返すだろう。歌鳥の民であるハフリが安心して暮らせるみどりの土地に戻るまで、あとどのくらいかかる? 二年? 三年? もっとだろうか。何も予測がつかない。

 ハフリはおそらく何年でも待つだろう。けれど、待たせる資格が自分にはあるのだろうか——と思考が暗がりへと落ちかけた瞬間、しゃり、と胸元から鎖の擦れ合う音が響いた。首にかかる鎖をタグって、連なる方位磁針を取り出す。毎日肌身離さずつけているからか、もはや自分の一部のような存在だ。

 方位磁針の底盤に埋め込まれた蛍石ほたるいしが薄緑色に発光している。かすかながらも一晩中光を保つこの石は、大変貴重な質の良い石なのだと祖母に教わった。

——この方位磁針は、ハフリの父が遺した品だという。

 ハフリ曰く。父は旅人で、この方位磁針を使って歌鳥の森へとたどり着き、母と出会った。母はハフリが物心つく前に儚くなってしまって、記憶はなきに等しい。父は寡黙な人で、母についてもあまり多くを語らなかった。

 母親がいなくてもさびしくはなかった、とハフリは言った。父親は口数の多い人ではなかったけれど、本を読むことをハフリに教え、毎朝不器用にハフリの髪を編み、わからないことを尋ねれば言葉を選び根気よく説明してくれた——と、語る口調は穏やかで静かだった。

 けれど、寂しくなかったはずがない。

 今だってそうだ。

(不安や寂しさを洗いざらい吐き出して欲しいわけじゃない、けど)

 ハフリの不安や寂しさを和らげたい。叶うなら遠ざけたい。そのためにも、

(そばにいてやりたいし……俺自身がそばにいたい)

 触れたいのも近づきたいのももちろん本心だけれど。

 なによりまず、同じ空間で同じ空気を共有して、いつでも手を差し伸べられる位置にいたい。

 それがすぐに叶うことではないから歯がゆい。何度も自分の無力さに打ちのめされそうになる。

(でももう、俺からは二度とこの手を離さないって決めた)

 ハフリの手と方位磁針を握りしめる。

(しあわせにする)

 何年かかっても。

(ぜったいに)


   *

 

 いつの間にか眠りに落ちていたらしい。重い瞼を持ち上げると、はっと誰かが息を飲む気配がした。ぼやけていた視界が鮮明になる。ハフリは不自然に頭にまで麻布をかぶっていた。おそらくとっさに隠れたのだろう。

「……具合は?」

 問うと、そろそろと顔をのぞかせたハフリは「だいじょうぶ」と答える。

「ハフリの『大丈夫』って正直信用ならないんだけど」

「ほんとうに大丈夫。体も熱くないし、だるくないし、すっきりしてるよ」

「なら、よかった」

 にしても、先に目覚めていたということは。

「俺の寝顔、いつから見てた?」

「ないしょ」

 ふふ、と口元を麻布で隠して笑うハフリの様子に無理をしている様子はなく、寝顔を見られていたことは不本意だがソラトはひとまず安堵する。

 結局一晩中手をつないでいたらしい。手のひらが汗ばんでいることに気がついて、ソラトはおもむろに指をひらいた。空気が汗に触れてひんやりとする。ハフリの手がそっと離れたので、自分も腕を引いて手のひらの汗を衣服で拭った。

 ふと仰向けになると、朝日が天幕の布を透かしていた。葉のざわめき、鳥のさえずり、木漏れ日の律動。ソラトの知らない朝の空気だった。

 視線を横に戻すとハフリと目があう。ハフリの深緑の瞳に、ひかりがふるふると揺れている。もしかしてまた泣いてしまうのではと焦ったが、今回はただひかりを取り込んでいるだけのようだった。

 音に満ちた静寂、言葉のない沈黙。間に横たわった腕一本分の空間が、やけに広く感じられる。

「ソラト」

 遠慮がちな声音で呼ばれ「なに」と返すと、ハフリは逡巡する様子をみせつつも口を開いた。

「わがまま、いってもいい?」

「どうぞ」

「……もう少し近づいてもいいかな」

 そんなこと訊くまでもない。ソラトは苦笑し、

「ん」

 両腕を広げて構えた。が、何故かハフリは驚いたようにまばたきを繰り返す。

(え、違うのか?)

 しくじった、と思った瞬間羞恥心がぶわりと身体を支配した。行き場のない両手を引っ込めることもできず、絞り出すように言葉を吐き出す。

「……ここまで来て」

 ふふっとハフリが頬を染めて軽やかに笑う。ころころと二回転して、こてんとソラトの腕のなかに収まる。警戒心などかけらも窺えないやわらかな表情に、ソラトはやれやれと嘆息した。

(まあ、信頼されてるってことだよな)

 ならば自分は、その信頼に応えるまでだ。そう自らに言い聞かせ、頭の隅の隅に顔を出す邪心を片っぱしから滅却していく。

「あ、あのね」

 ハフリが顔をあげる。立って抱きしめているときは完全に顎の下にある顔が、今はさらに近いところにある——だめだ考えるなハフリのまつげの本数でも数えろ——

「今度はゆっくり、泊まっていってね」

「え。ああ、——うん?」

 落ち着け自分。なんのことはない。きっともっと話がしたいだとか、そういうことだ。

「わがままだってわかってる、けど。ソラトともっと話もしたいし、見たいものも行きたいところもたくさんあるし」

 ほらやっぱりと心を落ち着けた瞬間、ハフリがソラトの服の胸元をきゅっと握った。

「それに、それにね。……少しでも長く、そばにいたい」

 そばにいたい。

 昨晩自分も同じことを考えた。ハフリも同じことを考えてくれていたことが純粋に嬉しく、一方で完全に消すことのできない劣情とも言える気持ちを意識する。ハフリには知られたくない。衝動に負けたくない。

(大切にしたい)

 試される忍耐力に気が遠くなりそうだったが、自分が我慢することでハフリが幸せになるのならお安いものだとも思う。

「ソラト」

「なに、——っ」

 くちびるにやわらかなものが触れる。目の前に金色のまつげ、白い額、薄紅色の頬。ひとつひとつ認識できるほどの間、けれど余計な思考が立ち入る隙もないたまゆら。

 鼻先が一度触れ合って、顔の間に隙間ができる。目の前でゆっくりと、翠玉の瞳が開かれた。

「あの、さぁ……」

 自分でも驚くほど間抜けな声を漏らしていた。顔が燃えるように熱い。

「……不意打ちはずるくないか」

 ハフリは耳の先まで赤く染上げつつも、いたずらが成功した子どものように笑った。

「だっていつもより近くに顔があったから」

「だからって」

「いやだった?」

「……いやじゃないから困ってんの」

 はああああと深いため息をつく。驚きが先んじて頭が真っ白で、衝動や忍耐が云々どころではない。

 まったく、と。ソラトは自らの額をハフリの額にこつんとぶつけた。

「あんまり可愛いことばっかりしないで」

 ひゃ、とハフリが息を飲み、上目遣いにソラトを睨む。

「ふ、ふいうちはずるいと思う」

「お互い様だと思うけど」

 どちらともなく軽やかな息を漏らして、肩を揺らしあう。

 笑い声がひかりになって、木漏れ日の揺らめきにとけていった。



END

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