第3話 道化の生活 after 5:00

 2.


 5時には店の裏口を閉めて、俺は、表のドアに掛かった板を引っくり返した。


『閉店時間です^^』


 その丸みを帯びた字を見て、誰が書いたんだったかと考えて、あぁ、そうか母だったかと思い出す。


 こんなどうでもいいことを気にしたのは、おそらくさっきの彼女のことが、意識の隅にあるからだ。


 貰ったメモは、その場で読んで記憶したが、畳んで持ち歩くのをよして、店の洗面所の鏡のところへ置いてきた。とりあえず無くさないように、という用心のためだ。


(『何をそんなに持っていくものがある?』)


 親父の言葉だった。首をふり、回想を振り払おうとしたが無理だった。結局、なんでも親父の言う通りに生きてしまっている自分がいる。財布と鍵、免許証だけ持って、いつものバーに向かう。



 めったに家になんて帰ってこないくせに、その日は俺の登校時間に顔を見せた。


(『いや、だって部活だし。休み明けだし』)


 そう答えた俺は、そのとき野球部に入っていた。大して勝てない部だったが、それなりに楽しかった。


(『男がそんなに物を持つな。みっともない』)


 そう吐き捨てる様に言った親父は、くたびれた高級スーツを、お手伝いの押越さんに預けると、タイを緩めた。そのスーツからはいつもの煙草の匂いと、今日はどこか、えた排水のような刺激臭がしないでもない。思わず鼻を覆って、親父から離れる。


(『全部仕事のためだ。お前もそのうち分かる。こんなこと何でもない』)


 いったいどこへ行ってきたのだろう。それを尋ねるのははばかられた。その問いに対して、決して親父はいい顔をしないからだ。指をしゃぶってた幼い頃から。そう、ずっとだ。


 はぁっとため息をつく。俺、成長してねぇわ。



「神妙な顔しちゃって。何、高ちゃん、思春期なの?」


 カウンターのいつもの席で、辛気臭く酒をあおっていた俺に話しかけたのは、店長の追風さんだ。少しオネエが入ってる。既婚者だが。


「いや、別にそういうわけじゃないんだけど、今日、少し変った子に会ってね」


 癖で、頭の中を占めていたのと違う話をふる。危うく、火傷しそうなほど短くなっていたタバコを、灰皿に押し付けた。


 追風さんは、洗いたての空のクリスタルグラスを、俺の目の前において言う。


「深入りしないほうがいいパターンじゃなくて?」


 そう、店長はあらかた知っている。俺の付き合った相手は六割がた、この店で知り合って、そしてひどい結末を迎えて別れた。要するに、恋愛だとかそういう次元を超えるのだ。


「前の前の子、もう退院したんでしょ? 沙希ちゃんだっけ? お父さんが福岡から迎えに来たって聞いたけど、もういいの?」


「あぁ、俺が行っても仕方ないし、メールだけど、きっぱり断られてるし」


「まあ、そうよね」


 何の話をしているかといえば、俺の前の彼女が、実は俺のストーカーだったっていうことを、事件が起きてから知ったという話だ。気が付けば、かれこれ2カ月経つ。被害者は、さらにその前の彼女、紺野沙希。


 沙希は長い黒髪に、いい身体つきをしていて、目元のほくろが印象的だった。思えば初めて会った時から、妙に乗り気な女だった。


 たまたま、その沙希と店で再会したときに起きた殺傷事件。すべては俺の目の前で起きた。弁解するまでもなく、人って言うのは、想像を超えた事態には、まったく対応できないものだ。


 俺は、血でべっとりと汚れた包丁を鞄に戻し、去ろうとする瑞穂の腕を引きとめ、彼女が暴れるのをこらえきれず、後ろ手に自由を奪って床に引き倒した。我に返った俺を、まばらなパチパチという拍手が迎えた。


 その後、俺の行動に周囲の冷静な判断が下されたことで、紺野は大事に至らなかったし、瑞穂は、客に呼ばれた警官に逮捕された。

 

 瑞穂は、外見からして、沙希と正反対な女だった。


 明るい茶色の髪を、いつもポニーテールで留めていて、笑った顔が可愛いかった。長い足をみせるようなショートパンツに、快活な足取り。

 夜に出会うには、少し場違いな気もするテンションの瑞穂が、その日はぎゅっと包丁を握り、震えながら沙希に突進していった。


 呆気にとられながら、そんな面もあるのだと思った。それが彼女との別れになるのだということまで、最後の最後まで自覚できなかった自分もバカだ。


 しばらくバタついたが、その騒ぎの中で、すっかり二人との縁は切れてしまった。実際、それで良かったのだ。俺という接点がなければ起きなかった事件を、まぁ、当の俺がどうこう言えたものでもないだろう。


「それにしてもあのときの高ちゃん、ちょっと普通じゃなかったわよね」


 店長の興味津津な視線に、苦笑いで応える。その問いには、あまり答えたくない。


「男にも、手習いみたいなもんが必要だって親父が言って、いろいろやらされた」


「もしかして古武道? テレビで見たきりだけど、あれっぽかったわよねぇ。私も、空手の道場やってる友達とかいるから、いいなぁと思うのよ。自分の身は自分で守るっていう意識? へぇ、なかなか素敵なお父さんね。忙しいって聞くけど何してる人なの?」


 ふっと、グラスを持つ手が止まる。親父のことなんてどこから聞いたんだと店長の顔を見たが、すぐに、山さんと海さんコンビの姿が思い浮かんだ。おそらく俺のいない時でも選んで出没してるんだろう。


 この店長相手なら、ちょっとくらい話してもいいだろうってか。ムカついた俺は試しに探りを入れる。


「なに、誰かに聞いた? 山さんとか? 俺のことも、いろいろ言ってなかった? あの二人こそ何してんだろ。七時にもなると押しかけてきて、うるさくしてない?」


 俺にジンロックを差し出しながら、追風さんはウィンクを送ってくる。


「敵わないわね。そうよ。高ちゃんって、探偵さんて本当? その金髪だって、一見”売れない役者”みたいななりなのに、言う事が時々『的を得てて怖い』って、海さんが言ってたわよ。案外危ない男かもって。『気を付けろ』ですって」


 そう言って、追風さんはアイラインの入った目を思わせぶりに細める。


「失礼しちゃうわよね。まぁ、高ちゃん絡みの事件なら、なーんか、許せちゃう私はもう、だめなのかもね」


 店長は、店じまいの合図に、自分もロックのウィスキーを片手に、乾杯を誘う。


「今日もお疲れ。明日はきっといいことをあるわよ」

「明日は、ね」


「もう皮肉は厭よ。はい、乾杯!」

「乾杯」


 ぐいっと飲み干したロックは、やけに水っぽく感じた。


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