第11話(前段) ホンの背景を語る

 

 私は、鈴原友恵と言います。そうです、えぇ、市橋望さんの友人、のぞみんの良き友人であります。


 やだなぁ、なんでこんな、しゃちこばった出だしなのかって、意味がわからんと、いわれてしまうわ。すみません、少し、いや、かなりテンパってます。もう少し準備して話せばいいのに、どうにも毎回、さいごの詰めが甘いと指摘されます。でも、これでも真面目な方の人間だと思うので、勘弁してやってください。はい、話を進めますね。


 大学四年の春ときたら、皆さんは何を考えますか。就活? 卒論? それとも卒業旅行とか、さいごのあがきというヤツに、とりかかっている諸氏もいるでしょうね。でも、もう6月も半ばで、じめっとした空気の中にも、否応なしに蒸し暑さを感じる季節なわけです。どんどん楽しい時間は過ぎていき…いや、私なんぞは、ラッキーな方で、就職先も論文もそれなりに整って、今はもう、好きなことに打ち込んで一切心残りなし、の一年にしたいなと。


 そのためのホンも書きました。本番は十月の学祭だけれど、その前に、本学の有志サークルで盛り上がる演劇祭りが、来月末に控えています。


 恒例では、ここでプレ公演を披露して、身内連中から批判諸々、ありがたいご意見を頂戴した後で各自反省、必要があれば可能である限り、書き換えなんかをします。だから、これを乗り越えてはじめて、秋の ”本選” に臨めるというくらいの、気合が入っていないといけない時期なのですが、どうも今年はうちだけ、内容に ”待った” がかかってしまった。


 顧問の教授を通じて、大学本部からの干渉。「まさか!」と思えたなら、ショックも甚大、備えも何も、あったもんじゃないと憤慨したでしょうけど、残念ながら、「だよねー」という一言しか、出てこない。


 いや、自分の書いたものがどうでもいいとか、投げやりになっているということではないんですよ。ただ、これくらいの反応があれば、逆に手ごたえがあって嬉しいというか、作家冥利に尽きるというか。


 まぁ、自分の話はいいです。で、のぞみんですよ。我がサークルの女神であり、私の心の友、あらゆる創作の源泉である彼女の一言は、こうです。


『うん、仕方ないよね』


 はい、そうです。彼女がそう言うなら、『仕方が無い』のでしょう。でもって、もし続行が難しいようならば、去年、二人で冬休みに書き起こした、別の演目でもいいんじゃないかと、そんなことまで言い出します。こちらの方がむしろ、かけた愛情や話の掘り下げ方にしても、サークルの ”伝統路線” として、理解され易いのではないか、とも。


 しかし、ですよ。私はこの提案には、簡単に頷くことが出来なかった。



『主役をのぞみんがやるんじゃなきゃ、私は監督しないからね。それ以外の人なんて、考えられないもん』


 これだけは譲れません。私のパッションは、この一点にかかっているのです。それによって生まれた作品です。込めた想いを穢すような形では、発表したくなかった。


『そっか。私が譲らなきゃ、すずちゃんも譲らないよね』


 平行線です。いつもは気軽に送れるラインも、送れない。そんな状態で迎えた今週末。のぞみんから来たメールで、私は呼び出しを受けました。幸い学生定期区間です。JR大森駅からバスに乗り換えて、はるばる海浜公園まで、土曜日の朝から外出です。


 色気のある街中とは異なり、白く、のっぺりとした風景は、”THE工場地帯” です。バスに揺られながら、窓越しに、いつもより高い目線の浮遊感を楽しみます。そして、まるで人の歩かない広い歩道を見ながら、『土地の無駄遣いだぞ、まったく』と、お決まりの感想をつぶやきます。


 けれど、扉が開け閉めされる度に、潮の匂いなんてものもして、曇り空で晴れ間の見えない空だけれど、まぁいいか、とも思えてきます。要は、遠足だと思えばいいのです。


 私以外に、バスの乗客も少ない。土曜日に走る本数も少ないので、行った先も閑散としているのかと思いきや、なんと、そうではありませんでした。バスを降りて見渡せば、自家用車で来た方やら、近所にお住まいなのか、素敵なトレーニングウェアをまとったお散歩客、動物連れの家族などで、公園は見事に賑わっておりました。



 「や、すずちゃん!」


 先に姿を見つけられ、私は今日も戸惑います。


 「やぁ、のぞみん。お招きあずかりまして、今日は」


 言い出しにくいのですが、私は、こうした長期戦には慣れておりません。なので、いつまでも、のぞみんが引かないとなるや、私の主張も、今日の時点で、既にぐらつき始めているのです。


 そんな私の内心を知ってか、のぞみんは、いつもの麗しい仕草で腰に手をあて、私の目をまっすぐに見据えて、言ったのでした。


「作戦を練ろう。私の卒論をかけてもいい。いや正直、これを上手く利用するっきゃない、って思ってる」


 そんな覚悟ののぞみんには、まさに、黒いレザーのパンツが似合ってました。きらきらとした大き目のイヤリングもカッコイイです。私は、男と変わらぬ、楽な格好が好きなもので、そのあたりも敬服するのですが、今日は一段と、輝いて見えました。


 重ねて言いましょう。今日はあまり天気が良くないのにも関わらず、のぞみんがいるだけで、晴れ間に恵まれた気分です。



「で、作戦とは如何に?」


 私が尋ねると、のぞみんは大きく頷いて答えます。



「唾棄すべきは、



「はい?」


 

 ここで言っておかねばならないのが、のぞみんが心理学専攻であるということ。


「もう少し分かりやすく言って。ごめん、ラカンは詳しくない」


 そんな私は仏文専攻。ですが、医学オタクの姉がいるせいで(いえ、ちゃんと大学に通ってますよ)やたらと小難しい話ばかりに、付き合わされる毎日。そういうわけで、テキトーに『ハイハイ』と相槌をうってやると、「お前は分かっていない、理解していないのに頷くな」と言われますが、それこそ余計なお世話。でも、感謝します。おかげで辛うじて、のぞみんの話に付いて行けるのですから。


 のぞみんは、キラリと瞳を輝かせると、ふいと方向転換。肩で風を切るように、その最初の一歩から、とても楽しそうに歩き出しました。そして光栄なことに、今はたった一人の話し相手である私に、そっと問いかけるように、こう言うのです。


「すずちゃんはさ、不平等社会を日々、肯定しているのが自分たちだって、知ってるよね。だって、生まれたばかりの人間はみんな無力で、大人に助けてもらわないと、成長できないんだもの。

 

 健康も安全も、その命さえ、身近な誰かに委ねないと、生きて大人にはなれない。これが不平等な人生の始まりでなくて、何なんだって思わない?」

 

 私は風鳴りを遠ざけるように、耳を澄ませます。私の反応を見ながら、のぞみんの話は続きます。


「 ”他者の中に自分を見出し、社会を知る”。ありのままでいられないから、誰かの顔色を伺って、その誰かの望むように、生きてしまえさえする。世に有名な精神分析家たち、そして、鏡像段階論の話だよ」


 記憶の中の知識をさぐりながら、のぞみんに置いて行かれない程度に、自分の歩調を合わせます。せっせと歩きながら、思考もめぐらすのです。



「私はね、大人がどんどん、ナルシストになっている気がするんだ。底無しの自己愛者ばかり、ってことだ。だから子育てだって、何より自分の都合が大事。

 

 子どもは大人の望むように笑ったり、喜んだりするだけの鏡像じゃないハズなのに、そんな鏡像としての役割を期待される。それが正常な発達段階だと、子どもが自然に、自ら望んでそうしてるだって?―まさか。


 大人たちの隠れた期待や、要求をんで従うほか、選択肢があるならまだしも、それを許さないオトナの、なんと多いことか!」



 まだ話の先は見えませんが、相槌を打ちつつ、私は待ちます。



「鏡の前に立つとき、人がそこに望むことはただ一つ。ほかの誰でもない、姿だ。言い得て妙な話だが、その鏡像が正しく真実を映せば、かえって憎らしくもあるじゃないか。要は、自分の望む自分の姿が映れば、何よりってこと。


 そしてその鏡像が、あたかももう一人の自分であるかのように、自分の欲求を先取りして叶えてくれるまでに成長すれば、尚、望ましいだなんて、思ったりする。


 けれどね、そんな風に育てられた子どもは、一個の自立した人間になること叶わず、大人という ”主人” の為に生きる ”奴隷” に等しいと言えないか?」


 のぞみんはふと、何かを思い出す様に、一息つきました。ため息だったのでしょうか。


 何にしても言い淀むのは、めずらしい。私は集中して、のぞみんの横顔を見つめます。


 のぞみんは、風に流れる髪を耳に掛け直し、話を再開しました。



「大人でも子どもでも、人間として生まれたからには皆、平等なんだ。なぜ大人は、その平等を軽々しく踏みにじる? いったいどうしてそれが、だなんていうのさ。


 支配と服従によって、オヤコ関係が成り立つなら、それは大きな社会だって同じこと。権力者と、それに従う者たち。世俗における権力闘争の苦しみは、よく考えれば人間だけのものじゃないか。


 大人が最初に子どもに教えなくて、誰がほかに教えるんだ? だから、いつまでも世界は!」


 そう言えば今回の劇は、女性の政治進出の最たるものを描いています。そこに今、のぞみんが熱弁をふるう親子論が、どう絡んでくるのか。そして隠れたテーマの問題も。


 私はこういうとき、すべては物の試しに、と考えることにしています。声が緊張して、ぐらぐらと震えるのも構わず、私は口を開きました。



「のぞみんはさ、すべては隠喩、”メタファー” だって、言いたいのかな。処女性はさ、いまだ、男性権力の支配下に無い女性たちのものであり、尚且つそれは、その性を超えるものになりうるって話、だったよね。そうした議論は、『子ども対大人』の図式でも援用可能だっていうところで、”打倒ラカン” って感じ?」


 のぞみんは、まばたきを多く返して、大きく、それは大きく、頷きました。私は内心ガッツポーズをして、今度はいつもの調子で、話し出します。


「あともう一つ、作品の下敷きにした『ペリクリーズ』では、お姫様の処女性云々という主軸があるけれど、それは、どうつながる?」


 珍しく目元に笑みを浮かべた彼女は、私の健闘を讃えてくれました。すぐさま、答えが返ってきます。


「処女性は、男性から男性へ贈られる、至上に政治的な ”贈り物” 足りうる。確かに、メタファーだね。御姫様たちは、国際政治という場において、権力闘争の媒介項であり、それ以上の存在。神聖なる王権の一部、支配の一部でありながら、同時にその生身においては、


 両義的なものを抱える ”姫君” に、私たちは何をどこまで、仮託できるのでしょう? 思えば、私たちは女性であり、社会人一歩手前の、”子ども” の立場を知る者とも、言えるのです。


 子どもと女性の社会的立場の弱さ、その保護と自由の在り方については、古典の時代から未だなお、現代の問題として、問うべきものが多いのは確かでしょう。


 未解決な課題ばかりで、全く古くないこのテーマに取り掛かることは、やはり意義があると、いうべきでしょうか。


 ここは、慎重にいきましょう。


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