第6話 幕開け

 3.


 土曜日の午後、俺は学生に混じって、ある大学の裏門前に立ち止まった。


 何年か前、数度の聴講を指示され、訪れた有名私大。そこが店の近所にある、演劇活動の盛んな大学だということは知っていた。まるでここだけゆっくりと時が停滞し、堆積しているようなキャンパスの空気。どこか懐かしい気もする。だが、自身の過ごした大学とは、似ても似つかない。あれは、いま思い返しても闇の様な生活だった。


 じっくりと肺に息を送り込み、場所が呼び起こす記憶と向き合う。そうして頭の中を整理すると、ようやく細かな現在の情報が入ってくる。


 目前には、説得力のあるような無いような、謳い文句の立て看板が5つ。どれも文科系サークルの宣伝と活動内容の提示、そして勧誘だ。どれも個性的な出来だが、そこに盛り込まれたテーマは不鮮明この上ない。


 いわゆる、”思想のごった煮”こそ、普遍かつ最強である、という精神である。

 活動費が潤沢なのか、過激な文字面をぴったりと覆っているのは、雨除けのビニルシート。そのブルジョワ仕様が、内容の赤さと良い加減に相反していて、生暖かい笑みを誘う。


 だが一つだけ例外がいた。


『支配と服従―シェイクスピアが描いた女たち』


 という、一番大きな看板である。


 少し近づいてその脇を見ると、目の詰まった簀の子に、純白の方眼紙が貼ってあるだけの、簡易な造り。真黒のペンキで一息に書き起こされた題字は、否応なしに人の目を引く。


 見ようによっては、フェミニズム関連のシンポジウムの議題か、大学の授業名かと思う。だが、人の顔程もあるタイトルの文字サイズに、厳めしくもシュールな明朝体風のフォントが、他とは間違いなく、異なった匂いを放っている。


 こんなタイトルの演目をやろうなどという集団は、さぞかし真面目な勉強家集団か、さもなくば、一癖も二癖もある奴らに決まっている。


 俺が後者だと思うのは、何を隠そう、その看板の右下に記された活動主体が、今日の訪問先だからである。これは誰が考えたタイトルか。まさか、あの彼女だろうかと思いつつ一笑する。



 俺に不信の目を向ける警備員を見返し、その場を離れる。キャンパス内には立ち入らず、ピンク色の歩道を歩いて、右の車道へ逸れる。練習の行われているのは、どうやら別区画に建つ講堂らしい。


 先週見たきりでも、未だ鮮明な彼女の瞳は、口元の微笑に対して、ひどく乾いて見えた。


 俺とのやりとりで何を考え、何を感じたのか。あれだけ小難しいことを延々話したくせに、彼女の内面の情報を得ることができなかった。のせられた自分のほうが、話に夢中になっていたせいだろうか。


 俺は否否と、ひとり首を振りつつ、途中のコンビニで、ペットボトルの茶やら、缶コーヒーの差し入れを買う。



「ありがとーございやす」


 店員はアルバイト学生らしく、人の容姿をじろじろと遠慮なく見る。俺はなるべく目を合わせないように、重いビニル袋を受け取った。



 他人の感情が読めない、というのは至極当然のことのように言われもする。だが、俺のような種類の人間は、そうした困難に”打ち克つ”ことを仕事にしているのだし、そのための訓練も受けている。


 "失敗した"。そう、彼女の”読心”に関しては、失敗したと認めよう。


 明滅していた青信号が、目の前で赤に変わる。信号待ちの間にも、手に食い込むビニル紐が痛い。見上げた空には灰色の雲が、黄色く小さな太陽と相対している。薄い上着にすればよかったかと、汗が流れる。


 しかし、自分の失敗を百歩譲って言い訳すれば、人間が、全く感情を出さないように行動するのは、先天的な資質もない限り(普通の生活を送るには好ましくない資質だが)、至難の業なのだ。もちろん、読み手の得手不得手えてふえては措いて、だ。


 彼女はこの一点に関して、たまたま常人の域を超えていて、それを平然とやってのけたということ。読み手の俺に問題があるせいじゃない。


「見せること」と同じか、それ以上に「観ること」に対して、特別な感性と価値観がなければ、真実感情を装うことも、また、それらが”無いかのように”振る舞うことも、不可能なのだ。


 そもそも、何でそんな面倒なことをする必要が?


 彼女の挙動の一切には、”価値観”、”癖”、”思考”を辿る痕跡を、逐一拭うかのような予備動作が存在した。少しためらったり、ゆっくりだったり、考えているような、そうした「間」だ。


 どう考えてもめんどくさい。素直に笑って泣いて、怒ればいい。それら一切を自覚出来る訳もないのに、隠す理由はどこにある?


 ましてや常日頃の習慣の様にやるとなると、相当の苦痛じゃないのか? 


 この問いは彼女だけではない。まっすぐ俺自身にも跳ね返って来る問いだからこそ、本気なのだ。その場限りで誤魔化し、"スマートに" 処理したつもりでも、後から後から、いっそう事態が複雑になっていることがある。

 

 なぜ、簡単にならないのか。なぜ、ますます悪い方向へ発展し、面白くもない隘路に、はまり込んでいくのか?


 時折、諦念感情だけでは、そうした”些末な”事柄に対処しきれなくなっているのを感じる。つくづく厄介な環境に生きているものだ。

 

 鬱蒼とした木々の隙間から、予想外に横に大きくのびた、講堂の門扉が見えた。


 入り口が見えたと思えば、逡巡する隙を与えず、

『古典劇サークル;本日ホールにて練習中!貸し切りのため、観覧客ならびにキャストのみ侵入可能!』という、呼び込み用の小さな衝立が、目に飛び込んでくる。


 可動式のそれに、びらびらと模造紙の”めくり”が括り付けてあり、さっきの看板同様、みょうな手作りを好むのが、このサークルの性質らしい。どうやらここで間違いない。



 いかにも厳めしい鉄製の門扉を抜け、タイル敷きの舗道から、黒土に白石の小道が続く内部へ入っていく。植樹の多さのせいか、澄んだ空気も甘い。


 進んだ先に待っているのは、両開きの古びた木製戸。少し迷った後、木の葉の載った緑の真新しいマットを踏まずに、建物の内へ足を踏み入れる。


 仕方ないのだが、こうした空間に私服で来るのは、なんだか忍び込んでいる気分になり、落ち着かない。足元から上る湿気と、擦り減った濃紺の絨毯から立ち上る、やんわりとした黴臭さ。反響音でこだまを聞くことになるだろう天井は広々と高く、意外かな、打ちっ放しのコンクリの肌が見えた。


 上下に周回しつつ伸びている階段をみやり、エレベータまであるのに感心しながら、突き当りの壁が見えた左をやめて、廊下を右へ進む。


 しばらく行くと、期待通り、壁に小さな案内が見つかった。どうやらホールと言うのは、一階からぶち抜きで、光の入らない地下4階までの空間を占めているらしい。


 見れば、かなりの深さと大きさのあるらしいホールへの入り口は多いが、この一階からの出入りは、どうやら表玄関に限られている。

 そして俺が入ってきた裏玄関とは反対側にあるらしく、厄介なことに、こちら側とは通じていない。では、どうやってホールに入るかと言うと、なぜか台形に切り取られた”練習室A”を、経由する必要がある。


『どうぞ御参加の際は、差し入れをお持ちください』


 彼女に、今日この時間に来ると残した伝言の返事が、そんな電話越しの”依頼”だった。誰を頼るというのでもないが、練習室なら冷蔵庫くらいあるだろう。


 俺は、先に身軽になる方を、選択した。


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