第7話 仮面の下
練習室の扉は開いていた。エキストラとして呼ばれたのだろう、学生の父兄か大学関係者か、という風情のご年配方や、なんとなくバラバラとした空気で落ち着かない人間が集まっていた。
俺は、期待した設備を探しつつ、集まっている人間の観察をする。これはもう癖だ。そうしていると、見るからに学生だろう男が一人、俺に声を掛ける。
「もしかして、ここのOBの方、ですか?冷蔵庫なら、そこにありましたけど」
「あぁ、どうも」
適当に礼を言い、人の間を縫うように移動する。ふぅ、と言いつつ、しゃがんで開けた小型冷蔵庫には、開封済みの調味料のビンと、古びた菓子パンの様なもの以外、何も入っていない。
これはやっぱり貢がされたな、と思いつつ、飲料水のボトルを並べて押し込んでいく。仕事を終えて立ち上がると、声を掛けてきた学生は、興味深そうに俺を見ていた。
「いやぁ、頭すごいっすね。舞台とか、されてるんですか?」
「まぁ…似たような」
俺はそう返しつつ、自分の風貌が「売れない役者」だと言った、マスターの言葉を思い出す。これはいわば職質対策で、日中出歩いていてもおかしくないフェイクのつもりだったが、どうやらここでは、真実になりそうである。
「友達に呼ばれた?」
それならば、それに乗っかろうかと話を作る。相手も疑っていない。
「えぇ、彼女に頼まれました。観客のつもりでもいいから、ちょっと人を集めてくれって」
彼が指さした方向に、一人だけ長机の向こう側で、パイプ椅子に座っている女子がいる。
長い髪に、可愛い顔をした彼女は、こちらを見て微笑む。遠目だが、どうやら手作業で、何かを熱心に書き写している様子だ。
「ふぅん、面白いことやってんだね。俺は暇つぶしというか、ちょっと寄っただけなんだけど、混ざっていいと思う?」
「いや、俺が言えたことじゃないけど、いいんじゃないっすか?」
そう言う、明るい目をした男は信用できるようなので、今日、ここに俺を呼び出した張本人のことを、尋ねてみた。
「あぁ、市橋さんっすよね。目立つ美人じゃないけど、あんま笑わない分、特殊っていうか。鈴原とよく話してるのを見ますけど、今日は来てないんじゃないかな。あ、鈴原はあそこです」
彼の視線の先を見ると、似たようなチェック柄のシャツを着た集団が、3人ほど集まって話をしている。よく見ると、背の低い中の一人は、女らしい。
色気のない黒縁の眼鏡に、短髪黒髪。だぶつく長さのジーンズにスニーカー。あまりに他の二人と格好が違わないので、気付くのが遅れた。
「おい! 鈴原!」
突然大声で、彼女を呼ぶ彼に驚いたが、呼ばれた方の彼女は、とくに気にした様子もなく、他の二人との話を止めて、こちらに小走りで近付いてくる。
「悪いな、話してた?」
どうやら、ひどく親しい間柄の様だ。近くで見ると、化粧っ気もない鈴原さんは、ますます小柄な少年の様にしか見えないが、顔の輪郭がやや丸いのと、喉元のラインで、性別は判断できる。
「いいやぁ。照明係が音響もやりたいって云々。で、こちらは?」
度が入っているように見えない眼鏡の向こう側から、興味深そうに俺を見上げた瞳は、ひどく澄んで見える。だが同時に、なにか油断のならないものも感じた。この相手に、どうでもいい嘘をつきとおすのは難しいとふんで、切り替える。
「ごめん、ここに来るのは初めてでさ。今日は、市橋さんに呼ばれて来た、ただのエキストラ。差し入れを要求されて、参ったまいった」
そう言って視線を外す。隣の彼はともかく、目の前の彼女は、ふっと警戒を解いたように、半歩、俺に近づいた。
「あー、あなたが、のぞみんの ”特別招待” の人だ。へぇ、いかにもな感じだよって言われてたけど、確かに」
市橋さんにそんな呼び名があるのかと、意外な気もしたが、どうやらこの鈴原さんも、彼女に劣らず、容姿以上に謎めいた雰囲気がある。
俺は久しぶりに、仕事ではない用事で、楽しい気分になれるかと期待する。
「その、のぞみんは出るの?今回の劇に」
「ん? どうだろ。一応私は監督でして、話も作ってんのは私なんですけど、今回はのぞみんが”スーパーアドバイザー”的な感じだからなぁ。あぁ、着想から主題、それに構成とかの全体のバランスを見てくれてて」
彼女が、一体何をシェイクスピアに見出したのか、気になるところだが、この監督さんに尋ねるのがベストかもしれない。
「それで?どういうテーマ?」
「うん、俺も気になる」
黙って聞いていた彼も、同じらしい。『支配と服従―シェイクスピアが描いた声無き女たち』。タイトルだけ見ても、いまひとつだ。
「実は私もそれで、困っててね。神原君は、宮地さんから聞いてるんじゃないの」
隣に立つ、爽やかイケメン風の彼が、神原という名前だと分かったところで、宮地さんとは、あの作業中の彼女だろう。
「いや、俺は人が足りないからとか、言われただけで」
神原君は、『本当だから』という目をして、俺を見る。俺は笑って小さく頷く。「だろうね」。
鈴原監督は、と見ると、小さな右拳骨で自分の頬をタップしつつ、逡巡していたが、俺たちの視線に耐えかねて、口を開く。
「いや、最初はこう…ジェンダー論的な、『非暴力』対、社会差別とか、そういう方向性だと思ってたんですよ。受け持ちの教授にも、そんな風に言ってOKもらったし、告知もあれでしょ。でも、つい昨日、のぞみんが、実は『処女性』が隠れたテーマなんだって仰るわけで。
わかります? ”処女性” ですよ。言われたことは分かるし、ただ、殿方にはちょっと、刺激が強いんじゃないかなって。でも、のぞみんがエキストラを予定通り、呼んじゃってるし、セリフ配るのに手書き原稿しかないし…で、宮地さんがいま、頑張ってくれてて」
「へ、へぇ…」
神原くんは、明らかに困惑した様子で、同意を求めて、再度俺を見る。だが反対に俺は、そこまで青くないというか、そんなことを言い出した市橋さんの方が、気になっている。
「まさかと思うけど、『ペリクリーズ』が下敷きじゃないよね。今回の?」
自分で口走ってから、”しまった”と、心の声が反応した。言い過ぎだ。
それを証拠に、監督さんは瞳の奥から、さっきまでと明らかに違う”炎”を覗かせる。それが赤に緑に、揺らめくのを見て、喉が絞まる心地がした。
「おぉ、のぞみんの言ったとおりだ。そうです、そうなんです! 博学というか、なかなかマニアですね?先輩?」
そういう表現で来たか、と胸をなでおろしつつ、困ったように首を傾げて見せる。
「いやいや、先輩じゃないから。ちっさい店の、店長なだけだから」
そんな余計な情報を言葉にしながら、俺は吐き気に似たような高揚感に包まれていた。
思い出すのは、ピリピリとした緊張が見え隠れした、彼女の視線。
隠し事のすべてを、白日の下に曝さなければ気の済まないような、でも、潔癖だからそうしたいんじゃない。
まだ見ない「何か」を己の感覚器官をフルに使って探している―。そんな獣の様な”匂い”がした。
人であっても。いや、人であるからだ。
獣の様な本性も、"ヒューマニズムなんてクソくらえ"と言わんばかりの悪趣味ささえも、人だからこそ、持ちうるのだ。
そして、そんな野蛮な精神が放つ独特の"臭気"は、同類にとってはひどく蠱惑的に、また芳しくも感じ取れる。
懐にある秘密も、隠し事の多くも、隠され続けるために存在するのではない。
暴かれる危険性を有するがために、それらは秘密であり続ける『価値』がある。
彼女の俺を見る視線は、人間の表層を剥ぎ、魂の腐った部分を的確に探り当てる性質のものだった。それが未だ言葉にならないものであっても、確かに彼女は、俺の中に在るものに感づいた。
*
俺が、二十一になった頃、酔ったついでに人に話すこともできない公職に就いたのは、誰であろう、親父の勧めだった。お前に向いているのは、こっちだと言われたとき、特段反抗もせず、それを受け入れた。よく考えれば、筆記試験と面接だけで済む穏当な職を蹴ってまで、手に入れたい仕事でもないだろうに。
でも、そのまま続けているのは終局、沈黙を交えずには語れない自身の”身分証明”と、仕事そのものが持つ醒めた猥雑さに、何よりハマってしまっているせいだ。
”真実なんて、何の価値もない。ほんとうに全く、この社会にはどうでもいいことだ”
これは親父の言葉だ。いつ聞いたんだったか。いや、何度も聞いて、そのたびに自分の身体に沁みていった言葉だ。
偽りを重ねて、器用に巧妙に、そして手厚く、築き上げていくことが、どれだけ困難で、また必要なことか。多種多様な一億を超える人間を、一つの国家の中で"生かす"仕組みに、いったいどれだけの"嘘"があればいい?
**
俺は冴えてきた頭を、霧のようなイメージで宥め、落ちてきた前髪をかき上げた。
少し、落ち着け。
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