幕間と情況分析→サロメの朝へ
例外状態において、人間の行動は限りなく「理性的」なものになる。
凶器を相手に振りかざしたとき、相手の無防備を狙うとき、周囲への均等な警戒心は取り払われ、目の前の標的に集中する。
銃撃戦が起きるということは、敵対する主体が同時に銃器を所持し、尚且つ、互いへ向け発砲する動機が存在したということである。たいていは立てこもり犯と警察など、この二つの条件を、自ずから備えている関係において、想起されるのが容易い。だがこの場で、一般人の被害者は無かった。
すべてを目撃していたのは店主である。事件そのもののあらましを聴取した後、高宮が呼ばれたのは、いったい何を訊きだすためであったのか。
病院へ緊急搬送された二人は、水面下で抗争の噂のある指定暴力団関係者であることが知れている。彼らはなぜこの飲食店で、重傷を負うことになったのか。
何らかの約束で面会していたが、意見の不一致にて発砲、という想像はあまりに漫画じみている。言うまでもなく、このような小店舗において、匿名性を確保することは難しく、近距離の攻撃手段として銃器は適当ではないのである。
したがって、身元の判明している二人が互いに向けて発砲した可能性は限りなく低いのだが、店主の話によれば、息子が何らかの介在をしたことで、諍いが生じたとのことである。
その息子はどこへ行ったのか。銃器を持ってどこかへ逃走したとのことである。しかし、店主に息子がいないことは、既に調べが付いている。では、店主と二人のほかには、誰もいなかったのか。それも考えにくい。
店の商いは、店主の身上を考慮すると、常にだれかもう一人いなければ回らないはずであると考えられた。
翌日行われた、周辺への聞き込みでは、女性が一人、娘の様に働いていたはずだがと、名前まで明らかになるのだが、まだ夜明け前である。
高宮は、ほぼ店の中央に二人が倒れていたこと、共に数か所の銃創があり、出血がひどかったため、通報したのだという店主の説明を信用した。
なぜなら、もし嘘をついていた場合、最も隠したい事実以外のことは、案外、素直に話してしまうものである。嘘を周到につこうとすると、実は限度のないもので、赤の他人にも分かるような余計な嘘まで、つくことになる。
これを回避するには相当な経験が必要だが、店主の様子を観察している限り、嘘を吐くことに慣れている人間とは、思えなかった。
店主の話は、おそらく既に聴取された内容と変わりないだろう。むしろ、この段階で警察の追究が無いことに、より一層、自信をもって、答えているはずだ。
高宮は、おにぎりを頬張り、味噌汁を飲みながら、店主を向かいに座らせて言った。以前にも偶然だが、ここに客として来たことがあり、そのとき、注文をとってくれた『彼女』の印象がとても良かった。こんな騒ぎになったが、今は辞めてしまったのか、と。
店主は一瞬、顔を強張らせて、『そうだ、辞めてしまったのだ』と答えた。高宮はその反応を見るや、開いた椀を重ねると、話題を変えた。
尋ねたのは、いるはずのない息子夫婦の話だ。すると店主は、さも嬉しそうに自分の孫の話をした。高宮は相槌をうちつつ、真実をおりまぜる。自分に兄弟がいないことや、祖父母も既に他界していることなどを話していると、意外なほど話は弾んだ。得られた情報は、十分だった。
午前2時、高宮は引き留める店主に別れを告げ、店の外に出る。駅へ向かって歩き始めると、待っていたかのようにゆっくりと一台の赤い軽乗用車が角を曲がり、彼の後を付いてくる。誰の車か、音で察した高宮が振り返ると、車は彼の前で止まった。
左ハンドルのその車には、いつも助手席に乗れと高宮は言われている。同期の池谷が眠い目をこすりながら、彼を迎えた。
「成畑に連絡取れる?」
するりと狭い車内に収まると、高宮はシートベルトを締めながら尋ねる。
「急ぎ?」
高宮が頷くと、脇に置かれた缶の飲料水を勧めつつ、池谷は携帯をいじる。
「お父さんに連絡した方が早いんじゃない?」
池谷が冗談めかしてそういうと、高宮は、『冗談じゃない』という顔をして、ペットボトルの緑茶に口をつけた。
「もしもし? 成畑まだいる?うん、俺。え? 眠いよ、いつも通り」
漏れてくる声の感じで、最初に出たのは元林だということが分かった。少数派だが高宮と同期の女性だ。しばらくして待たされたあと、成畑の「ハイ」という声が聞こえた。
池谷は、応答するのも嫌だと言う顔で、すぐさま携帯を高宮に押し付けた。池谷は、成畑のような人種が大の苦手である。
高宮は苦笑しながら、携帯を受け取り、耳にあてがう。聞こえてくるのは、成畑の笑いながら池谷を呼ぶ声である。高宮は咳ばらいをして話者が変わったことを伝える。
「あ、成畑? うん、高宮。仕事は終わった。女が一人、たぶん、銃を持って出てる。いや、見つからないと思う。それは…知らない。でも、向こうの美味しい展開にはしない方がいいでしょ。第三者は一般人ということで、事件のことは伏せて、ん、そうだね。じゃ」
「終わり?」
携帯を受け取りつつ、車中泊はごめんこうむりたい、という様子の池谷に、高宮も今日は同意する。池谷の運転で自宅のアパートまで帰り着くと、ドアの前で別れる。そう遠くないはずの池谷の家には、駐車場があるらしいが、高宮はよく知らない。
家のカギを開けると、湿気のこもった臭いに顔をしかめる。換気のためにドアを少し開けると、夜風が心地いい。眠気に任せて、ベッドに身を横たえると、高宮は気を失うように寝てしまった。
数時間後、朝日が昇り、始発電車が動き出すころ、隣の区に住む「サロメ」こと、
今日は晴れると見た彼女は、パジャマのまま、ベランダへ出る。
鳥の声を聴きながら、昨日はなんて、面白い人に会ったのだろうと思い出しつつ、感慨にふける。
「まさしくピエロね。どんな役がいいだろう?」
エキストラをハントしたはずだが、彼女は既に彼に役を考えつつあった。脚本、監督はもちろん友人の鈴原友恵の方だが、彼女のミューズとして、アイデア、筋書きを提供した立場の我儘、ないし神様扱いを要求できる立場である。
ふと思いついた様子で、得心顔でひとりにっこりと微笑むと、ぐうんと背伸びをする。朝の冷たい空気は肺の奥まで染み入った。
珈琲にトースト、ハムエッグ、そして新聞。テレビも付けて、朝のニュースはとりあえず万遍なく目を通す。
「ほぉ、また汚職ですな」
警察関係者の汚職の記事を見ると、どうしても注意がそちらに向いてしまう。唇の端に着いたバターを舐めながら、炊飯器の横に置かれた兄の仏壇を眺める。
そこには、満面の笑顔の兄が、今日も望を見守ってくれている。望の兄は警官だった。不慮の事故で亡くなったと小さな記事になったが、実際は自殺なのだと、兄の上司と名乗る男に言われた。その日初めて知った顔だった。
「納得できませんよ、全然わたしは」
兄の写真を見ながら望が口にするのは、いつも同じ言葉である。正義感に篤い兄が、自他共に認める天職に就いて、4年目の秋のことだった。知らせを聞いて、はじめは誰も信じようとはしなかった。
それでも、東京になど行ったことのない父が、『新幹線で行けばいいのか』と、送られてきた切符を3枚、震える手で差し出したとき、望の母は泣き出し、彼女自身もそれが、事実なのだと認識した。まるで悪夢のような新幹線の中は、ひどく快適で白々しかった。
「お兄ちゃんは」
望は、悲しみに沈む両親を前に、悲しむことはおろか、いつまでも兄の死を受け止め切れない自分に戸惑った。二人の反対を押し切り、東京の大学に進学したのもそのためだ。
『少なくともこの地で兄が死んだ』
望は自分で動いた。
空いた時間を見つけては、自分の名前、兄の名前を出して一人で尋ねて回った。しかし、兄の死の有り様だけは確かめられても、兄が死のうとした本当の理由を、誰も知らなかった。
兄の仕事の関係者、友人、知人、誰もが口を揃えて「自分は知らない」と答えた。そして加えて、「残念で仕方がない」とも云った。
「正義感が強かったから、反面、何かに絶望したんじゃないか」。そんな当て推量な台詞まで聞かされた。
この3年で望が知り得たのは、兄の自殺が公式に伏された理由だけだった。
出所不明な拳銃によって、兄は自分の頭を撃ち抜いた。そのためだったのだろう。顔を見て確認したいと言った家族に、警察は彼の遺留品を見せただけだった。勧められるまま東京で荼毘に付したが、それも決しておかしくはなかった。
望は次第に、兄の死の理由そのものを知ることよりも、兄のような人が死ぬことを赦した、この社会に対して、消せない疑問を持ってしまった自分に気付いた。
兄は、敢えて自分の死の理由を隠したのかもしれない。自分の行為は、兄の意に背くことなのかもしれない。しかしそれでも彼女が知ろうとするのは、すべて身勝手な理由からなのだ。
「エゴです、ごめんね」
望は写真の兄に手を合わせて何度も謝った。出掛けの身支度を終えると、望はいつものように線香をあげて、兄に別れの挨拶をする。
「もし、あの人にも、お兄ちゃんと同じような”首輪”があったら?」
望は昨日出会った、ピエロに扮した青年を思い出す。”首輪”とは、兄がよく冗談めかして、自分の仕事熱心なのを自嘲した、いわゆる "比喩" である。
彼が洗面台で化粧を落とし、コーヒーを淹れる背中を盗み見ていて、ひどく懐かしい感じがするなと思ったら、彼女は、自分の兄を思い出していたのである。
見た目は客観的に見て、似ているとは言えない。
望の兄は髪を染めたり、革製の上着を着たりするようなタイプでは無かった。しかし、それでも彼女が知る兄の”何か”を、呼び起こさずにはいられなかった。それはまるで奇跡の様に、である。
背中から発せられる空気、佇まい、向かい合ったときに瞳の奥に垣間見えた ”熱量の種類” ともいうべきもの。鋭敏に感じ取って、思わず得意げに微笑んでしまったくらいに。
望は、仏壇へ向かって投げキッスを一つ送ると、写真を見つめて笑顔を作る。
「行ってきます!」
彼女の兄への愛情は、彼が死んでも普遍であった。
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