第5話 道化の生活 around 0:00
「中本さーん、どこ?」
暖簾に頭をくぐらせ、暗い先をみやると、だいぶ奥の方に座椅子の置かれた『上がり間』があり、小さなテレビの黒い画面が俺を見返した。
足元はここから土間に切り替わっていて、ビール瓶や、野菜の入っていたような段ボール、真新しくはない発砲スチロールの白い箱で、ほぼ通路の脇は固められている。おかげで、トイレのドアが向こう側へ開いているのを、首を伸ばして覗き込むはめになった。
明かりこそ灯っていなかったが、中本さんはそこにいた。
俺の気配に気づいたのか、身を起こそうとするが、洋式トイレと壁の間に挟まって、身動きが取れないらしい。その痩せた体躯を見るに、自力で身を起こすのは、ほぼ不可能に見えた。
「えぇ、構うな。他所へ行け」
それでも俺を追いやろうとするのは、おそらくこの鼻に付く臭気のせいだろう。俺は、とにかく通路を確保するために、古びた消火器や箱類をどけながら、声を掛ける。
「おじいちゃん、もう怖い人たち、帰ったから」
正直言うと、まだ二人組の新人が掃除を続けているだろうが、気にしても仕方がない。
ようやく身を返して中本さんの側へ滑り込むと、しゃがんだ姿勢から、まず後頭部にそっと手を差し入れる様に身を乗り出し、力が一点にかからないように自分の胸に引き付け、くるりと一気に抱き起こす。
中本さんが驚いたのは、薄い皮膚の下から伝わる心臓の音で分かった。だが、こうしてじっとしていてもいいことは無いので、はっきりと耳元で尋ねる。
「どうする? 下、着替える? それとも支えてて上げるから、一人でできる?」
中本さんの抵抗感は、ゆうに理解できる。だが、ほかに誰もいない以上、ある程度割り切らなくてはならない。
「構わん、もうあらかた、用は足してしもうたから…着替える」
「分かった」
中本さんが、ひどくおぼつかない足取りで歩く背中を、俺はゆっくりと追い、まっすぐ部屋まで向かう。
部屋に着いて、すぐに目に飛び込んできたのは、食器戸棚の横に置かれた、ビニル製の派手な色のパッケージ一抱えだった。
いわずもがな成人用のおむつである。そうすると、中本さんが買ったのではないだろう。例の息子が買ってきた? いや、それは考えにくい。もし息子が買ってきたとしたら、こんなところに袋を裸で置くのは、あまりに繊細さに欠ける。行動を裏付ける性格にムラがありすぎる。現実的じゃない。そうすると。
そんなことを考えていたら、中本さんはとなりの薄暗い部屋へはいっていく。おそらく寝室である。
箪笥の上段から下着を取り出そうとしているのを、後ろで控えて受け取り、屈もうとしたのを見計らって、下段の引き出しを一緒に引いた。ズボンの替えはあった。
身体を拭こうかと尋ねたが、何も言われないので、とりあえず切り替えでお湯の出る蛇口をひねり、適度のお湯を
そこまでしたところで、掃除の具合を見に、いったん戻ることにした。ついでに一服もしたい。中本さんは着替えにしばらく時間が必要だ。
いっそのこと、店の中全体を片付けてしまえば早いんじゃないかと思いつつ、来た道を引き返して、店側へ出る。
「あぁ、なるほどね」
思わず独り言が漏れた。たしかに、二人は言われた仕事をして帰った。だが、それだけだ。薬剤をふき取り、事件現場の痕跡を拭う。そして出来る限り、原状に戻す。
それが商店や個人の家ならば、復旧作業にはそれなりの技がいる。剥がれた板を打ち付けたり、空いた穴を塞いだり、まぁ、そういう技術もそれなりのものだと認めよう。
だが、上げた椅子一つ、戻さない。事件当時から落ちていた埃? まぁ、たしかに事件とは関係ない。だが、ついでに掃除しても罰は当たるまい。水回りも、ほんとうに、そのままだ。
間違いなく営業中だったのだ。魚の切り身が途中までで傷みかけているのを捨てるとか、積み上がった、散々な有様の食器類を割れ物と、まだ使える物とに分別しつつ、洗い物をしていくとか。
とにかく、あまりにも雑然としていて、要は、「あぁ、ここは何かがあったのを片付けたのね」という感想しか出てこないことだ。これでは、厳密には「掃除が済んだ」とは言わない。
明日から営業できるように、とは言わない。現に中本さんはあの様子で、おそらく従業員だってまた集まるかどうか。だが、だからこそ、少しでも気持ちよく過ごせる空間、慣れ親しんだ空間を、より良い状態で返そうという”心遣い”が必要じゃないのか。
そして最後に、これが一番重要なことだが、『俺に一声掛けて帰れよ、』と言いたい。
ここのカギを俺が預かったの、お前等見てただろ?と、マジでひとこと言いたい。たしかに、俺が呼ばれたのは、こういう事態も己の判断で収拾しろという訳で、不平不満を言う資格は何一つ、無いんだろうが。
俺は上着を脱いで腕をまくり、前髪を結んで上げる。音をたてずにこういう掃除をするのは、なかなか至難の業だということを経験で知っている。
外した腕時計は、10時半ごろを指していたが、こんな時間に、こんな仕事しているのは、夜逃げ屋くらいじゃないか、そう思ったら、少し笑えた。
最後に皿洗いを済ませて、一息つく。ざっと店内を眺めて、額の汗を拭う。
結んでいた前髪を戻し、懐から一本取り出して、火を点ける。煙が天井を這うのを見て、窓をもう一つ開ける。
「中本さーん、俺ちょっとお腹すいたんだけど、なんか貰って食べてもいい?」
窓の外を見ながら大きな声で尋ねる。
耳で返事を待っていると、咳払いで本人が店側へ出てきたのに気づき、窓を閉める。
「あんちゃん、警察の人か。そうは見えねぇけど」
中本さんは、さっきよりしゃんと様子で、二本の足で地面を踏みしめ立っている。
胸を反らし気味に、怯えからくる警戒の視線を俺に向けている。きゅっと引き結んだ口元は、冷静になって事態を対処しようとする緊張の表れだ。腰が抜けていたのに、意外に早く立ち直った。まぁ、ここまでは、俺の仕事は、まずまずか。
「まぁ、そうとも言えるし、そうでもないとも云える。けど、今日は一晩、中本さんの身辺警護兼、そうじ係?みたいな。なんでも言ってよ。そのかわり、何か食べさして。腹が減っても、外、出らんないからさ」
俺はそう言って、自分の頭を掻いた。動きすぎたせいか、珍しく酒が回ってきている。少しぼやけた視界の中で手元の煙草が、灰を落とした。
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