第4話 道化の生活 after 9:00

 帰りがてら、公園前の自販機で缶コーヒーを買う。


 光る時計を見上げると、9時を少しすぎたところだ。まだ浅いと感じる夜空を見上げるたび、追風さんには悪いなと思う。だけどまぁ、まだお子さんが小さいし、早く店を閉めるのも、決して悪いことではないはずだ。


 ″迷惑をかけ慣れている自分″というのに、そもそも慣れない。それは、自分一人が反省しても、まるで意味のないことだと、諦めているせいでもある。


 だが、被害や迷惑は実態としてそこに在るのに、見なければ存在しないのだとも、言い切れない。自分は、本当はどうしたいのか? お決まりの自問に行き着いたところで、公園の中を見渡す。ほかに人の姿はない。


 見るともなしに、木々の鬱蒼とした左前方に視線が行く。ぼんやりと、空の電話ボックスが光を放っている。遠目に受話器の「位置」を確認する。


 コーヒーを飲み干し、ごみ箱を探して缶を押し込んだところで、頭の中も切り替える。


 できれば見逃したかったが、受話器が上がっているのだから、行かなくてはならない。もう一度周囲を見渡しながら、小走りで電話ボックスに向かう。この小走りの意味に自己嫌悪を抱かないわけでもないが、仕方がない。


 ここの電話ボックスの扉を開けるのは、少しコツがいる。下の方を蹴り込んでから、斜め対角線上の上隅を強く叩くのだ。


 入ったところで、電話機の上に横たえられている重い受話器を取り、耳に軽く当てる。

 そして財布から一枚、時代遅れの外観甚だしいカードを取り出し、差し込んで、4桁の数字を押す。

 すぐさまブーンと鈍い、断続的な呼び出し音が鳴る。そのうちこの方法も、目立つからやめるんだろうと思っていたが、逆に有線の価値が上がってしまったんだと池谷が言っていた。


「あ、もしもし? 俺だけど」


 このカードで、誰がかけたか向こうには分かるようになっている。最初は違和感があったが、もう慣れてしまった。


「もしもし? あぁ、暇だった?」


 今日の当番は成畑のようだ。俺をなめてるのか、いつも何かと一言多いが、成畑のいる日は、あまり楽な仕事がある日ではない。


「今日は一番から三番まで。どれがいい?」


 相変わらず滑舌の良い成畑の声に、耳が自然と集中する。

 何を基準に選ぶか考えた後、今日の日にちと同じ偶数にしようと決めた。


「じゃあ二番で」

「ぶっぶー、外れ」


 受話器の向こう側で、からからと嘘くさい笑い声をあげる。俺は黙ってその間に耐える。成畑が指示したのは、新宿のはずれにあるという、聞いたこともない名前の飲み屋の「掃除仕事」だった。


「高宮ってさ、あんまりくじ運良くない」


 俺は成畑が全部言う前に、受話器をがちゃりと下ろした。成畑の悪いところは、他人の時間を使いすぎるところだ。


 乗り換え2回で、40分。頭の中の路線図と地図を辿って行き着いたのは、寂れた商店街の、閉じたシャッター並木だった。


 ごみは落ちていないが、道をふさぐように車が止まっているのは、あまりいただけない。公用車だというのは、ナンバーで分かってしまう。1台、2台、3台と数えたところで、右の角から、強い照明が漏れている。科警研の白いワゴン車が手前に止まっているその店が今日の目的地だった。


「おっと」


 振り返ってもらわなくとも分かる、いがぐり頭に紺色のフードコートは、山さんである。奥さんのコートを貰ったのだというその人は、寒がりで、何でも笑いたがる陽気なおじさんである。この人一人では問題がない。


 だが、この人に、海さんがついてくるから、面倒なことになる。その面倒な海さんの性格は、詮索好き、酒好き、女好き、遊び好き、そして俺みたいなのを構うのを、至極当然としている性悪親父である。


 そんなことを思っていたら、ふらふらと親父が一人、制服組の若い3人組の間をかき分け、店の外へと歩いてくる。強い照明を背後にしても、そのしょぼくれた猫背は大きくはならない。白いワイシャツを肘までまくり上げて、安物のネクタイも取れ掛かっているという格好だ。もし親父が見たら、憤怒の表情をするだろう。


「腹減った…」


 その声に、やっぱりきたかと俺は足を止め、その男と目を合わせる。


「ちわっす」


「お、甘ったれ息子か。呼ばれたか」


 驚くでもなし、酔った感じもないのに、この人は素でどうしようもない。俺は、店の方を指さして、行ってもいいかと目で尋ねる。


「あぁん? まぁだ、ダメだろ! おい!山ちゃぁん! 息子!来たよ!」


 その大きな声で、一斉に、お仕事中の怖い人たちがこっちを振り返る。私服の人たちは、「あぁ、来たのね」という感じで、すぐに無視したが、作業着姿の若い検査官たちには、俺が、部外者にしか見えなかったようだ。


 この視線はいつものことだが、別に邪魔しようっていうんじゃない。仕事をしにきただけなんだと、内心思ったところで、伝わりはしない。


 海さんが欠伸をしながら、おそらく一服をしに暗い脇道へ逸れていくのを目で追っていると、光の方角から、山さんが腕をふり上げ、「待たせたね」という面持ちで、小さく手招きをしているのに気付く。ようやく、である。



「いやいや、また遅い時間にごめんね。今日も人手が足りなくてさ」


 山さんは、すらっと背が高い52歳の警部補さんだ。見た目が若いから、40代にしか見えない。


「それで、何?」


 入れてもらった店の中は、こじんまりと正方形の間取りで小さくはないはずだが、客ではない人間がこうも出はいりしていると、狭く見える。


 左の奥には四畳ほどの畳の上がり座敷、仕切りは無い。手前は、木の椅子とテーブル席が悠々3組並んで、右手がお勝手。昔ながらの、店主と対面式のカウンター席というやつだ。

 何を食べさせる店なのかと思いながら、薄黄色に汚れた壁のメニュー表を見ると、丼ものがメインで、酒の種類も多い。玉子酒、というのが目に入って、思わず喉が鳴る。


「証拠、ぜんぶ上がりましたけど。この人は?」


 仕事熱心で忠実、という感じの小柄な女性鑑識官が目の前に立ちふさがり、横目に俺を見上げながら、山さんに尋ねる。


「あぁ、彼ね。彼はお手伝いさん」


「は?」


 そのリアクションはもっともだ。じろじろと俺を上から下まで見回しても、もちろん信用できるような特徴は見つからないだろう。


 山さんは、逆に彼女の様子を満足げに見つつ、笑顔を浮かべて言う。


「この人はね、現場のお掃除に来たひと。店主のおじいちゃん、まだ奥にいるでしょ?」


「あ、あぁ。そうですね、たぶん」


 そう答えた彼女は、あまり関心のない様子で、カウンター席の後方の暖簾を振り返ると、またさっとこちらへ向き直って言った。


「お疲れ様です」


 彼女はそれ以上、俺のことを詮索するのをやめて、何かを任せることにしたらしい。


 山さんが、彼女から受け取った書類にサインをして返し、それが合図の様に写真班がごそごそと荷物をまとめはじめる。証拠類の入ったかばんは、彼女を先頭にした班が肩に担ぎ、最後まで胡散臭そうに俺を見ながら、店を出ていった。


 あと、残っているのは、写真撮影時に使ったテープや、薬品類をふき取る新人二人組で、一人は真新しい白衣のひょろっとした色白の男、もう一人は紺色の作業服を着た、小柄な眼鏡の男だった。なぜ、新人だとわかるかは、まぁ、見ていれば、と答えるほかない。


「高宮君、ちょっといい?」


 俺は頷き、二人から離れて、山さんと話すために壁際へ寄る。


「見たらわかると思うけど、激しい銃撃戦があって、二人は持ち帰ったんだけど。たぶん、もう一人いてね。弾は拾ったけど、半日は鑑識にかかるから用心に越したことは無いんで、店主の中本さん。どうやら逃げたのは中本さんの息子さんらしいんだけど、詳しいことは知らないって言い張るんでね。たぶん、君なら警戒心を解いてくれるんじゃないかって、そう思って。だから、ここの片づけは、まぁ、時間あったらでいいから」


 それだけ言うと、山さんはまた、いつもの穏やかな笑みを浮かべ、俺の肩をポンポンと叩く。

 そう、『もし唯一の目撃者である中本さんが撃たれそうになったら、庇ってやってね』と、それくらいの意味は、含んだ物言いだ。だけど、本当にその可能性が高ければ、嫌がっていても連れて帰るだろうから、それほどの危険性は無いか、ほかに何かあるのか。


「了解」


 俺が頷くと、店のカギだと言って渡された。それは一晩、この現場に付き合えということを意味した。


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