第9話 質疑応答

 4.


 神原君と話し始めた監督が、横目に指を指し、劇場へ降りていく階段を教えてくれた。俺が、その狭く昏い階段を、慣れた調子で駆け下りたとき、今いた所よりも、はるかに危険な場所に迷い込んだことに、気づいた。


 深紅のベルベット調の座席が、半円形の劇場を囲むように、整然と並んでいる。二階席こそないが、天井は遥か上方、ざっと数えて、500人は収容できる空間だ。立ち位置を確認しながら、打ち合わせ中の数名が立つ舞台にだけ、煌々と照明があたり、座席の前方だけが、その反射でぼんやりと明るい。俺は市橋さんの姿を探して、数人の女子と目を合わせたが違った。


 不審がられないように「市橋さんは?」と尋ねた、道具係らしき相手の男子学生は、首を傾げた後、くいっと顎をしゃくって、後方の暗がりを示した。


「さんきゅ」


 俺は若干の緊張を覚えつつ、上段にある後部座席の一角へ、足を向けた。


 * *


 小さな青白い光の正体は、彼女の手元の携帯から放たれている。忙しそうに動く指は、メールチェックだろうか。俺は軽く咳払いすると、二座席分、間をとって隣に腰を下ろした。


「あ、ピエロさんだ」


 そう言って、ブーツの足を組み替えた市橋さんは、俺に笑顔を向け、手元の携帯を置いた。


「ようこそ。学生の領域へ。迷いませんでした?」


「だいじょぶ。監督さんと話してたから、遅れたかもしれないけど。なに、いきなり脚本変えたんだって? 間に合うの本番? 俺も、すごい役貰ったみたいだけど、マジでやんのあれ」


 市橋さんの顔から笑顔が消え、顔を逸らしついでに、眼鏡をとると、暗がりでも分かるぱっちりとした二重ふたえの瞳が、僕を捉えた。弓形に整えられた細い眉が、物憂げにひそめられ、彼女は言った。


「逃げようったって、そうは行きません。世が世なら、鎖で繋いで、籠に入れておくこともできるでしょうけど、今の世の中、厳しいですからね。そんなことをしたら犯罪者だ」


 ふざけているのか、真剣なのか。ことさら冷めた口調で続ける。


「もしピエロさんが嫌なら、無理強いは出来ません。でも、すずちゃんは、『やれるところまでやろう』って言ってくれたし、常に新しいことをやろう、挑戦しようっていうのが、学生の本分ですからね。悪しからず、ってことで」


 そう言ってまた、彼女は眼鏡を掛け直し、携帯を取り上げた。俺は持ってきた台本を広げて、しばらく考えると、次の質問をぶつけた。



「で、主人公は、市橋さんがやるの?」


 敢えて試すように、俺はそう言い、彼女の反応を見つめた。彼女は遠目に舞台の方を見やって、手元の画面に視線を落とす。



「書き換えたら、もっと適任の女優がいたから、その人にお願いしました。だって、初の女性首相ですよ。『誰か一人じゃなく、みんなと結婚したい』って言っちゃう、豪胆な女ですよ。私じゃ、務まらないです。え、私だと思って期待しました? 残念でした。でも、ちょっとした役になら出ますから」


「ちなみに?」


 俺は手元の紙を繰って、探すふりをする。彼女は彼女で、何かの指示をラインで舞台の方に送っているようだった。


「主人公の兄嫁役です」


 そう答えた彼女の表情を、正面から見たいと思った。声が気のせいか、強張って聞こえたのだ。


「へぇ、なるほどね」


 

 俺の中で、市橋望という人間についての、分析が始まっていた。十中八九、彼女には兄がいる。兄弟愛をこじらせ、ブラコン気味か、既に何らかのトラブルを抱えている可能性もある。


 何を書くかは自由だ。ただ、その主人公に自分を投影している場合、そこと距離を置こうとするか否かで、その作者の向き合っている現実が、透けて見える。


 存在が脅威にも思えた『サロメ』こと、市橋さんにも、隠したい何かがある。その弱みを握ったことで、安心にも似た感情を得た俺だったが、そこで初めて、『市橋』という名字の男の、過去数人の顔が、記憶に呼び起こされた。その中で、彼女の兄くらいの年齢の男となると、現職警官だった男が一人残る。



「ね、お兄さんってさ」


 俺が、その男の最期を思い出していると、彼女が一席分、距離を縮めて、こう言った。


「もしかして "警察の人" とか、だったりする?」


 

 彼女の勘か、まさか無いとは思うが、俺の身分を知っていての


 そのどちらかで、俺は異様なほど迷った。いや、正確には、言い当てられて焦ったのだ。思わず口から、零れてはいけない秘密の幾つかが、飛び出しそうになる。


 そうして、急速に回転する思考の渦の中で、最悪な符号さえ、ちらついた。『市橋』という名前が呼び込む、とある仮定を必死で追い払い、目前の人物に、意識を引き戻す。


「なんで俺が警官? ピエログッズの店主だよ。無理無理、人種が違う」


 不自然な笑みが、暗がりで隠れればいいと思いつつ、俺は、彼女の眼をひたと見返した。市橋さんは、そんな俺の焦りを察したのか、手元の携帯を膝に置き、にんまりと笑みを浮かべて言った。



「嘘をつくときはね、、そう言うんだよ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る