第10話 リハーサル
まさかの正面からの切り込みに、俺は、まるで戦いを挑まれた剣闘士のように、興奮した。けれどそれは、あくまで例えであって、俺自身じゃない。立派な楯があっても構えるには貧弱で、剣をふるうにも、度胸が足りないだろう。あらためて自分は姑息な男なんだと、自覚する。
「―嘘つきの男は、嫌いかい?」
口をついて出たのは、読んだばかりのシナリオだ。主人公に出会ったばかりの男が、そう言って近付くのだ。市橋さんは、ついっと俺から目を逸らす。いかにも、"つまらない" と言った顔だ。だが俺が答えを避け、演技に入ったことには、気づいた様だ。それを証拠に、市橋さんはこう切り返した。
「―世の中には嘘ばかり。多勢に無勢で、真実を生きようとするものに冷たいのが、今の世の中。あなたは嘘つきでも、私に優しくしてくれますか? どれだけ嘘をつかれても、私は裏切ることを知りません。冷たくされても、温めることしか、知りません」
主人公は、不器用なほど、何もかもまっすぐに、事を成そうとする。その価値観、行動が人の目を惹いて、賛同者を得ていく様は、本当に気持ちのいいほど、清々しい。
市橋さんの台詞は、まるっきり棒読みだが、俺は構わず続ける。
「―まるで君は、正義の
まるで悪魔のようなセリフだ。こんな誘いであっても、拒絶したら、自分の感情に、嘘をつくことになる。
男と出逢ったのは、主人公が働き始めて一年目、周囲との違いに孤立し、ふらりと立ち寄ったバーの片隅だ。飲みつけないカクテルを注文したきり、ぼんやりとしていた彼女に声を掛けたのが、この男である。隣に腰かけ、あらかた彼女の胸の内を聞いた上での、やりとりだ。どう考えてもズルい。
俺はふと、我に返る。一つ空いた隣の席の市橋さんが、沈黙している。俺も黙っていると、まるで見知らぬ者同士のような緊張が、間に生まれる。いや、もしかしたら本当に緊張しているのは、俺だけなのかもしれない。
タイミングをはかったように携帯のバイブ音が鳴る。彼女の方だ。
「もしもし?」
市橋さんは立ち上がり、一番近くのドアから、外へ出ていく。やっぱり優雅な身のこなし、隙の無い後姿に、俺は、自分が置いて行かれたことを忘れて、見入った。
* * *
そもそも何故、女性の社会差別、狭義には、"処女性"の差別化を問題にするのに、シェイクスピアなのだろうか。俺は暗がりを利用して、考えに集中する。
『なんだって古典なんだ』
数百年も前に生きていた作家の作品、そのなかでの女性の描かれ方、そんなものを持ち出して、現代の女性論に物議を醸そうなんて、それ自体、現実的なんだろうか。
声無き女、とは言うが、別に女性の台詞が無い訳でもないのにと、俺はシェイクスピアの他作品の場面を、思い出す。いや、そういうレベルの話ではないのか。俺は記憶を探り、膨大なシェイクスピア論の書籍を漁った日のことを、思い起こした。
そう言えば、同専攻の女子も言っていた。『シェイクスピアは、きっと女が嫌い』なのだと。それは極論だと、教授が指摘したが、その女子率いる一派は、思えば、一連の講義が終わる春学期まで、その視点を諦めなかった。ちょうど、”フェミニスト” と言う言葉が流行っていた。極端な意見だろうと、未だ、男性優位の社会に抗する、という空気が、学生の間で強かったころだ。
つまりは男の目線で、男の価値観で、女を描いている。だから『声無き女と言うべきだ』と、いうことなのだろう。俺は欠伸をして、しぶしぶ肩をさすった。男の自分が、こんな分析をしているのも、おかしいかもしれない。
確かに今思えば、『ハムレット』のオフィーリアの扱いには、確かに疑問がある。『アントニーとクレオパトラ』にしても、恋や愛だのと、現代的な共感を呼ぶには、その表現様式が不相応だ。
けれど、ロマンティシズムに堕さない緊張、社会的束縛、因習、権力構造、それらが、獣ではない人間の性差として、隅々までその生活と性格にまで沁み込んでいる。その徹底ぶりが面白いのだとは、思っていた。
人間の理性、狡知こそが、他者の命運を左右している。それはオカルトめいた迷信ではなく真実だと、どの作品も云うのだ。
俺は、手元の台本を眺めた。
そもそも俺は、市橋さんを待っていていいのだろうか。彼女は戻って来るのか? 遠くの舞台では、照明が点いたり消えたり、舞台装置の確認をしている。
俺の役どころの意味は何だ? 主人公を誘惑し、彼女の在り方をいきおい否定しないまでも、変化の先にある"蜜"の存在をほのめかす。あるか無いか、分からないような希望をちらつかせる、総じて無責任な男だ。
女性と関係を持っても、子どもの父親になるような資質は、持ち合わせていない。定職についているのかさえ、あやしい。
女性からして、こんな男はどう見えるのだろうか。都合がいい男、という範疇で、それなりの魅力があると、言えなくもないのか。ただ、こんな男は、男の視点からすると、自力で生活できない ”ヒモ男”、”女に依存するロクデナシ”、と言うべきだ。
俺が小さなため息を吐くと、突然、背後に気配を感じて、振り返る。
「そんなに、面白いですか? それとも、あんまり自分のことのようだから、ビビっちゃった?」
市橋さんである。
気配が急すぎたが、彼女が入って来たドアは、まだ揺れている。目を射る様な照明も、同じくそこにあり、俺は自分の油断に舌打ちした。
彼女は俺の背後を回り、今度は反対側の席へ腰を下ろすと、頬に落ちた横髪を、さらりと耳にかける。暗闇に慣れ始めていた俺の目は、少し眩んで、彼女の顔をぼんやりと見せた。
戻ってきたのは彼女だけではない。続いてドアが開き、監督さんや、メインの役をつとめるだろう学生、そしてエキストラの皆さんが、ぞろぞろと、賑やかな調子で、入場してきたのだ。
「えーっと、これからちょっとしたオーディションと、リハーサルを同時にやりまーす」
監督さんがそう言うと、それぞれの台本を握りしめた学生、エキストラがしんとなり、緊張した面持ちで、舞台の方に、注意を向けた。
「今から呼ぶ人は、とりあえず舞台に上がって下さい。神原君、紅ちゃん、八木君、それから…」
ようやく視界がはっきりとしてきたところで、視線を戻す。すると、市橋さんが俺の反応を待つように、期待の瞳で見返している。俺は唇を噛み、何を言うべきか逡巡した。出てきた言葉は案の定、味気無い。
「もうちょっと俺、マシな人間のつもりなんだけど、そう見える?」
きっとそのとき、俺は救いを求める様な目をしていたに違いない。しかし容赦なく、市橋さんは言ってのけた。
「はい、見えます」
その答えに俺は、苦笑を浮かべる。彼女が、もう一つの疑いを忘れてくれるのなら、安いものだ。
「似合いの役をありがとう」
「どういたしまして」
市橋さんの澄ました横顔を見ながら、俺はこれ以上、印象が悪くなることを言うまいと誓った。何せ、これからしばらく会うことになる。やめるなら今しかないのに、私心の俺は、それを嫌がった。じゃあ、どうだっていうんだ。
「あ! 金髪のお兄さん!」
舞台の方から、息を弾ませてこちらへ階段を上って来る監督が、俺を呼ぶ。
「お名前、聞いてませんでしたね!」
「そういえば」
隣の市橋さんも、そうだった、という顔をして、俺の方を見る。偽名を使うか考えたが、逆にこの場で実名を名乗らないと危険だと気付いた。
「高宮。高宮
「高宮さんね。ちょっと来て下さい。セリフ合わせしたいので」
監督さんに呼ばれて立ち上がり、席の並び上、市橋さんの足を跨いで、前を通る。そのとき彼女は、小声で言ったのだ。
「やっぱりそうだ、お兄ちゃんと……」
その後の言葉は拾えなかったが、予想は付いた。彼女の秘密と、俺の秘密。そのどっちが重要かなんて、比べられるわけもない。だが今は、彼女が適切な判断をしてくれることを、祈るばかりだ。
だってそうだろう? こちら側に来ていいことなんて、何一つないのだから。
背中に彼女の視線を感じながら、俺は舞台へ降りたった。妙な汗が噴き出る。照明のせいか。
「はい、第二幕のはじまりからね。はい、スタート!」
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