幕間→道化達の小休憩 前半
高宮和利がその日の夕方、一人住まいのアパートを避けてタクシーを呼び、実家へ帰ったのには、いくつかの理由があった。一つには、異様な疲れから来る空腹に勝てなかったせい、二つには、父親への言付けを、押越正宗に頼むためだった。
押越は、高宮が幼い頃から、通いの家事手伝い兼、高宮の父親の仕事のサポートをしている人間である。高宮が就職し家を出てからは、ほぼ住み込みで働くようになっている。親戚の誰といって、顔を知らない高宮だったが、押越は歳の離れた兄のように気に掛けている存在である。
噂好きの同僚いわく、もとは警視庁の生え抜きであった人が、どういう事情で、高宮の家の家政夫におさまったのか。高宮が関心を持ったのは勿論だが、その理由は労せず、押越本人の口から、聞くことが出来た。
「人が死ぬのって、いろんな理由があるんだけど。人が人を殺すっていうことに、慣れたくなくてね」
二十歳の誕生日祝いに、いいワインを開け、世間話や、諸々積もる話を交わしていた時だ。主役の高宮は、酒気に乗じて、普段より悪ぶれた調子で笑い、その答えに質問を返した。
「でも、押越サンって、殺人課にいたんでしょ。仕事してて、何言ってんのーって感じじゃん? フザケンナって、言われなかった? それこそ先輩とかぁ、先輩とか、上の偉っそーな人たちとか?」
押越相手だと、途端にくだけた口調になる高宮である。めったなことを言っても、怒られないことを知っているからだ。内輪の話をしたところで、問題ない相手だからというのも、その気安さに拍車をかけた。
「働いてるときも言われなかった? 向いてないってさ」
十五は年上の男だが、何かと口煩い父親と違って温厚、柔軟な思考力を備えた人間であったから、こうして話をしていても、説教じみた物言いに晒されることも、年下だと云って、侮られることも無い。高宮が慕うのも、もっともである。
酒の席とはいえ、直截なことを言う”弟”を、押越はやや諦めたような顔をして見ると、こんな言葉を返した。
「世の中が "何でもあり" だなんていうのはさ、みんな知ってるんだ。だけど、それをどう受け止めるかは、それぞれの自由だと、僕は思ってるよ」
押越は、グラスのワインを、ぎりぎりまで傾けながら、話を続けた。ほんのりと目元が赤いが、それほど酔ってはいなかった。
「世の中が悲しいことばかりでも、笑う時間があっていい。誰かが酷い死に方をして、犯罪者が好き放題していても、それを知らず、自分がそんな目に合うことはないだろうと、思っていてもいい。
生きていることが当たり前で、希望を持って生きることが正しいと、ただ漠然と信じていることが『罪』だと言う人間には、なりたくなかった」
高宮は、つまみのピーナッツを並べながら、その白い皿を見つめて言った。
「それってさ、マサさんさ。別に優しくないよね。むしろ、残酷だよね」
押越は、ふと、グラスにワインを継ぎ足す手を留め、やんわりと笑みを浮かべた。
「だって、民間人に必要なのは、決して特別ではないけれど安らかな幸福と、それに見合うだけの小さな自己責任であって、警察の庇護下に置かれる事じゃないだろ。それに警察だって、ひとりひとりは人間だ。
世の中の好ましくないものを知る、特別な人間なんかじゃない。加えて、汚いものに染まっているのが当然、でもない。僕の言いたいことはわかるだろ? だからここにいるんだよ、和君」
押越の言ったことを、そのときの高宮が、すべて理解できたとは思えない。しかし、それまでぼんやりとだが、確実に感じていた押越の内心の空虚が、言葉として認識された瞬間だった。
霧がかった暗闇の中を走るように、それは部分的なものというより、あらゆるものの見方の上に敷衍される、"絶望" という名の、広大な裾野の一端だった。
子どものころから押越は、高宮にとって、傍にいない父親代わり、年齢でいえば、兄のような人間だった。何気ない会話のやり取りを繰り返し、食事や、日々の生活の世話をしてくれる人間が見ているものを、高宮は同じように見つめた。その視線の先にある暗がりに、これからの生活も仕事も、すべてが含まれているような安堵さえ覚えたのだ。
何一つ異様で、新しいことなど無い。頼りとすべき相手は、昔も今も変わらず、ずっと自分の傍にいてくれるという、充溢である。
「わかったよ。マサさん」
* * *
高宮が鉄柵の門戸を開くと、庭先に出ていた押越に迎えられた。薄暗がりの中に立つ押越は、こんな時間に花の植え替えでもしていたのだろうか。土の付いた軍手を外しながら、「おかえり」と、高宮に笑いかける。
「ただいま」
軽く首を傾げるように、高宮も微笑み返して、挨拶を交わす。
押越が家の扉を開け、高宮もその後に付いて入る。一人暮らしのアパートとは違う、人の気配に満ちた実家は、久しぶりだった。
「今日の晩は、白菜と豚肉を炊いたのがメインね。それからイワシの梅煮に、モヤシのナムルも作り置きであるし。ついでに辛めの日本酒で、つまみはどうしよっかな。生キャラメルとかにしようか」
室内履きで、フローリングの上をすいすいと歩く押越が、主夫さながら今晩の予定を確認する。高宮はというと、履き慣れないものを選んだせいか、一歩進んでは、足から脱げるスリッパと格闘していた。
「いいよ、それで。でも、つまみだけは遠慮する」
ようやく爪先に言うことを聞かせ、自然な歩幅を獲得すると、高宮は、それだけで一仕事終えたような、達成感を得た。
この実家には、いまどき珍しいことだが、食事をとるためだけの、大き目な別室がある。キッチンとつながっていないので、わざわざ廊下を往復して、配膳をしなくてはならない。しかして、窓の無い洋間だ。高い天井からは、小ぶりだがシャンデリアが下がっているし、壁が、絹織りの葡萄色なのも、くつろいだ雰囲気を求めたものというより、高宮父の貴族趣味の結果と言えた。
そのせいか、ここに招かれた客はみな、終始、取り澄ました顔をして食事をするのだ。それを、ドアの隙間からそっと覗き見るのが、子どもの高宮には最高に面白かった。
空調のスイッチを入れ、その部屋の赤茶けた照明の中、椅子を静かに引いて、腰を下ろす。今では自分がその御客のひとりだ。高宮はそわそわとして、押越を待った。
「じゃあ、とりあえずお冷と、おしぼりね」
開け放した扉から、グラスを載せたお盆を持ち、エプロン姿の押越が入って来る。まるで、高級レストランの店員のような笑みを浮かべ、高宮の前に水を置いた。温かなおしぼりは手渡しだ。
「ありがと」
「いいえ、どうも」
高宮は、じっくりと手の平を拭いながら、ぼんやりと今日一日のことを思い出す。
最高にスリリングで、自分の迂闊さに汗をかいた一日。けれどもこんなに充実した日は他に無いだろうと思うほど、楽しかった。そう思えば、自然と鼻歌まで出てきて、気分はますます高揚してくる。空腹なのはそのまま、高宮は押越の手伝いに向かった。
キッチンでは、鍋の具合を見つつ、押越が冷蔵庫を開け閉めして、おかずや調味料の類を、配膳用の押し車に載せていた。
ふらりとやってきた高宮に気付くと、無言で酒瓶の納まった戸棚を指さし、『あれですか』と、尋ねるような表情を浮かべた。高宮は首を振りつつ腹をさすると、食事用の小皿と、まだ出ていない深めの大皿を棚から下ろす。
「ねぇマサさんさ、市橋っていう名字の警官、おぼえてる?」
そう訊かれた押越は、鍋に浮かんだ灰汁をぐるりと掬い、『あぁ』と思い出して、こう言った。
「あの、自殺した子でしょ。支給品なんか使うから、他に政治的な信条でもあったのかと思ったけど、別に、そういうことでもなかった、っていう。今頃どうしたの。家族にでも会った?」
高宮は、配膳車の取っ手を握り、ひどく嬉しそうに、それを廊下へ押し出しながら、返事をする。
「会った会った。たぶん、妹だと思うんだ。俺のこと、兄貴と同じ警察か? なんて言うもんだから、冷や汗かいた。あ、後は食べながら話すよ」
押越は、今日の訪問の意味をはかりながら、小さく頷いた。
「うん、わかった」
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