第2話 「わたし」と「俺」と
俺は、もしかしたら、かなり良い女を客に選んだのかもしれなかった。
見た目は知的な女子大生で、履いているのは、かなり好いブーツだし、椅子に座るときのほんのわずかな仕草の違いで、「品」のようなものもある。
縁の厚い眼鏡は流行のもので、髪の光沢とボブカットの毛先のまとまり具合も、ちょうどいい。
背筋はしゃんとしていて、高校の部活程度に運動をやっていたようにもみえる。かわいらしいというより、腰回りから、足首にかけてくっきりと見える体のラインは、間違いなく目を惹いて、中心に芯の通った固さを感じるのは、どこか、世間慣れした女だなという認識に結びつく。
俺は、顔を洗った後、髪をしばり、客にポップコーンの皿と、ダージリンティーのセットを供して、向かいの椅子に座った。
近すぎる丸テーブルが作り出す対面構造。俺は、身体を自然とそらせて、客の話を待った。
ブラックコーヒーを片手に、軽くかいた汗を拭いながら。
「お兄さんは」
客は、やや俺との距離を縮めようとしている模様だ。
「お兄さんは、どんなものがお好きですか」
そう言って、客はじっと俺を見つめた。
はっきりしない問いだ。それに、「もの」って何だ。
女が何を知りたいかということを、俺が察しろといわんばかりの、漠然とした空気。しかし、嫌では無い。むしろ俺は、これくらいの難しい会話の方が好きだ。
「で、俺は、それにわざわざ答えなくちゃいけないような、そんな貧相な顔だったかな?」
俺はじっと客を見つめた。
たしかに、いまやりとりすべきは、言葉では無く、むしろ互いの眼の奥で、相手の機先を制することだ。客はふうっと一息つくと、ティーカップに手をのばして、一口すする。思わず、磁器に不似合いな色の爪に、目が行く。こいつはそもそも、何をしている女なのだろう。
女の爪は、常に口より雄弁だ。
社会人ならその職種と、個人のポテンシャルくらいは見通せるし、学生なら、男の趣味や簡単な性格判断位は出来る。客が学生なのは分かっている。じゃあ、今見えている情報から判断できることはいったい何だ? 客は再び目をあげ、俺に問いかける。
「古典劇、そう、シェイクスピアはお好きですか?」
女が、馬鹿な俺にもはっきりと分かるように、わざと多めに瞬きをして答えを促す。厄介な問いだ。
「古典? なに、古典やるの?」
客はうんともスンとも言わず、今度はポップコーンに手をのばす。敢えて言うと、触ればかなりべたつく代物だ。
「まぁ、読んだよ、君くらいの時に大体。で、なに?」
女は、予想通り、キャラメルで光る自分の指先の処遇に困って、また、手をのばして、ポップコーンを手に取る。
「シェイクスピアって、イギリス人ですけれど、イギリス的って、そもそもどういう性質だと思います? 藪から棒みたいですけど」
たしかに藪から棒だ。演劇の話じゃないのか。
「まぁ、歴史上、帝国を築いたし帝国主義的な?それとも極端に植民地主義とか、あとは日本と同じで島国根性的な、閉鎖性とか、保守的とか言うの? 二大政党制の国だし、まぁ、労働者の権利とかなんとかっていうのは、そもそもあの国発祥だろ。それがどうだって?」
客は、少し驚いたように眼を丸くしていた。まぁ、これで「馬鹿な男」の方向性は無しになったと言う訳だ。
「お兄さん、博学~。でも、ちょっと違うんです。私が言いたいのはもっと、内面的な、精神的なと言うか」
女は、思わしげに髪をかきあげ、話し出す。
「あの国の人達って、自分たちが<差別的>であることに、開き直っているところがあって、あぁ、もちろん、これは私個人の意見ですよ、でも、それはヨーロッパのどこも、今更敢えて指摘しないほど、イギリスがイギリスである理由だと思うんですね」
そう言って、手に持っていたポップコーンを口に放り込みざま、すかさず指をなめる。もちろん、それで話が終わったわけではない。
「それは、階級社会の経験というか、王様がいる国ですから、同じ国民でも区別があってというのも、それに正当性を持たせているわけですが、これだけ国際社会云々という時代でも、露骨に<人種差別>がひどい。
あぁでも、勘違いしないでくださいね。そんな国、他にもごまんとありますし、それが悪いとか、そういうことではなく、私は、彼らの<開き直っている様>がいいな、と思う人間なんです。変わっているでしょ」
女は一息ついて、紅茶を一口すする。
「だって、そういう自覚って、決して普遍的ではない。差別的であること自体は、道義的によく批判されますが、競争を前提とする経済社会に生き、為政者の腐敗を憎んで、より良き議会と政治を望む。怠け者や犯罪者を、そうでないものと区別することで、多くの良き市民に快適な生活を保障する必要は、毎時間、生じている。
いったいそれら一切合財のどこに、一貫した公正さと正義があるでしょうか? 簡単な例を採れば、法学と政治学と「経済学」の目指すところが、最終的に食い違うのは、何故ですか。
「区別と差別」なんて、つづる文字の違いしか、本当の違いなんて無いんですよ。いや、仮に絶対的な違いが真に存在したとして、人間がそれを知り、維持できる完全な術などありますか? もし、それができるのなら、私たちはもうすでに、今の私たちでは無いでしょう。
だからできるのは、自覚だけ。自分たちは差別的であると、そのように既に生きている自身を見ることだけ。そうしてようやく、次の段階に進める」
俺は気付くと、女の話に聴き入っていた。なんだこの女。
「麗しくない自己像に対して次に人間が為すのは、冷めた自己分析か、拒絶というべきでしょう。言い換えて乖離現象、狂気か、皮肉という名の包摂、もしくは捻じれた自己愛(ナルシス)か。シェイクスピアは、この段階に観客を容易に落とし込むんです。それが最大の魅力だと私は考えます」
言い終えた女は、ひとり納得したように紅茶のお代わりを求めた。俺は、コーヒーを出そうかと提案し、女は軽く頷いた。俺はポップコーンをワシワシと噛んで飲み込み、その甘さに顔をしかめて見せる。
「嫌いなものを幾ら作ったって、余計嫌いにはならないな」
コーヒーで後味を消し、ようやく俺は話し始める。
「俺はシェイクスピアの描く道化こそ、本物の道化だと思う、彼以上に、道化を崇高なものと考えている作家は、古今東西いまだ存在しないんじゃないか」
そう言いだして俺は、自分の喉が思わず興奮に上ずるのを感じた。額の上で、概念が言葉という光の形式をとって、スパークしていく。その細かな連鎖を、自意識はただ眺めるように、唇が応える。
「道化は、読者と物語世界の登場人物との間に立って、両者を笑う立場を得る。彼はいわば、人間の持つ『私は他者とは違う。私は貴方では無く、私である』という根源的な自意識の純粋な形式だ。だが、その形式自体が、もとい矛盾を孕んでいる。
なぜなら、こんな純粋な自意識ほど、“純粋では無い”ものはないだろう? シェイクスピアは、呪いや幽霊や、悲劇を得意とする。
それらが人間に作用する場面とは、まさに、人間が己の意識で己の命、ひいてはこの瞬間の意識さえ自由に出来ないことを、実感させられる場面だ。最も望ましくない結果に、ずるずるとまるで引きずり込まれるように、誘われていくという現象。そう、だから道化は、そこに居なくてはならないんだ。
彼は、他人事として登場人物を嘲り、読者を、観客を、彼等の無知によって笑う。
ここにあるコレクションのどれを見ても、彼は泣いているような化粧をしているが、彼の作中の機能を、矛盾という名の、人間の本質的な自己解体的性質、もしくは定めというべきか、悲劇的性質というか、そういうものを示していると思う。
この店は、親父の店だけど、俺も好きでやってる。演劇も、君が何かで関わるっていうなら、存外面白いかもしれない。君は、ほんとはどこまで関わってる?」
客の目を見ながら話していたつもりだが、最後の方では熱中していて、今、目の前の彼女に見える、いわく言い難い太陽フレアのようなものに、たじろぐ。
「私も、友人に誘われて、キャストの人員を確保する役割くらいで、終わるかと思ってました。けど、お兄さんが、何か助けてくれるなら、私も出ようかな」
彼女はそう言って、片手で器用に鞄からウエットティッシュを取り出し、指先を丁寧に拭った。きらきらと透明な指先が、照明に反射する。
消毒液の鼻を刺す匂いと、コーヒーの芳香、キャラメルの少し冷めた温度で舌に残った甘さとが、ぐるぐると脳裏をめぐって、答えを出そうとする。
彼女が席を立ち、差し出したメモの、小さく畳まれた純白を見たとき、俺は彼女の正体をようやく見出した。
彼女は女子大生の姿をした「サロメ」なのだと。
「サンキュ、でもいまどき、紙のメモ?」
メモを開けると、演劇の練習場所らしい簡単な地図と日時、おそらく彼女のものであろう携帯の番号が、ひどくきれいな字で記されてあった。
「秘密めいていて、いいでしょう? 捨ててしまえば、無かったことになる。携帯に登録するかどうかも、お兄さんが決めること」
はっきりとした言葉の響き。さぞ、舞台映えするだろう。それにつんと胸をそらして、立ち上がるときの、悠然とした身のこなしときたら、どこの王女殿下だろうか。
そんな彼女の、しなやかに歩き去る後ろ姿を、俺は名残惜しく、見送った。
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