13 この時間が続けば
左手から彼女の温もりが伝わってくる。
静かに佇む夜の住宅街を歩く僕らはまるで、迷子になった小さな子どものようで……いや、実際そうなのかもしれない。
「私ね……」
ふいに、久森が話し出す。透き通るような優しい声音で。
「最初の頃から、あなたが話しかけてくれるだけで嬉しかったの。私の不躾な物言いに屈せず話してくれるあなたを、好ましく思っていたわ」
最初から……。そっか。図書室で会話するとき、彼女の機嫌がなぜかよかったのはそういう理由があったのか。
「それは……僕も嬉しい。でも久森。それなら、最初から人当たりを普通にすればよかったんじゃないか? この前僕が言ったように、君と友達になりたい人はたくさんいるんだから」
「そうね……中学生のときね、私に関する根も葉もない噂がいろいろ流れ始めたの。クラスメートたちは簡単にそれを信じ込んで、急によそよそしくなった。私に嫌がらせしてくる子もいたわ。そのとき思ったのよ。こんな人たちばかりなら、友達なんていらないって」
そうだったのか。実際うちの高校でも、入学直後に同じような流れで孤立していく彼女を僕は見てきた。だから彼女は、最初から人を寄せ付けないような性格になっていたんだ。
確かに、彼女の人当たりの悪さが数々の噂を産み出した。でも、そんな彼女を形作ったのもまた噂だったのだ。
「けれどあなたの言った通り、話しかけてくれる女の子も増えてきたことだし……友達を増やす努力、してみようかしら」
「それがいいよ。……あ、でも」
とんでもないことに思い当たる。
「どうしたの?」
「君を独占できなくなるのは……嫌だなぁ、なんて」
「ぷっ……あははっ」
楽しそうに笑うなぁ。できればずっと笑っていてほしい。
「かわいいこと言ってくれるわね。安心しなさい。優先順位はあなたが一番にしておくから」
「……それはどうも。なんか悔しいな」
久森が笑っている。もうそれだけでいい気がした。その笑顔さえあれば、この先にあるどんな困難だってきっと乗り越えられる。
だから僕は……久森を守る。
「ただいまー」
玄関でリビングに向かって声をかける。すると、どたばたと落ち着きなく走ってくる音がした。
ドアが開き、顔を出した母さんは目を輝かせている。
「あーらぁ……まあまあ」
「こ、こんばんは。はじめまして。久森といいます」
久森はらしくなく緊張した面持ちだ。
「こんばんは~、まゆきの母です! ……まーかわいらしい子を連れて来ちゃってまあ本当にこの子はねぇ!」
テ、テンションが高過ぎる。
「とりあえず上がって! もうすぐごはんできるからね」
「あ、て、手伝います」
慌てて靴を脱ごうとする久森を、母さんは制止する。
「いいからいいから。座ってて!」
そう言って、またどたばたと戻っていった。
「優しそうなお母さんね」
微笑む久森に、僕は苦笑を返す。
「まあ、僕が女の子を連れてきたの、初めてだからね……さ、上がって」
キッチンのほうからいい香りがする。今日はカレーか……。
僕らはリビングのソファに並んで腰掛け、どちらからともなく肩を寄せ合った。なんだか……やっと安心できたような気がする。交渉はこれからだけど。
「そういえばあなたの名前、まゆきだったわね」
「うん」
「私もそう呼んでいい?」
「い、いいけど……じゃあ、僕も緋奈って呼んでいいかな」
「うん。そのほうが私も嬉しいわ」
二人して、わざとらしく咳払いをする。これでまた、関係が一歩進むような気がした。久森のほうに視線を向けると、彼女も僕の顔を見ていた。潤んだ瞳、赤らんだ頬。視線が交わる。
……恥ずかしい。
「ひ……ひ……緋奈」
「……まゆきくん」
うわあ……。なんだろうこれ。彼女の温もりが、暖かな気持ちが……胸いっぱいに広がる。大変な状況なのに、こんな幸せを感じていいのだろうか。
ふと、熱く鋭い視線を感じた。見ると、眩しいほどに目を燃やした母さんがキッチンから顔を覗かせていた。
「お似合いよ! ぐへへ」
そしてサムズアップ。ぐへへってなんだよ……。
僕は呆れていたのだけど、一方の緋奈は、
「ありがとうございます……」
と、顔を真っ赤にしながら消え入りそうな声で言った。かわいい。
しばらくすると、母さんがにやにやしながらカレーを運んできた。
「まゆき、あんたさっき電話でまだ付き合ってないって言ってたけど……」
「それはその、切ったあとにさ……」
「あらまあ、そうなの。ホントかーわいい子を捕まえちゃって!」
「そ、そんなことないです……」
え。緋奈が自身の美貌について謙遜した……!? まさかそんなことがあるとは。我が母ながら恐ろしい。でも、照れてる緋奈もかわいい。
配膳が終わると、母さんは僕たちの向かいに座る。
「さ、食べて食べて。お話はそれからね」
「ありがとうございます。いただきます」
「いただきます」
母さんも料理は得意だけど、緋奈もそうだ。果たして口に合うか。そんなことを考えながら緋奈の一口目を観察してみる。でも……。
緋奈が、スプーンを置く。
「……っ……」
「緋奈?」
──緋奈は泣いていた。涙が静かに、けれど止めどなく溢れ、彼女のスカートを濡らす。
「ごめんなさい……カレーが、すごく暖かくて……私が作ったカレーを、お父さんが……おいしいって言ってくれたのを思い出したの……」
その瞬間、僕は緋奈の肩を抱き寄せていた。
緋奈が理人さんをとても大事に思っているのは、十分にわかっている。理人さんもきっと、今日までは……緋奈に優しかったんじゃないだろうか。理人さんの言葉を鵜呑みにするわけじゃないけれど、あの家庭を壊したのは確かに僕なのだろう。今、親子を繋いでいるのは世間体しかないのだ。
彼女の悲しみを全て肩代わりしたかった。彼女はなにも悪くないのだから。なにか僕にできることは……。
「緋奈。僕になにができるかわからないけど……せめて今は、好きなだけ泣いてくれ……」
僕らは目を瞑り、全身で眠るようにくっついていた。
ぼーっとしていたらいつのまにか、緋奈は泣き止んでいた。しかもどうやら──本当に眠ってしまったらしい。無理もない。今日はいろいろありすぎた。
「ごめん、母さ……あれ?」
こちらもいつのまにか。テーブルの上は綺麗に片付けられていた。
「あ、お先に頂いたわよ」
母さんは向かいのソファに座ったまま、読書をしていた。
「なーんか深い事情がありそうね」
「まあね……もう家には帰れそうにないんだ」
「いつまで?」
「わからない。ずっとかもしれない」
「あらら……」
僕の胸元で眠る緋奈は、穏やかで涼しげな表情をしている。かわいい。この表情が曇ることのないようにしたい……。
「だから、姉さんの部屋を使わせて欲しいんだ」
「うーん……まあ、とりあえず今夜は泊まっていっていいけど。あとのことは父さんとも話さないとね。明日金曜日だし、明日話し合いでいい?」
「うん」
「おし、じゃあ母さんは寝ちゃおっかなあ。緋奈ちゃんが起きたら、カレー温めて食べなさい」
「うん、ありがとう、母さん」
んじゃおやすみ~、とひらひら手を降って、母さんは部屋を出ていった。
お腹が空いた。でもこの状況を捨てたくないな……緋奈がかわいいし……うん。かわいいもんな……。もう少し寝かせておこう。
数分後、目を覚ました緋奈と共にカレーを食べた僕は、彼女を姉さんの部屋に案内したわけだが……問題はそのあとだった。
姉さんの部屋で二人っきりであることを意識してドキドキしたり、風呂上がりの緋奈にドキドキしたり、緋奈のかわいさにひたすらドキドキして……悶々としながら一夜を過ごした。
そして、ようやく眠れたと思ったら。
「まゆきくん……起きなさい、まゆきくん」
起きずにはいられない、その優しげな声。目を開けると、目と鼻の先で緋奈が笑っていた。
「おはよう」
声が重なった。それだけでもなんだか照れ臭い。
「眠れなかったの? クマができてるわ」
「君のせいだよ……」
「え? ……あ」
緋奈の頬がほのかに赤らむ。
「緋奈ってさ……本当にかわいいよね」
ぼーっとしたままそう言うと、緋奈の顔が、今度は耳まで真っ赤になった。
「──バカ」
僕にデコピンしてから、緋奈は立ち上がる。
「速く起きてきてね。もうすぐごはんできるから」
そう言って、足早に僕の部屋を出ていった。
なんかもう……なんかもう……いいなぁ。
「おはようー」
リビングに入ると、ソファに座って新聞を読んでいた父さんと目が合った。緋奈はキッチンのほうで母さんを手伝っているようだ。
「おはよう。まゆき、久森さんのこと聞いたぞ」
「……うん」
「彼女をこの家に住まわせたいというのは、本気なのか?」
「本気だよ」
「……そうか」
「できたわよー」
緋奈と母さんが目玉焼きやらサラダやら、朝食のおかずを持ってきた。
「もー母さん感動しちゃったわよ。緋奈ちゃんすっごく要領よくてね。嫁に来て欲しいくらいだわ。どう、緋奈ちゃん?」
「え、その……それは是非……」
なんだか緋奈がすごいことを口走っている。また顔が真っ赤だ。最近赤面している緋奈を何度も見ている気がする。
「どう、お父さん」
なぜか父さんに話を振る母さん。緊張感が走り、僕と緋奈は一様に固まる。
一方、父さんはコーヒー片手にリラックスしているようだ。
「……そうだな。どう考えてもまゆきより料理が上手い。話を聞く限りでは気立てもいいし、まゆきとの相性もよさそうだ」
──そして。そのままのテンションで、父さんはいい意味で僕らに止めを刺した。
「父さんとしては、住んでもらって全然構わない」
「……え!?」
僕らの驚愕がシンクロする。話し合いもまだなのに、本気なのか!?
「久森さんの生活費は、君のお父さんが出してくれるんだったね」
「は、はい。父の言葉が本当なら、大体賄えると思います」
「ならいいんじゃないか。少し早いが結婚したようなものだと思えば。ああ、振り込まれたらいくらだったか一応言ってくれ」
……。いいのか……?
こうして父さんの鶴の一声によって、緋奈はうちで暮らすことになったのだった。
ちなみに。母さんは楽し過ぎたのか、すでに弁当を二人分作っていた。
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