7 不納得、不快感

 休日を終え、翌週の月曜日。

 本日も久森は欠席。もしかすると本当に大きなショックを受けているのだろうか。だとすれば彼女の嫌疑は薄くなるのだけれど……。

 胸がざわつく。彼女に犯人であってほしいのかそうでないのか、いまいち確証が持てなかった。

 それでもわざわざ彼女がいないのだと実感するために図書室へ来てしまうあたり、僕は救いようがなかった。全く、納得がいかない。

 僕はあくまで魅力的な非日常を求めているのであって、他人と深く関わるなんて面倒だし気怠いから嫌いだ。だから、なるべく他人と自分との境界を保ったままで生きてきた。

 そんな僕が──。


「おまえ、やっぱり久森のこと考えてるだろ?」


 長机の向かいの席に腰掛ける星野がそんなことを言う。

 ──そんな僕が、たった一人の女を気にかけるなんて。納得できるわけもない。

 星野は珍しく参考書とノートを机に広げている。一方、僕は片肘を立てて、行儀悪くそこへ顎を乗せていた。


「どうしてそう思うのさ」

「勘」


 君もそれか。


「なんか『なんだそりゃ』って言いたそうだけど、そんなあからさまに退屈そうな顔してるくせして、まさか誤魔化せるとは思ってないよな?」


 ……そんな顔をしているのか。

 思わず顔に手をやると、星野は意地悪そうな笑みを浮かべた。


「なんだかんだ言っても、ずっと一緒にいたんだもんな。退屈って思って当たり前だ」

「ずっと、ね。たった二週間だけど」

「期間はそれだけでも、毎日二人だけの時間を過ごしてたんだろ?」


 この二週間を回想してみる。『毎日二人だけの時間を過ごした』、という星野の言葉は確かにその通りだが、それだと激しく誤解されそうな言い方である。


「言っておくけど、君が思ってるほど僕らは親しい間柄ではないよ」

「嫌味にしか聞こえねぇ。俺を含めた久森のファンを敵に回してんだぞ、おまえは」

「だから、それは君たちのせいだろ」

「ここまで仲良くなるのは想定外だったんだよ」


 そう言い、星野は溜息をついた。

 神崎さんも言っていたけど、どうして僕が彼女と親しいことになっているんだ。


「仲がいい? なにを言ってるのさ。少なくとも僕は彼女自身には好意を向けていないし、彼女からもそれを感じない」

「そうかよ……ある意味、お似合いだと思うけどな、俺は」


 意味が分からない。僕らのどこが似合っているというのだ。


「どういうことさ」


 星野は参考書に視線を落としたまま、真面目な表情で答える。


「おまえと久森ってさ、似てるところあるじゃん。他人に関わることに消極的で、斜に構えてる。二人ともよく皮肉を言うし、本心を明かすことも中々しない。それに──」

「……」

「──顔も結構似てる。特に目元とかな」


 なんだそれは。考えたこともなかった。

 しかし顔のことはともかく、星野が僕や久森のことを的確に評価していることには素直に驚いた。てっきり久森のことは、別次元の存在として捉えているのかと思っていた。


「意外だって言いたそうだな。俺だっておまえとは長い付き合いだし、久森とは去年も同じクラスだったからな」

「なるほどね……」


 星野は昔から、妙に鋭いところがある。そういえば小学校に入学した頃、すでに捻くれて他人と馴染めずにいた僕の内心を、会ったばかりの星野に即座に見抜かれたことには度肝を抜かれた。『よく分からないけど、楽しければいいんだよね』と──そう言いながら、僕の手を取り駆け出した星野一成。そうして、僕をみんながいる明るい場所へ連れ出した。

 僕がひとりぼっちにならなかったのは、間違いなく星野のおかげだ。彼がいたから、今の僕がある──それは否定できないことだと改めて気づいた。

 ……星野は、僕のことをどう思っているのだろう。

 星野が参考書のページを捲り、ノートに文字を書き込んでいく音だけが、耳に流れ込む。


「君が自主的に勉強してるの、初めて見たよ」

「そうか?」


 科目は数学。参考書は教科書よりもかなり分厚く、内容は見てもさっぱりだ。どうも高校で習う内容ではない気がする。どう見ても、星野らしさの欠片も感じられない。


「なんでそんなの勉強してるのさ」

「桜と同じ大学に行きたいんだよ。高校レベルのはだいたい覚えたから、今のうちに知識を蓄えておきたくてさ」

「桜……? ああ、蔵前桜?」


 その途端に、星野がシャーペンを床に落とした。それを慌てて拾う星野。


「今のナシ。忘れてくれ」


 そう言われると尚更気になる。普段は名字で読んでいるのに、ふいに名前で呼んだ。さらに同じ大学を目指している。そして忘れてくれと……。

 ──まさか。


「星野、もしかして君と蔵前って仲がいいのか?」

「……まあな。誰にも言うなよ」


 決まりが悪そうに、頷く。意外だった。

 教室では……ひいては人前では、二人は犬猿の仲だ。久森のファン筆頭と、反対派筆頭。その二人が同じ大学を目指すほどの仲とは、誰も想像できないだろう。

 他人に聞こえないよう声を潜め、星野は続ける。忘れてくれと言ったくせに……。


「仲がいいというかその……俺たち、まあ、彼氏彼女の関係と言うか……」

「うわあ、それは確かに隠しておくべきだね」


 バレたら面倒なことになりそうだ。僕だって信じられないのだから、どちらかの派閥の人間に知られると大混乱は必至。


「それでな、同じ大学に行こうって約束してさ。もちろん、それだけじゃなくて将来のことも考えて、そう決めたんだ」

「ふぅん……健闘を祈るよ」


 視線を星野から逸らし、窓際の席へ移す。本来ならば、いつも久森がいるはずの場所。

 今現在どうしようもなく暇なのは、彼女がいないせいだ。それだけで景色に穴が開いているような、こんなにも退屈な気分になるとは。こんな感情も初めてで、彼女は僕にとって、本当に面白い存在らしかった。

 一方で久森は僕のことをどう考えているのか、と思い立つ。お出かけとやらに誘われたからって好意を持たれていると素直に解釈するのは危険だ。僕に興味があると言われたこともあったような気がするが……わからない。

 僕はまだ久森のことをほとんど知らないのだ。

 と、そのとき、傍らから女生徒の声がした。


「あ、いっせ……星野に、九堂」


 振り向くと、蔵前がカバー付きの文庫本を手にして立っていた。


「よう、桜」


 星野が名を呼んだ途端に、蔵前は顔を真っ赤にする。


「ちょっ、名前は二人のときだけだって言ったじゃんっ」

「でも九堂にはバレちったぞ」


 ぎらり、と蔵前が僕を睨む。


「言いふらす気はないから安心しなよ」

「む……なら、いいけど」


 溜息をついてから、蔵前は文庫本を星野に差し出した。


「はいこれ。面白かったよ、ありがと」

「そりゃ良かった。驚いたろ、あそこであいつが裏切るなんてさ」


 二人は本をぱらぱらと捲りながら、感想を言い合っている。普段教室でぶつかっているのと同一人物とは思えないほどぴったり似合っていて微笑ましい。


「二人はいつから付き合ってるの?」

「中学のときかな」


 頬を紅くした蔵前の答えはまたしても意外だった。僕は中学も星野と同じだったけれど、蔵前の存在には全く気づけなかったのだ。


「あたしのほうから告白したんだよね。けど、高校に上がってから一成が久森に夢中になっちゃって……だから、あたしが普段言ってる久森への文句には、嫉妬も紛れてるんだ」

「俺はそんなつもりはなかった。でも、そのせいで喧嘩して疎遠になってさ。縒りを戻したのは去年のクリスマス。必死の説得が功を成したわけだ」

「初耳だね。全然知らなかったよ」

「隠してたからな」


 やはり星野という男は侮れない。改めてそう思う。


「あ、そうそう。桜、今度のデートの話──」

「ま、またあとでねっ!」


 耳まで真っ赤にして、蔵前は早足で図書室を出て行った。借りた物を返しに来ただけだったようだ。星野は蔵前が消えていった図書室の出入り口をしばらく見つめてから、参考書に視線を戻した。そして、頬を緩めながら呟く。


「あんなに照れなくてもいいのになぁ」

「逃げ出したくもなるだろう。僕が言うのもなんだけど、デートの話し合いは二人きりのときにしなよ」

「そっか。後で謝っとく。それにしても桜、かわいいよなぁ。おまえもそう思わないか?」

「まあ否定はしない。どうでもいいけど、君、久森に夢中じゃなかった?」


 そう言うと、星野は即座に首を横に振った。


「言っただろ、久森はアイドルか泥棒か、なんだ。手が届かないからこそアイドル。近づいてはいけないからこそ泥棒。だから、久森に対する『好き』と桜に対する『好き』は全っ然違うものなんだよ」

「なるほどね……」


 恋と愛の違いとか、好いているのと愛しているということの違いとか……そういう類か。僕にはよく分からないけれど。

 でも、流行っている芸能人やアイドルのファンたちだって、その感情が心からの、あるいは異性としての愛だとは限らない。それと同じようなものかもしれないな。

 真面目に語る星野は、今まで僕が見てきた彼とは違う顔を見せていた。将来の道を見据えて努力し、学生らしく恋をして。それが、ひたすらに日常から脱却しようとする僕とは違って充実してるように見え、初めて彼が羨ましいと感じた。

 壁に掛けられた時計を見ると、昼休みはあと六分となっていた。もうすぐ予鈴が鳴り響く。


「プロポーズとかした?」


 びりりっと音を立て、星野が消しゴムでこすっていたノートのページが勢いよく破れた。

 星野は目を剥いて、勢いよく立ち上がる。


「あ、アホかっ、まだ高校生なんだぞっ」


 さっきの蔵前のように顔を真っ赤にする星野に、僕は追い討ちをかける。


「ってことは、する気はあるんだ?」

「そ、そりゃ、いつかはしたいけど……でもさ、いまいち勝手が分からないというか。俺は結婚するならあいつがいいと思ってる。けど、あいつがそう思ってくれてるかはまた別だろ? まだ学生なんだから結婚なんてどう考えても早過ぎる。気持ちが変わる可能性もあるし……」

「君らしくもない。いつもみたいに迷わず突っ込めばいいだろう」

「うるさいな。どうせおまえには分かんねぇよっ」


 それから、授業に遅れるなよと釘を刺し、星野は図書室を出て行った。

 恋をしたことのない僕には理解し難いのだが、星野ほど積極的な人間でも躊躇するほど、怖くて不安な気持ちになるものなのだろうか。


「──恋か」


 あれが恋だと言うのなら、僕のこの感情はなんなのだろう。久森への気持ちは単なる好奇心であって、『非日常』という色を持ったものへの興味である……と思う。

 そう思えるほど、星野と蔵前の間に流れる空気は瑞々しく、暖かかった。僕と久森の間に流れるのは、刺々しい紫色に穢れた濁流だ。


「……」


 楽しげな色のついた非日常と、変化の乏しい日常。

 濃厚な色で満ちる濁流と、色が薄くても静かに澄んでいる小川……。

 本当は、どちらが幸せなのだろう。



 放課後。校舎を出て校門へ向かうと、僕を待っていたらしい人影が手を振っていた。


「やぁやぁ九堂くん。久しぶりだねぇ」

「会ったばかりでしょう」


 神崎三咲。本日も彼女は、浮ついたような笑顔だった。


「つれないねぇ。今日は本当に少しだけだからさ、ちょっと付き合ってよ」

「……簡潔にお願いしますよ」


 彼女に続いて歩くと、通りから離れ、学校の裏にある人気のない路地へ入っていく。そこにある小さな駐車場に、赤い軽自動車が停められていた。前回と同じように助手席へ促され、彼女は運転席へ座る。


「うん。ここなら誰にも聞かれないな」

「聞かれては不味いことなんですか?」

「ちょっとね。本当に少しだけだから、ここで話させてもらうよ」


 神崎さんはボンネットの辺りを気怠そうな瞳で見つめている。それはあまりにも自然で、緊張感の欠片もない。……だからだろう。神崎さんがその言葉を口にした瞬間、鳥肌が立った。


「君さ、『殺人症候群』って知ってる?」


 ──しばらく忘れていた、その言葉。

 なぜそれを僕に問うのか。そんな、与太話のことを。


「……学校では噂になってましたね。それがなにか?」

「他人がどうかは知ったこっちゃないけどね。あたしは実在すると思うんだよね」

「なぜです? 非現実的だと思いますが」


 すると神崎さんは楽しそうに声を弾ませる。


「だってさ、本当にあったら面白いじゃん?」


 背筋が凍る。

 そんなところでも、神崎さんは僕と同じ意見を持っていた。それだけでこんなにも不快感を覚えるなんて……。

 直感する。この女性は間違いなく、近づくべきではない。

 内心を見透かされているような感覚から逃れるため、一刻も早く会話を終わらせたい。


「それで、それがどうかしたんですか」

「うん。噂になってるてのは、どの程度なのかなぁって思ってさ」

「と言うと?」


 僕の問いに唸った末に神崎さんは、


「やっぱり勘?」


 とだけ答えた。納得できるわけがない。


「なんですかそれ。久森に関係あるんですか?」


 神崎さんが意地悪い笑みを浮かべる。


「どうして緋奈ちゃんに関係あると思うの?」

「それ以外に、あなたが僕を指名する理由が思いつきませんので」

「そっか、そっか。なるほど」


 嬉しそうに、笑っている。なにがそんなに楽しいのか。神崎さんの表情一つ一つが、感じたことのない不快感を生み出していく。飄々としたその顔の裏でどんな感情が、どんな意思が渦巻いているのか全く見当がつかないことが、その原因かもしれない。


「安心してよ。ぶっちゃけ、緋奈ちゃんが殺したって説を証明できるとは思ってないからさ。今さら新しい証拠が出てきたら苦労しないし。諦めたわけじゃないけどね。ちょっとさ、あまり詳しいことは話せないの。だからなにも聞かず、知ってることがあれば教えてくれない?」


 仮にも刑事である彼女が殺人症候群なんていうリアリティのないものを調べてどうするつもりなのだろう。単なる興味、だろうか?


「──まあ、『発症すると人を殺したくなる、だから怖いよな』くらいの認識ですよ。都市伝説みたいなものです」

「ふぅん……で、君は信じてるの?」

「いいえ。普通に考えればおかしいと思うでしょう。大騒ぎですよ、実在するなら」


 神崎が、目を細める。


「だったら、こういう風には考えられない? 本当は実在しているのに……それが、隠されている。火のないところに煙は立たないって言うじゃん?」


 殺人症候群のことではないが、以前に久森が同じことを言っていたのを思い出す。


「仮にそうだとしても、僕には関係ありません。どうすることもできませんし」

「そ。他に知っていることは?」

「ありません」

「本当に?」


 神崎が、僕の顔を覗き込む。視線が魔手となり、僕の瞳から体内へ侵入し、身体の中を弄るような感覚──怖気がした。全身に鳥肌が立ち、ねっとりとした冷たい空気が僕を包む。

 駄目だ。平静を装わないと。この人に、なにかを……久森のことを悟らせてはいけない。


「本当に隠し事はしてないんだね?」

「ええ、本当です。嘘を吐いてどうするんですか」

「いや。あたしは真剣に捜査してるつもりなんだ。だからさ、ケーサツの人に隠し事は良くないと思ってね」


 その、全てを見透かすような瞳で僕を見つめながら、神崎さんは呟く。


「……ま、してないならいいんだけどね」


 それからようやく、姿勢を戻して前を向いた。


「うん、ありがとう。今日はこれで終わりだ」


 釈然としないが、仕方ない。詳細を語ってはくれないだろう。

 車から降りる。神崎は親しげに手を振り、走り去った。

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