10 久森邸という謎

 世を賑わす殺人鬼『突き刺しジャック』。被害者はすでに十人を超えている。その存在は、僕にとっても邪魔になりつつあった。これ以上犯行が続くと休校になるかもしれないからだ。そうなると……久森との有意義な時間がなくなってしまう。

 そして。ゴールデンウィーク明けに星野から受け取った噂ノートにも、久森が犯人かどうか確かめてくれという記述があった。


「これは……流石に違うだろう」

「俺もそう思う」


 星野が腕を組んで頷く。


「けどさ、どうしても確かめてくれって頼まれてさ」

「誰に」

「それは……言えない。匿名希望らしいからさ。悪いけど頼むわ」


 仕方ない。さらっと流すように聞けばいいか。

 昼休みとなり、いつものように図書室へ顔を出す。久森は窓際の席で読書をしていた。

 その静謐な姿を見ても別段心が動じないことに、安心する。まだ大丈夫だ。僕と彼女の間には壁が残っている。この壁だけでも残しておこう。

 よし。


「久森」

「あら九堂くん。いつもより、ちょっと遅かったわね」

「……そう?」


 僕らしくなく躊躇ったからだ。以前より気づいていたけれど、教室と図書室とでは、彼女の姿は大きく違って見える。図書室を満たす独特な匂いと静けさが、彼女をより美麗に装飾している……と、僕は判断しているのだ。教室にいるときの彼女の美しさには慣れたが、図書室のそれにはまだ──だから、図書室前の廊下で数分間悩んでいた。

 この扉を開けるべきなのかどうか、彼女の姿を視界に入れるべきかどうか。

 そんな憂鬱な気分の僕とは逆に、久森は上機嫌だった。嬉しそうに頬を綻ばせている。


「もしかして九堂くん、今更私の魅力にやられて、廊下で迷ってたとか」


 うわあ。いや待て動揺するな。さっきのことは気の迷いだ。


「そんな馬鹿な。ちょっと気分が悪いだけだ」

「そうなの……それは大変ね」


 久森が本を閉じ、僕の顔をじっと見る。悲しそうに眉を下げている。


「大丈夫なの?」

「君に心配されるなんて、明日は大雨だね」

「ふざけないで」


 絶句した。久森に冗談を一蹴されるなんて、今までにあっただろうか。


「あなた、本当に辛そうな顔してるわ……具合が悪いなら保健室へ行くべきよ。いいえ、行きなさい。今すぐに。そんな顔で私の前に座らないで」


 なにも言い返せない。予想外の出来事に、頭が踊ってるみたいだ。文章を構成しようとしても、言葉一つ一つ──もっと言えば文字一つ一つが、勝手に動き回っている。

 けれど、彼女が言っていることは理解できた。そこまでおかしな顔をしているのだろうか、僕は。星野にすら指摘されなかったのに。


「聞いているの、九堂くん。どうしても嫌なら、私が引っ張っていくわよ」

「──いや……分かった。それじゃ……」


 そんな台詞をようやく搾り出し、彼女に背を向ける。いつのまにか足が重くなり、頭が痛くなり、胸が……痛い。

 あまりに急激な身体の異変に、思考が追いつかない。なんだ、これは。

 そういえば、久森のことを考えすぎて朝も昼も食べてない……と、そんなあまりにも下らな過ぎる考えが、高速で収縮する心臓を満たしていた。



 部屋に響くチャイムの音で、目が覚めた。瞼を開けると、白い天井と薄緑のカーテンが目に入る。僕の身体には、真っ白な布団がかけられていた。

 ──ああ、保健室か。

 ゆっくりと身体を起こす。同時に、カーテンが音を立てて開かれ、養護教諭の結城先生が顔を出した。


「あ、やっと起きたねぇ。よく眠れた?」

「はい……今何時ですか」

「四時前。もう放課後だよ。たった今、清掃が終わったところ」


 結城先生は苦笑しつつ、そう答えた。

 二時間強も眠っていたのか、僕は?


「かなり疲れてるみたいだね、九堂くん。休憩は一時間だけって決まりなのに、全っ然起きなかったよ。肩を揺らそうが鼻を摘もうが頬を引っ叩こうがエルボー食らわそうが……」

「そんなことしてたんですか……」

「あ、肩揺らしたの以外は冗談よ。……もう大丈夫みたいだね」

「はい。すみません」


 頭がすっきりしている気がする。気分がいい。


「まあ、五月病って感じだよね。それか恋煩いかなー」


 なんだって?


「恋……?」

「もしかしてさ、朝昼抜いたりしてない?」

「……はい」

「駄目だよーカノジョのことばっか考えてないでちゃんと食べなきゃ」


 この人は何を言っているのだろうか。確かに食べてないけど……。


「あとでちゃんと久森さんにお礼言っときなさいね」

「久森に?」


 ベッドから降り、ハンガーに掛けられたブレザーを羽織りながら聞き返す。結城先生はなにやら嬉しそうな顔で、ボールペンをくるくる回している。


「五時間目が終わってすぐに、久森さんが来てね。私はそのとき、どうやって君を起こそうか考えてたんだけど。久森さんがね、『もうちょっと休ませてあげてください』ってさぁ、あ~んな真剣な顔で言われたらそりゃあ断れないよね」

「……」

「おまけに六時間目が始まる直前までここにいて、君のことを心配してたよ」


 久森が……? 彼女がそんなことをするだろうか。


「人違いじゃないですか?」

「久森さんの顔を見間違えるわけない。そうでしょ?」


 確かに。あの久森の顔を別人と見間違える者は、この学校には存在しない。


「とにかくね、寝不足なら帰ってさっさと寝ること。朝か昼かを抜いたなら、ちゃんと食べること。いい?」

「はい。ありがとうございました」


 五月病に食事抜き。でも……少なくとも僕は、こんな疲労は自覚していなかった。それこそ久森に指摘されるまでは。

 ──いや、それは後回しでいい。それより問題なのは、久森のことだ。

 折角すっきりした気分だったのに、また頭の中が回っている。久森が僕のことを心配してわざわざ保健室まで足を運ぶなんて、有り得ない。……いや。今の彼女ならありえるか……? ああもう、考えたくない。

 なんだよ恋って。恋って!

 溜息をつきながら、ドアをスライドさせると。


「あ」

「……九堂くん」


 件の彼女と鉢合わせした。すでに帰り支度を終えているのか鞄を二つ、手に提げている。

 ──二つ?

 僕の登場に久森は一瞬だけ目を見開き、慌ててそれを微笑みに変える。


「ぐ、偶然ね」

「そんなわけあるか。君、どういうつもりなのさ?」


 問いかけながら戸を閉める。

 それからなぜか僕は自分の言ったことを後悔した。……いや、理由は明白だ。

 久森が、悲しそうな顔をしたから。


「ごめん。気遣ってもらっておいて今のはないね」

「いいえ。私が勝手にしたことだから。それより、大丈夫なの?」

「うん、平気。もう帰るよ」


 鞄を回収するため教室へ向かおうとすると、久森が片方の鞄を差し出した。


「これ、あなたのよ。星野くんがまとめておいてくれたの」

 

 無言で受け取る。……確かに、僕のものだ。星野の奴、なにを企んでるんだ……?

 再び溜息をつきつつ、廊下を進む。久森は当然のようにとことこと僕に続く。

 苛々していることを自覚する。自分の思う通りにならないことに……彼女が、次々と想定外の行動を起こしていくことに。


「さっきの話だけれど、結城先生から聞いたの?」

「うん。だから……どうしてかなって」

「それはその……どうしてかしら。あなたが心配だった、では不満?」

「……少し、ね」


 ──面白くない。なにが? なにが面白くないんだ。彼女が、彼女らしくないことがか?

 それはつまり、彼女の、普通の女の子らしい部分を否定しているということか。僕は、僕の非日常への欲求を満たすために、彼女に異常な人物であることを強要している……。

 だとしたら──最低だ。

 待て。今、彼女を慮ったことを考えたのか? いやまさか。なんだか、混乱している。こんなの僕らしくない。


「久森」

「なに?」

「僕は君に、なにかをしてしまっただろうか」


 前を向いたまま尋ねる。彼女の顔を見たくなかった。


「どういう意味?」

「正直に言うけれど、君の、僕に対する態度が変わり過ぎている気がしてならないんだ。僕たちの間には、こんな──こんな、友達を超えたような関係は成り立っていないはずだ」

「……そうね」

「ついこのあいだまであったはずのサディストの顔が、今の君には存在していない。その原因がどこにあるのか、どうしても気になるんだ。僕が君に、なにかしたのか?」

「いいえ……だと思うけれど、どうかしら」


 久森は、どんな表情を浮かべているだろう。どんな気持ちで答えているのだろう。分からない。けれど振り返れない。そんな勇気が僕にはない。


「あなたが感じている違和感は、正直に言うとあまりよく分からないわ。でも……私を一番信じてくれる人を、蔑ろにするわけにはいかないでしょう?」

「要するに、信じてもらえたことのお礼?」

「違うわ」


 制服の袖をくいっと引っ張られる。振り返ると、久森が僕を見上げていた。橙をはらんだ漆黒の瞳と、それを静謐に飾る睫。


「上手く言えないのだけれど……お礼というよりも、その、感謝に近いかしら」

「同じじゃないか」

「違うわよ。お礼はそれでおしまいだけれど、感謝の念は消えないでしょう。私があなたに対して抱いたこの気持ちは、きっと……これからも、変わらない。だって、そうでしょう──」


 どうしてだろう。本当に彼女のことが、分からない。理解できない。けれど……今、僕が目にしている、この──仄かに紅く染まる頬。柔らかくはにかむ彼女。


「──あなたが一番深く、私に触れてくれたんだもの」


 これは、非日常だろうか。それとも日常の一片だろうか。どちらにせよ、より強くより美しく、より鮮やかに……彼女の存在が、僕の心に刻まれた瞬間だった。彼女が危険な存在であるという僕の判断は、間違っていなかった。本当にもう近づかないほうがいい。

 けれど、この笑みを見れなくなるのは、嫌だ。その瞳に自分が映らなくなるのが、嫌だ。

 この気持ちの正体はなにか。この、不安定な感情は。ようやく見つけた非日常を手放すことへの恐怖……だろうか。それとも……。

 彼女と過ごす日々が僕にとって非日常なら、それに惹かれるのは不思議じゃない。これまで通り、いつもと同じように彼女に接していれば、なんの問題もないはずなのだ……。

 大丈夫、慌てることはない。いくら彼女が美しく見えようとも。どれだけ彼女が魅力的であろうとも。

 深呼吸。溜息一つ。それから、また歩き出す。


「じゃあ、君の感謝の念、とやらは有り難く受け取っておくよ。でもこれ以上近づかないでほしい。でないと、本当に君のファンにコロされかねない」

「それは大丈夫だと思うわ」


 背後から聞こえてくるその声は、心なしか楽しそうだ。


「どうしてさ」

「今までだって、なにかされたことある?」


 ──そういえば。この一ヶ月半、星野たちのパシリにされたこと以外、嫌がらせなどは一切受けていない。精々、嫉妬や嫌悪、興味の篭った視線を向けてくる生徒がいるくらいだ。久森という存在をほとんど独占している僕は、すっかり有名人になっている。だが……。


「おかしい。君には熱狂的なファンだっているのに」

「そうよね。自分で言うのもなんだけれど、私と一緒にいることが多くなったあなたに対してそういうことをする人が一人もいないのは変よ」


 去年、彼女に告白した男子生徒が、『抜け駆けしたから』という名目で彼女のファンの一部からいじめを受けたことがあった。その騒ぎは星野や蔵前が治め、いじめたほうの生徒は停学処分。いじめられたほうは残念ながら自主退学した。

 パシリとして毎日彼女と過ごすにあたりそういう展開も少しだけ危惧していたが、非日常に触れられるなら、という理由で忘れていた。だけど、実際そんな事例があったのだ。僕がそうなっていないのは、確かに不自然である。


「私も不思議に思っていたのよね……私に近づこうとした人は大なり小なり嫌がらせを受けるのが通例なのよ。けれど、あなたは違うみたい」

「理由は?」

「さあ。あなたがそういう運命だとか」

「君に近しい人間になる運命? まさか。だとしたら……」


 嬉しいのか。それとも嫌なのか。肯定的な答えを返したら彼女はどう思うだろう……そんなことを考えつつ、僕は自衛を選ぶ。


「最悪だね」

「今のは流石に傷ついたわ」

「……悪かったよ」

「あら、らしくなく素直ね」

「うるさいよ」


 自衛になったのか今のは?

 それにしても僕らしくない、というのは同意する。彼女に対し素直に謝ってしまったことも、彼女の言葉に『うるさい』などと返してしまったことも……今までなかった。

 屈辱的だ。僕のペースが乱されている。橙色の校内は人も疎らで、僕らの会話を聞いている者が少ないということだけが救いだった。

 靴を履き替え、昇降口を出る。風に乗って、彼女の匂いがふわりと舞った。


「そうそう、九堂くん。あなたのこと、またお父さんに話してみたの。お母さんの件があっても、あなただけは『信じる』と言ってくれたって」

「それで?」


 嫌な予感がした。今度は苦虫を噛み潰すレベルでないような……。


「そうしたらね、お父さん、あなたに会ってみたいって。近いうちに連れてきなさいって言われたわ」

「君の家にか」

「そうよ」

「遠慮するよ」

「でしょうね」


 隣で久森が苦笑している。なんで楽しそうなのか……。


「あ、ちょっと待って」


 と、急に久森が立ち止まり、スカートのポケットから薄いピンク色のスマホを取り出した。着信を確認し、怪訝な顔をしてから耳に当てる。


「もしもし、緋奈です。……え? はぁ、一体どうして……まさか。また勝手なことを……いえ、彼も一緒です。はい。分かりました。……ええ。それじゃ」


 スマホをポケットにしまい、深い溜息をつく。


「久森?」

「九堂くん、申し訳ないけれど、これから私の家に来てもらえる?」

「はあ?」

「あれを見て」


 久森が校門のほうを指差す。見ると、門の辺りに漆塗りのように光沢のある黒い自動車が停まっていた。その傍らに、これまた漆黒のスーツをまとった青年が控えている。青年はこちらに気づくと、軽い会釈をした。


「お父さんが寄越した迎えよ。あれに乗ってうちに来い、ということらしいわ」

「……拒否権は?」

「ないこともないけれど。でも、あの人は零次さんといってね……お父さんの命令には忠実に従う人よ。ちなみに身体能力はあなたの遥か上ね」

「ないってことだね……」


 とはいえ、久森の居城がどんなものなのか、興味があるのは確かだ。父親に会うのは気が乗らないが……いい機会だし、お邪魔させてもらおう。きっとこれもまた非日常の一つ。

 久森と共に門をくぐる。先の青年は思ったより細身で、ツンツンした髪を風に揺らしていた。神崎さんとは大違いで、スーツをぴっちりと着こなしている。なんというか……そう、執事みたいだ。彼は久森に向かい、頭を下げてこう言った。


「お帰りなさいませ、緋奈様」

「ただいま、零次さん。……その呼び方はやめてって言ったでしょう」

「失礼しました、緋奈さん。そちらの彼が?」


 零次と呼ばれた男が冷たい目で僕を一瞥する。敵意のようなものを感じた。


「ええ。九堂くんよ」


 どうも、と会釈をしてみるが、彼の冷たさは変わらない。どうやら彼には歓迎されていないようだ。


「では行きましょうか。お二人とも後部座席へどうぞ」

「乗って、九堂くん」


 促されるままに自動車へ乗り込む。ベージュ色の座席は柔らかく、とても乗り心地がいい。


「……『お嬢様』とやらが乗るような代物じゃないのか、これは」

「そうかしら。まあ、どちらかといえば裕福ね」


 エンジンが静かに音を立て、車が緩やかに走り出す。振動もほとんどない。車に詳しくない僕でも、それなりに高級な車種であることは分かった。それに加えて彼女のことを『緋奈様』と呼んだ、執事らしき男。

 何となく……いや、ほとんど確信だ。久森家は、尋常でないレベルの大家なのでは。そういう噂も確かにあったけれど、確か久森は『そうでもない』と答えたはずだ。謙遜したのか、隠したかったのか……それにしても、さっき門の周辺にいた生徒には見られたわけだし、明日の午後には学校中に知れ渡る。


「久森」

「なに?」


 窓の外を見つめたまま、尋ねる。


「君は自分がお嬢様であることを隠したいのか?」

「そうね……隠したかったけれど、さっきこの車を結構な人数に見られてしまったから、もう無理かもね」

「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」


 零次さんが謝ると、久森は肩をすくめた。


「あなたは悪くないわ。ぜんぶお父さんのせいよ。あの人はむしろアピールしたがってるから……通学に電車じゃなく車を使えって言ってくるの」


 そういえば以前、久森が父親のことを『世間体を気にする人』と言っていたな。お金持ちをアピールしたいというのも、そのせいだろう。


「久森は、どうして隠しておきたいんだ?」

「下衆がお金目当てに近づいてこないようにね。それでなくとも告白してくる男子は多かったけれど……そういえば最近、気楽そうに話しかけてくる女の子が増えたわね」


 今更気づいたのか。


「君と友達になりたいんだろ。みんな、君が思っていたよりまともなことに気づいてきたからね」

「え、そうなの?」


 久森が目を見開いた。驚愕しているようだが……驚いているのはこっちだ。


「気づいてなかったのか!?」

「ええ。いつもの調子で追い払ってしまったわ……でも私、今のところあなたしか信じられる同級生いないのよね」


 ──そういうことだったのか。別に久森は、友達などいらないと思っているわけではなかった。ただ積極的になれないだけだったのだ。


「信じられる人が増えるといいな」


 なんて、僕らしくない台詞。久森は窓の外へ視線を移す。


「……そうね」


 夕暮れの住宅街が、だんだんと暗く静かになっていく。灰のコンクリート塀と共に、瓦屋根の家々が並ぶ。窓から明かりが漏れ、それぞれがどんな夕飯の支度をしているのかを想起させる匂いが漂う。そんな、閑静で暖かな町並み。

 そんな中に、明らかに異質な光景があった。他とは違う材質の白く高い塀が、広い土地をぐるりと一周している。

 木造の門はそれほど大きくなく、その向こうに和風建築の住居がのっそりと建っている。向かって左に縁側が延びていて、その手前に丁寧に整備された庭と大きな池があった。設置された鹿威しが、コン、と気味の良い音を立てている。

 そんな光景が門を開けた途端に目に飛び込んできたものだから、思わず感嘆の息を漏らしてしまった。


「なにを呆けているの、九堂くん」

「いや。君、本当にお嬢様なんだね」

「まあね」


 玄関へ続く石畳を優雅に進む久森を追って、僕も歩き出す。零次さんは門を閉めてから、僕の後に続いた。

 玄関は引き戸になっていて、その先には木の匂いが満ちる長い廊下が待ち受けていた。廊下は突き当たりで左右に分かれ、その手前に幾つかの襖が並んでいる。


「ただいま」

「……お邪魔します」

「ただいま戻りました」


 なんだか緊張する。当たり前と言えば当たり前か。


「零次さん、お父さんは?」

「応接間にてお待ちです。参りましょう」

 

 零次さんと久森が廊下の奥へ進む。厳粛な雰囲気に気圧されつつ、僕はそれを追う。

 流石、久森の居城。初めは緊張感と圧迫感が、僕の心と身体を鎖のように堅く縛り付けた。けれど、久森のイメージとかけ離れた暖かい色彩の壁や床は、なんとなくその鎖をほぐす。

 家の外観と雰囲気から和室ばかりなのかと思ったのだが、そうではないらしい。応接間にはガラスのテーブルと純白のソファがあり、壁には高そうな絵。さらに床には、柔らかい朱色の絨毯が敷かれている。これでもか、というくらいの完璧な『応接間』だ。

 なんというか、家の中に別次元の世界が存在するような錯覚に陥る。木製のドアと障子がバラバラに並んでいるというアンバランスさ。

 そしてそこに、久森の父親の姿はなかった。


「……あの人、どこへ行ったのかしら」


 不満げに眉を吊り上げる久森に、零次さんが素早く反応する。


「屋敷内にはいらっしゃると思いますので、捜して参ります。申し訳ありませんが、少々お待ちください」

「ええ、お願い」


 久森が頷くと、零次は疾風のごとく姿を消した。足音を立てずに走り去ったことに、素直に驚く。あれが執事というものなのか。

 改めて部屋を見回す。サイドボードにいくつかのコーヒーカップや高級そうな皿が並び、シャンデリアまで設置されている。けれどその一方で、明らかに風景から浮いている神棚があったり、窓際に日本人形が飾られていたり、和洋どちらにしたいのかよく分からない。


「上手く言えないけれど、その、不思議な家だね」


 羽毛のような柔らかさを持つソファに腰掛け、僕は苦笑していた。このなんとも言えない感想を、向かいに座る久森は理解しているらしい。


「そうね。私もそう思うわ。これは全てお父さんの趣味なの。外の人間が見るようなところはね、完璧に、絢爛に、ほこり一つないほど綺麗に……まあ、雰囲気が統一されていない時点で私としては不合格だけど」

「へぇ……まあ、確かに凄いなとは思うけど……違和感は拭えないね」

「でしょうね。でも、あの人は頑固だから」

「久森のお父さんってなにしてる人?」

「社長よ。割りと大きな会社だと思うわ」

 

 ──社長。そんな立場で、もし本当に不倫していたら……会社が傾きかねない。発覚しそうになったら全力で揉み消そうとするだろう。……久森ならなにか知っているかもしれない。

 考え込んでいると、金属製のドアをノックする音が部屋に響いた。どうぞ、と久森が促すと、ドアが開いて零次さんが顔を出した。


「申し訳ありません。真に失礼とは存じますが、旦那様は現在入浴中のようです」


 ……は?


「お父さんが?」

「ええ。事情を伺いますとどうやら、緋奈さんが初めてご友人を連れてこられたということで極度に緊張していらっしゃるようです。身体をリフレッシュしてから会いたいと」

「馬鹿なんじゃないの……なにをしているのよ、あの人は」

「旦那様もそうおっしゃっていました」


 息が抜ける。久森の父親なる人物は、予想よりも……なんというか。とにかく、厳格な人物であると勝手に思っていたのだが。

 零次さんも苦笑いを浮かべている。先ほど僕に向けられた氷のような視線が嘘のようだ。


「そういうわけなので、すみませんがお二人とも、もうしばらくお待ちください」

「分かっているわ。帰らせたら帰らせたで、後で文句を言われるでしょうから。まったくあの人は……とにかくありがとう、零次さん。お茶とかは私が用意するから、後はいいわよ」

「は、しかし……」

「あなた、今日は休みでしょう。父の都合に付き合わせてしまったのだし、早く帰って身体を休めて。明日からまた仕事なのだから。ああ、特別手当は心配しないで。父に掛け合っておくから」

「……そうですか。ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、失礼させていただきます」


 最後に深く頭を下げ、零次さんは出て行った。久森は再び深く溜息をつき、ソファの背もたれに身を預けた。父親に対し本気で呆れているのだろうか。


「仲がいいんだね」


 お茶の用意をする久森に、思わず僕はそう呟く。


「え?」

「君と零次さんがさ」


 またしても意味不明な台詞……。だけど、それを聞いた久森は嬉しそうだ。


「あら、嫉妬? 嬉しいこと言ってくれるじゃない」

「は……?」


 言葉に詰まる。嫉妬だって? 僕が? なぜ……? わからないまま、久森が差し出したお茶を飲む。

 あっつ!


「それにしてもあの人……まったく、なにがリフレッシュよ。そんなの客人が来る前に済ませておくべきじゃない。呼んでおいて待っていないなんて何様のつもりなのかしらね? もう、今夜は魚料理にしちゃうんだから」


 彼女の毒舌は、家族に対しても容赦がないらしかった。


「お父さんね、お魚が苦手なのよ」

「そ、そうなんだ……」


 ぎこちない答えしか返せない。僕はまだ、嫉妬という言葉を理解できていなかった。というかあまり理解したくない。

 嫉妬とやらのことを忘れるべく、全く関係ない話題を振る。


「久森。ちょっと聞きづらいんだけど……お父さんの不倫について知っていることはある?」


 久森は一瞬驚いたようだったけど、すぐに真剣な眼差しで考え込んだ。その瞳には、窓から差し込む橙が湛えられている。


「そうね……私は半信半疑だったのだけれど……この間、お父さんが誰かと電話で話しているのを聞いたわ。随分と仲が良さそうだった。アダ名で呼び合うくらいね」

「アダ名?」

「みっちゃん、リヒティ、ってね。あ、リヒティがお父さんよ。理人っていうの。次のデートの予定を話し合っていたから……可能性は高いんじゃないかしら」


 確実ではないけど、確かに可能性は高そうだった。奥さんが亡くなったばかりなのに……。

 久森が大きなため息をつき、首を振る。


「本当は、お父さんを問い詰めて相手を引き摺り出したいところだけれど……流石に無理ね。お父さんの不倫が発覚して会社が倒産、なんてことになったら私もこのままではいられない。路頭に迷うことになるかもしれないわ」


 そうだ。それは僕もわかっている。

 凛さんが亡くなっている以上、正確には不倫ではないのかもしれない。でも周囲からの評価はどん底に落ちるだろう。それに、以前久森が言っていたように、関係が凛さん存命時から続いているのだとしたら……最悪だ。それが凛さんの自殺の動機でもある。発覚したら、どうなるかわからない……。

 どうすればいいのだろう。どうすれば、こんな不安定な場所にいる久森の手助けができるのだろう。理人さんの不倫自体が、僕たちの勘違いだったらいいのに。


「九堂くん」


 いつのまにか、僕の胸の前にできていた握り拳。それに、久森の手のひらが柔らかく添えられている。

 久森は微笑んでいた。脆く、儚く、零れ落ちそうな微笑みだった。


「あなたが悩む必要はないのよ」

「久森。僕は……」


 もしかしたら……僕は今とてつもなく情けない表情をしているのかもしれない。時折ふわりと僕を包む久森の優しさは、僕の心を麻痺させる。

 だから。


「僕は、君の助けになりたいんだ」

「ど、どうしたのよ、急に」

「わからない。でも、たぶん本気だと思う」


 久森の前にいるといつも湧いてくる、自分でも納得できない言葉たち。今回のもきっと、そのひとつだろう。


「ありがとう……でも大丈夫よ。今のところはね」

「でも……」


 そのとき、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。久森が慌てて僕の向かいに戻り、髪型を確かめる。


「はい」

「失礼する!」


 低く固く、重い声だった。

 扉が開かれ現れたのはなんと、黄金の紋付き袴を身にまとった中年の男性。演歌歌手か。


「ただいま、お父さん」

「おかえり。……そして君が」

「はじめまして。九堂といいます」


 理人さんは立ったまま、腕を組んで僕をまじまじと見つめた。……正直怖い。まゆげ濃い。眼光鋭い。体格はがっちりしていて背も高い。

 会社って、反社会的なあれじゃないよな……と思ってしまった。


「まずは待たせたことを謝らんとな。二人とも、すまんかった」

「いえ……」


 微妙に恐縮する僕と違い、久森はやはり毒舌だ。


「本当よ。それで社長が務まるの?」

「そうだな。気をつけないといかん」


 理人さんは久森の隣に腰かける。それからまた、僕を見つめた。


「緋奈から話は聞いているよ。友達になってくれて俺も嬉しい」


 案外優しそうだ……そう思ったとき。


「だが、確かめたいことがある。君がどこまで緋奈を信じているのか」

「え……?」

「お父さん?」


 そして理人さんが懐から取り出したのは……果物ナイフ。

 ぞくり、と背筋が強ばった。


「緋奈の殺人衝動を、君はどう思う? 受け入れているのかな?」

「えっと……はい」


 それはもちろん殺されてもいいというわけではなく、以前言った通り彼女を信じているからだけど。

 理人さんは鷲のそれをも上回りそうなほどの鋭い眼光で、問う。


「本当に? 襲われたことがないからそう言えるんじゃないか?」

「なに言ってるのよ、お父さん」

「緋奈。彼の言葉を鵜呑みにするのはよくない。嘘をついている可能性もある。友達だと思っているのは緋奈だけかもしれないぞ」

「そんなこと……」


 ……本当になにを言っているんだ、この人は。


「そんなことないです。僕も友達だと思ってます」

「そうか……。それならいいんだが。俺も心配でなぁ、緋奈の特異な部分への興味本位で近づく者は好ましくないからね」


 眉を吊り上げ、ますます不機嫌な表情になっていく久森。だいぶお怒りの様子だ。


「九堂くんだって初めは興味本位だったでしょうけれど、今は違う。そうでしょ」

「ああ。それは胸を張って言える」


 僕の即答に、理人さんはなぜか鼻を鳴らした。


「なら、まあいいか……折角できた友達だ。仲良くしてやってくれ」


 好意的なのかそうでないのか、いまいち懐の読めない人だ。一応は僕のことを認めてくれたと解釈していいのか、警戒対象と見るべきなのか。

 さっきの僕の答えもある。とりあえず、『仲良くしてやってくれ』と言われた分は大丈夫だろう……きっと。

 そう結論付けてはい、と頷く僕に理人さんはがっはっは、と破顔してくれた。


「すまんな。試すようなことを言って。ちょっと行き過ぎた親心だとでも思ってくれい」


 満面の笑みを浮かべる理人さんの隣でため息をつく久森。けど、満更でもなさそうだ。この二人はきっと仲がいいのだろう。……だからこそ、あの問題が引っかかるのだが。

 そのとき、再び扉がノックされ、失礼します、と零次さんとは別の黒服が現れた。


「旦那樣。そろそろ次の会議の時間です」

「おお、そうだった。重ね重ねすまんな、九堂くん。俺もこう見えて忙しくてな。今回の会議場はこの家だから、帰りはこいつに送ってもらうといい」


 そう言って、黒服を指さす。


「それでは失礼するよ」

「あ、は、はい」

「行ってらっしゃい、お父さん」


 その格好で行くのか? と思ったが黙っておく。流石に着替えるだろう。

 ……ところで。一つ気になることがあった。


「僕の住所、教えたっけ?」

「久森家の情報網を舐めないことね」

 

 なぜか自身ありげにニヤリと笑む久森。


「あなたの住所なんてとっくに把握済みよ」


 背中に冷たいものを感じた。


「そ、そうなんだ……はは……」


 力のない乾いた笑いを返すしかない僕。久しぶりに見る、勝ち誇って見下すような笑顔の久森。

 はぁ……。身の危険を感じる僕であった。

 それから人間技かと疑うほどの加速で車を取りに走った黒服を追うように、僕と久森は玄関へ向かう。到着して外へ出ると、すでに木造の門は開き、傍らに黒服が立っている。もちろん門の外にはあの黒塗りの車。

 どうぞ、とドアを開ける黒服に従い車に乗り込もうとすると、後ろまで見送りに来ていた久森に袖を引っ張られた。


「あの……ね、九堂くん」

「久森?」


 久森は唇を軽く噛み、顔を逸らしている。珍しくためらっているようだ。発言そのものか、それによって生じる結果。どちらかが僕の迷惑になるのではないかと悩んでいる、というところか。


「その……えっと。あのね」


 僕はそのとき……どうしてしまったのか。

 引っ張ったままだった久森の手を袖から外し、それを両手で包み込んだ。優しく、柔らかく。今日久森がしてくれたように。


「大丈夫だよ久森。言ってくれないとわからないだろ? 心配なんてしなくていいから、言ってみてくれ」


 黒服の視線が痛い気がするが今はどうでもいい。だって……久森が、泣きそうな顔をしていたから。

 僕の言葉なんて頼りないだろうけれど、それでも久森はためらいがちに僕を見上げて。


「あのね……私、もう一度あなたとお出かけしたいの」

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